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末広がり

歴史を塗りかえた発見!
12 /01 2019
今上の八幡さまの式典へ行ってから、はや1か月半。

今も地域のみなさまの笑顔が浮かびます。

あの日は、式典終了後、外へ出たら、
雨も上がって青空がのぞいていました。

即位の礼を執り行っていた東京では、がかかったという。

雨降って地固まるを実感!

「どれ、私もちょっと触ってみるか」

と、おそるおそる手を延ばしたご婦人。

CIMG4939 (2)
千葉県野田市今上・八幡神社

ちょっと照れながらも快くカメラに収まってくれた方。

「ブログに載せてもいいですかー?」

「おお! いいよーっ」とニッコリ。

CIMG4941.jpg

こちらの方は神妙です。

「なむ、なむ」

そばで奥さまが大笑い。

CIMG4943.jpg

「なで、なで」

「あ、写真撮るから、ちょっとそのままでいてください!」と私。

「ヤラセでーす!」の声に、周囲がドッとわく。

CIMG4942.jpg

「こんな立派なものがここにあったなんて。
今上ってとこは凄いところだって見直したよ。大事にしなくちゃね」

と感慨深げなご婦人。

斎藤氏も興奮冷めやらぬ顔で、

「今までこんな立派な式典を経験したことはなかった。
これからもないと思う。これまで力石に取り組んできて、
これが自分の最後で最高の出来事になった」

CIMG4957 (2)

万治石は、地域のみなさまに笑顔を運んでくれました。
そして、
地域を一つに結び付けてくれた。

新天皇誕生というめでたい日に、ともに祝っていただいた。

めでたさが重なったきょうのこの日のことは、
世代を越えて、きっと語り継がれていくことでしょう。

万治石よ、

末永くこの今上の里を見守っていってくださいね。

  
   =私の願い=

これを機に地域の学校で、
今上の河岸の歴史や民俗、習俗などをみんなで考え学んでいただけたら。
そして、
万治石や八幡さまの童話や絵本を書いてくださったらいいなと思っています。


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□□□月日

歴史を塗りかえた発見!
11 /28 2019
待ちに待った許可書が届きました。

県外からのお願いに加え、
世間の片隅に転がっているだけの「石ころ」ブログへの掲載許可。

感謝しかありません。ありがとうございました。



img20191127_14022083 (2)



さて、本題です。

立派な式典を挙げ、新聞や広報誌にも掲載された「万治石」

このおめでたい出来事に水を差すようで心苦しいですが、
まだ刻字の解読が残っております。

「明治」が「万治」になったんだから、それでヨシとしようじゃないか、
という声ももっともです。

ですがやっぱりね、けじめですから、どうぞお許しください。

  「  万治四年
   奉納力石五十六メ目ョ」

これはどなたも異存がない。

問題は左の刻字です。

拓本です。
IMG_1006-1.jpg

2017年の段階で関係者はそれぞれこう読みました。

① 「丑ノ五月日」

② 「吉三月日」

 「辛丑月日」

詳しくは当時のブログ記事をご覧ください。

万治石・最終回です」

これに対して、
当地の古文書会の先生お二人にご意見を伺いました。

T先生  「「吉」「丑」とするのはやや苦しい
      また「辛」と読むには、下部の十が見えない
      月日には「〇月日」のように数字が入ると思う」

N先生  「三案の解読では「辛丑月日」がもっとも無難だと思いますが、
       ただ「辛」の字、写真でも拓本でもです。

     「丑ノ五月日」については、なるほど「ノ」とある如く見えますが、
       しかし、こういう書き方は文書にはよくありますが、
       碑文に「ノ」字を書くのはやや不審

というわけで結論は出ませんでした。

※ 斎藤氏の調べでは、カタカナの「ノ」は、力石の場合、 手持ちの全国の
   「〇〇の力石」には皆無」だったこともお伝えしておきます。
  
決め手となる解読はできませんでしたが、  
でも、がっかりすることはありません。
もともとの刻字に誤りがあることもママあるからです。

こちらは同じ「万治四年」の誤記とおぼしき例です。

img20191119_19135021 (2)

