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「は組」がなぜ群馬に?

群馬県伊勢崎市・諏訪神社の力石、「は組」のなぞ解きです。

なにしろ子供のころから、疑問に思ったら黙っていられない性分で…。

重さ300Kgの巨石に、繊細で美しい「は組」の線彫り。

江戸の勇みの象徴・町火消しが、半てんや纏(まとい)に記した文字は、
力文字伊達文字などというそうです。

5群馬諏訪 (3)
撮影/斎藤氏

力文字って名称、いいですねえ。江戸火消しの心意気がビンビン。
でも、こんな立派な「は組」の力石なのに、
奉納年もこれを持った人の名前も奉納者名も入っていないのです。

最も不思議に思うのは、江戸火消しの刻字石がなぜ群馬県にあるのか。
さらに「大願成就」って、
一体これを担いだ力持ちはどんな大願を果たしたというのでしょうか。

力石研究の大先輩、斎藤氏にこの疑問をぶつけてみました。

「これは個人が奉納した力石だと思います。
ぼくの推測ですが、
ここ境村出身の若者がひと旗あげようと江戸へ出た。
若者の願いは、江戸の華・鳶職になること。
力持ちの彼は次第に注目されるようになり、ついに鳶・火消しの職を得た。
大願を果たして故郷へ凱旋した彼は、
村人たちに自慢の力技を披露して、記念にこの石を奉納した」

静岡県の伊豆・松崎町には、佐七という若者が故郷へ凱旋した折、
氏神様に奉納した力石が残っています。

CIMG0088 (4)
賀茂郡松崎町岩科南側・八木山八幡神社。2本の木の間に置かれています。

左側の丸い石が「佐七」奉納の力石です。
ちょっと寂しい置き方ですが…。

CIMG0087 (4)


「奉納 六拾貫余 癸卯天明三年三月 
         南新川 佐七 みち婦村 佐七」


みち婦(道部)村の佐七はかつお船の漁師ですが、
漁のない冬季は、江戸の南新川酒問屋へ出稼ぎにいきます。
伊豆は力持ちの宝庫ですから、
腕に自信のある佐七は江戸での力比べに出場して、優勝でもしたのでしょう。
その凱旋記念に石に自分の名前を刻み、奉納したと思われます。

伊勢崎市・諏訪神社の「は組 大願成就」石にも、
伊豆の佐七のような、名前や年号の刻字があったらよかったのに。

「なぜ奉納年も名前も刻まなかったのかはわかりませんが、
ちなみに、同じ群馬県の桐生市に、
江戸神田をベースに活躍した柴田一門の力石が残されています。
桐生の有力者の招きによる力持ち興行のとき使ったものですが…」と斎藤氏。

これがその柴田一門が奉納していった力石です。
桐生市・天満宮6
群馬県桐生市・桐生天満宮 112×70×20余㎝   撮影/高島愼助教授

この境村出身らしき「は組」の若者と、
力持ち集団「柴田一門」とをつなぐ証拠は全くありませんが、
ちょっぴりでもどこかでつながっていたらいいなあ、なんて思うんです。

斎藤氏も「そりゃあ、妄想だよ」と笑いつつも、
頭の片隅で、きっとそんな夢を描いているはずです。

次回はこの「柴田一門」に触れていきます。



※参考文献/「静岡の力石」高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011
        /「群馬・山梨の力石」高島愼助 岩田書院 2008

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諏訪神社「は組」の変遷

群馬県伊勢崎市境萩原の諏訪神社に残る「は組」の力石。
前回、ゴミ置き場が作られてしまった残念な姿をお伝えしました。

なにしろ私は、
こんな状態になってしまった力石を今までも目にしてきたので、
「またか」という落胆と寂しさがフツフツと。

そうした一例です。
三島市・三嶋大社 (3)
静岡県三島市・三嶋大社

「奉納 力石 元飯田町金蔵 彦太郎 福□真□ 直吉」

江戸の力持ちたちの名前がずらりと刻まれています。

以前は宝物館の前に説明板とともに保存されていましたが、
現在は裏の藪に放置。というか、放り投げられている。
宮司さんにも総代さんにも再度の保存をお願いしましたが、ナシのつぶて。
どなたも「力石」という言葉も知りませんでした。

