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新発見・栗橋八坂神社

力石、久々の新発見です。

とはいうものの、この発見、昨年10月のこと。

書こう書こうと思いつつ、年を越し、はや4か月も過ぎてしまいました。

発見者は、ブログ「路傍学会」の路傍学会長さんです。

「久喜市栗橋北・栗橋八坂神社」

会長さんのブログに、「石に享保の文字が見える」とあります。

場所は埼玉県久喜市の栗橋八坂神社

ここは13年前、斎藤氏が力石4個を新発見した神社です。
会長さんが見つけた石は、この4個とも違いました。

すぐ斎藤氏に連絡すると、
こりゃ、大変だ。それ、新発見です。すぐ見に行ってきます」

その日のうちに調査。

「享保石」も確認。

八坂斎藤
埼玉県久喜市・栗橋八坂神社

神社は、利根川スーパー堤防の築堤補強工事のため、
神社そのものを移転するとかで、その移転工事の真っ最中。

工事関係者は、
文字を刻んだ由緒ありげな石が出て来て処置に困ったのでしょう。

とりあえず捨てないでおこうかという感じで、地面に置かれていました。

砂ぼこりで判読が難しいので水で濡らしてみると、浮かんできました。

「享保十八年 丑六月 くりはし中丁組」

栗橋八坂神社4
63×40×37㎝

江戸中期の力石です。
八代将軍吉宗が倹約と増税の「享保の改革」を推し進めた時代です。

享保の初期に江戸町奉行・大岡越前守が登場。
その3年後には、「江戸町火消いろは組」が作られます。

しかし享保末期のこの石に刻まれた享保18年前後は、
冷夏と虫害で大飢饉発生。餓死者が続出し、加えてコレラが大流行。

腹をすかせた民衆による富裕層への打ちこわしが勃発という、
最悪の年だったのです。

この八坂神社の力石は、そんな中で奉納された力石なんです。
どういう意図があっての奉納だったのか、気になるところです。

ついでといってはなんですが、「江戸火消しいろは組」が出てきたので、
その一つ「は組」の力石をお目にかけます。

1は組末広神社
東京都中央区人形町・末広神社 66×44×16㎝

この栗橋八坂神社の所在地は、利根川と日光街道が交差する要地で、
関東三大関所の一つがあった。

しかし軍事上、架橋が許されなかったので渡船場を設置。

この「享保石」は、
渡船場で働く屈強な若者たちが奉納したものかもしれません。



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郷土の誇り・南砺物語⑫

待ちに待った「白山久助」こと、「虎林久治郎」の詳しい資料が、
砺波郷土資料館の学芸員さんから届きました。

右側が、私が見たかった虎林碑・裏面の碑文です。
img20210128_16200444 (2)
「福光町の石碑」より

本名・中村久助
出身・西太美村才川七

この碑は久助の生まれ故郷の人たちが、昭和8年に建立。

記念碑の建立話は早くから出ていて、
「石は太谷川からそりに太い綱をつけて大勢で引いた」そうですから、
久助さんは郷土の誇りだったんですね。

こちらがその「虎林久治郎」です。髪、あります。ハゲ虎ン。

身長・176㎝ 体重131㎏ 
img20210115_23204751 (8)

「郷土史」や「碑の裏面」の説明と、実際の記録とは違いがあります。

碑の説明では、
「明治25年関脇となり、虎林久次郎襲名」とありますが、

実際は、「明治32年に、白山久助から虎林久治郎に改名。
翌明治33年小結。関脇にはなれなかった」

なのに地元では「関脇」となっている。
この点について、ベースボールマガジン社の方が説明してくださった。

「江戸時代から昭和30年代前半ぐらいまでは、地方巡業に行く場合、
部屋、一門単位に分かれて行くことがほとんどで、
人数が少ないため、巡業番付では、
「関脇」と書かれて参加していたのではないでしょうか。

