fc2ブログ

よいさよいさ

歴史を塗りかえた発見!
11 /13 2019
「この八幡神社の創建は寛文二年(1662)なんですよねぇ」

野田市の文化財保護審議会の委員で、
金石文の研究者・石田氏が、ふとつぶやいたこの言葉。

そういわれれば、万治石の刻字は1661年だから、
石が奉納されたとき、八幡さまはまだなかったはず。

確かにだ。

「変ですか?」と八幡さまのパンダくんとラッコさん。
CIMG4912 (2)
千葉県野田市今上・八幡神社

同じ今上にある稲荷神社は万治三年となっているから、
ここなら計算があう。

この稲荷社は田中吉右衛門なる人物の氏神だったそうですから、
ひょっとして、
八幡神社も最初はだれかの屋敷神だったかもしれません。

もう一つ考えられることは、
以前,境内社の一つだった「大杉神社」の存在です。

大杉神社の総本山は常陸内湾の茨城県稲敷市阿波にあって、
大きな杉の木が立っていたため、海上交通の目印になっていたとか。

古名「あんばさま・大杉大明神」

大杉神社のHPによると、創建は奈良時代。
あの万葉集ができたちょっとあとですから古いです。

こんな伝説があるそうです。

勝道上人という人が疫病に苦しむ人々の救済をこの大杉に祈願したら、
奈良の三輪明神が飛んできて大杉に宿り、たちまち病魔を退散させたー。

「飛び神明」というものですが、日本の神さまは元祖「すぐやる課」かも。

「ぼくは重くて飛べません」と万治石。
CIMG4905 (2)

大杉神社といえば、滋賀県彦根市にもあるそうで、
いつも渾身の取材をされている下記のブログに詳しく掲載されています。

茨城県の大杉神社と関わりがあるかはわかりませんが、
大変興味深い記事なので、ぜひお読みください。

「神秘と感動の絶景を探し歩いて」

江戸の中期、八代将軍吉宗の享保十二年(1727)三月、
この大杉大明神の神輿が「ハヤリ神」となって江戸へなだれ込み、
江戸庶民を熱狂させます。

   「安葉(あんば)大杉大明神 
    悪魔払ふてよいさ 世がよいさ よいさ、よいさ」

そう囃子ながら踊り狂う民衆を見て、幕府は弾圧に動きます。

大杉大明神の信仰圏は栃木、茨城、千葉の主に利根川流域で、
船運業に携わっていた人々が信仰していたそうですから、
今上に分祀されたことは当然と言えば当然ですよね。

今上の船頭さんたちの船の守り神・フナダマサマは、
もちろんこの「あんばさま」です。

ひょっとして最初に創建されたのはこの「あんばさま」か?

とも思いましたが、確証はない。

よいさよいさ。
400年もここにおったんだしな。これからもずっといてくれよ
CIMG4940.jpg

   「撫でられて力みなぎる万治石」   雨宮清子

枯れかかった頭であれこれ推測、邪推、奇想天外の空想に浸りつつ、
こんなことも考えました。

ひょっとして、あの「弁慶石」が鴨川の洪水で流されて、
京都三条に鎮座したみたいに、
万治石も江戸川の洪水と共にこの地にやってきたのかも。

そうと思えば、

また別のおとぎ話が生まれます。


※参考文献/野田市民俗調査書1「今上・山崎の民俗」
        野田市市史編さん委員会 平成7年
       /「民俗神道論」宮田登 春秋社 1996


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

「今上」ってどんなとこ?

歴史を塗りかえた発見!
11 /10 2019
「万治石」の式典に出かける直前、次々と大型台風が…。

千葉県は大変な被害と報じていたので、
これでは式典どころではないだろうなと思いつつ、お天気地図を見たら、
なんと「野田市」の上だけ雨雲がなかった。

千葉県と言えばすぐ思い浮かぶのは房総半島です。
でも、改めて地図を見ると、
野田市はそこからずっと遠い位置にありました。

一番上の白丸の中が野田市。江戸川と利根川にはさまれています。
江戸川の対岸は埼玉県、利根川の向こうは茨城県という立地です。

上部に利根川と江戸川が枝分かれした三角地帯があります。
ここが有名な関宿城があったところです。

今は博物館になっていました。地元の研究者・Iさんに連れて行っていただきました。
「オビシャ」「川の歴史」…。見ごたえ満載!

