ほんに憎い男
柴田幸次郎を追う
隅田川河畔にあったという薬研堀(やげんぼり)。
その人工の掘割りに掛かっていた「元柳橋」。
そこから見える両国橋は、
絵師の題材や異人さんたちの格好の撮影ポイントになった。
その元柳橋の両端には「女の髪を振り乱すがごとく」
勢いよく葉を茂らせた二本の柳の木があって、夫婦柳と呼ばれていた。

「柳橋新誌・初編」(成島柳北 安政6年)より
そしていつしか柳は一本だけになった。
だが、その傍らにはいつのころ置かれたのか誰も知らない
「大王石」と刻まれた力石があった。
この大王石に関する情報は、たった2件しか得られませんでした。
地団駄踏んでもでんぐり返ってもそれだけ…。
その2件というのがこちら。
大正2年(1913)に没したおもちゃ博士の清水晴風と、
昭和5年(1930)に没した江戸和竿師の中根忠吉です。
二人とも、「元柳橋の大王石」と証言したものの、
晴風はこれを持った力持ちを「柴田勝蔵」といい、
忠吉は「柴田幸次郎」と書き残している。
困るんだよなあ、はっきりしてくれなきゃ。
とまあ、いきり立っても仕方がない。
柳ついでにこんなものをお見せします。
私が住む静岡市の駿府城公園の柳です。

このときはまだ芽吹き前でしたが、柳はお日さまが大好きな陽樹だそうです。
で、これはただの柳ではありません。
なんと、東京・銀座の柳の二世なんですって。

さて、大王石を追いかけているうちに、
それを持ったとされた柴田幸次郎から、
思いがけず幕末の外国奉行柴田剛中へ行きつき、
それをきっかけに、幕末・明治維新へと踏み込んでしまいました。
幕府崩壊で人生が一変した旧幕臣たちの哀しく悲惨な姿も垣間見ました。
奥勤めだった大名が深編み笠で顔を隠し、
着たきり雀の紋付の着物でムシロに座って物乞いに落ちぶれていた、
そんな姿も…。
「柳橋新誌」の著者で元・奥儒者だった成島柳北(なるしまりゅうほく)は、
新政府からの士官の誘いを断って野に下り「朝野新聞」を創刊。
政府の「言論取締法」を批判して監獄に4か月、罰金100円を課せられた。
「衣解き、ふんどしを脱して(すっ裸で)獄吏の検査を受く。
幽室に鎖さるる。厳寒の身にせまるや。
身に伴うものはただ糞・痰つぼの二物のみ。
豈、馬鹿馬鹿しからずや」
獄吏は成り上がりの薩摩藩士。
さまざまないやがらせを仕掛けてきた
明治政府は「讒謗律(ざんぼうりつ)」「新聞紙条例」を作って言論弾圧を強め、
政府批判をした者や批判者を擁護した者を容赦なく監獄へぶち込んだ。
柳北が投獄されたとき、30名ほどの記者が牢獄につながれていたという。
それでも言いたいことは言う。
明治のジャーナリストたちはなかなか腹が据わっていた。
成島柳北です。享年48歳。

奥医師・桂川甫周の娘の今泉みねさんは、著書で柳北のことを、
「お顔の長い方でしたから、何となくお馬さんの感じがした」
と書いていますが、確かに。
そんな柳北さん、著書「柳橋新誌(りゅうきょうしんし)・二編」の中で、
「新しい権力者になった薩長の田舎侍たちが金と権力を振りかざして、
慣れない花柳界で遊び狂う様子」を嘲笑っています。
で、入獄したのは、柳北や新聞記者ばかりではなかった。
画鬼といわれた天才画家・河鍋暁斎もまた諷刺画を描いて手錠をかけられ、
「元柳橋両国遠景」を描いた小林清親は、
薩長政府を諷刺したポンチ絵を連載して官憲から睨まれた。
清親自身は逮捕は免れたものの、
掲載誌の「團團珍聞(まるまるちんぶん)」は、
社長のたびたびの入獄や罰金、発行禁止を食らった。
「元柳橋両国遠景」小林清親

