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豊かさをありがとう

金沢紀行
03 /27 2018
玄関を入ると目の前の壁に、ご一家の写真が飾られている。
いずれも正装して写真館で撮ったものだ。

最初は友人夫妻と3人のお子さんの写真。
壁の写真はそこからスタートして、次の写真にはそれぞれのお嫁さんが加わり、
さらにお孫さんが増えていき…。

そのどの写真にも、家族の要(かなめ)に友人がいた。

間もなく沖縄で挙式するという三男さん。
そのお嫁さんもすぐに新しい家族としてこの壁を飾ることでしょう。

結婚に失敗した私には、望んでも果たせない世界だ。
羨望と称賛とほんの少しの反省のあと、私はきっぱりと「我が道」へ戻った。

金沢を去る朝、友人が篠笛を吹いてくれた。

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曲は「笛吹童子」と「山さくらの唄」

10年前、友人は私立高校からの要請を受けて学習塾をたたみ教師となった。
同時に海外トレッキングの軸足をエベレスト街道からヨーロッパへ移した。
そしてこの20日後には、南米ペルーに旅立つことになっていた。

山歩きにはこの篠笛を必ずザックに入れていくのだという。
笛の音色はどこでも歓迎され、ことに山岳民族には共感され喜ばれるとのこと。
今ごろペルーの山々に篠笛がこだましているに違いない。

正味1日半という金沢滞在だったのに、ものすごい濃密な時間を過ごせた。

私は来た時と同じように着ぶくれて、お世話になった友人宅をあとにした。
このむさくるしい髪は帰宅後バッサリ切って、元の短髪に戻しました。

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なぜ、金沢の食べ物はおいしいのか。
なぜ、金沢の文化は厚く、庶民にまで行きわたっているのか。
人口70万人の政令都市・静岡市が、
人口46万人の金沢市に遅れをとっているのはなぜなのか。

結論めいたことを言えば、
それは江戸時代の藩の在り方にあるのではないか、と。

江戸初期、徳川家康が駿府城にいたころの静岡市は、
人口15万人ともいわれた東海一の大都市で、
スペイン、オランダ、イギリスなどの使節が訪れた国際都市でもあった。

駿府城・巽櫓と東御門。左端のビルは静岡県庁。
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現在発掘調査が行われている駿府城跡からは
江戸城よりもはるかに大きい日本一巨大な天守台が見つかり、
かつてここは日本の政治経済の中心地で、大都市であったことを裏付けた。

日本最初の全国通貨「慶長小判」を作った金座も、
日本初の活字印刷、初の西洋式帆船の建造もすべてこの駿府が発祥。

しかし家康没後、孫の忠長が城主になったものの自刃。
以後、城主を置くことはなく、
サラリーマン武士が交代で城代になるという不完全な状態が幕末まで続いた。

家康が没して以後、政治や経済はことごとく江戸へ移り、
金座も銭座も遊郭も武士たちもすべて江戸へ引き揚げてしまい、
たちまち人口はかつての10分の1にまで激減した。

東御門
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今川氏時代に根付いた京文化も風前のともしびとなり、
駿府96ヵ町は田舎町に転落、ただの東西交通の通過点に成り下がった。

それに比べて金沢は、前田家支配のもと、加賀百万石の栄華を極めた。
結果、江戸時代の260年もの歳月の中で金沢は着実に文化を蓄積し、
城主がいないままの静岡は、衰退の一途をたどった。

