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北前船・南砺物語⑦

北前船(きたまえぶね)なくしては、北海道開拓は難しかっただろうし、
大阪の昆布文化も決して育まれることはなかったであろう」

作家の津本陽氏は「北前船」の本の冒頭でこう語っている。

津軽(青森県)弘前の人、平尾魯僊(ろせん)は、
安政二年(1855)、蝦夷地(北海道)をめざして船に乗った。

徳川から明治新政府にかわる14年前のことです。

わずか7、80石積みの小舟で、十三湊(とさみなと)を出港。
目指すは江戸幕府唯一の蝦夷支配地、松前(まつまえ)です。

※ちなみに、北前船は「千石船」です。米を千石(150トン)積めます。

平尾魯僊は商人のせがれですが、画家ですから絵も描きました。

前方、左端に小さく「マツマヘ」と書かれています。
img20210114_12500821 (2)

乗員は船乗り6人と客3人の合計9人
狭い船内には囲炉裏やかまどもあります。

湾内から権現岬まで3時間もかかった。

この岬を回り込もうとしたとき、凪(なぎ)で航行不能となり、
やむなく湊へ引き返した。

ところが、一天にわかにかき曇り、ヤマセが吹き出した。

船頭たちは「今こそ」と、果敢に津軽海峡へ乗り出した。
船は走ること、矢を射るごとし。

しかし、右に傾くかと思えば左へ起き上がり、まさに転覆寸前。
船中の客たちは潮をかぶり、寒風にさらされて、

「みな顔色失し、嘔吐すこぶる狼藉なり」

翌朝、ようよう松前の港口に着いた。

改め役の小役人の威張り腐った取り調べに「カチン」ときたが、
市中には昆布ニシン粕の商人や船乗り、旅客があふれていて、
魯僊はその活気に驚く。

夜はことに賑々しく、
遊女屋を始め店々はみな灯篭、燭台を灯して熱気ムンムン。

すこぶる繁盛の様子。

建物はみな立派な造りで、社寺の彫刻も素晴らしい。

目を港内に転じてみれば、百数十艘商船が碇をおろし、
「帆柱、林叢(りんそう=樹木がうっそうとしている)の如し」状態。

海側から見た松前湊です。
img20210114_12452728 (2)

絵を見ると確かに、湊には帆柱を林立させたたくさんの商船が浮かび、
その向こうに無数の家並みが見えます。

左側に松前城が威風堂々と建っています。

そんな松前に今も残る力石、ちょっとご覧ください。

台座に「300年前の力石」と刻まれています。
これが力石だということは、古老からの言い伝えだそうです。

この石を「ばんもち」「ばんぶち」と言わない所を見ると、
これは、北陸以外の漁民たちの力石ではないかと思います。

300年前といえば、八代将軍吉宗の時代。

蝦夷地から日本海沿いを南下し、下関で瀬戸内海へ入り大阪へ着岸という
西回り航路が定着してきたころです。

この石は当時を知る唯一の生き証人です。
でもゴツゴツしていて、担いだら痛そう(笑)

松前町原口・八幡宮1
北海道松前郡松前町・原口八幡神社

ついでながら、この神社の珍しい神事をご紹介します。



松前は神楽が盛んなところです。
「お城神楽」といい、元々は松前藩のお城で行われていたそうです。

しかし、ニシン漁の衰退で人口が減り、同時に神楽の担い手も減少。
それでも各地区が結束して保存につとめ、
2018年、国の重要無形文化財に指定されたそうです。

神楽は神職さんたちによって演じられています。



獅子が泣き叫ぶ子供を「さらって」いく「鹿部稲荷神社」の獅子舞も
ぜひどうぞ。
ワンちゃんまで神殿に連れ去られます。

みんな大笑い。


北海道茅部郡鹿部町宮浜・鹿部稲荷神社

神楽は同じ所作が続き長いので、興味のない人はすぐ飽きてしまいます。

おまけに寒い時期、吹きさらしの舞殿で演じるので、
みなさん、「もう、帰ろうよ」とうるさい。

だから神楽は一人で観るに限ります。

とはいうものの、この私だって雰囲気に浸っているだけで、
内容を理解しているわけではありません。

思うに、現代人にとって神楽は、歌舞伎や能を見る外国人と同じ。
レクチャーなしでは所作の意味がわかりません。

正直なところ、
同時解説装置が欲しいなあと思うことがしばしばであります。

御用とお急ぎのない方は、
別の「鹿部稲荷神社」の神楽獅子舞を、もう一つ見てください。
神と人が一つになって遊ぶ、本来の姿はこうではなかったか、と。

胸に偽おっぱいを入れた天狗のおじさんが、コミカルに動きます。




※参考文献/「日本庶民生活史料集成・第二十巻」「松前紀行」平尾魯僊
      第一書房 1972
     /「日本海こんぶロード・北前船」能登印刷出版部
      読売新聞北陸支社 1997

