fc2ブログ

経歴書を提出せよ

渋沢栄一と力石
04 /04 2021
「協力する」という申し出には条件が付いていた。

おどろくべき内容だった。

●経歴書を提出すること。

学歴や職歴が何で必要なのか。
今までそんなことをいう自治体は一つもなかった。上田市っておかしいよ。

●経歴書をもとに許可するかどうかの会議を開く。
 初めは小委員会で。そこで許可されたら今度は大きな委員会で検討する。

なんと大げさな。

そのことについてX氏は、今年3月、改めてこう答えてきた。

「力石の所有者の方に、調査に見える方がどのような方で、
どのような目的で見えるかについて、説明する際の最小限の情報として
必要と考えたからです」

「私はすべての方に同じように対応させていただいています」

「調査の際、私が同行することについて、
組織の中で決済を受けておく必要がございましたから」

私はX氏に同行などお願いしてはいない。

X氏の返答を読んだ私の心はこんな感じになった。
CIMG5577 (2)

力石の調査は、
所有者をお尋ねして断られればそれでおしまいの調査です。
でも力石に関わって10数年、私は一度も断られたことはなかった。

「よく来なさった。お茶でも飲んでけ」と言われて、
縁側で昔話を聞いたり、

その方から新しい力石の所有者をご紹介されたり。

菓子折り持参でお尋ねすると、
「あんた、いちいちそんなことしてたら大変だよ」と言われ、
逆に帰りに、自家製のお茶を持たされたりしたことも。

民俗学者の宮本常一を引き合いに出すのは恐れ多いけれど、
庶民文化の調査は自分の足でコツコツやるしかない。

そこに「組織の中での決済」などという官製用語は必要ないのです。

しかし、仰天要求はまだあった。

●調査の目的は何か。

何かって言ったって、「調査」としか答えられません。

●許可が出ても、申請した日時と場所以外の調査は禁ずる。
 常に私が付き添う。

こういうおかしなことを言ってくるのは、
私が女で、論文もない、どこの学会にも所属していない、
そういう素人のおばさんの、趣味に毛が生えたぐらいのことだから、

そう思われたのかもしれない。

ならばこれは男性の高島先生にお願いするしかない。

先生なら、れっきとした元・大学教授で、力石研究の第一人者だ。

よもや粗雑に扱わないだろうと思った。

だが、その予測は見事にはずれた。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(4月3日)

「福井県坂井市春江町大牧・八幡神社」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

コロコロ変わる

渋沢栄一と力石
04 /02 2021
「渋沢栄一の力石の件はブログへ載せるな」といわれて、
理不尽な要求と思いつつも、私はそれに従った。

ところが急転直下。またも事態は一変。

X氏から「協力する」とのメールが届いた。

わけがわからなかった。こんな役所は初めてだ。

私は今までいろんな方に助けられてきた。

大学の先生には専門分野のことをご教示いただき、
考古学者には発掘現場で出土した力石の論文を見せていただいた。

武家屋敷から出土した力石です。静岡県埋蔵文化財センター・岩本貢氏提供。
img191.jpg img192.jpg
静岡県田方郡函南町・仁田館遺跡

難解な刻字に出くわしたときは、
所属する古文書会の先生方にSOSを出した。

中でも一番お世話になったのは、
やはり各地の役所の文化財課の職員さんだった。

わざわざ力石の今の状況を写真に撮って送って下さったり、
参考文献を記したり、しかるべき人をご紹介くださったり。

市で制作したDVDをお送りくださった町もあった。
「うちの町の宣伝をよろしく」と書き添えてきた町もあった。

だれも「命令」などしなかった。誰もが「橋渡し役」に徹していた。

それは私が、というより力石に携わっている人々が、
私利私欲でやっているのではないことを、皆さん理解してくれていたから。

「拒否」から一転、「協力」ということになって、私は面食らった。

複雑な思いはあったけれど、とにかく力石を見たい一心の私だったから、
昨日までのわだかまりは捨てて、素直に感謝した。

これはそのときのブログ記事です。(2019年8月3日)

「山を乗り越えました」

ところが事態はまた急変。

思ってもいなかった新たな要求を突き付けられる羽目になったのです。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(4月1日)