img20191109_18025751 (2)
「オビシャはつづくよ400年」よりお借りしました。

遠くへ行くという感覚でしたが、
静岡駅から柏駅経由でもよりの野田市駅まで、
乗車時間はなんと約2時間

信じられない近さです。

ここでは、「野田市民俗調査書」をお借りして、
野田市今上についてお話していきます。

「今上」(いまがみ)の旧村名は「今神」
古来には「馬神村」と称していたという伝承があるとか。

江戸川に面した今上は、
昔から河川の氾濫に悩まされてきたそうですが、
何度もの築堤や掘削、改修で今の姿になったとか。

近世にはその河川を最大限生かした船の河岸として活用。
「船頭のムラ」として隆盛を極めます。

周囲の村に比べて裕福で、食べ物なども贅沢だったようです。

これは今上河岸「桝田廻漕陸送店の支店」(三ッ堀)開業広告です。
img20191109_18084164 (3)
「今上・山崎の民俗」よりお借りしました。

河岸は上下に二つあった。

河岸問屋「桝田回漕店」には直属の高瀬船が約60艘あり、
住民たちの持ち船の
六斎船や高瀬船、蒸気船などが200艘ほど停泊していたという。

船荷は主に醤油葉タバコで、
昼夜かまわず今上河岸から東京を目指した。

東京まで早くて一日、普通は二日で着いたそうです。

江戸川→新川口→小松川→中川→荒川→小名木川→隅田川→
浜町→蛎殻町ときて、小網町で着岸。

もうね、ここにでてきた土地すべて、力持ちと力石の宝庫ですから、
今上の船乗りたちが影響を受けなかったはずはありません。

そういえば、
「神田川徳蔵物語」でご紹介した深川の力持ち・根本正平の父親は、
利根川の高瀬船の船頭でした。

左端が根本正平氏。その隣は「物流の父」といわれた平原直氏。
「深川力持睦会」の文化財指定に尽力した人です。

DSC_6183_20191109184954d3c.jpg
「深川力持睦会」のイベントで。撮影年不明。

ちなみに、平原氏ゆかりの流通経済大学の新校舎エントランスには、
立派な力石3個が飾られています。

力持ちの話になると興奮しておしゃべりが止まらなくなりますから、
この話はこのへんで。

次回は今上の八幡さまと「万治石」の謎に迫ります。


※参考文献・画像提供/図録「オビシャはつづくよ400年」
               千葉県立関宿博物館 2019
               /野田市民俗調査報告書1「今上・山崎の民俗」
                野田市史編さん委員会 平成7年
※画像提供/「平原直アルバム」流通経済大学所蔵 物流博物館保管


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

ヨ!

歴史を塗りかえた発見!
11 /07 2019
昨年1月12日、この日斎藤氏が八幡神社を訪れたら、
なんと「万治石」は、土中から掘り起こされていました。

これです。

3野田市
千葉県野田市今上・八幡神社。斎藤氏撮影

前年の暮れ、私は市の職員の方からこう言われていました。

「力石は氏子さんたちの所有物なので、
保存するかしないかは氏子さんたちが決めることなんです。
なので役所からあれこれ指図はできないのです」

言われてみればもっともなことです。

だから半ばあきらめていたのですが、
氏子さんたち、決断してくださったんですね。

感謝でいっぱいになりました。

初めて全容を現わした「万治石」は、
これまで公表されてきた寸法を20㎝も上回るかなりの大きさでした。

2野田市
62×43×28余㎝ 斎藤氏撮影

詳しくは下記のブログ記事をご覧ください。

「万治石に動きが…」

「こんな石っころになんで夢中になるのか」と笑われそうですが、
いえ、笑われてきましたが(笑)、

この石一つに400年も昔の若者たちの熱気がこもっている。
そう思ったら、
それだけで私はタイムマシーンで江戸時代の八幡神社へ戻り、
彼らと一緒にいるような気分になっちゃうんです。

困ったもんです。

下の写真は今年10月の「奉祝祭」の様子です。

本殿には紅白の幕が張られ、
神主さんと巫女さん、神社役員さんがテキパキと準備中。

CIMG4903.jpg

八幡神社は江戸川の土手下の、ほんとに小さな神社です。
それがこんな立派な式典を、しかもそれに私も呼んでくださった。

ブログでワーワー騒いでいただけの私なのに。

こちらは「斎竹(いみだけ)」をめぐらせた力石の設置場所です。

 ※「斎竹・忌竹」=神の降臨する清浄な場所であることを示すため、
            四方を囲むときの竹のこと。
            家を建てる時行う地鎮祭でも見ることができます。

