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ほんに憎い男

隅田川河畔にあったという薬研堀(やげんぼり)。
その人工の掘割りに掛かっていた「元柳橋」
そこから見える両国橋は、
絵師の題材や異人さんたちの格好の撮影ポイントになった。

その元柳橋の両端には「女の髪を振り乱すがごとく」
勢いよく葉を茂らせた二本の柳の木があって、夫婦柳と呼ばれていた。

img077 (2)
「柳橋新誌・初編」(成島柳北 安政6年)より

そしていつしか柳は一本だけになった。
だが、その傍らにはいつのころ置かれたのか誰も知らない
「大王石」と刻まれた力石があった。

この大王石に関する情報は、たった2件しか得られませんでした。
地団駄踏んでもでんぐり返ってもそれだけ…。

その2件というのがこちら。
大正2年(1913)に没したおもちゃ博士の清水晴風と、
昭和5年(1930)に没した江戸和竿師の中根忠吉です。

二人とも、「元柳橋の大王石」と証言したものの、
晴風はこれを持った力持ちを「柴田勝蔵」といい、
忠吉は「柴田幸次郎」と書き残している。

困るんだよなあ、はっきりしてくれなきゃ。

とまあ、いきり立っても仕方がない。
柳ついでにこんなものをお見せします。
私が住む静岡市の駿府城公園です。

CIMG3660.jpg
このときはまだ芽吹き前でしたが、柳はお日さまが大好きな陽樹だそうです。

で、これはただの柳ではありません。
なんと、東京・銀座の柳の二世なんですって。

CIMG3659.jpg

さて、大王石を追いかけているうちに、
それを持ったとされた柴田幸次郎から、
思いがけず幕末の外国奉行柴田剛中へ行きつき、
それをきっかけに、幕末・明治維新へと踏み込んでしまいました。

幕府崩壊で人生が一変した旧幕臣たちの哀しく悲惨な姿も垣間見ました。
奥勤めだった大名が深編み笠で顔を隠し、
着たきり雀の紋付の着物でムシロに座って物乞いに落ちぶれていた、
そんな姿も…。

「柳橋新誌」の著者で元・奥儒者だった成島柳北(なるしまりゅうほく)は、
新政府からの士官の誘いを断って野に下り「朝野新聞」を創刊。
政府の「言論取締法」を批判して監獄に4か月、罰金100円を課せられた。

「衣解き、ふんどしを脱して(すっ裸で)獄吏の検査を受く。
幽室に鎖さるる。厳寒の身にせまるや。
身に伴うものはただ糞・痰つぼの二物のみ。
豈、馬鹿馬鹿しからずや」

獄吏は成り上がりの薩摩藩士。
さまざまないやがらせを仕掛けてきた

明治政府は「讒謗律(ざんぼうりつ)」「新聞紙条例」を作って言論弾圧を強め、
政府批判をした者や批判者を擁護した者を容赦なく監獄へぶち込んだ。

柳北が投獄されたとき、30名ほどの記者が牢獄につながれていたという。
それでも言いたいことは言う。
明治のジャーナリストたちはなかなかが据わっていた。

成島柳北です。享年48歳。
北成島柳

奥医師・桂川甫周の娘の今泉みねさんは、著書で柳北のことを、
「お顔の長い方でしたから、何となくお馬さんの感じがした」
と書いていますが、確かに。

そんな柳北さん、著書「柳橋新誌(りゅうきょうしんし)・二編」の中で、
「新しい権力者になった薩長の田舎侍たちが金と権力を振りかざして、
慣れない花柳界で遊び狂う様子」を嘲笑っています。

で、入獄したのは、柳北や新聞記者ばかりではなかった。
画鬼といわれた天才画家・河鍋暁斎もまた諷刺画を描いて手錠をかけられ、
「元柳橋両国遠景」を描いた小林清親は、
薩長政府を諷刺したポンチ絵を連載して官憲から睨まれた。

清親自身は逮捕は免れたものの、
掲載誌の「團團珍聞(まるまるちんぶん)は、
社長のたびたびの入獄や罰金、発行禁止を食らった。

「元柳橋両国遠景」小林清親
0421-C069 (7)

それはともかく、清親のこの絵、気になりますねえ。

「髪振り乱すがごとく」萌え盛る柳の木。その根元に置かれた大王石。
この柳の(胸騒ぎ)と力石の(沈黙)、暗示的です。

清親研究者の評論を読んでも、どなたもこの石のことには触れていません。
私は全くの素人ですが、この石の存在は大変重要で、
この激しく感情をあらわにした柳だけでは、この絵は成り立たないのでは?