「我が家の桜」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村


不可解な越権行為

渋沢栄一と力石
03 /31 2021
「上田市に渋沢の力石があったことをブログへ書くことも、
渋沢栄一関連の施設へ伝えることも禁止します」

こんなこと、地方自治体の一職員が言うことではない。

しかし、X氏はその理由をこう説明した。

「石は個人宅にあり、有名になって人が押し寄せたら迷惑をかけてしまう。
だからこのままそっとしておいてほしい」

すでに私は関連施設へ、
「渋沢が持ったらしい力石を発見」の報告をしていたし、

渋沢生誕の地、深谷市の「渋沢栄一記念館」の学芸員さんからは、

「上田市の報告がブログにUPされるのを楽しみにしています」
とのメールをいただいていた。

しかし、
X氏の要請がたとえ理不尽なものでも、強引にコトを進めたくはなかった。

私は泣く泣く、2019年8月2日、以下のブログ記事を書いた。

「お詫び」

ところがあれから2年たった今年3月、
その「そっとしておきたい」はずの力石が、

埼玉県立歴史と民俗博物館で展示されていることを知り、唖然。
真相を知りたいと思い、すぐ上田市秘書課へ質問状を出した。

返答してきたのはX氏だった。こう書かれていた。

「力石は大河ドラマの主人公になる方の関係なので、
所有者の方が、見学者や問い合わせの対応に困ってはいけないため、
私どもの組織で交通整理をさせていただきたいと考えていた」

「組織で交通整理」って何? 私はその交通整理ではじかれたってこと?

力石に人が殺到するなんてことはまずあり得ない。

そんなに人気がある石なら、これまでこの石の調査研究をしてきた
多くの先人たち、高島先生、斎藤氏、私はこんな苦労をしてこなかった。

第一、2年前のあの時点で判明していたのは、
渋沢が新一万円札の顔になる人ということだけだ。

渋沢が主人公になるNHK大河ドラマ「青天を衝け」の制作発表は、
あの時点から1カ月半もあとのことだ。

あのころ渋沢栄一の名はポピュラーではなかった。

刻字もないあの石に、人が殺到するなんて到底あり得ない。

もしそうなったら、しかるべき公共施設に移して、
町おこしの起爆剤にすればいいだけのことだ。

私はX氏の不誠実さ不可解さに、怒りと悔しさでいっぱいになった。

でもここで取り乱したら、自らおのれの尊厳を傷つけてしまう。

理不尽な対応に泣きつつ、私は自分の心を抑え込んだ。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(3月30日)

