豊かさをありがとう
金沢紀行
玄関を入ると目の前の壁に、ご一家の写真が飾られている。
いずれも正装して写真館で撮ったものだ。
最初は友人夫妻と3人のお子さんの写真。
壁の写真はそこからスタートして、次の写真にはそれぞれのお嫁さんが加わり、
さらにお孫さんが増えていき…。
そのどの写真にも、家族の要(かなめ)に友人がいた。
間もなく沖縄で挙式するという三男さん。
そのお嫁さんもすぐに新しい家族としてこの壁を飾ることでしょう。
結婚に失敗した私には、望んでも果たせない世界だ。
羨望と称賛とほんの少しの反省のあと、私はきっぱりと「我が道」へ戻った。
金沢を去る朝、友人が篠笛を吹いてくれた。

曲は「笛吹童子」と「山さくらの唄」
10年前、友人は私立高校からの要請を受けて学習塾をたたみ教師となった。
同時に海外トレッキングの軸足をエベレスト街道からヨーロッパへ移した。
そしてこの20日後には、南米ペルーに旅立つことになっていた。
山歩きにはこの篠笛を必ずザックに入れていくのだという。
笛の音色はどこでも歓迎され、ことに山岳民族には共感され喜ばれるとのこと。
今ごろペルーの山々に篠笛がこだましているに違いない。
正味1日半という金沢滞在だったのに、ものすごい濃密な時間を過ごせた。
私は来た時と同じように着ぶくれて、お世話になった友人宅をあとにした。
このむさくるしい髪は帰宅後バッサリ切って、元の短髪に戻しました。

なぜ、金沢の食べ物はおいしいのか。
なぜ、金沢の文化は厚く、庶民にまで行きわたっているのか。
人口70万人の政令都市・静岡市が、
人口46万人の金沢市に遅れをとっているのはなぜなのか。
結論めいたことを言えば、
それは江戸時代の藩の在り方にあるのではないか、と。
江戸初期、徳川家康が駿府城にいたころの静岡市は、
人口15万人ともいわれた東海一の大都市で、
スペイン、オランダ、イギリスなどの使節が訪れた国際都市でもあった。
駿府城・巽櫓と東御門。左端のビルは静岡県庁。

現在発掘調査が行われている駿府城跡からは
江戸城よりもはるかに大きい日本一巨大な天守台が見つかり、
かつてここは日本の政治経済の中心地で、大都市であったことを裏付けた。
日本最初の全国通貨「慶長小判」を作った金座も、
日本初の活字印刷、初の西洋式帆船の建造もすべてこの駿府が発祥。
しかし家康没後、孫の忠長が城主になったものの自刃。
以後、城主を置くことはなく、
サラリーマン武士が交代で城代になるという不完全な状態が幕末まで続いた。
家康が没して以後、政治や経済はことごとく江戸へ移り、
金座も銭座も遊郭も武士たちもすべて江戸へ引き揚げてしまい、
たちまち人口はかつての10分の1にまで激減した。
東御門

今川氏時代に根付いた京文化も風前のともしびとなり、
駿府96ヵ町は田舎町に転落、ただの東西交通の通過点に成り下がった。
それに比べて金沢は、前田家支配のもと、加賀百万石の栄華を極めた。
結果、江戸時代の260年もの歳月の中で金沢は着実に文化を蓄積し、
城主がいないままの静岡は、衰退の一途をたどった。
転勤族の城代が支配者では、郷土への愛情も誇りも熱意も違ってくる。
その違いが味にも文化にも出ているのではないか。
ここはもう、「金沢のみなさん、参りました」と白旗をあげるしかない。
今、静岡市では「夢よもう一度」とばかりに、
大御所・家康さまにお出ましいただき、観光の目玉に据えている。
家康さまもおちおち安眠してはいられませんね。
篠笛の余韻を楽しみつつ、バスに乗った私。
金沢駅で買った笹寿司をリュックに入れて、無事、車中の人に。
次の停車駅の富山駅を出るころ、左手に日本海が見えた。
最初は大きな川だなあなどと思っていたら白波が立っていて、
「あ、日本海なんだ」と。
そのころから急に睡魔に襲われた。
その心地よい眠りの中に、夕べ見た兼六園のライトアップが現れた。

