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落穂拾い、二転三転

久喜市・栗橋八坂神社で、
「享保石」を新発見したブログ「路傍学会」の会長さん、

相変わらず精力的に町、路地、お堂、辻と歩かれています。

そのブログ記事の中に、
「あ、これ新発見かも」という写真を見つけました。

記事は先月UPされたものですが、
「渋沢栄一と力石」のため、ご報告が遅れてしまいました。

こちらがそのときの記事です。

「神社のLandscape 261」

会長さんが「力石だろうか」とつぶやいていたので、
私は自信たっぷりに、「新発見です、たぶん」とコメントを。

会長さん、戸惑いつつ、
「えーっ、境内にゴロンとしているだけの石ですが…」

で、斎藤氏が確認調査に出向いてくださったのですが、
私の予想は大外れ。

これなんですけど、トホホの結末に。

路傍さん1

「小さくて雰囲気が全くないので、力石ではありません。
後方にずらずら並んでいた石と同様の庭石だと思います」と斎藤氏。

でも、このとき斎藤氏、なんと、新たな力石を発見したんですよ。

さすがですね。この道ン十年の眼力と冴え、脱帽です。

どこにあるか、わかりますか?

路傍さん2

鳥居の右前方に埋けてあります。

「路傍さん、肝心のこの石を見逃していました。
おかげで私は思わぬ落穂拾いをしました」と、斎藤氏、ニンマリ。

「なに、別の力石ですと!」と会長さん、びっくり。

会長さんが訪れた日は、集会所に人が集まっていた。
それで、よそ者があまりウロウロしてはご迷惑かと、
さっと見て神社をあとにしたそうです。

立派な刻字もありました。

「奉納 二十二メ」 32余×37×25㎝

老棒さん3
埼玉県越谷市蒲生本町13‐18 菅原天神社

「新発見を逃してしまい、残念!」

「ありゃー」と、狛犬さんも口をあんぐり。

この狛犬さんがいる神社は、下記のブログでご覧ください。

路傍さん久伊豆神社
草加市青柳4丁目・久伊豆神社

「神社のLandscape 263」

ブログには、青面金剛像や地蔵さま、琺瑯看板や古い家など、
力石と同じように消えゆく庶民の歴史や文化が写し出されています。

そうした一枚一枚から、
会長さんの感性やぬくもりがじんわり伝わってきます。

力石もその中にいれていただいている、ありがたいなあと思います。

新発見、期待しています!

と書いてブログをUPしたら、早速、こんなメールが…。

「この力石はすでに掲載済みです」

アワワワワ。

よく見たら、2007年発行の「埼玉の力石」、越谷市の末尾に、
「天神社」として掲載されていました。

オー、ミステイク!

まあ、こんなこともあります。
狛犬さんに再び「ありゃー!」と言われそうですが、

そこはそれ、力石探しはかくも難しく、
泣いて笑って、喜んだかと思えばがっかりが待っていたり。

でも、そんなこんなの騒動、
ご理解の上、ぜーんぶひっくるめて見てください。

とはいえ、星の数ほどある「天神社」です。

せめて本に「菅原天神社」と正しく記載してあったら、
見落としも回避できたかもと思ったけれど、

2021031814200658a (2)

まあ、それほど深刻に考えることでもなし。ゆるりといきましょう。

路傍学会長さんもきっと、許してくださいます。

斎藤氏から、
「路傍さんにはご迷惑を掛けてしまった。ブログにキズをつけてしまった。
どうか、私の単純なチェック漏れであることを公表してください」と。

チェック漏れは私も同じ。
「たかがブログ。失敗談もいいじゃないの」とのんきに捉える私と違い、

人一倍責任感の強い几帳面な斎藤氏です。
そんなに深刻にならなくても、と心配しています。

みなさま、ご理解と温かい目でみてください。

なによりもこの石に陽の目を見せてくださった、そのことに私は感謝しています。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(4月19日)

「三重県三重郡菰野町田光・高札場⑤」


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郷土の誇り・南砺物語⑫

待ちに待った「白山久助」こと、「虎林久治郎」の詳しい資料が、
砺波郷土資料館の学芸員さんから届きました。

右側が、私が見たかった虎林碑・裏面の碑文です。
img20210128_16200444 (2)
「福光町の石碑」より

本名・中村久助
出身・西太美村才川七

この碑は久助の生まれ故郷の人たちが、昭和8年に建立。

記念碑の建立話は早くから出ていて、
「石は太谷川からそりに太い綱をつけて大勢で引いた」そうですから、
久助さんは郷土の誇りだったんですね。

こちらがその「虎林久治郎」です。髪、あります。ハゲ虎ン。

身長・176㎝ 体重131㎏ 
img20210115_23204751 (8)