立派な説明板も立ててありました。

CIMG4908.jpg

  
    四百年の眠りから覚めし万治石
             令和の御代に生きて輝く 
    雨宮清子

再び、昨年1月の神社に戻ります。

掘り起こされた万治石を見て、
斎藤氏、またまた新たな発見をいたします。

なんと、もう一つ文字が現れたのです。

赤丸の中に「ヨ」が見えます。

「ヨ」、つまり「余」のことです。このことから正確にはこうなります。

   「奉納力石五十六メ目

野田市5
斎藤氏撮影

これを担いだ若者は石工さんにこんなことを言ったはずです。

「オレが担いだのは五十六メ目より、もうちっと重てぇ石なんだぞ!」

210㎏「余」ですからね、誇らしかったことでしょう。

はいはい、八幡さまの若い衆、
400年後もしっかり確認しましたヨ!


<つづく>


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ


刻字の検証

歴史を塗りかえた発見!
11 /04 2019
野田市文化財課の職員さんから、
「万治四年が確認できた」との朗報が届いたのが2017年暮れのこと。

今までの苦労がようやく報われた斎藤氏、
翌2018年の正月早々から、再び八幡神社通いが始まりました。

斎藤氏の次なる課題は、左側の干支月日です。

「確認」され、それが千葉県最古の力石とわかっても、
これと保存とは別問題です。

保存にはお金もかかりますし、氏子さんたちの同意も大切ですし。

そんなわけで「万治石」はまだ土の中。

顔だけ出している「万治石」に、斎藤さん、
水をかけたり光を当てたりして判読を試みたそうです。

下の写真は、2年後の今年10月の「奉祝祭」で、
地域のみなさんにお披露目され祝福を受けている「万治石」です。

力石も「まさか、こんな日が来るとは」と驚いたことでしょう。

CIMG4898.jpg
千葉県野田市今上・八幡神社

    万治石のうれし涙か雨の降る    雨宮清子

さて、ここから次に問題とされた干支と月日を検証していきます。

まず、誤読されたときの刻字です。

          明治四年
   奉納力石五十六メ目
          辛未年五月日

これを斎藤氏はこのように読み解きました。

          万治四年
   奉納力石五十六メ目
          吉三月日

「この三月日を見て頭に浮かんだのは、
日本で2番目に古い久喜市「万治石」「九月日」でした。
またと読んだのは、これが吉の異体字だと思ったからです」と斎藤氏。

こちらは式典が始まる前のまだ誰もいない境内です。
鳥居の右端に「万治石」

その向こうに遊具のパンダとラッコが人待ち顔に並んでいます。

CIMG4894 (3)

2018年当時の様子を下記に書いていますので、お読みいただけたら幸いです。

「検証します」

私から少し解説いたします。

「辛未年 五月日」がなぜ間違いかというと、

最初これを解読した方は、「明治四年」と初動ミスをしてしまったため、
反射的に明治四年の干支「辛未」(かのとひつじ)と思い込んでしまった。

しかし、万治四年の干支は「辛丑」(かのとうし)なので、
明らかに間違いなんですね。

また「五月日」の解読にも疑問があります。
というのは、

万治という年号は「万治四年四月二十五日」をもって改元され、
それ以降は「寛文元年」になった。

だから通常は「万治四年五月」あり得ないのです。

下の写真は、雨の中を来てくださった人たちです。
時間を追うごとに境内は人でいっぱいに。

本殿の中では神官さんと巫女さんが奉斎の準備中。

新聞記者さんも取材にきてくれましたよ。

CIMG4906 (2)


この刻字の検証は次回へつづきます。

当日の式典の様子もお伝えしていきます。

すぐやる課

歴史を塗りかえた発見!
10 /29 2019
暮れも押し詰まった2017年12月28日、
私は思いがけない電話をいただいた。

なんと、野田市役所文化財課の職員の方からでした。

「八幡神社の力石、現地で万治と確認できました」

「本当ですか!」

嬉しさがドバッと脳天を突き抜けた。

なによりも、
県外の見ず知らずの人間からのメールなのに、
その主旨を理解して、しっかり受け止めてくださったこと、

そのうえ、わざわざ現地まで足を運んで見てきてくださったこと、
その行動力、温かさに驚くやら感動するやら。

下は、土中に埋まっていたころの「万治石」です。

右上に「万」という文字が見えます。
400年もの時を経ていますので、
石のデコボコか刻字なのかを判断するのは難しいのです。

拡大万治石

野田市職員の迅速な対応。
そのときの感激を翌2018年1月3日のブログに書きましたので、
お読みいただけたら幸いです。

「朗報です\(^o^)/」

このとき私の脳裏に浮かんだのは、
50年前、千葉県松戸市の市役所で始めた「すぐやる課」でした。

この「すぐやる課」の創設は、ドラッグストアチェーンの「マツモトキヨシ」創業者で、
当時、市長になったばかりの松本清氏だったとか。

さて、
私が力石の情報や問い合わせで一番お世話になっているのは、
各地の教育委員会・文化財課です。

どこの役所の方も親切で、市民便りで公開した力石のDVDをお送りくださったり、
「ぜひ来てください」と誘われたり。市長の秘書の方から、
「うちの力石もよろしく」とのメールや画像を送っていただいたことも。