   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・16)

「埼玉県桶川市寿・稲荷神社⑥」

「卯之助」が続いております。
やっぱり卯之助は力持ち界のスターですね。


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獅子舞王国・南砺物語⑥

富山県には1000以上の獅子舞の団体があるそうです。

ここ南砺市には131カ所の地区に102団体。
とにかくすごい数です。

南砺市からちょっと離れますが、
日本海に面した下新川郡入善町新屋の獅子舞をご覧ください。



こうした獅子舞を、
北海道へ入植した人たちがそれぞれの新天地へもたらします。

北海道には獅子舞を演じる地区が80か所、
そのうち富山県からもたらされたものが42か所。

北海道の獅子舞の半分以上が富山から移入されたというのですから、
いかに「ふるさとへの思い」が強かったかわかります。
 
獅子舞にもいろいろ特徴があります。
旭川市の獅子舞のほとんどは、この入善町の獅子舞を伝承しているとか。

次にその北海道に根付いた獅子舞をご覧ください。

こちらは南砺市からの移住者によってもたらされた
札幌市・丘珠神社の「丘珠獅子舞」です。



入善町の獅子舞は「二人立ち」といって、獅子の中に一人か二人入る形ですが、
「丘珠獅子舞」は、たくさんの人が入る「百足(ムカデ)獅子」で、
「砺波型」「氷見型」「射水型」といわれるものです。

この獅子を見ていて、ふと、思い出したものがあります。

記者時代に撮影した静岡県掛川市の「仁藤の大獅子」です。

獅子頭の重さは220㎏。胴体の長さは25m
大きさは日本一だそうです。

獅子に入る人数はムカデもびっくりの約120人
これが町を練り歩き、夜は天然寺の境内で乱舞です。

120人もの人たちの足がよく揃うものだと感心しました。

当時の新聞の県内版はまだモノクロでしたので、これでご勘弁を。

img20210109_20543883 (3)
静岡県掛川市仁藤町の大獅子。
このほかに3頭の獅子が舞う瓦町の「かんからまち」もあります。

余談ですが、この寺には江戸時代のオランダ商館長の墓があります。
玉垣に囲まれたかまぼこ型の墓石です。

この「オランダ・カピタン」は、江戸参府旅行の途中、ここで客死。
仏式で葬式をしたそうです。

戒名は「通達法善居士」

獅子舞の話ばかりで気が引けますので、
入善町新屋で今も続いている「力石による大磐祭り」もお見せします。

興味のない動画って、疲れますよね。
と、気を遣いつつ、3本も強引にお見せしちゃいます。(*゚ェ゚*)


富山県下新川郡入善町新屋・住吉神社

さて、豪快な「大磐祭り」を見ていただいたので、
私も力石の「大ばん振る舞い」といきますか。

北海道の力石、二つほどお目にかけます。

この石たちは郷土資料館という素敵な場所に鎮座しております。

一つ目はこちら。

「石銘 力持石」 130㎏ 寄贈者 島松旭町 野口惣二氏

(説明文 ばんもち石

「明治時代開拓に汗を流した島松地区の若者が、
この石で力くらべをしたものです。ー略ー
寄贈者の父はこの石を担ぎ上げた力持ちの一人であったそうです」

恵庭市南島松・恵庭市資料館1
北海道恵庭市南島松・郷土資料館

もう一つがこちら。

「石銘 ばんだい石」 120㎏(約32貫) 文化二年(1805)と伝えられる。
寄贈者 恵庭市林田 島倉歌吉氏

(説明文 ばんだい石(字不詳)

「今から170年前、鮭、鱒などの漁獲場として栄え、年間四千石の漁獲量の
あった漁太地域で発見されたもの。
当時の若者たちが大勢集まっては力くらべに用いたと伝えられる」

