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「ふるさとの富士」 …12

十人の釣り客
06 /04 2020
私が日本に帰国してから10年後、姉ヨーコは大腸がんの手術を受けた。
その年の年末に、「せめて来年の6月までは生きたい」と弱気の手紙がきた。

でも明けて1月には力強く、「なんとしても生き抜く」と、したため、
「おいしい梅干しが食べたい」とあった。

私はスーパーを駆けずり回って「おいしい梅干し」を探して送った。

でも音沙汰無し。再び送ったが、やっぱり何も言ってこない。
そのうち、
「清子から何の便りもない」と、姉が落胆していることを人づてに聞いた。

ようやく連絡がとれたときは、すでに余命いくばくもなかった。

これは訃報と前後して届いた姉からの絵はがきです。

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慌てていて住所を間違えたのか、何かの手違いなのか、
とにかく荷物も手紙も届かなかった。

手にすることができなかった梅干しなのに、
姉は「色々とおいしいものを送って下さってありがとう」と書いてきた。

衰えてペンを持つ気力もなかったのに、姉はどうしてもお礼を言いたい、と。

「ほんとに一筆のみ お元気で」

私へのあて名は、代筆だった。

今でも鮮明に思い出すのは、遠い夏の日、駅前で会った姉のこと。

幼い長女の手を引き赤ん坊をおんぶした姉は、やつれて見る影もなかった。
あんなに美しかった姉さんが、と私は言葉を失った。

降るような縁談に応じようとしなかった姉は、
突然、入院患者だった男と結婚した。平家ガニみたいな顔の陰気な男だった。

姉さんは名家のしがらみを嫌って「平凡」を選んだのだろうが、
平凡=小心者=妻に嫉妬する=妻をいじめて憂さを晴らす
って図式もあるわけで…。

案の定、その通りになった。

産後17日目の姉。初めての出産は涙で始まった。
img20200601_18532429 (2)

このとき実家の母は、仕事を休んで手伝いのため上京した。
しばらくすると、兄が東京にいる私へ電話をかけてきた。
「どうもお母さんの様子がおかしい。見に行ってくれないか」と。

行ってみると、布団の中で姉が泣いていた。
母は公園の暗がりで、やはり泣いていた。
姉の夫は母を無視して口も利かず、
母の作ったものは汚いと言って毎晩、実家へ食べに帰るというのだ。

怒った兄が抗議して、即座に母を連れ戻した。
誰にも助けを求めることができなくなった姉が、
産後間もない体に無理を重ねて乗り切ったと思うと、なんとも切ない。

しかし、姉への「いじめ」は、ますます陰湿になっていった。

「女房は家事をやって、求めに応じて夜の相手をするだけでいい」といい、
台所でラジオの英会話講座を聞いていたら、いきなりバンとスイッチを切り、
「女が偉くなる必要はない」と、のたまったという。

  学びたし、ただ学びたし学びたし
     この情熱の燃え尽きるまで
   ヨーコ


強烈な日差しで白い世界と化したあの夏の日、姉さんはこう宣言した。

「この子たちが保育園に入る年になったら働くつもり。
働いて働いて貯金して。20年たったら自立するつもり。
成人まで見届けたら、母親の務めを果たしたと思うから。
この子たちも許してくれると思うから」

子どもが3歳と6歳になった時、
姉は二人を抱き寄せて、母の夢を聞いてもらったという。

   
 三つと六つ無駄とわかりつ母の夢
   聞きてうなづく吾が味方あり
   ヨーコ


その宣言通り、姉は叔父の医院で再び看護婦として働き出した。

子どもの頃の私と姉
img20200531_12572484 (4)

「自分の自由になるお金がない」と言っていた姉が、
その自由になるお金を自ら手にした。そして誰はばかることなく、

車の免許を取り念願の英語学校へ通い、中断していた生け花も再開した。

新婚当時、「平家ガニ」は家を訪れた会社の同僚に、
「こいつの取りえは顔がきれいなだけで頭はカラッポ」と嘲った。
その嘲りを自ら録音して、繰り返し姉に聞かせるという念の入れよう。

