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キャッチボール

消えた間宮一族
12 /13 2020
共同墓地の力石一つから始まった間宮家追跡。

この「絶えてしまった家」を知る手段は、墓石しかありませんでした。

「墓石はタイムカプセル」とおっしゃる斎藤氏の執念の探索で、
私の手元には写真や資料、聞き込み調査などが次々送られてきた。

それに対して私から、疑問点やもう少し詳しい説明、
古地図調査の依頼などご迷惑をも顧みず、一日に何回も問い合わせた。

斎藤氏はこれを「キャッチボール」と表現。

まさにその通り!
ボールは投げられては返して埼玉、静岡間を往ったり来たり。

そんな中、私は一冊の本に出会いました。

これです。
img20200928_19202086 (2)

著者は弘前大学・人文社会科学部教授の関根達人先生。

恐れ多くも全くの初対面なのに、私は先生へ墓石の疑問を投げました。
投げたボールは速攻でズバッと返ってきた。

奇しくも先生は、今回の舞台となった町の近くのご出身。

ご実家の古い墓石の写真まで添付して、
私の稚拙な質問にていねいに応えてくださった。

この「墓石が語る江戸時代」のプロローグが素晴らしいので、
要約をここに記します。

「これまで近世史は古文書を中心に語られてきたが、近年では、
絵画資料、考古学資料、民具などの非文字資料にも注目が集まり、
従来の古文書中心の研究が見直されている」

※古文書には偽書が多いから要注意ですね。

「江戸時代には大名から庶民に至るまで多様な階層の人々が、
石に自らの想いや願いを刻むことが流行し、様々な石造物が作られた」

「ところが我が国の石造物研究は美術史から出発したため、
美術的評価の低い近世石造物は、
これまでほとんど研究対象とはならなかった」

こちらは今年出版されたご著書です。

石に刻まれた江戸時代

この中には静岡市・駿府城跡の堀端に建つ「教導石」も紹介されています。

先生は、こう言っています。

に刻まれた石造物の歴史は、
に書かれた歴史(古文書・絵画)や
大地に埋もれた歴史(考古学)、
人から人へと伝えられる歴史(歌舞伎や落語)とともに、

江戸時代を知るうえで重要な歴史資料。

石造物の文字数は格段に少なく情報量に乏しいが、
だからこそ、慎重に選ばれた一文字一文字には、
重要なメッセージが込められている」

考古学がご専門の先生が、学生と共に墓石の悉皆調査。

「足でつかむ歴史」を実践されていたと知り、
私は嬉しくてたまりませんでした。

さて、消えた間宮一族の調査を終えた斎藤氏、
夕暮れ迫る田舎道を愛車の黄子嬢と走りながら、こんな歌を詠みました。


碁石(いし)を打つ 察元、左門 力石(いし)を挙ぐ
    生地(せいち)よ遥か 空風ぞ吹く      斎藤呆人


IMG_9572.jpg
道中で見つけた子供の忘れ物「アンパンマンのバケツ」

その斎藤氏の歌に触発されて、私もこんな戯れ歌をつくってみました。


 ♪ 察元碁石(いし)を打つ
  左門は力石(いし)を差す
  ヘイヘイホー ヘイヘイホー
  はるかなあの日々 もう戻らない
  栄(は)えある一族 もう誰もいない
  ホーホーホーホー



タイトルは「愚作」…。

「消えた間宮一族」は、これにてオシマイ


   ーーーーー◇ーーーーー

今回もまた斎藤氏に100%、助けていただきました。
  
断密ポタを武器にした行動力・調査力、鋭い勘と洞察力で、
私は居ながらにして、
新資料、新発見、的を得た豊富な写真等を頂戴しました。

ただただ感謝!

