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もう一人いた稲毛の力持ち

新型コロナウィルス、みなさまのところは大丈夫でしょうか。

当地ではまだ感染者はないものの、
大学の卒業式やイベントの中止が出始めました。

見えない敵だから、だれかが「コン」と咳をすればビクッ

過剰反応とわかっていてもやっぱり気になりますね。

でもここは落ち着いて、力石です。

武州橘樹郡には弥五郎のほかにもう一人、稲毛を名乗る力持ちがいました。

その名も「稲毛の平次郎」

こちらは「弥五郎」の足跡を示した地図です。

area_kanto (3)

ご覧のように、弥五郎の活動範囲は関東に集中しています。

一方、平次郎は反対に西へ向かっているんです。

稲毛平次郎=本名・新堀平次(治)郎(明治14年没)
         橘樹郡南加瀬字越路(川崎市幸区)出身。

下の写真は、
神奈川からはるか遠い九州・福岡県に残された平次郎の力石です。

有形民俗文化財になっています。
基台の石には世話人として、港関係者の屋号が20数名刻まれています。

福岡市中央区港・住吉神社
福岡県福岡市中央区港・住吉神社 41×82×37㎝

  「奉納 力石 江戸 稲毛平次郎 同 春吉
                加奈川權次郎 竹澤庄吉」


この石には、横浜出身の「神奈川權次郎」の名も出てきます。

神奈川(加奈川)權次郎=本名・内田(文政11年~大正4年)
 現在の横浜市都築区川向町出身。

權次郎は11個もの力石を残し、そのうち6個が文化財指定
慶応3年の「大阪力持番付」にも名を残した大物です。

平次郎はこの大物の一座に入って、興行に出かけたのでしょう。

各地には力持ちをひいきにする大店の旦那衆がいて、
江戸からの力持ちを招いて、
祭りを盛り上げることが盛んに行われていました。

同じ福岡市博多区の櫛田神社にも、この二人の力石があります。

こちらは「鬼熊」の名と共に刻まれた平次郎の「大亀石」です。
「嘉永五年」に持ち上げました。

鬼熊=熊治郎(明治18年没)
     神田鎌倉河岸の酒問屋「豊島屋本店」の奉公人。

幸区北加瀬・寿福寺1
神奈川県川崎市幸区北加瀬・寿福寺 110×80×20㎝

石の裏面には昭和49年当時のご住職の、
「力持平次郎」を讃える言葉が刻まれています。

また説明板には、

「石の材質は六ヵ村(ろっかそん)と言われ、
小松石、根府川石などの安山岩の総称。
江戸城築城のとき、相模国六ヵ村より採石したことに依る」

と書かれています。

矢向の弥五郎もこの「鬼熊」と併記した力石を残していて、
同郷の平次郎とは同じ時代に活躍していますが、
なぜかこの二人が交流した痕跡は見つかっておりません。

こちらは力石を使った平次郎の墓石です。
幸区北加瀬・寿福寺3
寿福寺

表に梵字で「楽誉明道信士」

楽しく明るく我が道を生きた誉れの人…。(我流の解釈です)

ちなみに、鬼熊の戒名は「勇猛院熊力信士」

ご子孫によると、
「大亀石と墓石にした石は、安政3年に川崎大師前の若宮神社で持ち上げ、
その記念に持ち帰ったもの」だそうです。

で、
「興行のあと、馬の背にお金をドッサリ付けて帰ってきた」とか。

お金をドッサリ。

これじゃあ力持ち、やめられません。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「九州・沖縄の力石」高島愼助 岩田書院 2009
              /「神奈川の力石」高島愼助 岩田書院 2004

    =追記=

安田和弘氏のブログ「山の彼方に」に、衝撃的な記事が載っています。

300年昔の、いわれのある地蔵さまが首を切られ破壊された。
粗末に扱われている力石どころではない。
お顔のあるお姿をどうして。

痛ましすぎる。

※この地蔵様の一件について、工事などの関係者の方が
  ここに至った経緯を安田さんのブログに寄せています。
  市にも関係各方面にも地蔵様のことを相談されたようですが、
  解決できなかったそうです。