転勤族の城代が支配者では、郷土への愛情も誇りも熱意も違ってくる。
その違いが味にも文化にも出ているのではないか。

ここはもう、「金沢のみなさん、参りました」と白旗をあげるしかない。

今、静岡市では「夢よもう一度」とばかりに、
大御所・家康さまにお出ましいただき、観光の目玉に据えている。
家康さまもおちおち安眠してはいられませんね。

篠笛の余韻を楽しみつつ、バスに乗った私。
金沢駅で買った笹寿司をリュックに入れて、無事、車中の人に。

次の停車駅の富山駅を出るころ、左手に日本海が見えた。
最初は大きな川だなあなどと思っていたら白波が立っていて、
「あ、日本海なんだ」と。

そのころから急に睡魔に襲われた。
その心地よい眠りの中に、夕べ見た兼六園のライトアップが現れた。

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美しい光景だった。


<おわり>

※ブログには金沢の友人が撮影した写真をたくさん使わせていただきました。

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夢は実現させるもの

金沢紀行
03 /25 2018
「私の山歩きの原点は父」と友人は言った
その父が始めたファミリー登山で鍛えられたという。

「当時、周囲は青年、壮年の男性ばかり。女性も子供も珍しく、
幼い弟は褒められては歩き、母の胸に手を出してはまた歩き…。
槍ヶ岳は私が小6、弟が小2で立っています」

その槍ヶ岳(後方のとんがった山)と北穂高岳です。
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ついでながら、私の初めての雪山山行・奥穂高をお見せします。
 (上の写真もこのときのもの)
前から2番目が私。山を始めたのが30代半ばという遅咲き。
このとき40歳でした。エヘヘ。

ザイテングラードをうんとこしょ。後方に涸沢テント村が見えます。
 (左上・黒っぽく見える四角形)
 
♪ 滝谷さらば また来る日まで  北穂につづく雪の道
  かえりみすれば遠ざかる  まぶたに残る槍ヶ岳

思い出しますねえ。「穂高よさらば」
 ※ダークダックスや芹洋子さんも歌っています。
   ユーチューブでお聞きくださいね。

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さて、友人です。
「四年制大学へ行けば縁遠くなると言われた時代、その四年制大学へ進み、
ワンゲル部に入るもいつの間にか女子部員は自分一人」

「私を山好きにした父親でさえ、ステップアップを試みるたびに反対する。
なんでこれほどまで妨害されなければならないのかと思いつつ、
それでも雪山や長期テント山行と活動を広げていった」

その後、結婚、出産で登山は中断。
同時にフランチャイズ学習塾を始め、お義母さんとも同居。

「しかしこのままでは体力が落ちると思い、
2番目の息子が小学生になったとき、一大決心して社会人山岳会へ入会。
未婚女性に限るという会則があったが、雪山経験者ということで許された」

私が友人から、「おかあさんになっても山へ行ってもいいですよね」
の手紙を受け取ったのはこのころのようだ。

そして友人は、昔、父から学んだように息子さんたちを連れて山へ。
のちにご主人も引っ張り出しての家族登山になったという。

2007年、友人は一冊の本を出版した。
これです。

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本の帯にこうあります。
「夢は見るものではなく、実現させるものである」

その夢、「海外トレッキング」は2000年に叶い、
2005年にはこの1年間で3回もエベレスト街道を歩きに歩いた。

その留守中の学習塾を助けてくれたのが、大学生になった三男さんだった。

ただやみくもに突っ走ったわけではない。
義母との同居22年、30年近い学習塾の経営。
その中での登山です。

若いころから、日舞、お茶、お花を身につけ、
正月のおせち料理はすべて手作り、会合はいつも和服で出席という
まさに金沢の伝統を体現されている女性です。

下の写真は、ご自分の結婚の時の結納品で作った羽子板です。
「きれいだったので、職人さんに羽子板に作り直してもらったの」とのこと。

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子育て、介護、家事、仕事、習い事、そして山歩きと、
そのすべてに全力を傾けて人生を歩いてこられたのです。