これからもキャッチボール、よろしくお願いいたします。


※参考文献/「墓石が語る江戸時代ー大名・庶民の墓事情」関根達人 
      吉川弘文館 2018
     /「石に刻まれた江戸時代‐無縁・遊女・北前船」関根達人 
      吉川弘文館2020


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(12・12 )

「神奈川県座間市新田宿・公民館」

歌人・天野翔氏の俳句や歌を紹介しています。
天野氏も力石に魅せられたお一人。
各地に力石を尋ねて、たくさんの歌を詠まれています。


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地域の人に守られて

消えた間宮一族
12 /09 2020
「間宮家は、絶えてしまった家だからねぇ」

幸手市郷土資料館の学芸員さんも、地元の方も、
菩提寺だった宝聖寺のご住職も、みんなそう言った。

「絶えてしまった家」

なんて悲しい響きだろうと思った。
明治期の地図には存在のマークがはっきりついていたのに…。

その間宮家の4番目の墓所は意外なところにあった。

ここです。鳥居の扁額に「香取神社」とあります。

間中家1

この神社は明治44年の合祀で消えたはずなのに、と思っていたら、
「幸手市史」にこうありました。

「外郷内の氏神だった香取神社がなくなってしまったため、代わりに、
そのころ神社総代をしていたM家の屋敷神だった香取神社を
屋敷の内側から表に出し、株(外郷内株)で祀ることになった」

時の権力者から神社統合を強制されて、集落の氏神は消滅したけれど、
氏子には今まで通りの精神的な拠り所が必要だったんですね。

※平須賀村は六つの集落の集合体で、集落ごとに「株」と呼んでいた。

さて、
地元の方からM家の現・当主がここでは一番の長老だと聞いて、
早速、訪問した斎藤氏、そこでM家の奥さまからこんな話を聞いた。

「先々代はこんな墓石もここに移したの」

なんと、神社の庭に墓石が…。
それを見た瞬間、斎藤氏は「もしや、間宮家のでは」と思ったという。

奥さまの話では、昭和55年(1980)ごろ、
道路の拡張整備で路傍にあった墓石が撤去されることになり、

それを不憫に思った先々代が、
自分の屋敷内の香取神社の脇に移設したのだという。

間中家2

共同墓地にも入れてもらえず、
道路わきにポツンと取り残されていた光景に、
「絶えてしまった家」ならではの無念さ、寂しさを感じます。

平成九年発行の「幸手市史」によると、
平須賀の戸数はわずか「145戸」

外郷内は六つある集落のうちの一つだから、戸数はさらに少ないはず。
ここへ移設したM家の先々代は、事情をよくご存じだったに違いない。

でも今はもう知る人もなく、M家の奥さまでさえ、

「天明とか明和とか書いてあるけど、どこのだれのだかわからない」と。

そこで墓石の前の花台を動かしたら、出て来たんです。

「間宮氏」とくっきり。

奥さま、思わず「へぇ~!」

間中家5

この墓石には、宝永三年(1706)から寛政十年(1800)の94年間の年号と、
13人の戒名が刻まれていた。

この一世紀にも及ぶ年月には、
本因坊察元も間宮昌仙先生も、力石を奉納した間宮左門も存在していた。

でもこの墓石は、「幸手市の石造物調査報告書」に掲載されてはいなかった。

墓石の4面にびっしり刻まれた間宮家の人々です。

間中家4

だれもが、「絶えてしまった家」と言ったけれど、
不思議にも、4か所ある墓所のどこもきれいに整備されていた。

花を手向けたり板塔婆を納めたりもしていた。

消えてしまった一族を地元の方々が手厚く祀っている。
今もみんな繋がっているんだと思いました。

力石に刻まれた間宮左門さんが間宮家の一族だったのか、
一族だとしてもどんな地位にあったかはわからずじまいになったけれど、

私は地元の方々のこうした優しさに触れることができた。

それだけで充分だと思いました。


※参考文献「幸手市史 民俗編」生涯学習課市史編さん室 平成9年


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(12・8)