恵庭市南島松・恵庭市資料館2

「ばんもち」という名称から、日本海の荒波をものともせず航行していた
「北前船」が浮かんできます。

北前船に乗った北陸の船頭たちの足跡が、ここにも見出せます。

でもね、
こうして置かれた石を見ていると、この私でも思っちゃいますねぇ。

やっぱり力石は、担がれてナンボのものかもって。

なお、現代の力持ち、岐阜の大江誉志氏は、
入善町新屋のあの磐持石を見事に担いでいます。

下記をクリック。動画の上から12段目の左端で見ることができます。

「東海力石の会」


※参考文献/「平成28年度 南砺市獅子舞調査回答結果」
     南砺市文化・世界遺産課
     /「北海道の民俗芸能一覧」北海道オープンデータポータル
     北海道電子自治体共同運営協議会 平成30年11月21日現在
     /「道内の獅子舞活動ー富山県・香川県から伝承された獅子舞ー」
     浅見吏郎 2013年3月
     /「新発見・力石」高島愼助 斎藤保夫 岩田書院 2010


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・12)

「埼玉県桶川市寿・稲荷神社➁」

日本一の卯之助石です。

   ーーーーー◇ーーーーー

本日(1・12)、ツバメを見ました。
まだ1月ですよ。静岡県の山沿いでも3cmの積雪。
いくら当地が暖かいからと言っても、飛来、早くないですか。
3羽見ました。エサ、とれるのか心配になりました。

鳥に詳しい方、どうなんでしょう?
近くの沼には、コハクチョウの群れがいるというのに。

こちらは1月4日に撮影したハヤの群れです。
目の前にカワセミが止まりましたが、私に気づいて飛び去って行きました。

CIMG5404 (4)

当地はただいま、冬と春が混在しております。


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獅子舞・南砺物語⑤

獅子舞に入る前に、北海道の力石をご紹介します。

といっても、北海道の力石はわずか11個

石担ぎに興じる余裕がないほど、過酷な日常だったのかもなぁと思いました。

その数少ない力石を二つ、ご紹介します。

一つは、
屯田兵によって開かれたので「屯田兵村」と呼ばれた
旭川市永山にある永山神社の力石です。

「奉納 九斗五升目力石 
 藤川惣吉 二階堂朝太郎 国沢芳之助
「奉納 国沢芳之助

屯田兵村の構成は、1村400人の村が6カ所で、計1,200戸。
入植者は主に四国、和歌山、岡山、鹿児島など西の地方だったそうです。

旭川永山神社 (2)
北海道旭川市永山・永山神社

昭和62年、永山神社奉賛会会長がこんな話を残しています。

「往時、神社祭典、招魂祭には青年衆は相撲をとり、
力石を担ぎ、差し上げるなどして力を競ったものである」

もう一つは札幌市・厳島神社の力石です。

入植は明治4年、岩手県から185人、明治17年に広島県からの入植も。
力石がある厳島神社は、この広島県人によって創建されました。

ここはすでに江戸時代、新道建設のため和人が入り、
明治には陸軍が置かれ、大正時代にはりんご栽培や酪農が盛んになった。

近代には冬季オリンピックの会場となり、
札幌ドームもできて、近代化へ一直線

入植という暗さはあまり感じられません。

石銘は「力石 二十八貫」

台座には14人の「肩揚成功者」の名前が刻まれています。
昭和46年建立。

札幌厳島神社 (2)
北海道札幌市豊平区福住・厳島神社

過酷とはいえ、
政府公募の屯田兵は、家も食料も農具も支給されて恵まれていた。

民間の手引きや自費での入植者はどうだったかというと、

開高健の小説「ロビンソンの末裔」の如き、
惨憺たるものだったのかもしれません。

この小説は、
第二次大戦の戦争末期、政府公募で北海道を目指し、
途中で敗戦となって国から捨てられた入植者たちの悲惨さを描いたもの。

富山県立博物館協会の渡辺玲子氏の、入植の足跡をたどった論文にも、
入植者の厳しい様子がうかがえます。

渡辺氏によると、富山県砺波地方の人たちの主な入植先は、

「石狩国幌向(ほろむい)原野
「十勝国中音更(なかおとふけ)原野」「天塩国名寄太(なよろぶと)原野

原野、原野で気が遠くなりそうですが、
そんな中、人々はふるさとの神社や寺を心のよりどころとし、
ふるさとの祭りを導入してがんばってきた。

その原動力となったのが、富山県で盛んな「獅子舞」だったようです。

まずは富山の獅子舞を、下記の動画でご覧ください。

「南砺市文化芸術アーカイブズ」


※参考文献/富山県博物館協会・渡辺礼子
  「明治・大正期に砺波地方から北海道へ移住したひとびとの足跡を辿る」


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・10)