今回、私はこの金沢で、夢のような時間を過ごさせていただきました。
なぜここまで完璧にできたのか。

それは、
「何事にも手を抜かない」「きちっとやる」「楽しんでやる」
そして何より、「夢は実現させるもの」という現実重視。

その真髄、生きざまを私はまざまざと思い知らされました。


<つづく>

主婦が山へ行くということ

金沢紀行
03 /23 2018
そもそも友人とはどこで知り合ったのか、みなさん気になる所だと思います。

思い返せば今から33年前。
私が本を出したことに始まります。こんな本でした。

主婦もどんどん外へ出て、好きなことをやりなさいという、
「不良のすすめ」「そそのかし」の指南書です。

ちなみにお世話になった発行元の山と渓谷社の担当者さんは、
定年後伊豆へ移住。今も賀状で近況を伝えてくださっています。

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この本の私は「昔の名前」で出ております。
「表紙のモデルはあなたでしょ」とよく言われましたが、残念、違います。

で、この本、いろんなところで反響を呼びました。
NHK全国放送では30分番組に出演。それをきっかけに北海道まで講演。
生まれて初めてのこの講演、もう下手で下手で。
思い出すと、今でも冷や汗が出ます。

新聞各社や団体、NHKほか雑誌への掲載や講演依頼などもあって、
この予期せぬ反響に、私はもうオタオタ。

全国からお手紙もたくさんいただきました。
で、その中に、金沢の友人からの手紙があったのです。

北海道講演のおり、連れて行っていただいた屈斜路湖にて。
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金沢の友人からの手紙にはこうありました。

「この本で勇気づけられました。
おかあさんになっても山へ行ってもいいんですよね」

この言葉は友人だけが胸に秘めていた悩みではありませんでした。
当時、私は近所の主婦やその夫たちから面と向かってなじられていました。

「主婦のくせに登山だなんてみっともない。あれは若者がやるものでしょ?」
「遭難したらどんだけ人に迷惑かけるか無責任じゃないのか」
「アンタ、この辺じゃあ有名人だってね。○○の変人ってみんな嗤ってるよ」
  ※ちなみに、○○は居住区の地名です。

でもそういういじめやいやがらせや悪口は、
本の発行と新聞掲載、テレビ出演でピタッと止んだ。つまり、
「出る杭は打たれる」けれど「出過ぎた杭は打たれない」状態になったのです。

それどころか、そういう人たちが「私も山へ連れてって」と言い始めた。
「変人が便利な人」に昇格です。身勝手なもんですね。

思い返せば、長い間のそうした周囲の偏見に耐えられたのは、
己の信念と自負、仕事への情熱だったと思います。

取材中の私。
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東京の画廊で評論家の俵萌子さんと。
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当時の山仲間の女性たちは、みんなそんな目に遭っていました。
周りを刺激しないよう、みなさん、家を出るときは普通の服で出て、
駅のトイレで登山靴や登山用の服に着替えていたのです。

だから私よりずっと若い金沢の友人の、
「おかあさんになっても山へ行ってもいいんですよね」に、
私は「あ、ここにもいたのか」と、胸をえぐられる思いがしたのです。

それから数年後、その友人が来静。
確か、ご主人の学会への同行だったと思いますが、
到着したばかりの静岡駅で慌ただしくお会いしました。

そのときの写真です。
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このときの坊やは三男さん。
上二人の息子さんのあと、9年目に授かったお子さんとか。

この三男さん、のちにおかあさんの海外への挑戦に、
大きな役目を果たすことになります。


<つづく>

ごちそう攻め

金沢紀行
03 /21 2018
白山市から再び金沢市へ。

駅で地元のTさんと別れ、しばし土産物の物色です。
友人は観光客用ではなく、地元の老舗が並ぶ一画に案内してくださった。
でも迷いましたねぇ。

日もとっぷり暮れたころ友人は、とある料理屋さんの前で、
「ここここ。さ、入って」と戸を開けた。
「えっ?」と戸惑う私に、「予約してあるのよ」

もうサプライズの連続です。

案内されたのは蓮根(れんこん)料理の「はす家」さん。
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金沢のうまいもんといえば日本海の魚とばかり思っていた私、
蓮根もか!と、もうびっくり。