「岐阜県郡上市大和町古道・白山神社」

出ました! 大江誉志氏の登場です。

当事者ならではの大江ご夫妻の俳句が紹介されています。
美男美女のお二人、本当に素敵なカップルです。

また私がお会いしたもう一人の力持ちに浪速の長州力さんがいます。

体力、年齢の限界まで挑み、
ずっと力の人生を歩んでこられた浪速の長州力さんは、
ご夫妻共に力持ち大会へ出場という、これまた息の合ったお二人です。

関西へ出かけた折には大変お世話になりました。

その浪速の長州力さんと大江誉志さんのご活躍の様子を、

「力持ち大会」

で、ぜひご覧ください。


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墓石が伝えるもの

消えた間宮一族
12 /05 2020
「消えた間宮一族」、そろそろ終盤に近付きました。

人さまのことを根掘り葉掘り。ごめんなさいね。
でも田んぼの中に墓石が散乱していたと聞いたとき、父の実家と重なって。

私の父の実家は、
戦後、最後の当主が没して、東京在住の娘夫婦が相続したけれど、
関西在住の息子の代で墓じまい。

その折、
江戸初期からの年号のついた墓石群はかたわらに放置されたと聞いた。

今は亡き父と墓参した折、父が墓地の隅に並んでいた小さな石枕を指して、
「門前によく捨て子があってね。衰弱していて育たなかったんだ」と。

そういう赤ん坊を墓地の傍らに葬って、小さな石を乗せたという。

墓じまいから40年近くたった一昨年、
市が放置されたままの墓石の処置に困っていると人づてに聞いた。

下の写真は、子供の供養のための石仏です。

「本因坊九世察元」が囲碁界で隆盛を極めていた頃の建立で、
察元の兄・又左衛門が間宮家の当主だった頃のものです。

「妙相童子 㚑 安永六(1777)酉十二月二十四日 間宮氏」
間宮家宝聖寺
幸手市平須賀・宝聖寺・間宮家墓所

今回、「左門」銘の力石から、はからずも間宮家の墓巡りになりました。

最初は「本因坊察元」の墓石と「左門石」がある共同墓地。
二番目は貯水槽脇の墓地。

放置されていた墓石の下を掘ったら、たくさんの墓石と人骨が出てきたので、
宝聖寺に頼んで供養してもらったとのこと。

三番目の墓所はその田んぼから出た墓石を運んだ宝聖寺にありました。

ここには貯水槽脇に保存された墓石の主「間宮昌仙先生」の娘が、
両親の菩提を弔うために建立した立派な宝篋印塔もありました。

そしてなんと、4番目の墓所が見つかったのです。

墓石は一基のみ。

この墓は以前、路傍にポツンと置かれていたそうです。


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(12・4)

