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これでおしまい

「角田桜岳日記」の中で河津祐邦が言った
「曽我社には細川、雨宮という二人の神主がいた」というくだりを読んだとき、
真っ先に浮かんだのは、伯母の一人から聞いた話だった。

この伯母は兄や姉たちにではなく、なぜか、
「何を考えているかわからない気味の悪い子」と疎んじられていた私に、
「清子さん、よく覚えておくのですよ」と懸命に話しかけた。

こんな話だった。

「祖先はもとは細川といい、京都で戦乱が起きた時、都落ちしてきた」
「のちに信濃の雨宮(あめのみや)というところから養子を迎えたため、
そのときから名前が変わった」

それから数十年後、歴史に興味が出てきたとき、
伯母が言っていた京都の戦乱は「応仁の乱」で、
信濃の雨宮(あめのみや)は、長野県埴科郡にあって、
川中島の合戦に出てくる「雨宮の渡し」の地だと気が付いた。

ここには土豪・雨宮氏が築いた雨宮城という山城があったという。
城主といってもたくさんいた土豪の中の超マイナーな一人に過ぎない。
が、とにかくそこから養子としてはるばる駿河(静岡)へやってきた人がいた。

雨宮城登山口
城雨宮
千曲市雨宮。「城と古戦場・戦国大名の軌跡を追う」からお借りしました。

私の実家に刀と槍が残されている。
母が嫁いだとき、父の生家の長押には槍がたくさん架けられていたそうだから、
その一部だったのだろう。

刀は室町期の作で、これ以上研ぐことができないほどすり減っていて、
何度も実戦に使われた、つまりたくさん人を斬った刀だと研ぎ師は言った。

民俗学の大家・柳田国男は、
父の先祖の神社は、「歩き巫女が定着した小祠」と書いていたが、
この刀の存在といい槍といい、そこにあるのは、
戦国乱世を駆け抜けてきた武士の姿で、春をひさぐ巫女の影などない。

で、「細川と雨宮の二人の神主」の記述を見た瞬間、
子供の私に真剣な表情で語った伯母の顔がドーンと甦ってきた。
あれは作り話ではなかったんだ。そう思ったら、
それを数百年も伝えてきた「家」という存在に感慨すら覚えた。

「双禽八陵鏡」
img346.jpg
八幡宮蔵。子供のころ、ままごとの道具に使ってしまった神鏡。

そして、歴史学の史料偏重ともいうべき在り方に疑問が湧いてきた。

文字として書かれた記録だけが歴史ではない、
伝説や伝承の中にも歴史はちゃんと生きているんだ、と。

人類学者の山口昌男は、
「官のアカデミー」だけを尊重する風潮を戒め、
官のアカデミーを縦軸に、「野のアカデミー」を横軸にしたクロスを提唱した。

この言葉をお借りしていえば、私が学芸員さんたちから
「あんなマイナーなもの」と言われた力石に夢中になったのも、
「野」から見えてくるものを大切にしたい、そういう思いがあったからだ。

先祖たちの存在は、大きな歴史の中では無価値なチリの一片でしかない。
けれどそこから見えてくるものが確かにある。

世の中の流れが、応仁の乱から戦国時代へと向かった時、
都落ちした祖先が居を構えたその場所は、
信濃を制圧し、今度は矛先を海のある駿河に転じた甲斐の武田信玄が、
駿河侵攻に大軍を率いて押し寄せた往還のかたわらにあった。

そして、
敵・今川氏の強力な武将で、富士山本宮浅間神社の宮司でもあった富士氏は、
その街道の入り口に居城・大宮城を構えていた。
そしてなぜか、曽我社に隣接して甲斐出身の武士、植松氏が住まっていた。

移築された植松家の長屋門です。水路開削の技術者だった植松氏は、
水を引く樋(とい)を掛けたため、樋(とよ)代官と呼ばれていた。

長屋門植松家 (2)
富士市立博物館内・広見公園。博物館HPよりお借りしました。

この植松氏は、大正時代になっても、
困窮した父の家への金銭的援助を惜しまなかったそうで、
古くから父の家とは特別なつながりがあるように見えたと、母が言っていた。

なぜ植松氏がそこまでしてくれたのかはわからない。
京都~信濃~甲斐~駿河と流れてきた先祖の、
その足跡のどこかに接点があったはずだが、
それは遠い先祖だけが知っていたことで、子孫には伝わらなかった。