でもそれを無視できるほど、姉は強くなった。

輝きを取り戻した姉は、
「食わせてやっているのに何が不服か」と怒鳴られても、
食卓をゲンコツで叩いて威嚇されても、もう動じなかった。

   
 悔いなきや乾坤一擲わが人生
   その光芒の夢をたぐりて
   ヨーコ

そして20年。

姉はあの言葉通り、夫に離婚を突き付けて、
実家の父の援助で建てた家も車も家財道具もいっさい置いて家を出た。

成人したとはいえ、子を捨てたことに変わりはない。
その罪悪感にさいなまれながらも、不安と希望を胸に、
片道切符を握りしめてカナダへの機上の人となった。

45歳の新たな旅立ちだった。

   
 いずくにも青山ありと海渡り
  路傍に死すとも還らじと決む 
  ヨーコ


渡加して2年後、スベンさんと知り合い、
アメリカに住む従姉の立ち合いのもと、再婚した。

しかし、スベンさんの事業の失敗から、
レイクのほとりの家を手放し、あの大草原の小さな家に転居。

経済的には恵まれなかったものの、
「スベンの大きな愛に包まれて、幸せいっぱい夢いっぱい」の
カナダライフを満喫していた。

その後、スベンさんの高齢とケガを機に町へ移り住んだ。
そこがヨーコの終焉の場所となった。

これはカナダの海岸で、姉と二人で夢中で拾った貝や瓶のかけらです。
CIMG5239 (3)

死期を悟った姉は、この世に自分の痕跡は一つも残したくないといい、
茶道具や着物、花器や琴などに贈与する人の名札をつけた。

残った財産は処分してもらい、
アビューズ(虐待)に苦しむ女性たちを救う団体に寄付するつもり、
とも言っていた。

そして遺言通り、遺灰は海へ流した。

元夫から言われ続けた「料理が下手」は、トラウマになり、
母親の悪口を聞かされ続けた子供たちからは誤解もされたけれど、
姉は確実に、ここカナダで人間としての尊厳を取り戻した。

もう日本にはなんの未練もないと言っていた姉だったが、
「胃袋だけは日本回帰してね、日本食しか受け付けなくなった」と、
ちょっと恥ずかしそうに手紙に書いてきた。

貝殻拾いをしたキャンベルリバーの海岸。のちに姉の散骨が行われた
img20200531_12572484 (3)

生前、姉はたびたび富士山の写真を欲しがった。

住み慣れたカナダの地から大海原へ船出した姉さん、

その富士の聳えるふるさとを目指して、懸命に泳ぐ姿が目に浮かびます。


 日本より中継されしスポーツに
   つつがなきかなふるさとの富士
   ヨーコ


         ―――――◇―――――

精神的DVは身体的DVと違って外部に見えにくく、子供にはよき父親であるため、
周囲になかなか理解してもらえません。
本人は渦中にいるため、自分は被害者だという自覚すらできにくい。
姉自身も異常と感じてはいても、
自分がDV被害者だったとはっきり自覚したのは、再婚してからだった。
  
世間体を気にする肉親からの、
「なぜ我慢できないのか」「外人と結婚だなんてパンパンになり下がったか」
という非難も姉を苦しめたが、姉はそれをもバネにして誇り高く生き抜いた。

いつも前向きで自分を見失わず周囲を気遣い、一生懸命だった姉の生きざまが、
今、DVに直面している人へ少しでも力になればと思っています。(ちから姫)