「富山県下新川郡朝日町金山・日吉社合殿熊野社」

地面に置き去りにされた力石もあれば、
立派な台座に居場所を与えられた力石もあります。

どちらの石にも物語が染み込んでいますが、
それを聞いてくれる人がいなければ、ただの石に還っていきます。

人も石も同じかも、と思う今日この頃です。


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数奇な運命

消えた間宮一族
12 /01 2020
幸手市平須賀村は、川の古い流路跡に発達した村で、
こんなふうに弓なりの形をしていたそうです。

村の内円と外円は低湿地帯で、
弓なりになった内円部には平須賀沼があった。

「幸手市史」によると、この沼は万治元年(1658)に開発されて、
そこに「神扇村」という枝郷ができたとのこと。

img20201129_14462301 (2)
「幸手市史通史編1」より

本村も順次開発されていったが、
「外郷内は最も遅く開けたものと想像する」とありますから、
農地として機能し始めたのも一番最後かと思います。

で、私、「あれっ?」と思ったんです。

貯水槽工事で発見されたあの田んぼの中の、
「間宮家墓所」の宝篋印塔は正保二年(1645)です。

もっとも遅く開発された外郷内なのに、
この石塔は、
この地の開発に着手した万治元年より13年も古い。

どういうことなんだろうって。

墓間宮屋敷

外郷内(そとごうち)とは、内郷に対する外郷」

という意味だそうですから、村はずれの荒れ地。
そこに間宮家は居を構えていたことになります。

湿地帯の荒れ地で、一族郎党が食べていくには大変だったはず。
そう考えたとき、
「杉戸町の地名・地誌」の著者のこの記述が本当のように思えてきた。

「北条氏滅亡で間宮家は外郷内に土着し、二男が下高野に分家した」

分家して活路を別に見出したとしても不思議ではない。

沼の開発着手の13年も前に建立した宝篋印塔。
百姓として土着した苦闘の中にも武士としての誇りを忘れたくない、

そんな思いが、
この石塔にも土地に沁み込んでいるように思えてなりません。

その跡地で斎藤氏は地元の方からこんな話を聞いた。

「昭和五十四年(1979)、生垣で囲まれた共同墓地の生垣を取り払い、
ブロックとコンクリートで改装した際、

間宮左門と刻んだ石が出てきた」

航空写真をご覧ください。

ッ枚焼けと共同墓地2
時系列地形図閲覧サイト 埼玉大学教育学部・谷謙二(人文地理学研究室)

左端の赤い四角は香取神社があった場所。
黄色い丸は「共同墓地」。

右端の緑の丸は「貯水槽脇の間宮家墓所」
※小さい緑の丸は私の書き間違いです。

大きな赤い四角は「間宮家跡地」

明治期の地図では間宮家の屋敷地は、香取神社の脇まで広がっていたから、
元はかなり広大な屋敷地だったと思います。

また、貯水槽あたり一帯も、間宮家の土地であったかもしれません。
なぜなら、かつては自分の土地に、
最初のご先祖を埋葬して守護神にする風習がありましたから。

こちらは共同墓地から見た「貯水槽脇の間宮家墓所」(赤丸)です。

墓共同墓地から見た間宮家

それにしても、「左門石」は、数奇な運命をたどったものです。

刻まれた年号や証言から、こんなことがわかってきました。

今から225年前の寛政七年(1795)、間宮左門によって香取神社に奉納。

116年後の明治四十四年(1911)に香取神社が取り壊されて、
ほかの力石と共に共同墓地の土台石に転用された。

それから68年後の昭和五十四年(1979)に土中から掘り出された。

刻字があったため廃棄をまぬがれ、共同墓地の焼却炉脇へ運ばれた。

それから焼却炉の炎に焼かれること40年余り。

左門3

せめて、同族と思われる
「本因坊・間宮察元」の墓石のそばに置いてやりたい、

と思うのは人情です。


「寛政七乙卯六月吉日

奉納 三十五貫目 外郷内 間宮左門」


この左門石を見続けてきた斎藤氏、こんな思いを吐露。

「察元墓石(墓碑)と左門力石は、時を経ても同じ場所に存在し続けてきた。
この奇跡に、激しい浪漫を感じざるを得ません」

そして斎藤氏も私も願うことは同じ。

「本因坊察元墓石」に与えた「幸手市有形文化財」の称号を、
この力石にも与えてくださったなら、新たな郷土史が生まれ、
消えた間宮一族のさらなる名誉挽回にもなる」と。


※参考文献/「幸手市史通史編1」生涯学習課市史編さん室
     幸手市教育委員会 平成14年
     /「杉戸町の地名・地誌」鈴木薫 私家本 平成5年

 
   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・30)

「福井県坂井市三国町滝谷・吉田宅」

北陸地方では力石を「ばんもち石」「ばんぶち石」などと呼んでいます。

高島先生が調査したころはまだ体験談を聞くことができたから、
エピソードがたくさん残っています。

そんな話を二つ三つ。

「うっかりバンモチ石に腰かけたら、さあ大変。
あんちゃん、覚えがあるんやろな。さあ、その石、担いでもらおうかとなる」

「バンモチ石には武勇談から嫁探し、近隣若い衆との交流など、
当時の暮らしが染み込んでいた。しかしその愛すべき石は、
名誉あるバンモチ石からただの石ころになって半世紀を経た。
世の中は動いているなぁ」