さて、明治の新時代が始まる11年前の弘化四年(1847)の秋、
河津祐邦は、佐野与市(角田桜岳)の案内で、
遠路はるばる、江戸から厚原の曽我八幡宮へやってきた。
このときの曽我社の神主は、22歳の雨宮富太郎(邦孝)だった。

16歳で父を亡くした富太郎は、この家の当主になったものの、
暮らし向きはたちまち傾き、
河津氏を迎える一年前には、借財のため本宅を売り払うほどになっていた。
そのため、河津氏を隠居所でお迎えするしかなかったという。

桜岳は、雨宮家のそんな事情を河津氏に、
「道々、なにくれとなく話した」と日記に記している。
河津氏はそんな曽我社に、当地に滞在中何度も足を運び、
若い富太郎と物語などして過ごしたという。

下の文書は、
河津氏が金三両とお初穂百疋を曽我社へ届けるよう
大宮町の佐野与市へ頼んだことを知らせてきた書状です。
安政六年の桜岳日記にも、
河津氏から預かった三両などを曽我社へ届けた旨の記述がある。

この安政六年は、
祐邦が河津家の家督を継いでからすでに9年たった年にあたります。
時代は、
安政の大獄、井伊直弼暗殺などが立て続けに起きた幕末動乱の真っ最中。

そのわずか四年後には、
薩摩と英国との戦争が勃発。同じ年、祐邦は遣欧使節副使として渡仏した。

img069 (2)

手紙の宛先の「雨宮紀伊」は邦孝(富太郎)のことで、私の曽祖父にあたる人。
家運立て直しのため茶園栽培に着手。幕末には「駿州赤心隊」に参加した。

書状の末尾は紀伊が贈った梅干しひと樽に対する礼状。
  =この解読は駿河古文書会の中村典夫先生にお願いした=

img086 (2)

今、曽我八幡宮の片隅に、
衰退した曽我社を憂えて再建をもくろんだものの果たせず、
無念のうちにこの世を去った角田桜岳(佐野与市)の、
伊豆石製の標柱が立っている。これは桜岳没後、ご子息の手で建立された。

そして、ささやかな参道沿いには、古びた石段や石灯ろう、石橋が、
ここを行き交った人や過ぎた日々を懐かしむようにひっそりとたたずんでいる。

元禄、享保から明治までの灯ろうが並ぶ厚原・曽我八幡宮。
仇討ち本懐を遂げた十津川村の小松典膳奉納の石灯ろうも現存。

CIMG0835.jpg

どの家にも他人さまには計れない、一族の血が伝えてきたものがある。
史料や学説では説明のつかない真実がある。
なんて偉そうなこと言っちゃって。

柳田国男や地元郷土史家の本を読まなければ、避けて通ったお話でしたが、
黙っていられなくて…。
父への鎮魂にはなりましたが、皆さまのお目を汚してしまいました。

とにもかくにも、
この小さな祠を守ってきた先祖の話は、これでおしまい。
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光明

今日のブログは長~いです!
よそんちのごくごく個人的な歴史をお読みいただくのは申し訳ないと思いつつ。

     ーーー❤ーーー

父を青ざめさせた「神主が横領云々」の文言は、その本の著者によると、
「延宝六年、厚原・曽我八幡宮の神主、細川喜太夫が、
伊豆の河津三郎兵衛に宛てた宝物借用願いの中にあった」という。

そこに書かれていたのは、
貸した宝物は河津三郎兵衛代々の系図や正観音など五点。
しかし出開帳のあと、四点は江戸の河津家へ返されたものの、

「弘法大師作・守り本尊は、いまだ返り申さざるなり。
そのころの神主細川というもの、今いづれになりしやしらず

という文言で、借用願いの末尾に書き入れてあった追記だという。

それを受けて、「宝物は戻されていなかったようで、紛失したのか、
神主が横領して行方をくらましたのか不明だが」と著者が書き添えてあった。

ここに出てくる河津家とは、あの曽我兄弟に連なる「河津一族」です。

下の写真は、古い話ですが、
昭和31年(1956)製作の映画「曽我兄弟・富士の夜襲」に使った装束です。
なんと、映画会社東映から曽我八幡宮に奉納されたもの。
十郎役の東千代之介(30歳)と五郎役の中村錦之助(24歳)が着た装束で、
十郎の愛人・大磯の虎は高千穂ひづるという女優さんが演じたそうです。