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YOU TOLD A LIE !…11

十人の釣り客
06 /01 2020
日本から来た十人の釣り客が帰るとき、
「みんなで陽気に手を振って別れを惜しんだ」

と、Kは笑って言ったけれど、目は笑ってはいなかった。

彼女は体を斜めに傾けて、かたわらの袋を持ち上げると、
「ヨーコへのプレゼント」と言いながら、
中から品物を取り出して、次々とテーブルへ投げた。

テーブルの上に、
紙パックの日本酒や漬物の瓶詰、日本茶のティーパックなどが散らばった。
なぜか日本語の本まであった。

十人の釣り客が置いていったものだという。
いずれも高い値段がついていたが、Kたちにはゴミでしかない。

彼らが捨てていった「残飯」を前にして、
なすすべもなく固まっていた私に、Kの声が飛んできた。

「その中の一人が、息子に釣竿をプレゼントしてくれたよ」

ほとんどブランニューの立派な釣竿で、
この国の若者にはとうてい手に入れることができない高級品だったという。

もらった息子は当然喜んだ。

従業員やほかの釣り客たちが集まってきて、みんな驚きの声を挙げた。
Kのもう一人の息子は、それを羨ましそうに見ていたという。

学費を稼ぐために懸命に働いている息子たちである。

欲しいものは自分で稼いで手に入れる、
それがカナダ流の子育てなのに。

それを金満家の思いあがった日本人にぶち壊された。

顔を見なくても、
Kの母親としてのそんな苦々しい思いが、手に取るようにわかった。


ーーーーーー


   =  余談  「野点」  =


   ミッシェルさんの庭で野点。

   ご亭主はミッシェルさん。正客は私。
   横にギャラリーが6,7人、二人の動きを見逃すまいと見つめています。

   責任重大。

   「えーと、茶碗は2回半まわすんだっけ」と、自信のない私に、
   「堂々としていれば、間違っていても本物に見えるから」と姉。

   日本という国にゾッコン惚れこんでいるミッシェルさんは、
   ホンモノの日本人の所作を一つも見逃すまいと、私を凝視している。

   なんだか自分が詐欺師みたいに思えてきて、冷や汗がでた。
   いけばなといい茶の湯といい、いい加減な私。

   これでも私、日本人かぁ?


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   なんとか所作を終えておじぎをした途端、
   居並ぶご婦人方から大きな拍手が起きた。

   姉がミッシエルさんに話している。

   「お茶にもいろいろあってね。妹のはあなたと違う流派なの」
   
   ハハハ、ウソだよん。

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   元・看護婦だったミッシェルさん、
   姉が病気になったとき、ずっと付き添い、最期を看取ってくれた。

   ヨーコは常々、手紙に書いてきた。

   「あなたはよい友人を持っていますか?
   私はたくさんの友人に助けられています」

   友人知己の一人もいない異国で、人生の再出発をした姉さん。


   この島に大和(やまと)の国の女人(ひと)ありしと
           今、万世にわが生花(はな)(のこ)   ヨーコ


ミッシェルさんの家の池。ここではお煎茶を頂戴しました。
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ーーーーーー


散々ひんしゅくを買った彼らの行為が、
そのようなプレゼントで帳消しになるはずもない。

私は日本のすばらしさを伝えたいと、
お茶やお花を教えて20年もがんばってきた。

「日本人は親しい間柄でもファーストネームに「さん」を付けて呼びます」とか、
「プレゼントの包み紙を相手の目の前でビリビリ破いたりしません」
などと、折に触れて日本人の礼儀を伝えてきた。