現在、この藪の中に立ち入ることもできません。

こちらは石段にされてしまった力石です。
当事者にも、もうどれが力石だったかわからないとのこと。

CIMG0082 (4)
静岡県賀茂郡河津町・河津八幡神社

石段にされた力石は3個
以前は下の写真の河津三郎の力石「手玉石」のうしろに、
台座に乗せてきちんと保存されていました。

別の場所にあった河津三郎モニュメントのスペース確保のため、
3個の石が邪魔になり、石段にしてしまったそうです。

CIMG0083 (5)

では、伊勢崎市・諏訪神社の力石の場合、以前はどうなっていたのか、
埼玉県の研究者で関東地域で次々と新発見をしている斎藤氏と、
力石研究の第一人者・高島愼助四日市大学教授の助けを借りて、
お伝えしていきます。

今から47年前1969年発行の「境風土記」には、
地元の人の談話として、こう書かれています。

「境内に転がっているのは重さ八十貫もある力石である。
私らが転がそうとしてもびくともしないヤツを担ぎあげた人がいたのである。
この石は境町の唯一の力石。
知らずにいて失ってしまうのは惜しいことである」

47年前には力石は境内に一個あり、ただ転がして置かれていたようです。

この力石のことは、2003年発行の「境の石造物」にも取り上げられており、
「個人名はわからない。恐らく江戸火消し「は組」に属した者。
八十貫は300Kgで、これは米俵5俵分の重さである」

2007年に、高島教授がここを訪れています。
そのときの写真です。

神社群馬・長野の力石諏訪
左が「は組」の力石で70×57×18㎝ その横の力石は82×40×35㎝ 
撮影/高島教授

「このころはまだ前からきちんと写せました」と高島教授。
ですからこれが、「は組」力石の本当の姿ということになります。

47年前は「町で唯一の力石」と記されていましたが、
この時点で2個確認されたということです。

これが現在の状態です。
前の写真と姿が少し違って見えますが同じ石です。黄色の矢印の石も力石です。

1群馬諏訪 (2)
撮影/斎藤氏

以上のことから、
以前は境内に転がっていただけの「は組」は、いつのころか保存され、
そのときにはもう一つ、力石が増えていた。
そして、ゴミ置き場は、
高島教授が訪れた2007年には、まだ設置されてはいなかった、
ということがわかりました。

47年前の地元の方が、
「失ってしまうのは惜しい事である」といい、その後、保存がなされた。
しかし、さきに紹介した静岡県の2例やここの力石を見ると、
後世の人はそれをあっけなく壊してしまいます。

石を壊すということは、これを担いだ人のも、
それを讃え惜しんで保存した地元の方々のをも壊してしまうことだと、
私は思うのです。

「庶民の心の遺産」であることを、どうか忘れないでいてください。


※参考文献/「群馬・山梨の力石」高島慎介 岩田書院 2008

「は組」の力石

江戸火消しと力石について、少し語っていきたいと思います。

徳川将軍の時代、江戸には3つの消防組織がありました。
幕府直轄の大名火消し定火消し、そして町人で組織された町火消し

この町火消しは八代将軍吉宗のとき、南町奉行の大岡越前守が
名主たちの協力で作ったもので、いろはで組分けされていたため、
「いろは四十八組」と呼ばれていました。

町火消し人足は1万数千人もいたといいますから、凄いですね。

その火消し組に力持ちたちも名を連ねていました。
その痕跡を少し紹介していきます。
写真はすべて、埼玉の研究者・斎藤氏の撮影です。

まずは「は組」。

こちらは群馬県伊勢崎市にある「は組」の力石です。
1群馬諏訪
伊勢崎市境萩原・諏訪神社

なんか変ですよね。
石も説明板も反対側を向いています。

DSCF1766.jpg

「力石の前に大きなゴミ置き場を作ってしまっていて、
正面から全体の写真を撮れません。行政はどうしようもないです」
と斎藤氏。

伊勢崎市さあ~ん! ひどいですよ~!

大谷大学名誉教授で宗教民俗学がご専門だった五来重教授は、
著書「石の宗教」にこう書き残しています。

名もない庶民は記録文献にのるような歴史はのこさない。
のこすとすれば石で造った石塔や石碑であり…(略)

ことに石塔、石仏、石碑は雨の日も風の日も晴れの日も路傍に立って、
通る村人にほほえみかけ、見る人の心をなごませる。
それは子孫に何ものこせなかった先祖たちの心の遺産であると思う」

斎藤氏がどんなにがんばっても、
ゴミ置き場があるため、こんなふうに横向きにしか撮影できません。

3群馬諏訪 (2)