ちゃんとサインもあります。
img834.jpg img684.jpg
   
なんでそんなものがここにあったかというと、
東京から帰郷した伯父の後妻さんの熱心な働きかけがあったからで、
そのためみんなから「やりすぎだ」と物笑いにされたとか。

この後妻さん、白い顔に細い切れ長の目をした冷たい感じの人で、
国学院大学を出て神職の資格を持つ才媛だと、ほかの伯母たちが言っていた。

子供のころの私はこの人が怖くて、
今でも稲荷神社の陶製の白いキツネを見るとドキッとします。

でも、この後妻さんは伯父ですら関心を示さなかったこの家の事に興味を持ち、
国会図書館へ通い、ついに一冊の本にまとめたという執念の人でもありました。
でも現在は、文書などと共にこの装束も紛失してしまい、保管庫は空っぽとか。

話を戻します。
この「横領話」を読んだとき、私はこんな疑問を持ったのです。

厚原の曽我八幡宮が伊豆の河津家へ出したという借用書を、
なぜ、よその八幡宮(上井出)の宮守が持っていたのか。
それにその追記は、いったい誰が書き加えたのか。

「伊豆」と書いてあるが、河津三郎兵衛は江戸・下谷に住む旗本。
本拠地は伊豆であっても、願書(ねがいしょ)は江戸の河津家へ出すはず。
宝物四点は「江戸の河津家へ返されたが…」と追記はいうのだから。

この借用書の全文を見たかったが、これが収録されているという
地誌「駿国見聞抄」は市史にも県史にも見当たらなかった。

埼玉県に、この地誌に興味を持った人がいたらしく、
埼玉県立久喜図書館から著者へ問い合わせをしたことがネットに出ていたが、
「この地誌は一般公開はしていない」との返事だったという。

このことが著者のいう「一般の人の目には触れない資料を自分は持っている」
という、やや優越感を誇示した言い方になったのだろうか。

それにしても埼玉県にまで、「横領話」が知られていたなんて。
いったん世に出た活字は生き続けるのだ。暗澹とした。

しかし捨てる神あれば拾う神ありで、ひょんなことからこの一件は急展開。

10年ほど前のある日、私は静岡県立図書館の棚に、
大宮町(富士宮市)の役人だった佐野与市(角田桜岳)の日記を見つけて、
思わず、あっ!と声をあげた。

佐野与市(角田桜岳)です。
岳角田桜
富士宮市HPからお借りしました。

この佐野与市こそ、例の本の著者が、
「横領」の典拠とした借用書が収録されているという
未完の地誌「駿国見聞抄」の編者だったからだ。

早速「角田桜岳日記(一)」(2004年解読。富士宮市教育委員会)から読む。

例の本に、桜岳が地元の古文書を集めて「駿国見聞抄」を編んだのは、
天保13年の事とあったが、
日記はその一年前の天保12年から始まっていた。

桜岳はたびたび江戸・下谷の河津家に出入りしていた人で、
河津家の三郎太郎とは親しく話をする間柄だと書いてあった。

この三郎太郎というのは、河津三郎兵衛の嫡男・祐邦のことで、
この人はのちに、江戸幕府最後の長崎奉行を務め、
幕末の文久三年(1864)、横浜港鎖港を話し合うため、
池田遣欧使節団の副使として渡仏した。

下の写真はチョンマゲに刀を差したこの一行が、
エジプトのスフィンクスの前で写した珍しい一枚です。

エジプト池田遣欧使節

祐邦は、桜岳が出入りしていた頃はまだ若殿であったが、
この若殿は、ことのほか「曽我物語」に関心を持っていたようで、
その話の中に、なんと父の先祖が登場していたのです。

それが出てくるのは天保13年の日記からで、
桜岳は河津家を訪問した折りには、
曽我社の江戸での出開帳をたびたびお願いしていたと書いていた。
そして三郎太郎が語ったこととして、こんな話を載せていた。

