たかが力石、されど
渋沢栄一と力石
たかが力石ごときに、そう熱くなりなさんな!
私は自分を戒めつつ自嘲する。
でも、展示の力石に誇らしく掲げられた「初公開」の文字が、
なんだか胸に突き刺さる。
だって、いかにも取ってつけたようではないですか。
「石を軽々持った」なんて、気軽に言わないで欲しいよな。
経験者の声を聞くといい。
「下手に力を入れると、腹が裂けてしまう」
「18貫のこの石を担げなければ、一人前の男として認められず、
賃金も半人前しかもらえなかった」
「あれを担げんと甲種合格になれんぞ。兵隊に行けんぞ」
「おなごにモテたい一心で担いだ」
みんな暮らしも命も賭けた真剣勝負だったんですから。
調査に行った山の中の一軒家で、経験者の昔話を聞いた。
老人は庭先に転がっていた青年時代の力石を抱えて、
実演してみせるという。
「まず、しっかり腰を落として、石に手をこう回して、
腹に気を集中させて,息を止めて、一気に膝に挙げて」
でも、石はビクともしない。
「はぁー、ダメだぁ」
尻もちをついて、老人はふわふわ笑った。
写真は、
澁澤倉庫株式会社の荷揚げ作業員だった根本正平さん(左端)です。
「澁澤倉庫社史」には力持ちの記事が載り、根本さんの寄稿文もある。
根本さんは、東京都無形文化財の「深川力持睦会」のメンバーでもあった。
「米俵を二つも三つも一気に担いで、一日終わりゃ、
あぶら汗でシャツは真っ黄色。一貫目痩せる」(根本正平)

展示は、
「青年時代、行商先の村の若者たちと力石で力くらべをやった」
「藍玉のお得意さんの紺屋に今もある当時の力石はこれです」
それだけでいいじゃないの。
みんな純粋な若者たちで、英雄なんかじゃなかったんだから。
大正6年、晩年の渋沢は信州へ演説旅行に出かけた。
上田の旅宿にいるとき、一人の老婆が訪ねて来て面会を求めた。
老婆は取次ぎの秘書に古い通帳を見せて、
「これをご覧願えれば、きっと会ってくれます」という。
通帳は藍玉の通帳で、中に青年時代の栄一の筆跡があった。
老婆は、神畑の紺屋の娘だった。
彼女は偉くなった栄一が上田に来たと聞いて、
懐かしさのあまり、藍玉通帳を証拠物件として訪ねてきたという。
渋沢は帰京後、老婆に書状を出した。
今回、埼玉の博物館で持ち帰ったのは、この書状などではないだろうか。
渋沢は通帳を見て、
「懐旧の情を催し、感慨無量であった」と、「竜門雑誌」に記している。
翌年、老婆は東京の渋沢邸に招待され、歓待を受けた。
田舎のばあさんが迷うといけないからと、自ら駅まで出迎えたという。
老婆は渋沢と夕食を共にし、お土産をもらい、
一期の思い出というほどの喜びに輝きながら帰って行ったという。
綱町邸落成式。社章の「立鼓」の法被を着た職人さん.明治41年。

だから私には、こういう細やかな心遣いの渋沢が、
お得意先でこれ見よがしに、藍のたたき石を軽々担いで見せた、
などとはとうてい思えないのです。
昭和13年の「上田郷友会」月報に、
柴崎新一もこの「老婆が渋沢を訪ねた話」を書いているが、
敲き石を担いだ話は一切出てこない。
渋沢の息子さんの談話に、こんなのがある。
「父はいつもおっとりしていた。ふしぎに行儀のいい人であった。
人を威圧しないようなエマナチオン(揮発性物質)が、
絶えず全身から発散されているように思われた」
力石に関わるものとして、力石を展示してくださるのは本当に嬉しい。
ですが、「本邦初公開」の「栄一の力石」は、
2年前までは、土中に三分の一ほど埋もれて、庭の隅に放置されていた。
それが渋沢の名を聞いた途端、
165年ぶりに掘り起こされて磨かれてお宝にされた。
私は思う。
渋沢が望んでいたのは、
そういう「あざとさ」でも、「英雄伝説」でもなかったはず。
紺屋の老婆に見せた温かいまなざしこそ、「初公開」して欲しかった。
紺屋の老婆すゑも、きっとそう思っているに違いありません。
「渋沢栄一と力石」」は、これにておしまい。
ーーーーー◇ーーーーー
渋沢栄一の「藍」にちなんで、こんなものをお見せします。
タンスの奥にあった男性用着物を息子にあげようと、仕立て直しに出した。
呉服屋のご主人が驚いて、
「これは貴重なものです。今はもう手に入りません。百年以上前の逸品です」
糸を藍で染め、一本一本根気よく織った絹の紬だか絣だかっておっしゃってた。
藍の本を読んだら、染色後も藍は生き続けると書いてあった。

息子の家でもタンスの肥やしの運命だろうけれど、
心の財産のつもりで大切にしてくれれば、と思っています。
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生が、
コミュニテイ・チャンネルの「まほろば~歴史の扉~」に出演しました。
「力自慢の力石」
とても楽しくわかりやすく編集されています。是非、ご覧ください。
それにしても先生、髪黒々。まだまだ若い!