こちらは今まで千葉県最古の力石保有とされてきた
愛宕神社力石群です。

CIMG4881 (5)
千葉県野田市野田

ただ残念なこともありました。

今年7月、近代資本主義の父といわれた
渋沢栄一資料」を丹念に調べていたとき、
「栄一翁が青年時代に担いだ力石」資料を長野県内の某市で見つけました。

すぐ現地の市役所に問い合わせたら、
担当職員は「その情報は初めて知った」と驚いていたが、
その後、なぜか厳しい条件を提示してきたため調査はとん挫

「まず当市で要求した項目を書いた書類を提出。
それを見て、現地調査の許可を与えるかどうかはこちらで決める。

許可されても勝手な調査は禁止。
調査には自分が同行し、決められた日時と場所の調査のみ許可。

「渋沢石」の存在をブログへ書くことも、渋沢関係者に知らせることも、
ブログ記事を博物館へ収蔵することも禁止する」

驚愕しました。「来るな」「手を引け」というのに等しい要求です。
10数年、各地の役所の方々にお世話になりましたが、こんなことは初めてです。

私自身が見つけた情報なのに、
なんで市の一職員がブログにまで干渉して禁止だなんていえるの? 

師匠の高島先生へも同じような要求があったとかで、
「何十年もやってきたけど、こんなうるさいことをいう行政は初めてだ」と。

市の職員とはいえ、役所内外では一目置かれた歴史学者さんのようで、
市のHPでは固有名詞で検索できるほどのスター的存在。

だからこそ、
同じ歴史をやる者なら調査とはどういうものかは熟知しているはずなのに、
この対応は、

不可解としかいいようがない。

そんなわけで「渋沢石」は、
みなさまに資料発見のお知らせはできたものの、
現地調査ができず、ちゅうぶらりんの状態に。

今まで力石の報告が一つもなかった市で、その第一号となったのが、
今度の一万円札の顔になる人の力石というとびきりの発見だったのに。
 
むしろ市の誇りになるはずという考えは、私の思い上がりでしょうか。

力石調査は営利目的でも功名心からでもありません。
記録として残したい、
みなさんに知っていただきたい、その一念なんですが…。
 
  ※渋沢がこの村で若者たちと力石で競ったことは資料から事実ですが、
    現在残されている石がその力石かは未調査のため不明。

耳障りな話はこれくらいにして…。

下の写真は、
今まで千葉県最古の力石だった愛宕神社の「宝暦石」です。
宝暦六年(1756)とあります。

「万治石」発見で、千葉県最古から14番目の古い力石になりましたが、
ここに刻まれた「飯田氏」は野田の醤油の元祖。

この飯田氏が甲斐の武田氏と越後の上杉氏が信濃(長野県)で戦った
「川中島の合戦」(1553~)に、たまり醤油を届けたという伝承がありますから、
無銘の力石の中には万治より古い石があるかもしれません。

CIMG4883 (2)

発見から8年目にしてようやく第三者の認知を得た「万治石」

この朗報はすぐ斎藤氏へ伝えました。

この日斎藤氏は、
「うれしくて一人で祝杯をあげて、したたかに酔った」そうです。

それから2年たった今年10月、
ついに斎藤氏と地元の方々の努力が実りました。

下の写真は、
「万治石保存奉祝祭」の式典が無事終了したあと、
これに関わった人たちの「万治石」の前での記念撮影です。

雨が降ってもみんなの心は青空。

地元の石造物研究者のI氏、斎藤氏、
保存にご尽力くださった自治会長で神社総代のS氏と。
今上
千葉県野田市今上・八幡神社 

野田市役所の職員さんは、あらゆる方面に根回しをしてくださり、
ご自分は一度も姿を見せることなく、着実に保存への橋渡しをしてくださった。

「貴重な情報をいただき感謝しています」

そう言った職員さんのあの日の声は、今もしっかり耳に残っています。


<つづく>

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