  地蔵様の「魂抜きをしてから解体した」そうですが、
  痛ましく思ったことは関係者も同様だったことがわかりホッとしました。

  でも誰にも引き取られることを拒まれた地蔵様は哀れ。
  こういう場合はどうしたらいいんでしょうか。
  
  いろんな問題を提起した記事だったと思います。
  

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「稲毛」解決篇

埼玉で見つかった弥五郎の「稲毛」刻字の力石。

その「稲毛探し」に捜査の鬼と化した?斎藤氏、
さまざまな資料を繰るうちに、
最願寺という寺の梵鐘に「稲毛」銘があるとの資料を見つけます。

しかもその最願寺は、
弥五郎の「豊遊石」がある日枝神社と同じ横浜市鶴見区矢向にあった。

記録によると、梵鐘は寶(宝)永七年(1710)銘で、
「橘樹(たちばな)郡稲毛庄矢向郷」と刻されているとのこと。

念には念を入れて、
文化文政期に編まれた地誌、「新編武蔵風土記稿」で再確認。

ここでめでたく、稲毛と矢向が結びつき、
「稲毛弥五郎」「矢向弥五郎」同一人物であることが判明した。

こちらは2010年に斎藤氏が新発見した「矢向」が入った「弥五郎」石です。

   「三光石 □蔵□し 杜氏 勇助 矢向弥五良 
                     □□□□ 同 市太良 小川清八」

中央区院内・千葉神社5
千葉市中央区院内1‐16‐1 千葉神社 79×51×39余㎝

そんなわけで、「稲毛問題」は無事解決の運びとなりました。

横浜近辺にお住いの方にしてみれば、
「稲毛も矢向も神奈川県だってのはアッタリメエじゃねぇか」
と笑われそうですが、

他県の人間には「アッタリメエ」ではないんですよね、これが。

この武蔵国橘樹郡には、
稲毛、川崎、神奈川、小机の4つの領があったとか。

稲毛領は多摩川と鶴見川の支流・矢上川にはさまれた地域で、
56ヵ村所属という橘樹郡内最大の行政区。

現在の川崎市多摩区、宮前区ほか、横浜市港北区、保土ヶ谷区、
鶴見区などがそれだそうです。

弥五郎の石には、「稲毛」「矢向」のほかに、「川崎」地名も出てきます。

なぜかというと、
もともと「稲毛領」だった「矢向村」、治水の関係で「川崎領になった」から。

下は今回の「武州稲毛」銘の石を描いた酒井正氏のスケッチです。

同じ場所を撮影した前々回の、
「へいへいさんの写真」とともにお楽しみください。

img20200126_20080838 (2)
埼玉県春日部市粕壁東・東八幡神社

   力石(いし)の背を色なき風の撫でゆけり   酒井一止


酒井氏は本名の「正」を「一」と「止」に分解して、それを俳号にしています。

同じ風でも師匠の高島先生のはこんな「風」。還暦の頃の句です。

   六十歳(むそとせ)に力石追う秋の風   三重之助


三重県在住なので、三重之助です。

年がら年中、
「トンボつり、今日はどこまで行ったやら」でしたから、

家庭はほったらかし

でも退官された今は苦労をかけた奥さまと二人で、
畑を耕し、果樹の手入れをするファーマーに変身。

昨年はお二人自慢の甘夏を送ってくださったんです。

CIMG4837 (2)


   甘夏を食べつつ力石(いし)のブログ書く   ちから姫


<つづく>


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稲毛ってどこよ?

前回、卯之助研究の第一人者・高崎氏が、
一か所だけ読み間違えた

ということをお伝えしました

古文書でも、
どんなベテランも迷ったり間違えたりします。

それは決して恥ずべきことでないことを先輩たちから教わりました。

で、紙の文字でそうですから、
雨風や炎天で傷だらけの石の判読はさらに難しい。

それを次なる研究者が再調査して正す。
それが調査の醍醐味になっているのもまた事実です。

さて、読み間違えた一か所はどこかというと、

ここです。赤丸の中。
八幡ヘイヘイさん東 (2)