それを彼らは一瞬にして壊し、サッサと立ち去ってしまった。
それも「飛ぶ鳥跡を濁さず」どころか、「残飯」まで人に押し付けて…。

「どうしてくれるんだ」と、私は怒りに震えた。

そんな私に、Kがとどめを刺すように言った。

「今までいろいろな国のたくさんのお客さまをお迎えしたけれど、
今度のような釣り客は初めてだったよ。

ヨーコには悪いけど、私、日本の男性にはすごく失望したよ。
だってヨーコが教えてくれた
『礼儀正しく教養ある日本人』とは、大きな違いだったもの」

そして、
「YOU TOLD A LIE ! (ウソついたね)」

と笑いながら、私をにらんで彼女の報告は終わった。

友だちだからこそ、彼女は率直に伝えてくれたに違いない。
しかし、この出来事は、
日ならずして、友人たちのあいだに広まっていくだろう。

私は一気に、暗い闇の中に引きずりこまれていった。


<おわり>

本文/ヨーコ・ジェンセン「十人の釣り客」
余談/雨宮清子

※ 次回一度だけ、姉への鎮魂として「ふるさとの富士」を書きます。
   それでホントのおしまい。


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富を持つ者と持たざる者と …10

十人の釣り客
05 /29 2020
「仕事ですから」

と、その女性が言ったと聞いて、私は愕然とした。

皿やコップを洗うのはともかく、
「釣りのごほうび」として、夜ごと男たちに体を差し出すのも「仕事」とは。

いくらお金のためとはいえ、
女のプライドをそこまで捨てられるものだろうかという疑問が、
私を捕らえて放さなかった。

富を持つ者と持たざる者の思惑が一致して、ビジネスとして成り立った。

自由な時代だからこそ、それを「ビジネス」として割り切っているのだとしたら、
私の嘆きは「いらぬお世話」ということになる。

ただ、彼女には誤算もあったはずだ。

日本から遠く離れた異国だからこそ、人に知られずに済むはずが、
宿には他国からの釣り客や、大勢の従業員がいて、
十代の若者まで働いていた。

その上、宿の奥さんはしっかり者で、隅々まで気を配る。

自分をここへ連れてきた男たちは、旅の恥はかき捨てとばかりに、
「金で買った女」を、周囲に見せびらかしてさえいる。

地位も家庭もある立派な男たちが、日本を離れたとたん、
そんな浅ましいことを、かくも堂々とやってしまうことなど、
彼女は予想もしていなかったはずだと私は思った。

彼女が男たちと交わした「契約」の内容まではわからない。

しかし、騙されたにしろ契約通りだったにしろ、これでは恥ずかしくて、

「黙って下を向いて」「みんなと目を合わせないように」
しているしかないではないか。


ーーーーーー


   =  余談  「琴を弾く姉さん」  =


手作りの帽子をかぶって。カナダの空に「さくら さくら」
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   =  余談  「花の教室」  = 


   右端に孟宗竹のレプリカ。正面に御所車と紙風船。
   
   左端に掛け軸と羽子板。

   姉さんのお城です。

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   =  余談  「日本がいっぱい」  = 

   写真の裏に、こんなことが書かれていた。

   「清子へ 
   いろいろとレイアウトを替えて楽しんでいます。

   mt.富士。慈母観音、これは新入り。折り鶴。
   日本の包み紙はきれいなので、ひもも取っておいていろいろ作ります。

   左端の「松」は叔母さんが送ってくれたせんべいの缶のフタ。

   右端の鳳凰は、親友のM子さんが送ってくれたスカーフ。
   
   去年、この鳥よりもっと美しい孔雀のような鳥が二羽、
   空いっぱいに飛んでいる夢を見ました。

   帽子、先日また、一個作りました」

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   =  余談  「ヘレンさんの野菜畑」  =   


   この日はヘレンさんからお茶に呼ばれた。

   娘さんとお孫さんも一緒です。

   帰り際にご主人が、
   「KIYOKO ここで婿さん探していけ!」と。
   うわっ、ムリムリ。

   ヘレンさんのお父さんは、第二次大戦でヒトラーのナチスが崩壊して、
   それでドイツから逃れてここへ来たという。
   
   そっかあ、みんないろんな歴史を背負って生きているんだね。

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ーーーーーー


日本の男たちが同じ日本の女ではなく、コリアンを連れてきた。

コリアンの女性は自分と同国の男たちではなく、日本人に買われてやってきた。

自分たちの宿が前代未聞の使われ方をしたことに、
屈辱を感じたのはもちろんだが、この男女の組み合わせに、
「なんともいえない重いものを感じてね」と、Kは言った。

遠く離れたカナダの島の住人でも、
日本と韓国との歴史的事情は知っている。

それに私の花の生徒さんに韓国の女性がいて、
若くして病死したけれど、病気中はみんなで親身になって世話をした。

だからKは、この女性の行為を非難しつつも、
彼女が常に見せていた羞恥心に痛ましいものを感じて、
「とてもおとなしくてキュートなひと」といい、温かく接していたという。