この日の特別メニューです。

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もうね、次から次へとご馳走が運ばれてきて、
それがまたおいしいのなんの。

いつもならさっそくお料理の写真を撮るのに、
この日はそんなことは吹っ飛んじゃって、ひたすら舌鼓です。

繊細な味、美しい盛り付け、隙のない組み合わせ。
夢のようなひとときです。

代わりに友人が「証拠写真」を撮ってくれました。

手前の椀が「治部煮」、その向こうに見えるのが「のど黒塩焼き」です。
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「治部煮」には鴨肉、生麩が入っていてトロッとした口当たり。
「のど黒塩焼き」は、脂ののりが上品でクセがなく、刺身とはまた違う風味。
これをレモンと大根おろしでいただきました。

加賀・小坂れんこんの「はす蒸し」、ふわっふわで微妙に魚の味がします。
これも初めて食しました。なにもかも初めて。
自分の食生活がいかに貧しかったか思い知らされました。

こちらは、
金沢出身のヨリックさんが送ってくれた治部煮と甘えびの写真です。

治部煮 甘エビ

金沢へ出発前、逆流性食道炎で胃カメラを飲んだことなどコロッと忘れて
ひたすら食べまくりましたが、
天ぷらが出てくる頃には、さすがにもう入らない。

友人から「しらこの天ぷらは絶品よ」と言われて、
「では一つだけ」と口に入れたら、これがまたおいしいのなんの。
クリーミーで、とろ~っ。
で、欲がでてもう一つ、頬張りました。

あとに控えているのが「カニ雑炊」と「五郎島金時いもプリン」です。
これも食べなきゃ、〆になりません。
とうとう「しらこの天ぷら」の残り一つは、断念してしまいました。

金沢へは、お料理を食べにくるだけでも価値があります。
もうね、本当においしい。

こちらはヨリックさんが送ってくださった「かぶら寿司」の写真です。

かぶらずし

静岡へ帰ってから、あの天ぷらが忘れられず魚屋で「しらこ」を購入。
天ぷらにしたいのはやまやまだったけど、友人から、
「油がはねて大変よ」と言われていたので、煮つけでいただきました。

これはこれでおいしかったけれど、残してきた「しらこの天ぷら」のあの一つ、
なぜ無理してでも食べなかったのかと、
未練がましくも、深く後悔したのでありました。


<つづく>

文弥まつり・でくの舞③

金沢紀行
03 /19 2018
白山市東二口(ひがしふたくち)の人形、裸にするとこんなふうになっています。
十字に結んだ心串に首(かしら)を差し込んであるだけで、
手も足もありません。

33 人形の説明 (2)

これに衣装を着せて人形遣いが一人で動かします。
これを一人遣いといいます。

ここから発展したのが文楽で、こちらは3人で動かしますから三人遣い。
語りは延宝・元禄のころ一世を風靡した「義太夫節」。
東二口の浄瑠璃(でくまわし・でこまわし)は「文弥節」です。

この違いが新旧の分かれ道で、
それゆえ、東二口の浄瑠璃は「古浄瑠璃」と呼ばれています。

現在、この古浄瑠璃が残されているのは全国で5か所。
●白山市の2ヵ所(東二口・深瀬新町)=加賀文弥
●鹿児島県=薩摩文弥
●宮崎県=日向文弥
●新潟県=佐渡文弥

こちらは終演後に出てきた「野呂間(のろま)人形」です。たぶん…。
間違っていたらごめんなさい。

40

「のろま」は江戸のころ、野呂松という人形遣いが操った道化人形です。
アドリブで会場をわかし、ちょっとエロチックなことも言って、
最後にすっぽんぽんになったりしたそうです。