清親がこの絵を描いた当時、このあたりはゴミゴミしていた。
そういう余計なものをきれいに取り払い、
柳と力石だけを残してそこに訳ありげな男女を配置した。
柳と石はこの二人の心象風景と言ったら言い過ぎでしょうか。

どうなんでしょう、清親研究者さんたち。

屁理屈はさておき、絵の続きをもう少し。

遠くに霞む両国橋。
ちょき船もやう朝霞の岸辺に誰かを待つように佇む着流しの男
そこへ粋な姐さんが声をひそめて、
「もし、幸次郎さん」

てなわけ、ないよなあ…。

そうそう。
反骨の人・成島柳北の甥の子供って、俳優の故・森繁久彌さんなんですって。

話が逸れました。

3年かけて追い続けた大王石と柴田幸次郎ですが、
いつまでたっても、

    幕末の元柳橋隅田川
           大王石は古写真の中


というわけで、その行方は杳(よう)と知れず。
そこで、いろいろ考えました。

この大王石の情報を残した晴風と忠吉は共に幕末生まれですから、
文化文政期に活躍した勝次郎(勝蔵?)やそのころいたらしい幸次郎の力技を、
実際見たわけではない

しかし伝聞であれ、
忠吉さんが「鬼勝」ではなく「鬼幸」と記憶していたことから、
勝次郎を幸次郎と聞き間違えたとは思えない。だから幸次郎は存在していたはず。

また、勝蔵か勝次郎かの問題にしても、
大阪へ力持ち興行に出掛けたのは勝次郎であることを
番付が証明していますから、晴風が「勝蔵」と書き残したのは、
晴風の単なる勘違いではないだろうか。

だとしても、一つ疑問が残ります。

「大王石」に刻まれた文字の書体が、
勝次郎が残したほかの石の文字とも、
もう一人の神田の力持ち、柴田四郎右衛門の石とも違うのです。

そこで私はこう推理しました。

この大王石は初め柴田幸次郎が差し、記念に「大王石」と刻字した。
それをのちに勝次郎が差し上げた。
勝次郎の死後、この石に挑戦する者はなく、
長い年月、元柳橋の柳の木の下に置かれていた。

そして明治36年の薬研掘の埋め立ての折り、そこに埋められてしまった。

新事実が出てこない限り、「ハイ、それまでよ」というわけで、
話の種が尽きました。

赤丸のところに、かつて元柳橋と柳の木と大王石があった。
img635 (3)
東京都中央区東日本橋

下の写真は上の地図と同じ場所です。
星マークのあたりに大王石が埋まっている、かも。
で、よくよく見たら、
日本橋中学校寄りに柳の木が一本、恨めし気に立っているではありませんか。
うーむ。因縁を感じます。

斎藤元柳橋あたり
斎藤氏撮影

モシ、幸さま。
ぬしはとうとう姿を見せなんだ。

ほんに憎い男じゃわいなァ
 
   チョーーーン

<幕>
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龍の子は亀?!

今回は「亀」のお話です。

清水晴風が「神田の力持ち三傑」の一人と認めた米搗き屋の柴田勝蔵は、
群馬県と都内に4個の力石を残した柴田勝次郎に違いない、
という設定で話を進めます。

この勝次郎は、
子分に紋次郎、吉五郎、文八などを従えた「柴田連」のリーダーでした。
その「柴田連中」が差し上げた石の中に「亀」文字の力石が二つあります。

一つはこちら、「小亀石」です。
浅草・待乳山聖天1 (3)
東京都台東区浅草・待乳山聖天 70余×50×20㎝ 斎藤氏撮影

「小亀石 文政十歳 柴田連中」

この力石は、
埼玉県の研究者・斎藤氏が2010年12月25日に新発見したものです。
12月25日といえば巷ではクリスマス。
最近は私の住む田舎でも個人のお宅のイルミネーションが凄い。

私はそんな「誘蛾灯」に幻惑されて石探しを休み、
有名な光の回廊なるものに泊まりがけで3年も続けて出かけましたが、

CIMG1218.jpg

斎藤氏は違います。
光りの届かない路地から路地、古びたお堂や昔の街道、船着場の跡などを、
ポタリングや徒歩で地道に調査。
その結果が668個もの力石を新発見したという偉業です。
なにしろ、昨年10か月間だけでも、24個も見つけているのですから。