「延宝のころ、先祖が曽我社へ参詣せしに、曽我の神霊白蛇二匹出(い)で、
明(ひ)らけ置きたる扇の上に乗り、こけら二枚を残し去りしとなん。
そのこと秘して語らざりしを、五万石の伊東氏へ話せし」

「延宝年中、先祖浪人いたし、厚原村曽我八幡神主雨の宮方にて、
一年も居候よし。そのころ、細川と申す神主もありしよし」

細川喜太夫の名が記された曽我八幡宮「神領寄進状」です。
img500.jpg

名前の部分を拡大したのがこちら。
赤丸の中に喜太夫。矢印は寄進状を出した旗本・日向半兵衛正道。
時は寛永七年(1630)。江戸初期です。

img500 (3)

雨宮は古くから「あめのみや」と呼ばれていました。
桜岳は日記には忠実に、わざわざ「の」の字を入れて書いていた。

例の著者が示した「神主の細川が姿をくらました」年号は、
この「寄進状」の寛永七年から48年後の延宝六年とのこと。
確かにその延宝六年に、出開帳が行われている。

執行したのは初代なのか、二代か三代目の細川だったかはわからない。
しかし、祐邦の話によれば、
問題のその延宝には、雨宮姓と細川姓の神主がいたという。

それから30余年たった享保末の当主は五代孝祥・雨宮喜内です。
この人は十九歳で逝去。子がなかったため、
急きょ、江戸にいた甥の政次が家督を継いで六代雨宮和泉守となった。
以前お見せした「江戸出開帳願文」を書いた人です。

この人は中興の祖といわれ、なかなかの人物だったようですが、
現在は屋敷跡のがけ下に、地元の篤志家の手で立てられた石祠に、
わずかにその名をとどめているだけになっていた。

CIMG0842.jpg CIMG0841.jpg

私は河津家の若殿のこのくだりを繰り返し読んだ。
読み間違いではないよね、と息をつめて…。
何度も読んでいくうちに、喜びと怒りが同時に湧き上がった。

だって、例の「神主が横領云々」の本で、横領は延宝のころとあったのに、
その同じ延宝のころ、当の河津氏が浪人していて、
「行方をくらました」はずの神主の家に、
一年間も居候(いそうろう)していたというのだから。

天保13年に角田桜岳が書いた日記と、その同じ年に同じ人が集めたという
未完の地誌「駿国見聞抄」収蔵の借用書加筆の内容とは、
まるっきり違うではないか。

なぜなんだ。

三郎太郎はさらにいう。
「先祖、居候いたし節、曽我社へ系譜そのほか諸感状など写し、納め候よし。
細川と申す神主よりの書付なども見る」

延宝年中、
居候していた河津氏が、この社に納めたという系図はこれだろうか。

「曽我兄弟系図」
img426 (2)

あの本の著者は「ウソを暴くために今後も鋭いメスを入れていく」と豪語していた。
メスを入れなければならないのは著者自身だったのではないのか。
真偽はどうあれ、この日記が世に出た2004年の時点で、
著者は検証すべきだったと私は思う。

ともあれ、光明が見えた。

このことを父に知らせたかった。
が、その父は例の本が出た7年後に亡くなり、
「角田桜岳日記」が出た2004年には、それからすでに22年もたっていて、
とうてい間に合うはずもなかった。

想いあふれて

「お父さんのうちはドロボーをするような家じゃない」
「神主が横領したか?」の記事を見たとき、咽喉の奥から漏れた父のうめき。

他人さまにはなんでもない小さな記事ですが、
父には自分の人生の支えを叩き潰されたように思えたのです。
それにはこんな理由がありました。

父は、私には祖父にあたる人の3番目の妻の子で、
父親が53歳のときに生まれ、わずか14歳でこの父を亡くした人です。
22歳年長の腹違いの兄は19歳のとき、没落した家を捨てて上京し、
師範学校を経て教師になった。
父が生まれたのはこの3年後のことだった。

その人が東京から自分の父親へ出した手紙が今、私の手元にある。

「実母の早世に起因すると言えども、
我が家の財政の基礎を固めずして後妻を娶りしは、
我ら兄弟に対してその精神を蹂躙するものなり。
もはや家運傾くだけ傾け、破るるだけ破れろ、はや我が理性も飛び散ったり。