これは平成元年、福岡県久留米市の三本松町遺跡から出土した
「色絵鳳凰文器台」です。

右側の余白部分に赤色で文字が書かれています。

これです。
img20191119_19135021 (4)


「万治四年己丑八月吉日」

あきらかに、干支の「己丑」「八月」は間違っています。

なぜなら、万治四年の干支は「己丑」ではなく「辛丑」ですし、
この年の4月に寛文に改元されていますから、「八月」はあり得ないからです。

このことについて、
久留米市教育委員会・文化財保護課ではこのように解説しています。

「万治四年の四月には寛文に改元されていますので、
改元以前に特別に注文された贈答品と推測されます。

また万治四年の干支は「辛丑(かのとうし)」なので、
「己丑(つちのとうし)は誤って記されているようです」

こうしたことから、今上八幡神社の「万治石」も、
改元以前に注文を受けて「五月日」と刻んでしまったと推測できるし、
または誤記ということも考えられます。

今回、地元では「丑ノ五月日」を採用しましたが、
私はこんなふうに思いました。

「万治石」の、
「万治四年」ゆるぎない事実ですから、
左の刻字は解読不能として、

「□□□月日」と記録するのも選択肢の一つではなかったか、と。


※参考文献・写真提供/「歴史散歩・年号のある遺物とその遺跡」№6
               久留米市教育委員会・文化財保護課・
               市埋蔵文化財センター・久留米文化財収蔵館
※拓本提供/石田年子(野田市文化財保護審議会委員・金石文研究者)
        /今上中組自治会


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万治石さん、寂しかろ

歴史を塗りかえた発見!
11 /25 2019
某役所からの写真使用の許可書、まだなんです。

♪ 待ちぼうけ 待ちぼうけ
    きょうは きょうはで 待ちぼうけ
    明日は 明日はで

なーんてのんびり待ってたら、ブログはたちまち草ぼうぼう。

なので、こんな「万治石」余話をー。

土の中から掘り出されたころの万治石です。
遠くからパンダくんが、心配そうに見ています。

「万治石さん、一人ぼっちじゃ寂しかろ」

IMG_6462.jpg
千葉県野田市今上・八幡神社

そこで、氏子さんたちは考えました。

「こんな石も出てきたから、両脇に置いてあげよう

IMG_6462 (2)

でもこの両脇の石、ただの石ではなかったのです。

よく見ると、石の表面になにやら文字が刻んであります。

ほら!

IMG_8997.jpg
27余×34×19㎝

もう少し見やすくしましょうか。

IMG_8997 (2)

斎藤氏、苦労して読みました。

   「奉納 二十□□」

なんと、これも力石だったのです。

ならばこちらもひょっとしてと、左側の石も見てみたら、

傷のような、へのへのもへじのような判読不能な切り付けがあった。

IMG_8991.jpg

斎藤氏が、
「もしかしたら、
境内にはまだまだ埋まっているかもしれませんね」と言ったら、

総代さん、
「もう、もう、そっとしておいて」と、笑いながら肩をすくめた。

そうよねえ。

私たちはよそから来て簡単に保存、保存と言うけれど、
やっぱりこれは無責任な押し付けでしかないものね。

だって保存する側にとっては、
経済的負担も大きいし、石よりほかに大事なことだってあるし。

この上、万治よりもっと古い石が出てきた日にゃあ、
これはもう、えらいこってす

というわけで、地下にあるかもしれない力石さんには、
あと二百年ぐらい眠っていただくことにしました。

IMG_6464.jpg

江戸川の土手下の小さな小さな八幡さま。

でもここには、どこにも負けない

豊かな歴史
あったかい人情が息づいておりました。


※写真・情報提供/斎藤氏


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新聞に載りました!

歴史を塗りかえた発見!
11 /19 2019
即位の礼に合わせてお披露目された「万治石」

新聞2社とネットニュース、
野田市の広報誌とタウン誌に掲載されました。

一挙、公開です!