それはともかく、清親のこの絵、気になりますねえ。
「髪振り乱すがごとく」萌え盛る柳の木。その根元に置かれた大王石。
この柳の動(胸騒ぎ)と力石の静(沈黙)、暗示的です。
清親研究者の評論を読んでも、どなたもこの石のことには触れていません。
私は全くの素人ですが、この石の存在は大変重要で、
この激しく感情をあらわにした柳だけでは、この絵は成り立たないのでは?
清親がこの絵を描いた当時、このあたりはゴミゴミしていた。
そういう余計なものをきれいに取り払い、
柳と力石だけを残してそこに訳ありげな男女を配置した。
柳と石はこの二人の心象風景と言ったら言い過ぎでしょうか。
どうなんでしょう、清親研究者さんたち。
屁理屈はさておき、絵の続きをもう少し。
遠くに霞む両国橋。
ちょき船もやう朝霞の岸辺に誰かを待つように佇む着流しの男。
そこへ粋な姐さんが声をひそめて、
「もし、幸次郎さん」
てなわけ、ないよなあ…。
そうそう。
反骨の人・成島柳北の甥の子供って、俳優の故・森繁久彌さんなんですって。
話が逸れました。
3年かけて追い続けた大王石と柴田幸次郎ですが、
いつまでたっても、
幕末の元柳橋隅田川
大王石は古写真の中
というわけで、その行方は杳(よう)と知れず。
そこで、いろいろ考えました。
この大王石の情報を残した晴風と忠吉は共に幕末生まれですから、
文化文政期に活躍した勝次郎(勝蔵?)やそのころいたらしい幸次郎の力技を、
実際見たわけではない。
しかし伝聞であれ、
忠吉さんが「鬼勝」ではなく「鬼幸」と記憶していたことから、
勝次郎を幸次郎と聞き間違えたとは思えない。だから幸次郎は存在していたはず。
また、勝蔵か勝次郎かの問題にしても、
大阪へ力持ち興行に出掛けたのは勝次郎であることを
番付が証明していますから、晴風が「勝蔵」と書き残したのは、
晴風の単なる勘違いではないだろうか。
だとしても、一つ疑問が残ります。
「大王石」に刻まれた文字の書体が、
勝次郎が残したほかの石の文字とも、
もう一人の神田の力持ち、柴田四郎右衛門の石とも違うのです。
そこで私はこう推理しました。
この大王石は初め柴田幸次郎が差し、記念に「大王石」と刻字した。
それをのちに勝次郎が差し上げた。
勝次郎の死後、この石に挑戦する者はなく、
長い年月、元柳橋の柳の木の下に置かれていた。
そして明治36年の薬研掘の埋め立ての折り、そこに埋められてしまった。
新事実が出てこない限り、「ハイ、それまでよ」というわけで、
話の種が尽きました。
赤丸のところに、かつて元柳橋と柳の木と大王石があった。

東京都中央区東日本橋
下の写真は上の地図と同じ場所です。
星マークのあたりに大王石が埋まっている、かも。
で、よくよく見たら、
日本橋中学校寄りに柳の木が一本、恨めし気に立っているではありませんか。
うーむ。因縁を感じます。

斎藤氏撮影
モシ、幸さま。
ぬしはとうとう姿を見せなんだ。
ほんに憎い男じゃわいなァ。
チョーーーン
<幕>
その人工の掘割りに掛かっていた「元柳橋」。
そこから見える両国橋は、
絵師の題材や異人さんたちの格好の撮影ポイントになった。
その元柳橋の両端には「女の髪を振り乱すがごとく」
勢いよく葉を茂らせた二本の柳の木があって、夫婦柳と呼ばれていた。

「柳橋新誌・初編」(成島柳北 安政6年)より
そしていつしか柳は一本だけになった。
だが、その傍らにはいつのころ置かれたのか誰も知らない
「大王石」と刻まれた力石があった。
この大王石に関する情報は、たった2件しか得られませんでした。
地団駄踏んでもでんぐり返ってもそれだけ…。
その2件というのがこちら。
大正2年(1913)に没したおもちゃ博士の清水晴風と、
昭和5年(1930)に没した江戸和竿師の中根忠吉です。
二人とも、「元柳橋の大王石」と証言したものの、
晴風はこれを持った力持ちを「柴田勝蔵」といい、
忠吉は「柴田幸次郎」と書き残している。
困るんだよなあ、はっきりしてくれなきゃ。
とまあ、いきり立っても仕方がない。
柳ついでにこんなものをお見せします。
私が住む静岡市の駿府城公園の柳です。

このときはまだ芽吹き前でしたが、柳はお日さまが大好きな陽樹だそうです。
で、これはただの柳ではありません。
なんと、東京・銀座の柳の二世なんですって。

さて、大王石を追いかけているうちに、
それを持ったとされた柴田幸次郎から、
思いがけず幕末の外国奉行柴田剛中へ行きつき、
それをきっかけに、幕末・明治維新へと踏み込んでしまいました。
幕府崩壊で人生が一変した旧幕臣たちの哀しく悲惨な姿も垣間見ました。
奥勤めだった大名が深編み笠で顔を隠し、
着たきり雀の紋付の着物でムシロに座って物乞いに落ちぶれていた、
そんな姿も…。
「柳橋新誌」の著者で元・奥儒者だった成島柳北(なるしまりゅうほく)は、
新政府からの士官の誘いを断って野に下り「朝野新聞」を創刊。
政府の「言論取締法」を批判して監獄に4か月、罰金100円を課せられた。
「衣解き、ふんどしを脱して(すっ裸で)獄吏の検査を受く。
幽室に鎖さるる。厳寒の身にせまるや。
身に伴うものはただ糞・痰つぼの二物のみ。
豈、馬鹿馬鹿しからずや」
獄吏は成り上がりの薩摩藩士。
さまざまないやがらせを仕掛けてきた
明治政府は「讒謗律(ざんぼうりつ)」「新聞紙条例」を作って言論弾圧を強め、
政府批判をした者や批判者を擁護した者を容赦なく監獄へぶち込んだ。
柳北が投獄されたとき、30名ほどの記者が牢獄につながれていたという。
それでも言いたいことは言う。
明治のジャーナリストたちはなかなか腹が据わっていた。
成島柳北です。享年48歳。