これだけは告げておく。
我が母さえの血を引く弟妹のみ面倒見るが、
継母と異母子弟は将来とも我らとは一切関係なし。
母上や祖母様の如き教養ある婦人ならいざ知らず」

長兄が去った後、
病身の老いた父、虚弱な腹違いの兄や姉、同母の姉や妹を、
20数年、父は母親と共に面倒を見てきたという。
父の青年時代の日記に、キリスト教へ入信したことが書かれていた。
神主の子供がそこまでするなんて、よほどつらかったのだろう。

しかし精米所の小僧をしながら献金を続けたものの、
キリスト教には救われなかったのか、すぐ脱会している。
そんな父の唯一の楽しみはバイオリンで、
夜中の田舎道をバイオリンを弾いて村を一周するのが日課だったという。

姉の婚約がととのい、照れながらバイオリンを披露した父。
img038 (2)

少し茶目っ気があったのか、茶娘に女装した写真が数葉残っている。
楚々とした美人に写っていた。

28歳でようやく結婚。
しかしそんな折り、東京から定年になった兄が故郷の家に戻ってきたため、
父は家を追われ、母親と新妻を伴い、ツテを頼ってさらに田舎へ転居した。

「継母と異母子弟は我らと一切関係がない」とまで言い切った伯父だったが、
いつのころからか、電車と徒歩で1時間もかかる我が家へよくやってきた。
まだ幼かった私が見た伯父は、母が作った綿入れ半天にくるまって
掘りごたつにすっぽり入り、大好きな猫を3匹も重そうに膝に乗せて、
ニコニコ笑っている好々爺だった。

父はどんなときも弱音を吐かなかった。
どんな仕打ちをもそれは自分の宿命だとして、ただ黙々と奉仕していた。
そしてこの「ひどい」兄さんを尊敬すらしていた。

そういうヘコヘコした優柔不断な父を、勝気な母はいつも非難した。
「この人は外では旧家のぼっちゃんで、家の中では下男だった」

事実、父親の葬儀には亡父の部屋に座らせてもらえず、
その日の写真の父は、
上は背広、下は長靴という出で立ちで下男たちの中にいた。

子供のころ、家計を助けようと村の子らと鉄屑拾いをしたら、
父親に「家名を汚した」とひどく叱られ、その晩家出。
村中総出で、金や太鼓で探したら農機具小屋に隠れていたという。

たぶんこれが、父の生涯唯一の反抗・自己主張だったと思う。

そんな父の5人の子供の中で、
父と二人で過ごしたことがあるのは、たぶん私だけではないだろうか。

近所のおばさんたちから、
「あんたのお母さんは上の姉さんたちばかり可愛がって。
あんたはまるでシンデレラみたいな子だね」と言われていた私。

人生の終盤を迎えた今になって、やっと私は気が付いた。

父が幼い私を隣り町の祭りに、電車ではなく山越えで連れ出したのも、
間もなく嫁ぐ私を、生家の墓参りに連れ出したのも、
父はこの末娘の不憫な状況と、
かつての自分の劣悪な境遇とを重ねあわせていたからかもしれない、と。

父の背中を仰ぎ見つつ、山の湧水を飲み、おにぎりを食べ、
隆起した崖に海の貝殻を見つけながら、ようよう峠に立った時、
テンツクテンと遠く近く風に乗って聞こえてきた祭り太鼓。

二人で出かけた生家の墓所では、丸い小さな石を指差して、
「これは捨て子の墓。屋敷の門前にはよく捨て子があってね、
でもほとんど育たなくて死んでしまったんだ」と言った父。

父のそんな昔話を聞きながら、
私は傾きかけたおびただしい墓石の年号を可能な限り書きとめた。
帰宅後、年代順に並べたら、こうなった。
「安和、承久、文永、弘安、文禄、元和、宝永、明和、文化、文久」

「安和」って平安時代じゃないの。絶対、あり得ない! 
石塔婆が建てられるようになったのは、もっと後だし。
いつかきちんと、と思っているうちに伯父の子孫に改葬・移転されてしまった。

さて、出生のときから不遇な人生を決められていたような父だったが、
その父が家庭内の差別に怒りもせず、苦労も厭わず奉仕を貫いたのは、
「自分の中には兄たちと同じこの家の血が流れている」という、
ただそれだけのことであったと私は思う。