黄丸の中は武州武蔵国
今の埼玉県、東京都、神奈川県の一部です。

これをちょっと頭の片隅に置いといてください。

赤丸の中の二文字の最初を高崎氏は「福」と判読。

たぶん、確固とした信念で。

確かに最初の一文字は「福」に見えます。
その下の文字はどうみても「毛」に見えます。

これは私の想像ですが、高崎氏も「毛」と判読したのではないか、と。

ただ武州に「福毛」などという地名はあったかな?と疑問に思い、
それで二文字目は判読不能の「□」とし、「福□」と記録したのでは、

と私は想像したわけです。

これを論集「三ノ宮卯之助(2)」で読み、疑問を感じた斎藤氏、
再調査に出向き、
これを「福」ではなく「稲」と読み、この二文字を「稲毛」と断定。

ところがここで斎藤氏にも迷いが生じた。

稲毛といえば、上総国(千葉県)です。

でも弥五郎の出身地は武蔵国(神奈川県)川崎矢向(やこう)。

弥五郎が川崎の出身なのは、
先にご紹介した木売集会所の石でも明らかです。

こちらの石にも「川嵜(川崎)庄」とあります。
上花輪太子堂・神明神社2
千葉県野田市上花輪・神明神社

千葉県山武郡九十九里町の面足神社にも、
弥五郎が持った「河崎」銘の力石があります。

「稲毛」地名は千葉県にあって、
その刻字石も千葉県にあるけれど、肝心の弥五郎は神奈川の産。

だから、ややこしい。

一体、この「稲毛」ってどこよ?

その謎解きは次回のお楽しみってことで。

えっ、全然、楽しみにしてないって?

ショボン…。


     =おまけの写真=

上記の野田市上花輪・神明神社の力石、
以前はどんなだったかというと、

こんなんでした。2005年ごろの写真です。
img20200213_10311482 (2)

その4年後、立派な説明版をつけて上の写真のように保存されました。

でもそれから11年、今、どうなっていますか、ちょっと心配。


<つづく>

※写真提供/ブログ「へいへいのスタジオ2010」
        高島愼助
※参考文献/四日市大学論集大17巻1号「三ノ宮卯之助(2)」
        高島愼助 高崎 力 2004年9月

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弥五郎、巨人に挑む

有名力持ちが持ち上げた力石に、別の力持ちが挑んだ。

そんな例が埼玉県春日部市にも残されています。

有名力持ちとはあの三ノ宮卯之助、挑んだのは矢向弥五郎です。

右から二つ目のひときわ大きな石がそれです。
1卯之助・弥五郎
埼玉県春日部市粕壁東2‐16‐57 東八幡神社  80×47×25余㎝

この石の刻字は長いんです。

「奉納 力石百貫余 天保三辰二月吉日 伊勢講中 
三ノ宮 卯之助 持之」

刻字の途中ですが解説です。

天保三年(1834)=幕末。日本の沿岸に異国船が現れ始めたころです。
そんな時代背景の中、
卯之助はここで百貫目余(375㎏)もの石を見事、持ち上げます。

刻字のつづきです。

「嘉永元年 申十月十六日 武州稲毛 弥五郎 持之」

卯之助がこの石を奉納した14年後、今度は弥五郎が挑み見事担いだ。

嬉しかったでしょうね。
さっそく、大先輩の横に自分の名を刻みました。

これを追刻といいます。

こんな具合です。
八幡ヘイヘイさん東

   
    力自慢競ひし後に奉納の
            力石なれ名前刻める 
   天野 翔


天野 翔氏 神奈川県在住の歌人。

ブログ「天野 翔のうた日記」を書かれています。

本格的な歌詠みの方が、力石の歌を詠んでくださっています。
誇りに思います。

    今日もまた無駄足になるをおそれつつ
            「ちからいし」とふバス停に下車



天野さん、しっかり「力石病」にもなっています。うれしいな。

こんな歌も詠んでいます。場所は鎌倉市の下関青少年広場。

静寂、孤高。
力のかたちは違えど、
昔と今の若者が見えない糸でつながっているような光景です。

    ただ独りサッカーボール蹴つてゐる
               広場の隅に力石二個



卯之助石に追刻した弥五郎の話に戻ります。

卯之助研究者の高崎 力氏によると、

「卯之助は嘉永元年六月に江戸力持番付の東の大関になった。
その名声を慕って4か月後に、弥五郎が挑んだものと思われる」

その番付の一部です。
右端に「大関 江戸 三ノ宮 卯之助」の名が見えます。

img20200208_19474764 (2)
山梨県立図書館蔵

「この春日部市(旧粕壁町)は、東武蔵のほぼ中心地で、
南北に日光街道、東西に岩槻街道が交差し、
古利根川の河岸場を持つ町。

この八幡さまでの卯之助力持ち興行は、
伊勢講中の全面支援で盛大に催すことができた」(高崎 力氏)