それが地元では関脇と言い伝えられた。
このような例は非常に多いので注意が必要です」

「二十二代木村庄之助一代記」にも、
小結になる前年の明治32年の大阪相撲では、「前頭」とあることから、
碑の「25年、関脇」は誤記ということになります。

で、虎林久治郎さん、大正11年(1922)に65歳で没していますから、
やはり、入門は37歳。小結になったのが42歳。京都相撲移籍が47歳。
高年齢です。

しかし、マガジン社の方は、
「五場所も務めた実力者です」と称賛。

幼少より腕力が強く、相撲や盤持ちを好んだという虎林。
碑にはこう刻まれています。

「米3石を肩にして衆人を驚かせた」
 ※3石は450㎏。米俵で7.5俵。

こちらは才川での盤持ちの種類の一つ、
肩に担いで立ち上がる「挟箱盤持」です。

img20210128_19491714 (2)
「才川七郷土史」

盤持には米俵を担ぐ「米盤持」と、石を担ぐ「石盤持」がありました。

こちらは「石盤持」で8斗(4斗俵2俵)以上担いだ人に与えられた
「表彰盃」です。

img20210125_11051997 (2)
同上

虎林碑の基礎石は、このときの力石だそうです。

「この碑が完成した時はみんな集まって、
花火をあげたり、むぎや節を踊ったりして祝った。
虎林の字を染めた大きな手ぬぐいを全戸に配った」(才川七郷土史)

地元の相撲熱、すごいですね。

大相撲に劣らず人気だった「草相撲」の様子、
砺波郷土資料館のウエイブサイト「砺波正倉」で、ぜひご覧ください。

出町は相撲取りで遊郭を営む者が多く、
若い力士に家業を手伝わせ、稽古をつけていた話など興味が尽きません。

「草相撲」の特集は全部で5ページ。下記のURLは3ページ目の一部です。

「砺波野の草相撲の力士たち」

HP左上の「知る 歴史のタイムトラベルを開き、
「草相撲の力士たち」をクリックして、お好きなページからどうぞ。

ところで、虎林の碑文で一つ気になったことがあります。

碑の揮毫者「釋彰住」という人物です。
有名な真宗大谷派管長だった大谷光演さまの「釋彰如」と一字違い。

真宗信徒のほかに、特別のご縁がある方なんでしょうか。

さてさて、ようやくスタート地点の南砺市へ戻ってまいりました。
「めでたしめでたし」というわけで、「南砺物語」、これにておしまい

と、その前に、

今回の「南砺市の旅」で見つけた「盤持石」をご紹介します。

img20210129_18355015 (3)
南砺市城端上見(うわみ)・上見神明社
※「城端町の歴史と文化」城端町史編纂委員会 町教育委員会 平成16年

資料の中での発見ですが、新発見です。

集落の若者たちは、
あの善徳寺の盤持大会参加のため、この石で練習したそうです。

城端の西新田神明社の新発見から始まった「南砺物語」、
同じ城端の神社の新発見で〆となり、有終の美を飾ることが出来ました


※参考文献・写真提供/「福光町の石碑」福光あけぼの会 
         石碑調査編集委員会 平成15年
         /「福光町才川七郷土史」福光町才川七郷土史編集委員会
          1997
※協力/砺波市立砺波郷土資料館。「砺波正倉」
   /ベースボールマガジン社・相撲編集部・門脇利明氏