曽我兄弟と応神天皇の像
img354.jpgimg945 (2)img353 (2)
曽我八幡宮蔵

たぶん郷土史家は思っただろう。
「だってドロボーをしたらしいという、そういう文書があるんだよ。
仕方がないじゃないか」と。

しかしそれは、父が唯一のよりどころとして生きてきた
「家の誇り」を汚され、否定された瞬間になってしまったのです。

その本が出た当時、今から42年も前になりますが、
私はいたたまれず、著者に手紙を書きました。

「どうしてこちらの話も聞きにきてくださらなかったのですか?」と。
しかし、著者からは何の返事もいただけなかった。

青ざめた父

力持ち・神田川徳蔵の千社札コレクションの中に、
民俗学者・山中共古を見つけたため、話がずいぶん飛んでしまいました。

回り道ついでに、もう一つお話しなければ収まりがつきません。
父への鎮魂です。あと三回ほどお付き合いください。

柳田国男の著作の中に父の家のことが出ていたのは、すでにお話しました。
「小祠」という指摘はその通りですが、「歩き巫女の定着した」
という見当違いの記述は、幸い、父に知られずに済みました。

曽我八幡宮を訪れた京都探遊会の人々。明治33年。
img345.jpg
静岡県富士市厚原

しかし、それから間もなく、
父は地元・郷土史家の本から新たな「攻撃」を受けることになった。
知人から「お宅の家のことが出ている本があるよ」
と言われた父は、喜び勇んで早速、その本を購入しました。

そこにはこう書かれていた。
「ウソの多い曽我伝説」

「曽我伝説」というのは、鎌倉時代初め、
父の河津三郎を、同族の工藤祐経に殺された遺児、十郎と五郎が、
源頼朝が催した富士の巻狩り(軍事訓練)で仇討ちをした話です。
仇討ち本懐を見事に果たした若き兄弟は、
兄の十郎がその場で、弟の五郎は鷹が岡(厚原)で首をはねられたとされ、
その悲劇が美談となり武士階級の最高の道徳としてもてはやされました。

工藤祐経の配下の者に殺された曽我兄弟のお父さん、河津三郎です。
CIMG0083.jpg
静岡県賀茂郡河津町・河津八幡宮

「曽我兄弟討ち入り絵馬」です。

「奉納 勝地傳兵衛  □積む 天保十二年 辛丑八月吉日」

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90×55×4㎝、幅5㎝の黒縁付き。方形額。作者不明。曽我八幡宮蔵

さらに江戸時代、その仇討ちを、
歌舞伎の初代市川団十郎が演じたことで江戸庶民が熱狂。
それが「名もない田舎の小祠」が江戸の出開帳で成功した理由でした。

この現象は今、歴史博物館や美術館で、
NHKの大河ドラマに関連した企画展をやると入館者が増えるのと同じです。

「九世市川団十郎 曽我五郎」豊斎画
img723 (2)
富士山かぐや姫ミュージアム(富士市立博物館)蔵

富士山麓には大きくわけて、巻狩りの現場(上井出)に一つ、
弟が打ち首になった鷹が岡(厚原)に一つ、
この兄弟を祀る御霊神社(曽我八幡宮)があります。
その鷹が岡(厚原)の神社が父の生家だったのです。

郷土史家は自著の中でこう書いていました。
「この神社を取り上げた人々はみな言い合わせたように点数を甘くしている。
自分はこれに厳しいメスを入れて行こうと思う」

そして、こうも書いていました。

「上井出の曽我八満宮の宮守・木本家が保管する文書に、
そのころ鷹が岡の曽我八幡宮にいた神主細川喜太夫が、
延宝六年の出開帳の折り、江戸の河津家から借りた宝物を返さず、
神主は行方をくらまし、いまどこにいるかわからないと書いてある。
どさくさに紛れて紛失したのか、神主が横領したのか不明であるが、
元々ここにはたいした物がなかったようである」

ここに出てくる細川という神主は、父の家の初代の名前です。

下の写真は出開帳の折り見せたニセ文書、「五郎赦免状」です。
源頼朝が曽我兄弟の養父、曽我祐信に宛てたものとされていました。
このほかにもう一通、ニセの「赦免状」があります。