どれほどの時間が過ぎたであろうか。

部屋が静かになっているのに気付いて、ハッと我に返ると、
同席していたみんなの視線が一斉に私に向けられていた。

いたたまれなかった。

それを察してか、Kが少し柔らかい口調で言った。

「でもね、ヨーコ。
最後の頃には少しずつ打ち解けてきてね。彼女のブロークンな英語と、
こっちの挨拶だけの日本語で何とか通じ合えるようになったよ」

「そう…」と返事はしたものの、もう充分パンチを食らったあとだから、
立ち直りにはさして救いにはならなかった。

「マタ、オコシクダサイ」「キヲツケテ、オカエリクダサイ」

Kは私が教えた挨拶を、茶目っ気たっぷりに繰り返したあと、

「とにかく、みんなで陽気に手を振って別れを惜しんだよ」と笑った。

しかし、Kの次の話で、私はさらに強烈なパンチを食らはめになった。


<つづく>

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仕事? …9

十人の釣り客
05 /26 2020
Kの話によると、大食堂での夕食のとき、
この9人の男たちは、日本から連れてきた女性を傍らに置いて、
大はしゃぎしていたという。

その傍若無人なふるまいと、
時々聞こえてくるブロークンな英語のおしゃべりで、
そこに居合わせた誰もが、
その卑猥な内容を理解することができたということだった。

一人30万円近い出費をものともせず、男たちは日本からやってきた。

Kはこの大切なお客様のために礼を失しないよう、
緊張しながら日本語の特訓を受け、三角おにぎりにも挑戦した。

それが…。

言葉を失いかけつつも、私は思い切ってKに質問した。

「それじゃあその女性は、
夜ごと、ごほうびとして男から男へたらい回しにされていたのかしら」

「うん。その通りだったようね」

Kは吐き捨てるように言った。


ーーーーーー


   =余談  「カナダで路地歩き」  =


   <その四  「A BUCK OR TWOの店」  >

 
   「1ドルか2ドルで買える店」。日本の「百円ショップ」のようなお店です。
   
   確かここで宝くじを買いました。
   
   当たったら姉にプレゼントしようと思ったけれど、ハズレた。

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   <その五  「図書館」  


   町の図書館です。
   受付で、ライブラリーワーカーのダイアナさんに会った。

   「ハーイ!」と言ったら、
   「ハ ジ メ マ シ テ、 ド ウ イ タ マ シ テ」だって。

   「日本語覚えたいというから、私が教えてるのよ」と姉。

   でもダイアナさんの日本語は通じるからいいよ。
   
   私なんか、外国人を見るととっさに口から出るのは、
   中学校で最初に習った「ジス イズ ア ペン」だもの。

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コモックス

   実はこの図書館の書棚にはなんと、私の著書があるんです。
   姉に送ったものを読み終わった後、ここに寄贈したとか。
   