PC操作で縦に直し、刻字が少しでも確認できるよう色調を変えてみました。
でもあまり変わりませんね。
うっすらとしかわかりませんが、左端に大きく「は組」と刻まれています。

3群馬諏訪
70余×57×18㎝

「貫目 八拾貫目 江戸 は組 大願成就」

「は組」の文字の部分です。
こちらもPCで縦にしました。

5群馬諏訪

伊勢崎市文化財課さんと諏訪神社さんへお願いです。

「石碑以外
子孫に何も残せなかった先祖たちの
心の遺産」に、

もう一度、目を向けてください。

この石は、自分たちの「生きた証し」「誇り」を刻んでいった
名もなき庶民の群像です。

その熱き思いを汲み取って、

どうか心ある新たな保存を!

江戸の火消し

江戸時代の消防組織は三系統あったそうです。
幕府直轄の大名火消し定火消し(じょうびけし)。これと、
町人で組織された町火消し、つまり「いろは四十八組」の三つです。

大名火消しはその名の通り、大名の私設消防隊です。
でも、将軍家の墓所や米蔵などの消防義務も課せられていました。

img646.jpg
有馬藩江戸屋敷の火の見やぐら  「風俗画報」より

大名火消しで有名だったのは、加賀百万石・前田家の「加賀鳶」
江戸火消しの花形といわれ、
その装束の華麗さは、浮世絵師の格好の題材になったようです。

なぜ「鳶」かといいますと、昔の消防は水で消し止めるのではなく、
周囲の建物を鳶が使う鳶口で壊して延焼を食い止めるという
「破壊消防」だったからです。

これがその「鳶口」
img627.jpg

木場で鳶職たちが木材をひっかけて使う道具です。
これで家屋をひっかけて倒し、延焼を防いだんですね。
「川並鳶」と呼ばれていたのは、江戸の木場で働く男たちのことです。
火消しの鳶のことを「臥煙(がえん)といっておりました。

さて、「定火消し(じょうびけし)」です。
これは明暦の大火で危機感を募らせた幕府によって、
機能性を重視して組織された火消しで、旗本にその指揮をとらせ、
江戸城をとりまくように配備されていました。
定火消しの臥煙は、多い時で2000人ほどいたそうです。

定火消し屋敷です。
img644.jpg
定火消し屋敷には四方が開いた火の見やぐらがあり、半鐘と太鼓があった。
「尾張屋版江戸切絵図」より

丸太を枕にして寝ている臥煙たち。
img645.jpg
半鐘が鳴ると不寝番が丸太を叩いて起こした。 「江戸の花」より

さて、ここからはいよいよ「いろは四十八組」の町火消しの登場です。
町火消しは、それまであった店火消し(たなびけし)を発展させたもので、
八代将軍吉宗のとき、南町奉行の大岡越前守が名主たちの協力を得て着手。

隅田川以西の江戸市街を20町ごと一組として47組つくり、
それに「いろは四十七文字」をあてはめました。
火消し人足は、鳶と店人足合わせて1万数千人を数えたというから凄い。

ここでちょっと寄り道。
「いろは」にちなみ、泉岳寺の「いろは石」をお見せします。
いろは泉岳寺
東京都港区高輪・泉岳寺・妙海尼の墓所。 撮影/S氏

泉岳寺は、
主君の仇を討った大石内蔵助を始め、赤穂浪士四十七士が眠るお寺です。
この石には「いろは かな可き」(いろは仮名書き)と刻字があります。
「いろは四十七文字」を「四十七士」になぞらえて刻まれたものと思われます。
そしてもう一つ、いろは文字には隠された暗号があって、
それが「とかなくてしす」(咎なくて死す)と読めるところから、
罪もなく死んでいった義士たちを暗示しているとも言われています。

残念ながら、これが力石だったかどうかは不明です。
みなさんも泉岳寺へ行かれたら、ぜひ見てくださいね。

で、元へ戻って、町火消しの「いろは」についてです。
この「いろは四十七組」はのちに、
「へ」は「屁」、「ひ」は「火」、「ら」は「摩羅」に通じるとして嫌われ、
代わりに「百」「千」「万」とし、
それに語呂の悪い「ん」を「本」にして加え、四十八組となりました。

img649.jpg

前回ご紹介した力石に、「百組」と刻字されていたのは、
この「町火消し百組」のことだったのです。
百組の地域は、南茅場町、本八丁堀、亀嶋町などで、火消し人足は141人
力石に刻まれた「長吉」「平蔵」は、
この「町火消し百組」に所属していたことになります。