文化11年の「藤岡屋日記」に、河内国古市郡の壷井八幡宮で、
江戸・回向院で楠正成の秘宝として脇差や武具、馬具などを見せたところ、
寺社奉行の手入れがあり、秘宝はすべて質屋からの借り物だったことが判明。
処分を受けたという。

それにひきかえニセ文書の曽我八幡宮は、
いつも無事に、しかも多大の収益をあげていたようです。

後世の贋作とされた「曽我五郎赦免状」
img834 (2)
曽我八幡宮蔵

「この神社にはろくな物もない」とは、柳田国男も書いていました。
柳田の時代に何もなかったのは当然と言えば当然です。

だって明治維新の折り、「駿州赤心隊」に入り官軍に味方したものの、
新政府になったら神主たちは、ものの見事に切り捨てられて、
山林や田畑はもちろん、めぼしいものはすべて売らなければならず、
あとにはガラクタばかりが残されたのですから。

それでなくても、
神社というのはもともと岩や樹木や山を神体としていたところです。
最初から何もないのです。

開き直るわけではありませんが、歴史家なら、
「伝説」にメスをいれるのではなく、
壷井八幡宮のように、質屋から借りてまでしても収益を得たかった、
そうした神社の切羽詰まった社会情勢を追求して欲しかった。

さて、父が喜び勇んで購入した本でしたが、
「神主が横領した」を読んだ父の顔が、見る見る青ざめていきました。

「今までは地元の夢や願望を壊さないよう止まってきたが、
今後は厳しいメスを…」という著者自身が、
「こう述べてくると、この家に恨みでもあるのかと言われそうで心苦しいが」
と書いていますが、当然、思いますよ。
この人は何か父の家に恨みでもあるのだろうか、と。

こちらは本物の文書です。
 差出人は、「松平内蔵亮知行所
        駿州富士郡松風庄厚原村
                  雨宮和泉」

雨宮和泉は政次といい、4代、5代目が相次いで没して家運が傾いたとき、
手腕を発揮して、家運を盛り返した功労者です。
この文書はその人が安永六年(1777)、
時の寺社奉行に出した出開帳願文書です。

前々々回お見せした出開帳の箱書を書いた人でもあります。

img982.jpg
曽我八幡宮蔵

この著者が批判していた
「点数を甘くしている他の郷土史家や歴史学者」たちですが、
史実には厳しくとも、最後は一様にこんなふうに記しています。

「いずれにしてもこの神社は古い歴史を持っている社で、
それだけに昔から氏子の尊崇が厚い

歴史に私情を挟んではいけませんが、でもこういう心遣いは本当に嬉しい。

それにしても、
「一般の人の目に触れない資料を持つ私自身が検討せねばならぬ」
と豪語した郷土史家さん、あんまりではないですか。

「神主が横領した、行方をくらました」だなんて。

だって私たち一族は逃げも隠れもせず、ずっとここにいるんですから。

権威って何だろう?

徳蔵の千社札コレクションの中に、
考古・民俗学の研究家、山中共古の千社札があるのは、
当然と言えば当然のことなのです。

山中共古の名前がある千社札「浅草年中行事」です。
SANY1521 (2)
「徳蔵コレクション」より

上段右端に「山中笑(共古)
下段左から2番目に江戸文字の高橋藤之助
右端の「寿多有」は、アメリカ人の人類学者、フレデリック・スタールです。
「お札博士」と呼ばれていました。昭和8年、東京・聖路加病院にて死去。

そして、上段右から4番目に「荒いせ」とあるのは、大阪の人です。
この人の別の千社札をお見せします。

「明治維新永代濱力競 うつぼ荒いせ」

大阪の靭(うつぼ)にあった永代浜での力持ち大会を描いたものです。
永代浜はコンブや塩魚などの問屋街だったそうですから、
「荒いせ」はそうした問屋の一つだったのかもしれません。

img290 (5)

力持ちの徳蔵と山中共古との間に直接の交流はなかったにしろ、
彼らは江戸趣味という共通項を持ち、
その趣味を通してさまざまな人の輪の中にいました。

その輪というのは考古学者、作家、画家、民俗学者など、
主に在野の学者・研究者たちが集う趣味の同好会のことで、
人類学者の山口昌男(のちに詳述します)いうところの
「官のアカデミー」に対する「野のアカデミー」「街角のアカデミー」
なるものに属する趣味人たちでありました。