   日本語ですからね、読む人いるかなあ。
   
   あれからずいぶんたったので、今もあるかどうかわからないけれど、
   カナダの町の図書館に自分の書いた本があるなんて、

   うふふ。

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   <その六  「せんたく姉さん」  >


   連日、 
   「あなたを連れていきたいところが、いっぱいある。
   あなたに会わせたい人が、いっぱいいる」という姉さん。

   そういえば、建国記念日のパレードも見た。

   で、出かけるために、姉は朝からお洗濯。

   姉自身は一か所にいて、滑車付きのロープに洗濯物を付けると、
   ギリギリとロープを動かして移動させます。

   どこから見ても、すっかりカナダのファーマーです。

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ーーーーーー   


夜ごと、男の間をたらい回し。

それも衆人環視の中で堂々と…。

そんなことを本当にやったのか。
釣り人としての矜持や品性や仁義はどうしたのか。

Kの口から次々でてくる報告は、私には到底信じられないことだった。
いや、信じたくなかった。

ここで働く従業員はみんな、明日の糧のために出稼ぎに来ているのだ。

そうした男たちの中に、
学費を得ようと懸命に働いているKの十代の息子たちもいた。

従業員やKの息子たちの目に、
この生々しい日本の男たちの姿はどう映っていただろうか。

「彼らはブロークンな英語で会話をしていた」と、Kは言った。

日本人同士なら日本語でのおしゃべりが自然なはずなのに、
わざわざ下手な英語で、

ということは、従業員や周囲の人たちの反応を楽しむためだったのか。

同じ日本人として、私は恥ずかしくてたまらなくなった。

そんな私に、Kは容赦なく話し続けた。

「夜になると彼らはひと部屋に集まって、遅くまで宴会をするのよ。
日本から持参した肴を並べて、彼女にお酒を注がせて…。
自分たちだけで、やたら盛り上がっていたわ」

「それでね。そんな毎日だったので、
ほかの国からのお客さんには迷惑をかけるし、
彼らと従業員の間もだんだんギクシャクしてきて…」

宴会の後片付けは、その女性が一人でやっていたという。

「彼女、誰もいない台所で、ひとりで黙々と洗い物をしているの。
それで、手伝いましょうか? と言ったら断るのよ。
これは私の仕事ですから、って」

「仕事?」

「うん。仕事だって言ってた」

「でもね、そのひと、いつも恥ずかしそうに下を向いてて、
私たちとは決して目を合わせようとはしなかった」


<つづく>

※ 本文の「私」は、姉・ヨーコのこと。
  ヨーコが書いたノンフィクション「十人の釣り客」より。


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ごほうび …8

十人の釣り客
05 /23 2020
「次の朝、ベッドメーキングに行ったのよ。
そしたら、一つのベッドは完全に使用前だった。
間違いなく、前日私がベッドメーキングしたままだったのよ」