ここで水を差すようで気が引けますが、

実は卯之助研究の第一人者の高崎氏、
刻字の解読を一か所間違えました。

こんな偉い方でも、とヒヨッコの私は妙にホッとしたりして…。

で、どんな読み違いをしたかというと…。


<つづく>

※写真提供/ブログ「へいへいのスタジオ2010」
※参考文献/四日市大学論集・第17巻1号 抜刷「三ノ宮卯之助(2)」
         高島愼助 高崎力 2004年9月
        /「力石を詠む」(一)~(十)高島愼助 岩田書院 
         2006~2017(既刊)、2020(近日中刊行予定)


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「石狂い」

埼玉県吉川市の民家の石捨て場で、
矢向弥五郎の石を発見して、「狂喜雀躍」した斎藤氏、

その3年後の2018年7月3日、弥五郎石をまた発見します。

場所は同じ吉川市内の集会所。

右の碑は、この集会所建設の寄付者名を刻んだ記念碑です。
2個の力石は、
記念碑建立の平成元年に一緒に保存されたのかもしれません。

売1木
埼玉県吉川市木売2‐8‐4 木売集会所
89×45×34㎝ 60×36×27㎝

  「百貫目余 東海道 川崎領 矢向弥五郎」

  「八斗 木」

大きな石が「弥五郎」石、ちょっと小ぶりな石は「八斗」石です。

寄り添うように仲良く並んだ石を見て、斎藤氏、こんな歌を…。

   睦まじく午睡してるや力石(いし)二つ  
                「弥五郎」ついに「八斗」娶るか

弥五郎さん、長い独身生活に別れを告げて、とうとう、
麗しくも控えめな「八斗石」嬢を女房にしましたか。

売3木

時代が人力から機械化へと変わり、
同時に、若者たちに力をつけた力石も忘れられ消えていった。

そういう置き去りにされた力石を探すのは容易ではありません。

   足棒にして力石(いし)尋ぬ秋の暮れ

やっと見つけて駆け寄ってみたら、

   稲刈りの匂いや藪の力石

   差し石や終の住処が路傍とは

人はもちろん力石だって、ホームレスになるのはつらいよね。

そんな石たちに、
「差し石だって目鼻をつければ石仏だよ」
「隣の石碑より小さいけれど、お前、胸張っていろよ」

と、自分を励ますように声をかける。

売4木

同じ神社境内でも、立派に保存された力石もあれば、
無刻ゆえに石捨て場に捨てられてしまった石もある。

   一つだけ蚊帳の外かよ無刻力石(いし)

それでも見つければ喜び勇んで、

   雷鳴やそれ測れ撮れ力石

雷が鳴ろうが指を蚊が刺そうが、寸法測定と撮影と刻字解読に余念がない。

ちょっと落ち込むのは、「不審者」に見られること。

怪しんでそっと見ていたのだろうか。
石の寸法を測っている背後で窓の閉まる音がする。

自分の傍らで興味津々で見ていた幼子を、
険しい顔で呼び戻すお母さん。

売2木

でも力石をご存じの方がまだまだいた。

ヤブ蚊を払いつつ和尚さんは寺の自慢の力石を語り、
稲刈りの手を休めて、力石の体験談を語ってくれたご老人。

老婦人は戦時中の若者と力石の話を聞かせてくれた。

いつの間にか日は暮れて、
どこからか秋刀魚を焼くにおいがただよってきた。

    石探索終えて夜寒の帰り道
              遥か地平にぬっと満月


体は冷え切り、自転車のハンドルを握る手が凍る。
急にお酒が恋しくなった。

そんな斎藤氏を悪友たちはからかいつつも励まし続ける。

    悪友の投げた渾名や「石狂い」


<つづく>

※参考文献/「力石を詠む」(一)~(九) 高島愼助 岩田書院
         2006~2017
         「力石を詠む(十)」は近日中刊行予定。
※短歌・俳句はすべて斎藤氏(俳号・呆人)の作品です。


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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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