「神奈川県鎌倉市小袋谷・公会堂」

穴がボコボコ開いています。

   ーーーーー◇ーーーーー

コロナだけでも大変な時なのに、記録的な大雪になってしまって。
雪国のみなさま、どうか、ご無事でいてください。


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忘れ難きふるさと・南砺物語④

北海道に夕張郡栗山町という町があります。

栗山町史によると、

明治二十一年(1888)、宮城県仙台藩士の泉麟太郎が、
「夕張開墾起業組合」を設立し、7戸、24人でアノロ川右岸に入植」

それがこの町の始まりだという。

明治初年、麟太郎の主君の仙台藩筆頭、角田藩・石川邦光が
室蘭に入植したものの挫折。
仙台藩では伊達氏分家も、有珠郡や当別などに入植している。

官軍に逆らった藩は、「人跡隔絶の地」でしか
生存を許されなかったということでしょうか。

藩士の泉麟太郎は頑張りぬき、炭坑と共に発展。町の基礎を作った。

富山県からこの地への入植は、明治24年ごろだそうです。
2年後、炭鉱鉄道が開通。戸数も30戸までになった。

この栗山町に、富山県南砺市・善徳寺で行われている
「盤持大会(米盤持)と同じものがありました。

これです。
栗山町 (3)
北海道夕張郡栗山町中里

残念ながら、この大会は平成十三年(2001)、
運営委員の高齢化などに伴い、72回をもって終了してしまいます。

でも、特筆すべきこともありました。

大会終了の20年前の昭和五十六年(1981)、TBS日曜劇場で、
この盤持大会をテーマにしたテレビドラマが放送されたことです。

題名は「よっこらショ」

主人公の力持ちに鈴木ヒロミツ、その妹に伊藤蘭、妹の恋人に森川正太、
ヒロミツさんと蘭ちゃんの父親役は下元勉。

このドラマ、今から40年も前の放送です。

人気グループキャンデーズで歌って踊っていた女の子の蘭ちゃんも、
すでに66歳。本当に光陰矢の如しですね。

その蘭さんのご主人は、テレビドラマ「相棒」の水谷豊さん。
水谷さんは北海道芦別市生まれ。

ここの芦別神社に力石があったそうですが、今は所在不明。残念!

で、この「よっこらショ」、
なんと昨年11月に2度も再放送したそうで、見逃してしまいました。

こちらは富山県の「盤持大会」です。
img20201212_23535171 (2)
富山県南砺市城端・善徳寺

米俵二俵を担ぎ、片手を差し上げるスタイル、全く同じです。

それもそのはず。

昭和初期に富山県出身者たちが、
故郷の城端・善徳寺の「盤持ち」を導入したことから始まったそうです。

「盤持ち」は、「忘れ難きふるさと」の懐かしい民俗行事だったのですね。

きっと、
善徳寺に掲げられていた「盤持番付」も、思い浮かべたに違いありません。

こちらは古い「盤持番付(ばんもちばんづけ)です。
南砺市城端・善徳寺・板番付

そしてこちらが最近の「番付」です。

番付南砺市提供

その「忘れ難きふるさと」を記憶している人々がいなくなれば、
民俗行事が消滅しても仕方のないことかもしれません。

こちらは2016年発行の「くりやま社協だより」です。

表紙に盤持ちの体験者が載っています。

この栗山町は、明治時代から昭和にかけて炭坑でにぎわい、
町の人口は2万人にもなった。

しかし昭和40年代になると、炭坑の閉山、鉄道の廃止で町は打撃を受けた。

現在の栗山町は、人口約1万2000人、戸数5803世帯。

寂しくなったと感じますが、人口減少、少子高齢化は全国どこも同じです。

今から133年前には、人跡隔絶の地だった荒野に、
仙台藩士の泉麟太郎主従が7戸、24人で入植した。

その7戸から5803戸24人から1万2000人になった。

ここが新たな「忘れ難きふるさと」になった人が、1万2000人もいるのです。

この町には宮城県人、富山県人の不屈の魂が根付いている。
だから、何にも負けない強さがある。

私はそう思いたい。


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・7)