CIMG1034.jpg CIMG1036~1
神奈川県川崎市・平間寺(川崎大師)にある「江戸消防記念碑」

これは、石工の酒井八右衛門が、
「いろは四十八組」の名を永久に伝えるため、明治21年に起工。
いろは歌弘法大師作と伝えられているところから、
大師ゆかりのこの寺に建立したのだそうです。
火消しの組や人名を刻んだ石の壁が、記念碑をグルリと囲んでいる様は見事で、
一見の価値があります。

この平間寺(川崎大師)には、立派な力石がたくさん保存されています。
またの機会にご紹介します。



<つづく>


※参考文献・画像提供/「江戸の火事と火消」山本純美 河出書房新社
               1993 「風俗画報」明治31年12月
               /「江戸の火事」黒木喬 同成社 1999 
                「江戸の花」上編 東陽堂 1898
               /「大江戸今昔マップ」かみゆ歴史編集部 新人物往来社
                2011 「尾張屋版江戸切絵図」

「百組」って何?

前回のつづきの資料が間に合わず、時ばかりが過ぎてゆく。トホホ。
で、そちらは揃い次第ご披露するとして、
今回は力石に刻まれた不思議な文字のお話です。

今までにもたびたびお見せした「石観音堂」の力石です。
CIMG1024 (2)
76×51×24㎝   =神奈川県川崎市川崎区観音

石の中央に大きく「五拾八貫余」と彫られたこの石に、
謎の文字「百組」が刻まれています。
 
八町堀亀嶋平蔵 本八町堀一町目 権平 五拾八貫余 長五郎
 百組 長吉 大嶋村直吉 伊之助

お馴染みの石の平蔵の名も見えます。

もう一つご紹介します。
DSCF0233.jpg
50余×34×2㎝   =東京都練馬区高野台・長命寺 撮影/S氏

車ト石 六十五貫目 百組□ 持之 奉納寛政三年 八町堀亀嶋平蔵

これは埼玉在住のS氏が、2009年に発見した力石です。
こちらにも平蔵の名が…。このとき平蔵、35歳。

S氏によると、「百組」と刻字された力石は、現在この2個しかないそうです。

では、この「百組」とはなんなんだということですが、
これは、
江戸で組織された「町火消し四十八組」のうちの一つなんですね。
まずは江戸の火消しの世界を、ちょこっと覗いてみたいと思います。

img628.jpg
町火消しの行列             「風俗画報」より

「火事と喧嘩は江戸の華」なんてことがいわれてきました。
災害を江戸の華だなんて粋がっている場合かよ、と思いますが、
それだけ火事も喧嘩も多くて、江戸の名物になっていたということのようです。

なにしろ江戸後期には、人口120万人という世界最大の過密都市だった江戸。
一旦火を出すと、関東平野を吹きまくるからっ風にあおられて、
あっという間に大火になった。

このお江戸では、
江戸時代の267年間に大小合わせて1798件もの火事があったという。
中でも二日間にわたり燃え続けた「明暦の大火」=明暦3年(1657)=では、
死者10万人以上、江戸城から大名屋敷、町屋まで江戸の大半を焼き尽くすという
壊滅的被害をもたらしました。

これをきっかけに、幕府では防災都市づくりに着手、
消防制度の整備を本格化したといわれています。

img647.jpg img648.jpg
町火消し「ろ組」の革羽織  こちらは武家用の火事羽織 「守貞漫稿」より

江戸っ子の気風として、前述の「火事と喧嘩は江戸の華」のほかに、
「宵越しの銭は持たない」という言葉があります。

これはあまりにも火災が多いので、銭を貯めてもどうせ焼けてしまう。
そんならいっそ、その日の稼ぎはその日のうちに使ってしまったほうがよい、
そんな潔さと負け惜しみの気風を現わしているんだそうです。
だからこんな川柳も生まれたんですね。

  江戸者の生まれそこない金を溜め

まあ、使おうが貯めようが自分が稼いだ銭金ですからね。
貧困に喘ぐ庶民から吸い上げた銭を他国へ貢ぐクンよりよっぽどマシ。

てやんでえ、
人のフンドシで相撲をとるこんな輩、悪臭紛々で、
江戸っ子の風上はおろか風下にだって置かれねえやい!

と、江戸っ子が申しております。



<つづく>


※画像提供/「風俗画報」明治31年12月
        /「近世風俗事典」人物往来社 昭和42年 
         原書は喜多川守貞の「守貞漫稿」
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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