その24個の中に、先日ご紹介した隅田川河畔の「石庭の力石」や、
寿司屋さんの「廿六メ目」が入っています。

中でも特筆すべき発見がこれ、「大亀石」です。
CIMG0802 (5)
台東区浅草・浅草寺 86×48×35㎝ 

この石の刻字は、今まで「大亀石」のほかは判読不能とされてきましたが、
斎藤氏は誰にもできなかった文字の判読に成功
なんと、これ、柴田勝次郎の力石だったのです。

「大亀石 文政九 戌 歳 柴田勝治郎□」

石には所有者もいますし、重いから動かして調べるわけにもいきません。
何度も通い指でなぞり、可能な限り写真に撮って判読に挑戦。
ついに、「大亀石」と「勝次郎」とを明らかにした、というわけです。

さて、この「亀」文字です。
形状が亀に似ているから小さい石を「小亀」、大きいのを「大亀」とした、
初めはそんなふうに考えていました。

でも実際には「小亀」と刻まれていても「大亀石」より大きいものもあります。
勝次郎の「小亀石」もかなりの大きさですし、刻まれた文字からも
この石には特別な意志が込められているようにも思えます。

「亀」という文字をなぜ好んで使ったのか。

石に限らず昔から、大きな亀は「霊亀」といわれ、
特に大切に扱われてきた。そのことが引っかかりました。

こちらは「霊亀石」と呼ばれる手水石です。
享保18年(1733)、漁師たちが霊亀の導きで海中から引き揚げたものとか。

手水石の縁の穴は「盃状穴」(はいじょうけつ)といいます。
「霊亀」の力にあやかろうと、小石で根気よくこすって穿った願掛けの穴です。

 CIMG1033~1 (2)
神奈川県川崎市・石観音堂

ついでに、この石観音堂の力石をお見せします。

CIMG1021 (3)

「亀の碑と正統」(平勢隆郎 白帝社 2004)という本を読みました。

みなさんは巨大な亀の背中に石柱をのせた碑を見たことはありませんか?
これ、「亀趺碑(きふひ)というのだそうです。

私がこの「亀趺碑」を初めて見たのは20年ほど前。
会津若松市の会津藩松平家墓域でのことでした。

そのときの写真、探せど見つからず。
チョンマゲつけた城のガイドのおじさんとのツーショットもあったのに。
で、「亀の碑と正統」からお借りしました。

こんな感じのものです。
img035.jpg
鳥取県岩美郡国府町・池田光仲墓石。

会津で私は、
巨大な亀の背中にこれまた見上げるように建つ巨碑に度肝を抜かれました。
もうホントに異様
そんな「亀趺碑」が山全体に林立していたのです。

勝次郎の「大亀石」を見たとき、ふと、その会津藩の亀趺碑が甦りました。

「亀の碑と正統」によると、「亀趺碑」は古く中国から起こったそうです。
こんな伝説があるそうです。

がたくさんの子供を産んだ。
龍の子供なのに龍にならずみんな亀になった。
中でも、最後に生まれた子はただの亀ではなかった。
贔屓(ひいき)という大亀(霊亀)で、
この大亀は重いものを好んで背負った。

が碑を背負う「龍趺碑」は親の皇帝だけが許されるもので、
だから、その子供たちはみな「亀趺碑」を建てた。
「亀趺碑」の亀の顔に牙や角が付いたものがあるのは、
親が龍だからなんだそうです。

これが朝鮮半島から日本へ伝わったというのです。

こちらは「亀」文字が刻まれた力石です。

鬼熊川崎平次郎が持った「大亀石」と奥戸村伊勢が持った「大亀」
img034.jpg img033.jpg
川崎市幸区・壽福寺 110×80×20㎝  葛飾区奥戸・天祖神社 64×61×30㎝

またこんな話も…。

中国、漢代の墓から出土した帛画(絹織物に描いた絵)に、
「水に浮かんだ大地力士が支え水際にがいる」

そんな絵が描かれていた。
これがのちに、力士の代わりに亀が大地を支える構図に変わったという。

ひるがえって力石をながめてみると、
石銘には中国の故事から命名したものが少なからずあります。

「龍」「虎」「鳳凰」「玄武(亀)」なども多いのですが、
これらは単に「勇猛」を強調しただけとはいえないような気がします。
東西南北を守る四神の青竜、白虎、玄武、朱雀になぞらえたのでは、
と、私は思っているのです。