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白山久助・南砺物語⑪

南国の相撲の話から、今度は北国のお相撲さんのお話です。

こちらも相撲大国。たくさんの力士を輩出しています。

富山市出身で、明治から大正にかけて活躍したのが、
第22代横綱・太刀山峰右衛門です。

その横綱が後輩たちのために相撲場「太刀山道場」を、
小学校の敷地に残してくれたそうです。

その「太刀山道場」で相撲を始めたのが、
同じ富山市出身の
東大関・朝乃山英樹(平成6年生まれ。近大出身)です。

富山市郷土博物館の「博物館だより」で、
太刀山の錦絵や太刀山道場、その他の力士などをご覧ください。

朝乃山は2019年5月場所で初優勝。このとき、西前頭8枚目。

日本相撲協会の「力士プロフィール」で、可愛い笑顔を見てください。

思わずこちらも笑顔になります。

この初優勝、ものすごい快挙だったんですね。

富山県からは太刀山以来103年ぶり、
三役経験のない力士の優勝は、佐田の山以来58年ぶりとか。

さらに、
来日中のトランプ大統領から、「大統領杯」を授与されたそうです。
トランプさんはババを引いたけど、朝乃山はエースになった。

久々の富山出身のスター誕生です。

それだけここは、相撲の歴史が厚いということなんですね。

そのためか、富山県には相撲力士の立派な碑がいくつかあります。
その一つ、南砺市福光町の「力士 虎林之碑」をご覧ください。

これです。
img20210127_17081335 (2)
富山県南砺市福光町才川。基礎石は盤持ちに用いた力石です。

実はこの「虎林」という四股名の力士、明治・大正の頃には、
大阪相撲に「力松」「久治郎」
京都相撲に「ハゲ虎」こと「直次郎」がいて、

碑の力士はどの人か、私にはサッパリだったので、
ベースボールマガジン社・相撲編集部の方にご教示いただきました。

その結果、
この記念碑の主が「ハゲ虎」でなかったことに、まず安堵(笑)

編集部の方から、
白山久助ではないかな」と。

●明治27年4月、大阪相撲に白山久助の名で入幕。
●同32年6月、虎林久治郎と改名。
●同33年6月に小結。一度平幕に落ち、36年1月、5月、37年にも小結。
●同37年5月限りで京都相撲に移籍。

事前に、富山の図書館から取り寄せた「福光町才川七郷土史」には、
「明治22年、33歳で大阪相撲に入った」とある。

27年入幕のとき、すでに37~38歳。年を取り過ぎています。

編集部の方も、
「白山久助に間違いないはずですが、ただ年齢が…」と。

そこで、「砺波野の草相撲」を特集された
「砺波郷土資料館」へ改めて問い合わせてみました。


このつづきは次回へ。


※参考文献・写真提供/「福光町才川七郷土史」
         福光町才川七郷土史編集委員会 1997
※協力/(株)べースボ-ルマガジン社・相撲編集部・門脇利明氏
 

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高知の話・南砺物語⑩

「ばんもち」なる呼称は、四国の高知県にもあります。

北前船の航路とは反対側なのに12ヵ所も。
この呼び名が存在する12府県のうち、高知県は6番目に多い県なんです。

理由はわかりません。

「ばんもち石」の説明がある場所を3ヵ所お見せします。
まずは須崎市の力石です。

ばんもちかたぎは、村の若者の晴れの力の見せどころであった」
 =「須崎市史」

須崎市久通・観音堂
高知県須崎市久通・観音堂

場所がわかりやすいように、地図を出しておきます。

紫の丸がさきほどお見せした力石の所在地・須崎市です。

39 (2) (2)

こちらは南国市(黄色の丸)の力石です。

「子供の頃(大正末期ごろ)、鎮守の社前で青壮年がふんどし一つで、
藁をひとつかみしごいて両手に握り、石を抱いて膝に取り腹に乗せ、

ゆすり上げて肩にしていたもので、
ばんもち石、ばんもちをやると言ったように思います」
 =棚橋正實氏談

南国市上廿枝・八坂神社
高知県南国市上廿枝・八坂神社

「藁や縄を両手で持って」というやり方は、北陸でよく見られることから、
なんらかの手段で伝わったはずなんですけどねぇ。

明治29年(1898)年ごろ、
この高知県から北海道北見方面に入植した団体があります。

坂本龍馬の姉の子で、坂本直寛の「北光社」です。

ですが、同じ入植者の北陸農民との接点はありません。

北海道入植はむしろ徳島県の方が多いのですが、
おもしろいことに、徳島には「ばんもち」という名称はありません。

ここで今も続いている石担ぎをご覧ください。
美良布(びらふ)神社夏祭りでの「力自慢大会」です。

黒潮洗う逞しい土地での石担ぎ、さぞ、豪快でしょうね。

場所は香美市(茶丸のところ)。

うぎゃああああ!

img20210122_20534336 (2)
高知県香美市香北町・美良布神社

うぎゃああああ!