東二口にはこの「のろま人形」が三体残されているようですが、
「頭平めにして青黒き顔色の賤気なる人形」(声曲類纂)とありますから、
その一体がこれではないかと。

で、このときばかりは「おひねり(投げ銭)受け付けます」というので、
会場から次々と投げられました。
私もティッシュにお金を包み、ギュイとひねって投げ込みました。

「賤気なる」ー。確かに。いやしい目つきのオッサンです。
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この日の上演は「五段」をはしょって1時間半。これでも結構長い。
昔の人はこれを一晩中見ていたんですね。
神楽でも田遊びでも夜が明けるまで演じたのはなぜかって思うんです。

で、民俗調査書には、ただ「娯楽のない山村だったから」とか
「博打ばかりやっているからその矯正のため」なんて説明していますが、
私はそれはちょっと違うように思っています。

村にはもともと、それらを受け入れる素地があった。
初めは宗教的、呪術的に受け入れ、それが娯楽へと転化していった。
そして一番肝心なことは、これが「ライブ」であったこと。

つまり演者と観る側が一体となって、その場を楽しめた。
この「楽しめた」というワクワク感が一番大事ではないか、と。

この日は終演後、楽屋へ招き入れてくださった。
人形も自由に触らせていただきました。

楽屋

子供のころ見た「大衆演劇(ドサまわり)」の芝居では、客席から、
「おーい、うしろに刀もった奴がいるぞ! 気をつけろー!」と声がかかる。
すると役者は二ヤリとして「おお、ありがとよ」と。

次の場面になると今度は役者のほうから、
「うしろに怪しい奴はいないかい」と客席に尋ねる。
芝居小屋の客は大爆笑。

泥臭いけど、まさにライブ。

その大衆演劇の役者さんたちと小沢昭一氏。
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「季刊・藝能東西・野分雲号」新しい芸能研究室 1976より

「ライブ」ついでに、余談です。

こんなことがありました。
あるママさんコーラスの発表会で指揮者が突然、演奏を中断して
「そこの人たち、うるさい! 今すぐ出ていきなさい」と怒鳴った。

で、毎回、義理でチケット買わされていた私、密かにうそぶきました。
「客を怒鳴る前に、実力のなさを恥じろ」って。

かたや某有名テノール歌手のコンサートでは、
歌い終わったと勘違いした客がいっせいに拍手したら、
その歌手はにっこり笑って、
「みなさん、ちょっとお待ちください。まだ続きがあるのです」と。

で、そのとき私、思ったんです。
「なぁんだ。みなさん、通のような顔していたのに、
実は何にも知らないんじゃないの」って。

ママさんコーラスの客は一気にしらけ、テノール歌手の会場は
一気に盛り上がったことは言うまでもありません。

「ライブ」とは生(なま)を味わうこと。生を味わうということは、
楽しさを「強制」することではなく「共有」することだと思うのです。

私も「おのの姫」を持たせていただきました。
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佐渡の「のろま人形」はすっぽんぽんになったあと、舞台で放尿までした。
この「のろま人形」だけは、ちゃんとそれがついていたそうです。

で、そのおしっこ(水)をかけてもらうと子供が授かるというので、
子のない女性は喜んで浴びたと伝えられています。

現代人には奇異に映るかもしれませんが、こうした人形芝居一つでも、
まさに暮らしや人生と密接につながっていた証しではないでしょうか。

紀元前のエジプトでは巫女は呪術に神の形代(かたしろ)として、
糸に吊るした男根像を、また日本でも平安時代には
傀儡(くぐつ)女の百太夫が同じことをして歩いたそうです。

糸あやつり人形の起源はここからとも言われています。

男性のみなさん、自信持ってね(^-^)/ 神さまなんですから。
ただし、糸で吊るされた…。

世界の主流はこの「糸あやつり」だそうですが、
でも、東二口の人形たちの動きは、なんだか昔、NHKで見た
「ひょっこりひょうたん島」の糸人形たちと重なりました。

歴史民俗資料館の外では、
「でくの舞」に出演・協力した金沢工業大学の学生さんたちが、
一列に並んで見送ってくれました。

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ありがとう、みなさん!

生きた歴史、永久(とわ)に!


<つづく>

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