「郷土史」や「碑の裏面」の説明と、実際の記録とは違いがあります。

碑の説明では、
「明治25年関脇となり、虎林久次郎襲名」とありますが、

実際は、「明治32年に、白山久助から虎林久治郎に改名。
翌明治33年小結。関脇にはなれなかった」

なのに地元では「関脇」となっている。
この点について、ベースボールマガジン社の方が説明してくださった。

「江戸時代から昭和30年代前半ぐらいまでは、地方巡業に行く場合、
部屋、一門単位に分かれて行くことがほとんどで、
人数が少ないため、巡業番付では、
「関脇」と書かれて参加していたのではないでしょうか。

それが地元では関脇と言い伝えられた。
このような例は非常に多いので注意が必要です」

「二十二代木村庄之助一代記」にも、
小結になる前年の明治32年の大阪相撲では、「前頭」とあることから、
碑の「25年、関脇」は誤記ということになります。

で、虎林久治郎さん、大正11年(1922)に65歳で没していますから、
やはり、入門は37歳。小結になったのが42歳。京都相撲移籍が47歳。
高年齢です。

しかし、マガジン社の方は、
「五場所も務めた実力者です」と称賛。

幼少より腕力が強く、相撲や盤持ちを好んだという虎林。
碑にはこう刻まれています。

「米3石を肩にして衆人を驚かせた」
 ※3石は450㎏。米俵で7.5俵。

こちらは才川での盤持ちの種類の一つ、
肩に担いで立ち上がる「挟箱盤持」です。

img20210128_19491714 (2)
「才川七郷土史」

盤持には米俵を担ぐ「米盤持」と、石を担ぐ「石盤持」がありました。

こちらは「石盤持」で8斗(4斗俵2俵)以上担いだ人に与えられた
「表彰盃」です。

img20210125_11051997 (2)
同上

虎林碑の基礎石は、このときの力石だそうです。

「この碑が完成した時はみんな集まって、
花火をあげたり、むぎや節を踊ったりして祝った。
虎林の字を染めた大きな手ぬぐいを全戸に配った」(才川七郷土史)

地元の相撲熱、すごいですね。

大相撲に劣らず人気だった「草相撲」の様子、
砺波郷土資料館のウエイブサイト「砺波正倉」で、ぜひご覧ください。

出町は相撲取りで遊郭を営む者が多く、
若い力士に家業を手伝わせ、稽古をつけていた話など興味が尽きません。

「草相撲」の特集は全部で5ページ。下記のURLは3ページ目の一部です。

「砺波野の草相撲の力士たち」

HP左上の「知る 歴史のタイムトラベルを開き、
「草相撲の力士たち」をクリックして、お好きなページからどうぞ。

ところで、虎林の碑文で一つ気になったことがあります。

碑の揮毫者「釋彰住」という人物です。
有名な真宗大谷派管長だった大谷光演さまの「釋彰如」と一字違い。

真宗信徒のほかに、特別のご縁がある方なんでしょうか。

さてさて、ようやくスタート地点の南砺市へ戻ってまいりました。
「めでたしめでたし」というわけで、「南砺物語」、これにておしまい

と、その前に、

今回の「南砺市の旅」で見つけた「盤持石」をご紹介します。

img20210129_18355015 (3)
南砺市城端上見(うわみ)・上見神明社
※「城端町の歴史と文化」城端町史編纂委員会 町教育委員会 平成16年

資料の中での発見ですが、新発見です。

集落の若者たちは、
あの善徳寺の盤持大会参加のため、この石で練習したそうです。

城端の西新田神明社の新発見から始まった「南砺物語」、
同じ城端の神社の新発見で〆となり、有終の美を飾ることが出来ました


※参考文献・写真提供/「福光町の石碑」福光あけぼの会 
         石碑調査編集委員会 平成15年
         /「福光町才川七郷土史」福光町才川七郷土史編集委員会
          1997
※協力/砺波市立砺波郷土資料館。「砺波正倉」
   /ベースボールマガジン社・相撲編集部・門脇利明氏