奥医師・桂川甫周の娘の今泉みねさんは、著書で柳北のことを、
「お顔の長い方でしたから、何となくお馬さんの感じがした」
と書いていますが、確かに。
そんな柳北さん、著書「柳橋新誌(りゅうきょうしんし)・二編」の中で、
「新しい権力者になった薩長の田舎侍たちが金と権力を振りかざして、
慣れない花柳界で遊び狂う様子」を嘲笑っています。
で、入獄したのは、柳北や新聞記者ばかりではなかった。
画鬼といわれた天才画家・河鍋暁斎もまた諷刺画を描いて手錠をかけられ、
「元柳橋両国遠景」を描いた小林清親は、
薩長政府を諷刺したポンチ絵を連載して官憲から睨まれた。
清親自身は逮捕は免れたものの、
掲載誌の「團團珍聞(まるまるちんぶん)」は、
社長のたびたびの入獄や罰金、発行禁止を食らった。
「元柳橋両国遠景」小林清親

それはともかく、清親のこの絵、気になりますねえ。
「髪振り乱すがごとく」萌え盛る柳の木。その根元に置かれた大王石。
この柳の動(胸騒ぎ)と力石の静(沈黙)、暗示的です。
清親研究者の評論を読んでも、どなたもこの石のことには触れていません。
私は全くの素人ですが、この石の存在は大変重要で、
この激しく感情をあらわにした柳だけでは、この絵は成り立たないのでは?
清親がこの絵を描いた当時、このあたりはゴミゴミしていた。
そういう余計なものをきれいに取り払い、
柳と力石だけを残してそこに訳ありげな男女を配置した。
柳と石はこの二人の心象風景と言ったら言い過ぎでしょうか。
どうなんでしょう、清親研究者さんたち。
屁理屈はさておき、絵の続きをもう少し。
遠くに霞む両国橋。
ちょき船もやう朝霞の岸辺に誰かを待つように佇む着流しの男。
そこへ粋な姐さんが声をひそめて、
「もし、幸次郎さん」
てなわけ、ないよなあ…。
そうそう。
反骨の人・成島柳北の甥の子供って、俳優の故・森繁久彌さんなんですって。
話が逸れました。
3年かけて追い続けた大王石と柴田幸次郎ですが、
いつまでたっても、
幕末の元柳橋隅田川
大王石は古写真の中
というわけで、その行方は杳(よう)と知れず。
そこで、いろいろ考えました。
この大王石の情報を残した晴風と忠吉は共に幕末生まれですから、
文化文政期に活躍した勝次郎(勝蔵?)やそのころいたらしい幸次郎の力技を、
実際見たわけではない。
しかし伝聞であれ、
忠吉さんが「鬼勝」ではなく「鬼幸」と記憶していたことから、
勝次郎を幸次郎と聞き間違えたとは思えない。だから幸次郎は存在していたはず。
また、勝蔵か勝次郎かの問題にしても、
大阪へ力持ち興行に出掛けたのは勝次郎であることを
番付が証明していますから、晴風が「勝蔵」と書き残したのは、
晴風の単なる勘違いではないだろうか。
だとしても、一つ疑問が残ります。
「大王石」に刻まれた文字の書体が、
勝次郎が残したほかの石の文字とも、
もう一人の神田の力持ち、柴田四郎右衛門の石とも違うのです。
そこで私はこう推理しました。
この大王石は初め柴田幸次郎が差し、記念に「大王石」と刻字した。
それをのちに勝次郎が差し上げた。
勝次郎の死後、この石に挑戦する者はなく、
長い年月、元柳橋の柳の木の下に置かれていた。
そして明治36年の薬研掘の埋め立ての折り、そこに埋められてしまった。
新事実が出てこない限り、「ハイ、それまでよ」というわけで、
話の種が尽きました。
赤丸のところに、かつて元柳橋と柳の木と大王石があった。

東京都中央区東日本橋
下の写真は上の地図と同じ場所です。
星マークのあたりに大王石が埋まっている、かも。
で、よくよく見たら、
日本橋中学校寄りに柳の木が一本、恨めし気に立っているではありませんか。
うーむ。因縁を感じます。

斎藤氏撮影
モシ、幸さま。
ぬしはとうとう姿を見せなんだ。
ほんに憎い男じゃわいなァ。
チョーーーン
<幕>
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