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私は自分を戒めつつ自嘲する。
でも、展示の力石に誇らしく掲げられた「初公開」の文字が、
なんだか胸に突き刺さる。
だって、いかにも取ってつけたようではないですか。
「石を軽々持った」なんて、気軽に言わないで欲しいよな。
経験者の声を聞くといい。
「下手に力を入れると、腹が裂けてしまう」
「18貫のこの石を担げなければ、一人前の男として認められず、
賃金も半人前しかもらえなかった」
「あれを担げんと甲種合格になれんぞ。兵隊に行けんぞ」
「おなごにモテたい一心で担いだ」
みんな暮らしも命も賭けた真剣勝負だったんですから。
調査に行った山の中の一軒家で、経験者の昔話を聞いた。
老人は庭先に転がっていた青年時代の力石を抱えて、
実演してみせるという。
「まず、しっかり腰を落として、石に手をこう回して、
腹に気を集中させて,息を止めて、一気に膝に挙げて」
でも、石はビクともしない。
「はぁー、ダメだぁ」
尻もちをついて、老人はふわふわ笑った。
写真は、
澁澤倉庫株式会社の荷揚げ作業員だった根本正平さん(左端)です。
「澁澤倉庫社史」には力持ちの記事が載り、根本さんの寄稿文もある。
根本さんは、東京都無形文化財の「深川力持睦会」のメンバーでもあった。
「米俵を二つも三つも一気に担いで、一日終わりゃ、
あぶら汗でシャツは真っ黄色。一貫目痩せる」(根本正平)

展示は、
「青年時代、行商先の村の若者たちと力石で力くらべをやった」
「藍玉のお得意さんの紺屋に今もある当時の力石はこれです」
それだけでいいじゃないの。
みんな純粋な若者たちで、英雄なんかじゃなかったんだから。
大正6年、晩年の渋沢は信州へ演説旅行に出かけた。
上田の旅宿にいるとき、一人の老婆が訪ねて来て面会を求めた。
老婆は取次ぎの秘書に古い通帳を見せて、
「これをご覧願えれば、きっと会ってくれます」という。
通帳は藍玉の通帳で、中に青年時代の栄一の筆跡があった。
老婆は、神畑の紺屋の娘だった。
彼女は偉くなった栄一が上田に来たと聞いて、
懐かしさのあまり、藍玉通帳を証拠物件として訪ねてきたという。
渋沢は帰京後、老婆に書状を出した。
今回、埼玉の博物館で持ち帰ったのは、この書状などではないだろうか。
渋沢は通帳を見て、
「懐旧の情を催し、感慨無量であった」と、「竜門雑誌」に記している。
翌年、老婆は東京の渋沢邸に招待され、歓待を受けた。
田舎のばあさんが迷うといけないからと、自ら駅まで出迎えたという。
老婆は渋沢と夕食を共にし、お土産をもらい、
一期の思い出というほどの喜びに輝きながら帰って行ったという。
綱町邸落成式。社章の「立鼓」の法被を着た職人さん.明治41年。

だから私には、こういう細やかな心遣いの渋沢が、
お得意先でこれ見よがしに、藍のたたき石を軽々担いで見せた、
などとはとうてい思えないのです。
昭和13年の「上田郷友会」月報に、
柴崎新一もこの「老婆が渋沢を訪ねた話」を書いているが、
敲き石を担いだ話は一切出てこない。
渋沢の息子さんの談話に、こんなのがある。
「父はいつもおっとりしていた。ふしぎに行儀のいい人であった。
人を威圧しないようなエマナチオン(揮発性物質)が、
絶えず全身から発散されているように思われた」
力石に関わるものとして、力石を展示してくださるのは本当に嬉しい。
ですが、「本邦初公開」の「栄一の力石」は、
2年前までは、土中に三分の一ほど埋もれて、庭の隅に放置されていた。
それが渋沢の名を聞いた途端、
165年ぶりに掘り起こされて磨かれてお宝にされた。
私は思う。
渋沢が望んでいたのは、
そういう「あざとさ」でも、「英雄伝説」でもなかったはず。
紺屋の老婆に見せた温かいまなざしこそ、「初公開」して欲しかった。
紺屋の老婆すゑも、きっとそう思っているに違いありません。
「渋沢栄一と力石」」は、これにておしまい。
ーーーーー◇ーーーーー
渋沢栄一の「藍」にちなんで、こんなものをお見せします。
タンスの奥にあった男性用着物を息子にあげようと、仕立て直しに出した。
呉服屋のご主人が驚いて、
「これは貴重なものです。今はもう手に入りません。百年以上前の逸品です」
糸を藍で染め、一本一本根気よく織った絹の紬だか絣だかっておっしゃってた。
藍の本を読んだら、染色後も藍は生き続けると書いてあった。

息子の家でもタンスの肥やしの運命だろうけれど、
心の財産のつもりで大切にしてくれれば、と思っています。
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生が、
コミュニテイ・チャンネルの「まほろば~歴史の扉~」に出演しました。
「力自慢の力石」
とても楽しくわかりやすく編集されています。是非、ご覧ください。
それにしても先生、髪黒々。まだまだ若い!

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