うぎゃあああ

こちらはポスターです。子供相撲もあります。

「高知の香美市の観光BLOG」でどうぞ。

思いっきりデカイ石です。

高知力持ち大会

さて、「ばんもち」説明文、3ヵ所目です。

こちらは「若桜の力石」といいます。
「若桜」(本名・小野熊吉)は、大相撲力士だったそうです。

石にはめ込まれた碑文に、
「海部町高園」という地名と「妻緑さんの寄金で篆刻した」とあります。

「説明文
重い石を担ぎ上げることをバンモチといいます。
ここのバンモチ石は彫られているように、小野熊吉が18歳のとき担いだ石です」
 =原田英祐氏資料

場所は安芸郡東洋町
徳島県との県境の町です(地図の右、赤丸のところ)。

力石は相撲場に置かれています。

東洋町より力石写真
高知県安芸郡東洋町白浜

この町出身の大相撲力士・玉乃浦友喜(1932~2016)は、
27歳で廃業したのち、近畿大学相撲部のコーチに就任。

その関係から春には、この相撲場が近大相撲部の合宿所になったそうです。

東洋町役場・総務課企画調整室の方によると、

「合宿に使われたのは25年ほど前です。
相撲場は現在もありますが、残念ながら今は相撲場として使われておりません」

お隣りの室戸市(青丸)は朝潮太郎(四代)(最高位・大関)の出身地です。
朝潮さんは、近大相撲部出身でしたね。

高知県は相撲が盛んなところのようで、
朝潮出身の室戸市には中央公園相撲場があり、

高知市(白丸)春野町には、
高知県立「春野総合運動公園相撲場」があり、

同じ市内にもう一つ、大原町に「高知市総合運動場相撲場」があります。

改めて思いました。高知県ってすごい!

さて、最後に四国・香川県の意外な力石をご覧ください。
祠にまつられて、宮司さんのありがたい祝詞までいただいております。

img20210122_20520550 (2)
香川県三豊郡豊浜町(現・観音寺市)・豊浜八幡神社

この力石には、幕末から明治初期に名を馳せた「鬼熊」の名と、
その「門人」として、
江戸の「新川七五郎」、大阪の「松本辰五郎」の名が刻まれています。

この二人が四国までやって来た理由について、
高島先生はこう推測しています。

「これと共通した人名の文久元年の力石が、神戸市に2か所残されている。
この豊浜八幡神社は翌文久2年に改築されていることから、
二人は招かれて、奉納力持ちを行ったのではないだろうか」