「広島県尾道市土堂・住吉神社」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村


ブログへ書くことを禁止する

渋沢栄一と力石
03 /29 2021
少しでも「渋沢栄一の力石」に近づきたい一心で、
私は、国会図書館や県立図書館の蔵書類を探し回った。

信濃史学会誌「信濃」の矢島千代子氏の論文
「幕末期・藍玉通帳にみる上田地域の藍玉流通」を読んだが、
ここから力石には迫れなかった。

やはり渋沢栄一のことは著作から、というわけで、
「青淵先生六十年史」「青淵先生懐旧談」「雨夜譚会談筆記」を読んだ。

2年前のことで、記憶もおぼろになったけれど、こんな話が載っていた。

「藍玉は俵に詰めて十貫目俵四俵づけで運んだ。信州は山地だから難儀した」
「紺屋回りをするとどこでも雑煮を出したので、我慢して食べた」

中でも私を最も惹きつけたのは、
「神畑紺屋業、手塚弥右衛門の母すみ」の話だった。

功成り名を遂げた渋沢栄一は、
大正6年、71歳になった手塚すみと再会を果たしている。

渋沢家で使っていた藍玉の商標「立鼓(りゅうご)紋」
3福住稲荷
東京都江東区永代・福住稲荷神社

さて、最初のメールから2週間後の7月末、X氏からメールが届いた。

「なかなか文献から辿ることができないでいる」
「神畑村誌の編さんに関わったみなさんに調べてもらっている」

そして末尾にはこう記されていた。

「少々お時間をいただきたい」と。

しかし、朗報はすぐ届いた。

村誌編さんに携わったであろう方の情報と、
その方が撮影された写真まで添付されていた。

上田市神畑・山崎製作所
「神畑村誌」編さん者の提供写真。モザイクは私が施しました。

添付の文章に名前も連絡先も書かれていなかったので、
ご本人が綴られたものか、X氏の聞き取りかの判断はできなかったが、
興味深いことが書かれていた。

「神畑で若者達が集まった場所には、現在、神畑区集会所碑が建っている」
「力石は現存しています」
「所有者の話だと、たすきがけに力石を操ったとのこと」

こちらが渋沢栄一が村の若者たちと石担ぎに興じたと推定される
「集会所跡」の碑です。

img20210323_18582341 (3)
「神畑村誌」よりお借りしました。

そしてこの方は、
「渋沢栄一、ものすごき怪力なり」としたためてあった。

ありがたかった。
X氏のご尽力に、私はパソコンに向かって何度も頭を下げた。

その感謝の気持ちをしたため、
「これでブログでみなさんにお知らせできます」と書き添えて送信した。

返事はすぐきた。

今までの柔らかな口調とは一変。

「ブログをやっているなんて聞いていない。聞いていたら協力しなかった」

「今後一切、ブログへ書くことを禁止する」

「渋沢栄一関連の施設、大学研究室、その他への力石の他言は一切禁止する」

えっ? 「禁止する」って、なにこれ。圧力をかけたってこと?

私はただ、自分が見つけた情報を提供し、
力石の有無をお聞きしただけなのに。

正気で言っているとは思えなかったが、冗談とも思えなかった。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(3月28日)

「静岡市清水区阿僧瘤山・観音堂」


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

上田市は力石ゼロの町

渋沢栄一と力石
03 /27 2021
「力石という名前は初めて聞きました」

X氏のこの言葉に耳を疑った。

だって、私が力石と関わってきたこの10数年間、
多くの博物館や郷土館、自治体の文化財課の方々と接してきたが、
力石を知らない人は一人もいなかった。

「あんなマイナーなもの、よくやってるねえ」と笑う若者さえいた。

市史や町史の民俗編を見れば、若い衆組と連動して力石は出てくるし、
石造物の悉皆調査をやればいやでも目に付く。調査報告書にも載っている。

だから、知らないはずはない。

後日、X氏は図書館で力石の本を借りてきたと言ってきた。

「こういうものだったとは」とおっしゃっていたから、
やっぱり、ご存じなかったのか。

借りてきたのは多分、この本だろう。
img20210323_18140591 (2)
高島愼助 岩田書院 2014

長野県で確認された力石は少ない。
中でもこの上田市の力石は、なんとゼロ

だからこそ、私からの、

「渋沢栄一ゆかりの力石が見つかりました」との報告に、
高島先生は喜んでくださり、すぐにでも調査に行く気でいたのです。

力石文化圏の石川、富山との交流も盛んだったのだから、
力石文化も確実にあったはずだ。

第一、どこへ出るにも峠越えを余儀なくされた山国・長野県です。

男たちの力量はどこよりも重要視されただろうから、
力石は他県よりずっと身近なものだったはず。

それが証拠に、
江戸の力持ちたちが諏訪大社で興行を行っているし、
日本一の力持ち・三ノ宮卯之助の石も存在するではないか。

「長野の力石」の表紙の石がこれです。スケッチは高島先生。
img735.jpg img694 (3)
諏訪大社本宮にある土橋久太郎の「天龍石」、同秋宮にある「卯之助石」

東御市には、相撲取り・雷電ゆかりの石も存在する。
だから、
力石がなかったわけでも、そういう風習がなかったわけでも決してない。

そして新たに、
渋沢が上田市の神畑で力石に興じた話まで出てきたではないか。

それを知らなかったというのは、
庶民文化の掘り起こしが不十分だったというしか言いようがない。

下は昨年10月、長野県飯山市で力石が発掘されたときの記事です。

「伝説の力石、掘りました!」

力石ゼロの上田市にも、所在不明の力石の報告はある。

こちらは上田市の書店に置かれた石像です。

img20210323_18152271 (3)

「ご覧いただければ嬉しいです」

とX氏にお伝えしたが、反応はなかった。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