「ぜいたくとおごり戒(いまし)むこの石の 尊き教え忘れざらまし」


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古地図にだけ存在

消えた間宮一族
11 /27 2020
消えなかった「下高野の間宮家」から、
消えてしまった「外郷内の間宮家」へ、そろそろ戻ります。

この本家・分家の交流は長く続いたと思われますが、
今も存在する間宮家へ養子に入った12世・長左衛門以外は、
そのつながりを証明するものは見つかりませんでした。

そして、
外郷内の間宮家だけが時代の波に沈んでいきました。

可能な限り現地を調査して歩いた斎藤氏、
原点へもどるしかないと判断。再び、あの「左門石」のあるスタート地点へ。

「左門石」は、最初、どこの神社へ奉納されたか、
という問題を突き止めようとしたとき、まず浮かんだのが古地図です。

これは明治40年の「外郷内」です。
外郷内香取神社マーク (3)
「今昔マップ」 埼玉大学教育学部・谷謙二(人文地理学研究室)より

なんと、
今は跡形もない「香取神社」(赤丸)が地図に載っていました。

この神社は明治44年、
平須賀の香取神社(宝聖寺隣り)に合祀されたため姿を消しましたが、

古地図の中では生きていて、
「ここだ、ここだ」と、その存在を主張していました。

地図をご覧ください。
神社(赤丸)の隣りの青丸は、今は消えてしまった「間宮家」です。

この村の若者たちは、村の鎮守の香取神社で力くらべをやっていた。
その石に「間宮左門」さんが文字を刻み奉納した。

そう思わざるを得ません。

オレンジの丸は桑畑です。緑色の丸は広葉樹。
大きな木が空へ向かって伸びていたのでしょう。

周りは一面の田んぼです。

こちらは、上の地図と同じ場所の「明治期迅速測図」です。
香取社明治期 (2)
同上

赤丸が「香取神社」、青丸が「間宮家」(ご近所の方の証言から)。

今はどうなっているのかというと、
赤い斜線のところが香取神社があったところです。

もう、間宮家も神社も、跡形もありません。

IMG_8316 (3)
同上

地上から見ると、こんな感じ。なぁーんにもありません。

IMG_8306.jpg

その場所に立ったとき、斎藤氏の脳裏に、
往時の村の様子が生き生きと浮かんできたそうです。

稲の収穫も無事終えて、今日は楽しい村祭りです。
香取神社からド-ンドーンと祭り太鼓が聞こえてきます。

田んぼのあぜ道を子供たちが駆けていきます。

お宮の境内には、ふんどし一つの外郷内の若者たちが、
間宮左門主催の「力持大会」が始まるのを、今か今かと待っています。

始まりました!
境内に置かれた力石に若者たちが次々とチャレンジ。

「担げたぞ!」「おっこどした!」と大騒ぎ。

そのたびに、見物の老若男女が笑ったり拍手したり…。
ひそかに恋心を抱いていた若者の登場に、頬を染める娘っこも。

そして間宮左門は、その石の中で一番重くて様子のよい石を選び、
今日の良き日の記念に文字を刻んで、神社に奉納した…。

img20200325_19521629 (3)img20200325_19550187 (2)
「こうしんさまの力石」野村昇司・作、阿部公洋・画 ぬぷん児童図書出版 1983


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・26)

「千葉県我孫子市江蔵地・水神社」

二句、ご紹介しています。
そのうちの一句は、三代目山遊亭金太郎師匠の句です。

金太郎師匠の趣味は俳句。
力石も詠んでくださった。嬉しいです。

でも昨年9月、63歳でご逝去。あまりにも早い。

句は、力石にドカッと腰かけて日なたぼこをしたときの句です。
本当はね、力石は神聖なものだから腰かけるなんてもってのほかなんだよね。

で、石を尻に敷いた師匠、今は石の尻に敷かれちゃって。

でも、当の力石はニコニコ。

「師匠は尻まであったかかった。だからおいら、気にしちゃいねえ。
せっかくだから、おいらを「金太郎師匠腰かけ石」と名付けてほしい。

ほらよくあるだろ? 頼朝の腰かけ石とかサ。そしたらおいらも鼻高々だよ」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