鬼熊さん、よかったね。
遠い四国でこんなに大切にされて…。


※情報・写真提供/高知県安芸郡東洋町役場・企画調整室
※参考文献/「四国の力石」高島愼助 岩田書院 2005


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加賀藩の話・南砺物語⑨

「南砺物語」のはずが、あちこちへ飛んでしまい、焦っておりますが、
もう少し、お付き合いのほどを。

「ばんもち」は北陸地方特有の力石の呼び名です。
その呼称が、どこに伝播し今はどうなっているかというお話です。

斎藤氏の調査では、
石そのものに「ばんもち」と刻まれたもの(切付け・刻字)はわずか1個。
じかに石にペンキで書いたもの(書付)も、やはり1個。

意外な結果です。

と、前回、ご報告しましたが、斎藤氏、念には念を入れて再確認したら、
新たに、「刻銘(切付け)」石を1個、「書付」石を2個発見。

斎藤氏、全国の力石を全部調べ直したので、
すっかり「目がショボショボおじさん」になっちゃったそうです。

でもやっぱり、「刻銘(切付け)」も「書付」も少ないですね。

ならば碑文や説明文ではどうかというと、12府県にありました。

ダントツなのが石川県で、104か所。
師匠の高島先生もこう言っています。

「石川県で力石を訪ねると、「ああ、バンモチ石かね」と答えられる。
県全体でバンモチ石という名称が通り名になっていた」

こちらは能美市の「バンモチ石」です。

「碑文 盤持ち石」

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石川県能美市金剛寺町・富樫八幡神社

加賀(石川県)といえば百万石の大大名。さすがに保存も立派です。

江戸時代は越中(富山県)をも支配していたそうで、
日本海の西回り航路の先鞭をつけたのも、加賀藩だったとか。

なんでも当時、年貢米を大阪へ輸送するには琵琶湖の水運だったが、
運賃が高額なうえ、船に乗せたり馬の背に移し替えたりで俵が痛む。

そこで考えたのが下関経由の輸送。
島原の乱鎮圧のため、このルートで軍隊を送ったことがヒントになったとか。

こちらは昭和9年の「磐持大会奉納額」です。

img20210120_14230684 (2)
石川県長浜市佐味町・長浜神社

「北前船」と聞けば、大きな一枚帆の美しい大型船体を思い浮かべますが、
ここまで来るには大変な苦戦を強いられた、ということが、
「人づくり風土記・富山」に書かれていました。

最初、上方への航海に、琵琶湖で使っていた「北国船(ほっこくぶね)」
という平底船で運行していたそうです。

これは帆がムシロで漕ぎ手が櫓をこぐというもので、海難事故も多かった。

こんな船では櫓を使わず帆で走る上方の「弁才船(べざいせん)」には勝てません。

上方の人たちは、この貧相な船を笑って、
「北前船(きたまえぶね)」と軽蔑の意味をこめて呼んでいたというのです。

つまり、「北前」とは「日本海」を指した言葉で、
「いなかっぺ」という意味で、差別的に使っていたと思われます。

関西人はけしからん!

こちらは観光ガイドブックに載った力石(左下)です。
こういう本に載せていただくと嬉しいですね。

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石川県加賀市塩屋町・八幡神社の力石

バカにされて意地になった加賀藩では上方の船を雇い、
それ以外の地方(じかた)の船を排除。

「この加賀藩の了見の狭さが、
北陸の海運全般を上方依存にさせてしまった」
と、「人づくり風土記」の著者は静かに抗議。

こうした状況のもとで越中(富山)の船主たちは、弁才船の建造を試み、
船頭たちは天文、気象、海流などの新しい航海技術を学んだ。

そうした懸命の努力で、やがて黄金時代を迎えます。

北海道開拓でも、この北前船でも感じ取れるのは、
北陸の人の我慢強さや勤勉さです。

こちらは、今も続いている小松市の「磐持大会」です。

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石川県小松市浜田町・菟橋神社

この北前船の船頭の中に、明治の南極探検隊の一員になった人がいます。

羽咋市の野村直吉で、
明治45年、白瀬中尉の南極探検隊の船長として加わります。

わずか204トンの機帆船で5万8000キロを航海。
一人の死傷者も出さなかったそうです。

北前船の船員の航海技術はそれだけ高かったんですね。

刻苦勉励といえば、息子が高校生の頃の先生の話が思い出されます。
先生、ため息をつきながらこう言いました。

「進路相談のとき、長野や北陸の親は、
「この大学に入れなかったらあきらめて働いてもらいます」と言うのに、
静岡の親は、
「入れるところならどこでもいいよ」と言う。甘いんですよ、ここの親は」と。

そういえば、静岡から総理大臣は一人も出ていないしなあ。

覇気がないから小粒が多いんだよね。ふう…。

気を取り直して、小松市の「磐持の由来碑」をご覧に入れます。
静岡県にはこういう立派なものもない。当県は力石の貧困県なんです。

img20210120_14252076 (3)
石川県小松市向本折町・白山神社

それにしてもみなさま、

コロナで外出もままならない日々、どうされていますか?

私はついに暴発!

CIMG4021 (2)

とはいえ、火薬のない火縄銃では暴発もなにもないですけど。

それにこれ、3年前に県西部の郷土館で写したもの。
ああ、こんなふうに自由に出歩きたい!


※参考文献/「北前船ー寄港ガイド」加藤貞仁 無明舎出版 2018
      /「北前船‐日本海こんぶロード」読売新聞北陸支社 1997
      /「江戸時代 人づくり風土記16 富山」「越中七浦と北前船」
       高瀬保 農山漁村文化協会 組本社 1993

   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・22)

「福井県今立郡池田町千代谷・八幡神社」

足羽川ダム、豪雪地帯、能楽、そして力石。


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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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