漢の遺跡から出た帛画の「大地を支える力士」を、
江戸っ子力持ちに置き換えてみると、壮大な気分になります。

「大亀」を両手で差している土橋久太郎です。

勝次郎15065487-s (6)

彼ら力持ち力士は、大地を支えているという「大亀」を、
その大亀ごと大地を支え持つように、好んで空高く差しあげた。

勝次郎の「大亀石」も、鬼熊や平次郎や伊勢、
それに、大阪での興行で土橋久太郎が差し上げた「大亀」も、
龍の子供の贔屓(霊亀)であった、と私は思いたい。

コジツケ過ぎでしょうか。


  =ちょっと一言=

最近、ヤフオクに清水晴風こと「筋違車半」が載った
明治23年の「力持番付表」が出品されたそうです。
斎藤氏が気づいたときはすでに落札されたあと。

「逃がした魚は大き過ぎる」と斎藤氏、悔やむことしきり。

どなたが落札したんだろう。
なにはともあれ、力持ちに興味がある方がいたなんて嬉しいです。
私のこのブログもお読み下さっていたなら、なお嬉しい。


<つづく>

お釈迦さまでも気がつくめえ

埼玉の研究者、斎藤氏から封書が届きました。

「晴風の墓石のさし石は力石本には未登場。正しく”誌上新発見!”ですね。
やりましたねぇ。おめでとうございます」

ひやー、嬉しいなあ。大先輩に褒められちゃった。

で、斎藤氏の凄さはそのあとです。
なんと、すぐ本妙寺に出向いて詳細を調べてきたとのこと。
そして新たな写真を送って下さったのです。

改めて、おもちゃ博士・清水晴風の力石の墓石です。
どうです、この堂々とした風格。東京の町が小さく見えます。

img069 (2)
東京都豊島区巣鴨5-35-6 本妙寺

斎藤氏は寸法も計ってきてくれました。
墓石の寸法を計るなんて、「かなり怪しい人」ですが、
これも大事なことですから、お寺さま、勘弁してくださいね。

寸法は、61余×42×23㎝

正面  「泰雅院晴風日皓善男子」
左脇  「大正二年七月十六日歿」 右脇下 「十一代目 清水仁兵衛

左側面 「園笹院妙厳日達大姉」
真下に、「昭和十五年十二月六日」「俗名 清水クノ 七十八□」

この「清水クノ」さん、奥さまのようですが、奥さまの名は「タツ」なので、
墓石の字は細字だったということから、
磨滅して「クノ」になってしまったのかもしれません。

別の角度から見ると、かなり大きな力石だということがわかります。
img069 (3)

大正14年、晴風の三回忌に知人らが記念碑を建てました。
それがこちら(左)。かなり磨滅して不鮮明なので、右に、
「おもちゃ博士・清水晴風」(林直輝ほか 社会評論社 2010)
からお借りした拓本を載せます。

碑の中央に晴風が描いた「玩具涅槃図」が彫られています。
これは釈迦入滅のパロディで、
寝釈迦の周りを弟子たちの代わりに玩具が囲んでおります。

img069 (4) img070.jpg

これには94人の名が刻まれていますが、山中笑(共古)、淡島寒月、
市川団十郎、松本幸四郎、四代目歌川広重、内田魯庵、巌谷小波、
などのほかに千社札の「いせ万」「高橋藤」なども名を連ねています。

斎藤氏が「こんな墓もありました」と送ってくれたのは、
あのテレビ時代劇「遠山の金さん」こと「遠山金四郎景元」の墓。

img069.jpg

おお、北町奉行の金さんじゃないですか。
片肌脱いで桜の彫り物を見せてのあの啖呵、

「この桜吹雪、散らせるもんなら散らせてみろい!」

中村梅之助も高橋英樹もカッコ良かったなあ。

あ、でも桜吹雪ってすでに散り始めた桜ですよね。
散り始めた桜に「散らせるもんなら」ってのは、?