「富山県射水市大江・永森神社」

ものすごく立派に保存されています。

   
   ーーーーー◇ーーーーー

追悼・はなタン

ブログ「わがまま勝手な呟き」の麿さんの愛犬・はなタンが永眠しました。

会ったことはないけれど、
ブログから、心優しい控えめなワン子さんを想像していました。

はなタン (3)

写真の無断使用、麿さん、ごめんなさいね。


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屯田兵?・南砺物語③

みなさま、お正月はいかがお過ごしだったでしょうか。
私は食っちゃ寝の寝正月。

腹ごなしに散歩に出たら、公園の上空にたくさんのカイト(凧)が…。
沼を埋め立てて造った広い広い公園です。
スケボーやローラースケート、一輪車の子もいます。

子供たちの歓声が風に乗って舞い上がっていきます。
凧あげは子供よりお父さんの方が必死。

子供たちの元気な声、ホッとします。
久しぶりにお正月らしい光景に出会って、大満足でした。

もう少し、富山県の話を続けます。

   ーーーーー◇ーーーーー

「夜高祭」の福野町に、桐木(きりのき)という集落があります。

この集落の墓地に力石が一つ置かれています。

これです。

南砺市桐木・古井家墓地
富山県南砺市福野地区桐木・古井家墓地 71×40×24㎝

刻字があります。

「大正七年四月一日於地蔵堂庭 桐木村力士 古井□□肩此石
北海道中士別 長谷川政五郎記」

桐木村の古井家のどなたかが、地蔵堂の庭でこの石を肩まで担いだ。
その栄誉を後世まで伝えるため、
北海道中士別の長谷川政五郎さんがそれを石に刻んで奉納した。

この桐木村は、野口雨情に歌われた
「人寄せ石」の今井政次郎の生地、梅ヶ島村の近くです。

二つの石の刻字年代も近いので、二人は顔見知りだった可能性があります。
もしかしたら、北海道の長谷川政五郎も昔の仲間だったのかもしれません。

で、注目したいのは、「北海道中士別」という地名です。

士別市はどこかというと、旭川・旭山動物園の上部、赤丸のところです。

Hokkaido_x.gif

ここは元ボクシング世界王者の輪島功一氏が育った町。
そして、今は「めん羊の町」として有名ですが、

かつては一面の原野。

明治七年(1874)、ロシアの南下を恐れた明治政府は、
北海道の警備と開拓のため、
屯田兵(とんでんへい)」制度を作って多くの人を送り込んだ。

実はこの制度の本当の目的は、
明治維新で失業した大量の武士の救済反乱防止

当然、最初の入植者は失業士族だったが、のちに一般平民に替わった。

制度発足から25年後の明治三十二年(1899)、
この士別市へ約100戸入植。

富山県からも多くの農民が新天地を求めて渡って行った。

しかし欧米列強のアジア植民地化や日清戦争の勃発で、
政府の目は朝鮮半島や中国大陸へと移ったため、
「屯田兵制度」は明治三十七年に廃止。

士別は「最後の屯田兵村」になったという。

2019年、士別市では屯田兵の住まいを改修復元。

「改修前」と「改修後」の家をご覧ください。

「屯田兵屋改修復元事業概要」

極寒の地なのに、あまりにも粗末な家で驚きました。

ヒグマや毒虫の危険を伴いつつ、クマザサが生い茂る荒れ地の開墾。
当時の苦難を文字で知るだけでも、すさまじさが伝わってきます。

そんな中でも事業を起こし成功する者もいた。

力石に「中士別」と刻んだ「長谷川政五郎」が、
入植者だったかどうかはわかりません。

でも私はこう思いたい。

新天地で成功した一人で、石に自分の名を刻むことで、
故郷に錦を飾ったのかもしれない、と。

しかし今はもう、
「北海道中士別」の文字を刻んだこの力石だけが、
長谷川政五郎の生きた証しを伝えるものとなりました。


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・4)

「静岡県賀茂郡河津町谷津・河津八幡宮」

待ってました! 仇討ちの曽我兄弟のお父さん登場です。

といっても、今どき「曽我兄弟の仇討ち」と言っても通じるかどうか。
ま、とにかく、鎌倉時代の力石です。


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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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