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白山久助・南砺物語⑪

南国の相撲の話から、今度は北国のお相撲さんのお話です。

こちらも相撲大国。たくさんの力士を輩出しています。

富山市出身で、明治から大正にかけて活躍したのが、
第22代横綱・太刀山峰右衛門です。

その横綱が後輩たちのために相撲場「太刀山道場」を、
小学校の敷地に残してくれたそうです。

その「太刀山道場」で相撲を始めたのが、
同じ富山市出身の
東大関・朝乃山英樹(平成6年生まれ。近大出身)です。

富山市郷土博物館の「博物館だより」で、
太刀山の錦絵や太刀山道場、その他の力士などをご覧ください。

朝乃山は2019年5月場所で初優勝。このとき、西前頭8枚目。

日本相撲協会の「力士プロフィール」で、可愛い笑顔を見てください。

思わずこちらも笑顔になります。

この初優勝、ものすごい快挙だったんですね。

富山県からは太刀山以来103年ぶり、
三役経験のない力士の優勝は、佐田の山以来58年ぶりとか。

さらに、
来日中のトランプ大統領から、「大統領杯」を授与されたそうです。
トランプさんはババを引いたけど、朝乃山はエースになった。

久々の富山出身のスター誕生です。

それだけここは、相撲の歴史が厚いということなんですね。

そのためか、富山県には相撲力士の立派な碑がいくつかあります。
その一つ、南砺市福光町の「力士 虎林之碑」をご覧ください。

これです。
img20210127_17081335 (2)
富山県南砺市福光町才川。基礎石は盤持ちに用いた力石です。

実はこの「虎林」という四股名の力士、明治・大正の頃には、
大阪相撲に「力松」「久治郎」
京都相撲に「ハゲ虎」こと「直次郎」がいて、

碑の力士はどの人か、私にはサッパリだったので、
ベースボールマガジン社・相撲編集部の方にご教示いただきました。

その結果、
この記念碑の主が「ハゲ虎」でなかったことに、まず安堵(笑)

編集部の方から、
白山久助ではないかな」と。

●明治27年4月、大阪相撲に白山久助の名で入幕。
●同32年6月、虎林久治郎と改名。
●同33年6月に小結。一度平幕に落ち、36年1月、5月、37年にも小結。
●同37年5月限りで京都相撲に移籍。

事前に、富山の図書館から取り寄せた「福光町才川七郷土史」には、
「明治22年、33歳で大阪相撲に入った」とある。

27年入幕のとき、すでに37~38歳。年を取り過ぎています。

編集部の方も、
「白山久助に間違いないはずですが、ただ年齢が…」と。

そこで、「砺波野の草相撲」を特集された
「砺波郷土資料館」へ改めて問い合わせてみました。


このつづきは次回へ。


※参考文献・写真提供/「福光町才川七郷土史」
         福光町才川七郷土史編集委員会 1997
※協力/(株)べースボ-ルマガジン社・相撲編集部・門脇利明氏
 

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高知の話・南砺物語⑩

「ばんもち」なる呼称は、四国の高知県にもあります。

北前船の航路とは反対側なのに12ヵ所も。
この呼び名が存在する12府県のうち、高知県は6番目に多い県なんです。

理由はわかりません。

「ばんもち石」の説明がある場所を3ヵ所お見せします。
まずは須崎市の力石です。

ばんもちかたぎは、村の若者の晴れの力の見せどころであった」
 =「須崎市史」

須崎市久通・観音堂
高知県須崎市久通・観音堂

場所がわかりやすいように、地図を出しておきます。

紫の丸がさきほどお見せした力石の所在地・須崎市です。

39 (2) (2)

こちらは南国市(黄色の丸)の力石です。

「子供の頃(大正末期ごろ)、鎮守の社前で青壮年がふんどし一つで、
藁をひとつかみしごいて両手に握り、石を抱いて膝に取り腹に乗せ、

ゆすり上げて肩にしていたもので、
ばんもち石、ばんもちをやると言ったように思います」
 =棚橋正實氏談

南国市上廿枝・八坂神社
高知県南国市上廿枝・八坂神社

「藁や縄を両手で持って」というやり方は、北陸でよく見られることから、
なんらかの手段で伝わったはずなんですけどねぇ。

明治29年(1898)年ごろ、
この高知県から北海道北見方面に入植した団体があります。

坂本龍馬の姉の子で、坂本直寛の「北光社」です。

ですが、同じ入植者の北陸農民との接点はありません。

北海道入植はむしろ徳島県の方が多いのですが、
おもしろいことに、徳島には「ばんもち」という名称はありません。

ここで今も続いている石担ぎをご覧ください。
美良布(びらふ)神社夏祭りでの「力自慢大会」です。

黒潮洗う逞しい土地での石担ぎ、さぞ、豪快でしょうね。

場所は香美市(茶丸のところ)。

うぎゃああああ!

img20210122_20534336 (2)
高知県香美市香北町・美良布神社

うぎゃああああ!