ここは一つ、こちらのセリフでどうでしょう。

「背中に咲かせた遠山桜、
     散らせるもんなら散らせてみやがれ!」


金さんが見せるのは背中じゃなくて肩から腕なんだけど、まあいいか。

奇しくもこの遠山様と晴風さん、享年が同じ63歳なんです。

さて、斎藤氏は埼玉から東京、再び埼玉へととんぼ返りしたあと、
「東京の力石」(高島愼助 岩田書院 2003)などに掲載の番付から、
清水晴風こと「筋違車半」の名をまたまた見つけてしまいました。

今まで、清水晴風が「筋違車半」だとは誰も気づかなかったため、
見逃してしまっていたのです。
というより、
力石研究の上智大学の故伊東先生からも地元の研究者からも、
晴風の名は一度も出てこなかったのです。

言われてみれば、確かにありました。
明治21年の「力持興行広告」の中に年寄として出ていました。
(赤矢印)

img074.jpg

こんな細かい文字の中から、よく見つけますねえと驚きのみなさま、
私たち力石ハンターには、虫眼鏡は必需品でございます。

とまあ、粋がることもありませんけどね。

それにしても、過去を探るって本当に面白い。

「おもちゃ博士の墓石が、
100年たった今の世に、「新発見の力石」と注目されるたァ、

お釈迦さまでも気がつくめえ


<つづく>

男の美学

埼玉の研究者、斎藤氏から玩具博士・清水晴風の新情報をいただきました。

晴風の「力持番付表」です。
正確には、明治13年(1880)11月に、
東京都江東区の亀戸天満宮に奉納された額の写しです。

「やっとこさっとこ見つけました。ちょっと感激…」と斎藤氏。

そうですよね。晴風が力持ちだったことはわかっていたものの、
今まで、晴風銘の力石も番付表の存在も不明でしたから。

それを探し出したのですから斎藤氏の興奮、そりゃ、もう。
ビンビン伝わってきます。

その「力持番付表」です。
img997.jpg
「見立番附」(山中共古)  国立国会図書館蔵

中央に一番大きく「鬼熊」と書かれています。さすが!
他に本町東助、扇橋金兵衛、四ツ目吉五郎などのビッグネームがずらり。

晴風、このとき29歳
現役ではなく「年寄」(下段の赤丸)に「筋違車半」として名を連ねています。

「筋違車半」とは、
晴風の家が「神田筋違御門」外にあったところから「筋違」(すじかい)とし、
「車半」は家業の車力と通称の半次郎にちなんだ命名です。

同図書館の大沼宜規氏によると、
番付表脇の書き入れは晴風自身が書いたもので、
「若い頃東京力持ちの群に加わり、諸方にて興行ありし毎に出ていた」
「思ひ出しても笑止の至り」などと書かれているそうです。

で、その大沼氏があげていた参考文献を早速読みました。

これです。
img998.jpg
「おもちゃ博士・清水晴風 郷土玩具の美を発見した男の生涯」
(林直輝、近松義昭、中村浩訳著 社会評論社 2010

タイトルの
「郷土玩具の美を発見した男の生涯」っていいですね。

この本は可能な限りの資料を探し出し、
「晴風のすべて」を語りつくした秀作で、
それに著者の方々の愛情が随所にあっていい感じでした。
ただ、この番付表を取り上げていなかったことが惜しまれます。

晴風は自ら書いた「小伝」で、こう語っています。

「十五の年に家督を相続したが、若い身で七、八十人の荒くれ男を
自由自在に働かせるのは容易な業ではなかった。

そこで膂力(りょりょく)の必要を感じて専心力技を練り、
二十歳のころには上達して、
米俵二俵ぐらいは片手で差し上げる呼吸を覚えた。
二十七、八のころには力持ち番付けの幕の内にまで列するに至った」

下は、「集古会」の仲間との集合写真です。明治29年撮影。
「集古会」とは、古い懐かしいものを集めて品評しあった同好会で、
画家、学者、文人や趣味人などの子供ならぬ「大供」たちが、
まじめに「遊び半分」(洒落っ気)で楽しんでいたそうです。

後列左から二人目が晴風(45歳)。
img032.jpg
「おもちゃ博士・清水晴風」からお借りしました。

実はここに登場する方々、この静岡とゆかりのある人が多いのです。

まず晴風ですが、先祖は駿河の清水(現・静岡市清水区)出身なんです。
明暦年間に江戸へ出て、車力(運送業)を始め、
加賀・前田家などの諸大名の御用達しとして繁栄したそうです。

で、その晴風と親しく交わり、「見立番附」を残した山中共古(本名・笑)は、
静岡移住の旧幕臣で、この地でキリスト教の牧師になった人です。
静岡県内などで精力的な民俗調査を行い、
柳田国男が師と仰いだほどの優れた業績を残しています。