ここからしばらく、ごく個人的な私のたわごとをお聞きください。
すでにこのブログでお話もしておりますが、再び…。

私が庶民の歴史や風習に興味を持ち、それを明確に意識し出したのは、
すでに2児の母親になってからのことでした。
民俗学という分野がぼんやりと頭に浮かび、
それなら民俗学の権威、父と呼ばれた柳田国男だと思ったのです。

で、「定本 柳田國男集」全36巻を揃えました。

その中に、父の家のことが書かれていました。
父の家は田舎の小さな神社で、江戸の初めごろから、
代々神主をやっていました。

img958 (2)
明治末ごろの神社。右端の木と鳥居の間に座っているのが祖父。

明治になって世襲制が廃止されたため、神社は村のものとなり、
このころの祖父はただの雇われ神主に成り下がっていました。

明治44年の観光案内書「日本史蹟」に、こう書かれています。

「一の祠宇あり、八幡大菩薩ならびに兄弟を祀る。祠の左右に
小祠それぞれ一あり。一は稲荷神社にして、今一は厳島神社なり。
境内12畝 老樹これを巡りて苔気(たいき)林嵐(りんらん)、
おのずから冷(ひややか)」

柳田国男はその神社や父の先祖のことをこう書いていたのです。

「ここは虎という歩き巫女が定着した小祠にすぎないのに、
曽我兄弟の祠として角田浩々歌客の父の角田虎雄が撰文を書いて、
ついに本物の祠にしてしまった。古くたどればずいぶん疑わしい」

「歩き巫女」とは、地獄絵図などを携えて各地を放浪して歩いた
女宗教者のことです。そしてこの巫女たちは行った先々で、
春をひさぐ女たちとしても知られていました。

売春婦が定着した祠? いかがわしく疑わしい家?

私はあまりの柳田国男の言葉に、立ち上がれないほど打ちのめされました。
確かに、貧乏神が住み着いたようなささやかな神社でしたから、
たびたび江戸へ出て「ご開帳」をしなければやっていかれなかった。
しかし、当時はかなりの大社や大寺院もこぞって出開帳をやっていました。

出開帳の折りの宝物を入れた箱に描かれた神紋「庵木瓜」
img974.jpg

神紋とは別に家紋は定紋「丸に二つ引き」、これは男だけが使いました。
ちなみに、今川氏と同じ紋です。
この定紋とは別に裏紋「五三ノ桐」があり、これは女性用でした。
嫁ぐとき着物に実家の裏紋をつけ、嫁ぎ先の紋は生涯つけなかったのです。

さて、出開帳とは、所持する宝物を持って江戸などの大都会へ出かけ、
それらを見せて収益を得るという経済活動のことです。

世界遺産になった富士山本宮浅間神社も数回、江戸へでかけています。
浅間神社は出開帳のほかに富興行(富くじ)も行ないましたが、
これはあまり売れず、失敗してしまいます。

左の箱書きは明和二年に使用したものを文化十三年に再利用したもの。
右は文化六年の箱書きです。

img351 (2)  img352 (2)
 
ほとんどが深川八幡神社回向院での60日の出開帳でした。
出開帳の江戸で、不慮の死を遂げた先祖もいたようです。

柳田国男の一文に戻ります。

誰もが民俗学の大家と認める柳田国男ですが、
でもどう考えても父の家には、柳田が言うような「歩き巫女」の影はない。
あるのは武士であり神主であった伝承ばかりです。

それに柳田国男は、自らの足でここには来ていないはず。
たぶん、各地にいた門下生などから又聞きしたものでしょう。
それにしても、あまりにも悪意に満ちすぎています。

柳田国男のこの一文は、父には内緒にしていました。
だから父はそんな文章が、
大民俗学者の著作の中にあるなど知ることもなく、この世を去りました。

私がのちに本を書き、新聞に記事を載せるようになったとき、
伝聞や資料の孫引きを避け、可能な限り資料は原本に、と心がけ、
他人様のことを書くときは必ず自分の足で現地へ行き、その人に会って、
見る、聞くことを徹底してきたのは、こんな苦い経験をしたからなのです。

それでも人さまを傷つけることが生じることがあるのです。

父に隠し通した柳田国男の一文でしたが、
残念なことに、それはそのままでは終わらなかったのです。

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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