親代々、この宿をやってきたけれどこんな使われ方は初めてだ。

ほんの一か月弱というシーズンに世界中から釣りキチたちが集まる。
いわばここは、「サーモン釣りの聖地」なのだ。

それを釣り以外の目的で来るなんて。

Kが最も心配したのは、多感な年ごろの息子たちへの影響だった。

父親はガイドとして大物が釣れるよう、釣り客に全身で奉仕し、
母親は客たちがゆっくり疲れを癒せるよう、全力で尽くす。

「それがフィッシングガイドとその家族の誇りなんだ。
あなたたちの両親は、決して変な宿を経営しているんじゃないよ」

私の耳に、Kのそんな叫びが聞こえてきた。

息子たちに知られたくない。隠し通したい。

しかし、
Kがどんなに平静を装っていても、宿の従業員たちは敏感に感じ取っていた。

常に集団で行動し、我が物顔にふるまうこの日本人たちは、
いやがうえにも、彼らの関心の的になっていったという。

私の頭に、面白いもの見たさで好奇心いっぱいの、
そんな従業員たちの様子が浮かんできた。

「でもまさか、釣りには連れて行かなかったでしょう? その女性を」

私はかすかな救いを求めるように聞いてみた。

小さな釣り舟での自然の欲求は、
立ったままで海に向けて「放水」するしかないというくらいのことは、
素人の私でさえ知っている。

たまにある夫婦連れの釣り客でも、女性はたいていホテルに残って、
散歩を楽しんでいるという話を聞いたことがあったからだ。


ーーーーーー


   = 余談  「カナダで路地歩き」  =


   <その一  「流木によるカービング競技大会」  >  


チェーンソーで彫刻します。それにしてもデカい流木です。
img20200521_09293120 (2)
キャンベルリバー市

   
   <その二  「北海道・石狩市から寄贈された赤鳥居」  >

   
   寄贈の由来はわかりません。
   ご存じの方、教えていただけたら嬉しいです。
   
   海辺に建っています。神社は見当たりませんでした。

   ※情報をいただきました。
   
   石狩市とキャンベルリバー市は、1983年に友好都市提携を結んだ。
   その10周年記念に、
   それぞれ、赤鳥居とトーテム・ポールを交換したとのことです。

   トーテム・ポールは、以下のHPでご覧ください。

   「石狩の野外展示物マップ」 

img20200521_12130470 (2)
キャンベルリバー市


   <その三  「炭坑跡記念館」  >


   炭坑の町だったコモックスにある記念館
   「カンバーランド・ミュージアム」です。

   観光雑誌に決して載ることのない場所です。
   入館記念の署名簿に、 「雨宮清子 JAPAN]と記してきました。

   ビデオを見ました。

   「いろんな国から移民がやってきたが、
   国策としてやってきた人たちではなかったため、
   彼らがありつく仕事は、炭坑夫という重労働しかなかった。

   中でもエイジアン(アジア人)が最も悲惨で、
   白人の賃金が4ドルだったのに対して、中国人・日本人はたったの1ドル。

   さらに日本人の入る穴は第一坑と決められていて、
   その坑道の大きさは30㎝四方だった」

   というから驚いた。

日本人炭坑夫が入った穴の模型。
img20200521_10261241 (2)
    
   「炭坑夫は動物以下の存在として扱われた」とナレーション。

   動物以下に扱った例として、模型まで作って展示し、
   自国の非を赤裸々に語り、過ちを率直に認める、
   
   その誠実さ・健全さに好感が持てました。

   展示物の中に盛装した日本人一家の写真があった。

   「これね、日本の親戚へ送るための写真なのよ。
   おそらく服も借り物でしょう。
   私たちはこんなにいい暮らしをしています、
   と誇示したいがための精いっぱいの見栄なのよ」と姉。

   「第二次大戦中はここカナダでも、日本人は収容所に入れられた。
   そうした日本人たちがカナダ政府に名誉回復と補償を求め始めたのが、
   1980年代のことで…。

   私がここに来た頃もまだアジア人は低く見られていたの。
   だから当初は、あなた、こんなところに来て大変よって言われた。

   今でもアジア人とみると、
   頭からドロボー扱いするストアがあるくらいだから」
   
   それでも姉さんはこの国が好きだという。
   
   日本では悲しいことに、そのアジア人同士が傷つけあっている。

img20200521_09181782 (4)
コモックス「カンバーランド・ミュージアム」

ーーーーーー


まさかその女性を釣りには連れていかなかったでしょう?
との私の問いに、
Kは首を振りながら、こう言った。

「それがねぇ、ヨーコ。彼らはその女性も一緒に連れて行ったのよ」

「えっ。トイレはどうしたの?」

「知ーらない」

Kは口をゆがめ、両手を広げて肩をすくめた。

昼の弁当を舟に積んで行くのだから、
当然彼らは夕刻までサーモンを追いかけて海の上のはずであった。

女性は空き缶の中にでも用を足したのであろうか。
そう考えるだけでも私は自分のことのように惨めであった。

「ヨーコ、その晩はどうしたと思う?」

同席するカナダ人やアメリカからの客は、固唾をのんで聞いている。

まだこの先があるのかと思うと居たたまれず、
Kの顔を見るのさえ、つらくなった。

「あのねぇ。その日のウインナー(サーモンを一番多く釣った優勝者)が、
ごほうびとして彼女を獲得したのよ」

私は自分の顔が青ざめてくるのがわかった。

怒りで全身が震え出した。


<つづく>

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