そしてもう一つ嬉しいことは、
「清水晴風」の著者のお一人、林直輝氏は静岡県富士市の出身で、
中学生のころから、静岡市に本部を置く郷土玩具愛好会、
「日本雪だるまの会」の会員だそうです。

その「雪だるまの会」のかつての主宰者は、私のご近所だった方で、
この方も「土人形」の貴重な調査書を残しています。

その一つ「俵かつぎ」(坊之谷土人形。小笠町)。製作は明治末。
img982 (2)
「静岡の郷土人形 =大井川町・小笠町・金谷の土人形」
古谷哲之輔 日本雪だるまの会 平成8年

この本にも、晴風の「うなゐの友」の記述が出てきます。

さて、「おもちゃの美を発見した男」晴風さん。
亀戸天満宮に奉納した「力持番付」の写しに、
「思い出しても笑止の至り」などと、やや自嘲気味に書き入れましたが、
でも、自らの墓石にしたのは、若き日に持ちあげた「さし石」だったのです。

「泰雅院晴風日皓善男子」の法号が彫られた
晴風さんの力石のお墓です。

img999.jpg
東京都豊島区巣鴨・本妙寺  「おもちゃ博士・清水晴風」からお借りしました。

享年63歳。辞世の句です。

  「今の世の玩具(おもちゃ)博士の晴風も
           死ねば子供に帰る故郷(ふるさと)


27、8歳で番付に載るほどの力持ちになった晴風さんでしたが、
その後、神田昌平河岸の米屋に乞われて米俵で力量を披露していたとき、
誤って大けがをしてしまいます。

そのことから大いに悟るところがあって、
以来、力持ちとは遠ざかってしまったそうです。

ですがそれ以後も力石をずっと手元に置き、それを自分の墓石にした。
やっぱり、力持ちだったことは終生、誇りだったのではないでしょうか。

そしてそれもまた、清水晴風の「男の美学」だったに違いありません。


<つづく>

やっぱり勝次郎だよなァ

明治維新前の神田の力持ちの一人、米搗き屋の「柴田勝蔵」は、
「柴勝」と呼ばれていたと晴風はいった。

そんなトンカツ屋もどきの俗称ではなく、
鬼熊や鬼幸のようにを冠してほしかった、と私は思うのです。

戦国時代の武将・柴田勝家はその猛将ぶりから「鬼柴田」と呼ばれ、
明治・大正の時代になっても「英雄史談」や児童読み物になって登場した。

やっぱり「鬼」でなくちゃ。

晴風さんは言及していませんが、神田にはもう一人、有名な力持ちがいた。
1丁目の「勝蔵」のお隣、2丁目の柴田四郎右衛門です。

こちらがその四郎右衛門が持った力石です。=有形民俗文化財=
CIMG0811 (4)
東京都千代田区外神田・神田神社  110余×73×32㎝

「奉納 大磐石 神田仲町二丁目 
 柴田四郎右衛門持之 文政五年壬午三月吉日」

四郎右衛門も幸次郎同様、
この石一つだけ残して、忽然と消えてしまいました。

そして、この四郎右衛門と同じ文政期に神田を拠点に活動していたのが、
前回ご紹介した「柴田勝次郎」です。

勝次郎は「柴田連中」のリーダーとして活躍し、
群馬県桐生市に1個、都内に3個、力石を残しています。
詳細は2016年9月1日、3日のブログ記事をご覧ください。

四郎右衛門もこの柴田一門の一人かと思いましたが、
現在のところ確認できておりません。

さて、勝次郎です
文政8年、勝次郎は芝の魚屋の土橋久太郎に率いられて、
大阪・難波新地へ力持ち興行に出かけます。

そのときの絵です。演目を書いた引札(チラシ)は前回、お見せしました。
勝次郎15065487-s (4)
国広画  日本芸術文化振興会蔵

「男山」のこもかぶりを担いでいるのが美男の木村与五郎、
その隣で、「大亀」の石を「両手差し」しているのが土橋久太郎です。

そして我らが柴田勝次郎は、こちらです。
尻出して、あられもない姿で臼を「足差し」しています。

勝次郎15065487-s (5)

晴風さんが言った「柴田勝蔵」は、
やっぱりこの男、勝次郎ではないのかなあ。


<つづく>

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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