うぎゃあああ

こちらはポスターです。子供相撲もあります。

「高知の香美市の観光BLOG」でどうぞ。

思いっきりデカイ石です。

高知力持ち大会

さて、「ばんもち」説明文、3ヵ所目です。

こちらは「若桜の力石」といいます。
「若桜」(本名・小野熊吉)は、大相撲力士だったそうです。

石にはめ込まれた碑文に、
「海部町高園」という地名と「妻緑さんの寄金で篆刻した」とあります。

「説明文
重い石を担ぎ上げることをバンモチといいます。
ここのバンモチ石は彫られているように、小野熊吉が18歳のとき担いだ石です」
 =原田英祐氏資料

場所は安芸郡東洋町
徳島県との県境の町です(地図の右、赤丸のところ)。

力石は相撲場に置かれています。

東洋町より力石写真
高知県安芸郡東洋町白浜

この町出身の大相撲力士・玉乃浦友喜(1932~2016)は、
27歳で廃業したのち、近畿大学相撲部のコーチに就任。

その関係から春には、この相撲場が近大相撲部の合宿所になったそうです。

東洋町役場・総務課企画調整室の方によると、

「合宿に使われたのは25年ほど前です。
相撲場は現在もありますが、残念ながら今は相撲場として使われておりません」

お隣りの室戸市(青丸)は朝潮太郎(四代)(最高位・大関)の出身地です。
朝潮さんは、近大相撲部出身でしたね。

高知県は相撲が盛んなところのようで、
朝潮出身の室戸市には中央公園相撲場があり、

高知市(白丸)春野町には、
高知県立「春野総合運動公園相撲場」があり、

同じ市内にもう一つ、大原町に「高知市総合運動場相撲場」があります。

改めて思いました。高知県ってすごい!

さて、最後に四国・香川県の意外な力石をご覧ください。
祠にまつられて、宮司さんのありがたい祝詞までいただいております。

img20210122_20520550 (2)
香川県三豊郡豊浜町(現・観音寺市)・豊浜八幡神社

この力石には、幕末から明治初期に名を馳せた「鬼熊」の名と、
その「門人」として、
江戸の「新川七五郎」、大阪の「松本辰五郎」の名が刻まれています。

この二人が四国までやって来た理由について、
高島先生はこう推測しています。

「これと共通した人名の文久元年の力石が、神戸市に2か所残されている。
この豊浜八幡神社は翌文久2年に改築されていることから、
二人は招かれて、奉納力持ちを行ったのではないだろうか」