美しい光景だった。
<おわり>
※ブログには金沢の友人が撮影した写真をたくさん使わせていただきました。
いずれも正装して写真館で撮ったものだ。
最初は友人夫妻と3人のお子さんの写真。
壁の写真はそこからスタートして、次の写真にはそれぞれのお嫁さんが加わり、
さらにお孫さんが増えていき…。
そのどの写真にも、家族の要(かなめ)に友人がいた。
間もなく沖縄で挙式するという三男さん。
そのお嫁さんもすぐに新しい家族としてこの壁を飾ることでしょう。
結婚に失敗した私には、望んでも果たせない世界だ。
羨望と称賛とほんの少しの反省のあと、私はきっぱりと「我が道」へ戻った。
金沢を去る朝、友人が篠笛を吹いてくれた。

曲は「笛吹童子」と「山さくらの唄」
10年前、友人は私立高校からの要請を受けて学習塾をたたみ教師となった。
同時に海外トレッキングの軸足をエベレスト街道からヨーロッパへ移した。
そしてこの20日後には、南米ペルーに旅立つことになっていた。
山歩きにはこの篠笛を必ずザックに入れていくのだという。
笛の音色はどこでも歓迎され、ことに山岳民族には共感され喜ばれるとのこと。
今ごろペルーの山々に篠笛がこだましているに違いない。
正味1日半という金沢滞在だったのに、ものすごい濃密な時間を過ごせた。
私は来た時と同じように着ぶくれて、お世話になった友人宅をあとにした。
このむさくるしい髪は帰宅後バッサリ切って、元の短髪に戻しました。

なぜ、金沢の食べ物はおいしいのか。
なぜ、金沢の文化は厚く、庶民にまで行きわたっているのか。
人口70万人の政令都市・静岡市が、
人口46万人の金沢市に遅れをとっているのはなぜなのか。
結論めいたことを言えば、
それは江戸時代の藩の在り方にあるのではないか、と。
江戸初期、徳川家康が駿府城にいたころの静岡市は、
人口15万人ともいわれた東海一の大都市で、
スペイン、オランダ、イギリスなどの使節が訪れた国際都市でもあった。
駿府城・巽櫓と東御門。左端のビルは静岡県庁。

現在発掘調査が行われている駿府城跡からは
江戸城よりもはるかに大きい日本一巨大な天守台が見つかり、
かつてここは日本の政治経済の中心地で、大都市であったことを裏付けた。
日本最初の全国通貨「慶長小判」を作った金座も、
日本初の活字印刷、初の西洋式帆船の建造もすべてこの駿府が発祥。
しかし家康没後、孫の忠長が城主になったものの自刃。
以後、城主を置くことはなく、
サラリーマン武士が交代で城代になるという不完全な状態が幕末まで続いた。
家康が没して以後、政治や経済はことごとく江戸へ移り、
金座も銭座も遊郭も武士たちもすべて江戸へ引き揚げてしまい、
たちまち人口はかつての10分の1にまで激減した。
東御門

今川氏時代に根付いた京文化も風前のともしびとなり、
駿府96ヵ町は田舎町に転落、ただの東西交通の通過点に成り下がった。
それに比べて金沢は、前田家支配のもと、加賀百万石の栄華を極めた。
結果、江戸時代の260年もの歳月の中で金沢は着実に文化を蓄積し、
城主がいないままの静岡は、衰退の一途をたどった。
転勤族の城代が支配者では、郷土への愛情も誇りも熱意も違ってくる。
その違いが味にも文化にも出ているのではないか。
ここはもう、「金沢のみなさん、参りました」と白旗をあげるしかない。
今、静岡市では「夢よもう一度」とばかりに、
大御所・家康さまにお出ましいただき、観光の目玉に据えている。
家康さまもおちおち安眠してはいられませんね。
篠笛の余韻を楽しみつつ、バスに乗った私。
金沢駅で買った笹寿司をリュックに入れて、無事、車中の人に。
次の停車駅の富山駅を出るころ、左手に日本海が見えた。
最初は大きな川だなあなどと思っていたら白波が立っていて、
「あ、日本海なんだ」と。
そのころから急に睡魔に襲われた。
その心地よい眠りの中に、夕べ見た兼六園のライトアップが現れた。

美しい光景だった。
<おわり>
※ブログには金沢の友人が撮影した写真をたくさん使わせていただきました。
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