朝日新聞です。
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朝日新聞・千葉首都圏版・令和元年10月23日朝刊。

日本全国どこでも注目度の低い力石が、
これほどまでに取り上げていただけたのは、

ひとえに、
八幡神社の氏子さんたちの熱意と努力のたまものです。

産経新聞です。
img20191117_18552660 (2)
産経新聞・千葉県版・令和元年10月23日朝刊。

記事はこんなふうに結んでいました。

<地域の人たちは「ふるさとの宝」としてよみがえった力石に
笑顔を見せていた>

でも「写真はモノクロだったなァ」とちょっぴり残念と思ったものの、
ネットニュースでも取り上げてくださった。

ここではきれいなカラー写真です。しかも当日、載せてくださった。



img20191117_18581512 (2)


使われなくなった力石は散逸を恐れて、
境内に埋めてしまったり、木の根元や地面に並べて置いたりします。

地面に置いた石は、長い年月の間に、
なぜか自ら地面にもぐってしまうんです。

ですから、この八幡神社の力石も土留めに転用したというより、
並べて置いたのが土にめり込んでいったとも考えられます。

タウン誌「月刊とも」へも載りました。

千葉県、埼玉県の11の市で配布。
今年で創刊41年という長い歴史を持つタウン誌です。

img20191117_19104231 (2)img20191117_19083627 (2)
「月刊とも」484号。令和元年11月1日発行。有限会社ふるさと工房。

そして地元野田市の広報誌です。

2年前、野田市民でもない私メがヤイノヤイノと騒ぎ立てたにも関わらず、
根気よく丁寧に対応してくださり、ついにお披露目へと導いてくださった。

その職員さんがいらっしゃるところです。

広報誌「のだ」です。

「野田・ふるさとめぐり」として紹介されていました。

img20191117_19015729 (2)img20191117_19035949 (2)

どの記事にも踊る言葉は、

「千葉県最古」
「全国で3番目に古い力石」


新聞には、
神主さんが力石になにやら振りかけている姿が写っています。

これは「切幣(きりぬさ)による清めの儀式。

「切幣」とは、五色の和紙、塩、麻の繊維などです。

「斎竹(いみだけ)」を巡らせた聖域で、
力石に新たな魂を吹き込んでいるのです。

みなさまへの提言です。

力石は文化財になろうとも、触ってこそ価値があるものです。

落ち込んだときやいじめにあったとき、
勉学やスポーツなどの勝負に挑むとき、
健康や家内安全、平穏を願うときなどに、

ぜひ、この石を撫でて活力をもらってください。

特にこの「万治石」は、
400年前の元気な若者たちの特別パワーを秘めていますから。

 
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浦安の舞、おごそかに

歴史を塗りかえた発見!
11 /16 2019
八幡さまの神前では準備も整い、いよいよ式典が始まります。

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斎藤氏と石田氏と私は最前列へ招じ入れられました。

「ひと言ずつご挨拶を…」とのことで、慌てました。
蚊の鳴くような声?で、保存してくださったことへの感謝を述べて、

ホッ!

本殿の中に150人ほどが人が着席。
入りきれない人々がカメラ片手に外から見守っています。

私たちが奉納したお酒がちょこんと見えました。
なんとなく嬉しさジワリ。

CIMG4938 (2)

神主さんの祝詞(のりと)奏上です。(この場面だけは撮影禁止です)

ここでなんと、私たち3人の名前が読み上げられたんですよ。
祝詞で名前を言われたのは結婚式以来です。

玉ぐしも奉納しました。

厳粛な気持ちになりました。

私の先祖は、祖父の代まで長く神主をやっていた家だったから、
やっぱり血が騒ぐんですね。

巫女さんの浦安の舞が始まりました。

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初々しいお嬢さんです。

CIMG4918 (2)

清らかな花びらがひらりひらりと舞っているようです。

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舞を見ているうちに、お正月、緋の袴をはいた幼い日と重なって…。
同級生たちから、「先生みたい」とからかわれたっけ。

あの袴は母の手作りだったと、成人してから知った。

静寂の中、鈴の音だけが響きます。

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   即位の日万治の石に陽のさして
              門出を祝う浦安の舞     雨宮清子


   万治より令和の今もここに在る
     力石(いし)よ永遠(とわ)なれ今上の里に    斎藤呆人



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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