鬼熊さん、よかったね。
遠い四国でこんなに大切にされて…。


※情報・写真提供/高知県安芸郡東洋町役場・企画調整室
※参考文献/「四国の力石」高島愼助 岩田書院 2005


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加賀藩の話・南砺物語⑨

「南砺物語」のはずが、あちこちへ飛んでしまい、焦っておりますが、
もう少し、お付き合いのほどを。

「ばんもち」は北陸地方特有の力石の呼び名です。
その呼称が、どこに伝播し今はどうなっているかというお話です。

斎藤氏の調査では、
石そのものに「ばんもち」と刻まれたもの(切付け・刻字)はわずか1個。
じかに石にペンキで書いたもの(書付)も、やはり1個。

意外な結果です。

と、前回、ご報告しましたが、斎藤氏、念には念を入れて再確認したら、
新たに、「刻銘(切付け)」石を1個、「書付」石を2個発見。

斎藤氏、全国の力石を全部調べ直したので、
すっかり「目がショボショボおじさん」になっちゃったそうです。

でもやっぱり、「刻銘(切付け)」も「書付」も少ないですね。

ならば碑文や説明文ではどうかというと、12府県にありました。

ダントツなのが石川県で、104か所。
師匠の高島先生もこう言っています。

「石川県で力石を訪ねると、「ああ、バンモチ石かね」と答えられる。
県全体でバンモチ石という名称が通り名になっていた」

こちらは能美市の「バンモチ石」です。

「碑文 盤持ち石」

img20210120_14230684 (3)
石川県能美市金剛寺町・富樫八幡神社

加賀(石川県)といえば百万石の大大名。さすがに保存も立派です。

江戸時代は越中(富山県)をも支配していたそうで、
日本海の西回り航路の先鞭をつけたのも、加賀藩だったとか。

なんでも当時、年貢米を大阪へ輸送するには琵琶湖の水運だったが、
運賃が高額なうえ、船に乗せたり馬の背に移し替えたりで俵が痛む。

そこで考えたのが下関経由の輸送。
島原の乱鎮圧のため、このルートで軍隊を送ったことがヒントになったとか。

こちらは昭和9年の「磐持大会奉納額」です。

img20210120_14230684 (2)
石川県長浜市佐味町・長浜神社

「北前船」と聞けば、大きな一枚帆の美しい大型船体を思い浮かべますが、
ここまで来るには大変な苦戦を強いられた、ということが、
「人づくり風土記・富山」に書かれていました。

最初、上方への航海に、琵琶湖で使っていた「北国船(ほっこくぶね)」
という平底船で運行していたそうです。

これは帆がムシロで漕ぎ手が櫓をこぐというもので、海難事故も多かった。

こんな船では櫓を使わず帆で走る上方の「弁才船(べざいせん)」には勝てません。

上方の人たちは、この貧相な船を笑って、
「北前船(きたまえぶね)」と軽蔑の意味をこめて呼んでいたというのです。

つまり、「北前」とは「日本海」を指した言葉で、
「いなかっぺ」という意味で、差別的に使っていたと思われます。

関西人はけしからん!

こちらは観光ガイドブックに載った力石(左下)です。
こういう本に載せていただくと嬉しいですね。

img20210118_13022242 (3)
石川県加賀市塩屋町・八幡神社の力石

バカにされて意地になった加賀藩では上方の船を雇い、
それ以外の地方(じかた)の船を排除。

「この加賀藩の了見の狭さが、
北陸の海運全般を上方依存にさせてしまった」
と、「人づくり風土記」の著者は静かに抗議。

こうした状況のもとで越中(富山)の船主たちは、弁才船の建造を試み、
船頭たちは天文、気象、海流などの新しい航海技術を学んだ。

そうした懸命の努力で、やがて黄金時代を迎えます。

北海道開拓でも、この北前船でも感じ取れるのは、
北陸の人の我慢強さや勤勉さです。

こちらは、今も続いている小松市の「磐持大会」です。

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石川県小松市浜田町・菟橋神社

この北前船の船頭の中に、明治の南極探検隊の一員になった人がいます。

羽咋市の野村直吉で、
明治45年、白瀬中尉の南極探検隊の船長として加わります。

わずか204トンの機帆船で5万8000キロを航海。
一人の死傷者も出さなかったそうです。

北前船の船員の航海技術はそれだけ高かったんですね。

刻苦勉励といえば、息子が高校生の頃の先生の話が思い出されます。
先生、ため息をつきながらこう言いました。

「進路相談のとき、長野や北陸の親は、
「この大学に入れなかったらあきらめて働いてもらいます」と言うのに、
静岡の親は、
「入れるところならどこでもいいよ」と言う。甘いんですよ、ここの親は」と。

そういえば、静岡から総理大臣は一人も出ていないしなあ。

覇気がないから小粒が多いんだよね。ふう…。

気を取り直して、小松市の「磐持の由来碑」をご覧に入れます。
静岡県にはこういう立派なものもない。当県は力石の貧困県なんです。

img20210120_14252076 (3)
石川県小松市向本折町・白山神社

それにしてもみなさま、

コロナで外出もままならない日々、どうされていますか?

私はついに暴発!

CIMG4021 (2)

とはいえ、火薬のない火縄銃では暴発もなにもないですけど。

それにこれ、3年前に県西部の郷土館で写したもの。
ああ、こんなふうに自由に出歩きたい!


※参考文献/「北前船ー寄港ガイド」加藤貞仁 無明舎出版 2018
      /「北前船‐日本海こんぶロード」読売新聞北陸支社 1997
      /「江戸時代 人づくり風土記16 富山」「越中七浦と北前船」
       高瀬保 農山漁村文化協会 組本社 1993

   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・22)

「福井県今立郡池田町千代谷・八幡神社」

足羽川ダム、豪雪地帯、能楽、そして力石。


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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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