浮世は夢の如し
大づもり物語
「大ヅモリ物語」、最終回です。
信州から落ち延びてきた望月一族が開いたと推定される大晦日集落。
文化文政のころには家数50軒ほどになったものの、昭和50年代には
10軒ほどに減少。平成の今はさらに減って2軒になってしまいました。
標高400㍍の尾根筋に、
甲斐から駿河湾沿いの由比へ抜ける入山街道が走っていました。
今、その大ヅモリの森の中に廃屋が残っています。
まだどなたかが暮らしているような、そんな気配さえ感じられます。
入山街道からはずれた一画に芭蕉天神宮があります。
手島日真氏の「由比町の歴史」にここのご神体のことが書かれていました。
「内房・大晦日の芭蕉天神のご神体は、富士郡芝川町(現・富士宮市)の
西山本門寺に祀られている」
その西山本門寺にある伝「織田信長の首塚」です。

静岡県富士宮市西山
驚きました。
一昨年亡くなられた神社惣代の望月氏はご存知だったのでしょうか。
縁者の方は「恐らく知らなかっただろう」と。
なんでも明治の廃仏毀釈の折り、当時、由比加宿問屋をしていた
由比太郎左衛門がこの寺へ納めたというのです。
廃仏毀釈なんだから神社がご神体を隠すこともないのに、と思っていたら、
どうやら仏教徒も黙っていなかったみたいですね。
こちらは仏教排斥運動のとき切りつけられた遠州最大の仏さまです。
お顔だけでなく胸にも無数の疵があります。「丈六」という文字も。

浜松市・龍潭寺
手島氏によると、政府の仏教排斥政策に怒った仏教徒たちが、
逆に神社のご神体を破壊する事態が各地で起き、
ご神体の代わりに破れうちわを神殿に飾るなどしたそうです。
敬ってきた仏さまを一転、首を切って捨ててしまったり再び敬ったり…。
民衆というものは物事の善悪ではなく、お上のいうことならなんでも、
「ヘヘーッ」と聞いてしまうものなんですね。愚かです。
でも、神社のご神体を西山本門寺という寺で保護したというのは、
思いもよらない不思議な行為です。
信徒からは非難されるかもしれないのに、よく決断したと思います。
表向きとは別にこの事態を憂慮していた人たちが
結構いたということでしょうか。
で、西山本門寺に移されたご神体を大正時代に鑑定した人がいて、
「ご神体には、駿河国・小島(おじま)藩松平家の紋所がついていた」
と手島氏に話したそうです。
この内房村は幕府直轄領でしたから、なんでかなあと思います。
小島藩と芭蕉天神宮の関係って何だろう。
地誌「駿河記」にあった駿河の船手奉行とおぼしき
「山下弥蔵屋敷跡、大ヅモリにあり」の記述が少々気になります。
いずれにしても、
ご神体に大名の紋所が印されていたというのはおもしろいですね。
この小島藩・滝脇松平氏の紋所、今は地元小学校の校章になっています。
小島藩・滝脇松平氏家紋 静岡市立清水小島小学校の校章

小島藩というのは1万石の小大名で、
甲斐と駿河の交通の要衝に抑えとしてあった藩です。貧乏藩で有名でした。
でも今この館跡は国指定史跡になっています。
その松平氏家臣に、江戸中期の戯作者・恋川春町がいます。
狂歌名は酒上不埒(さけのうえのふらち)。
酒の上での不埒だったかは知りませんが、
時の老中、松平定信の文武奨励政策を、
「ぶんぶぶんぶと蚊みたいにうるさいことよ」と揶揄した
鸚鵡返文武二道」(おうむがえし ぶんぶのふたみち)を書き、怒りに触れ、
のちに謎の死を遂げます。
代表作は、片田舎に暮らす金々先生こと金村金兵衛の物語、
「金々先生栄花夢」(きんきんせんせい えいがのゆめ)。
駿河の貧乏藩の家臣が描いた人物が「金、金」というのも皮肉ですが。
この金々先生、浮世の楽しみを味わい尽くそうと江戸へ出ます。
御利益で名高い目黒不動へ来て、近くの粟餅屋へ入ってついまどろみ、
栄華を極めた夢を見ます。

「日本名著全集・黄表紙廿五種」日本名著全集刊行会 大正15年
金々先生、
夢の中で金持ちの養子となったものの放蕩がたたってついに勘当。
そこで目が覚めた。
夢の中では面白おかしく30年を過ごしますが、
目が覚めて現実に戻ったら、いまだ粟餅はひと臼も出来上がらず…。
そこで金兵衛、悟ります。
「浮世は夢の如し。歓びをなす事いくばくぞや。
一生の栄花も邯鄲(かんたん)の枕の夢も、ともに粟粒一炊の如し」
ところで芭蕉天神宮のご神体は、その後どうなったのでしょうか。
まだ西山本門寺にあるのでしょうか。それとも…。
でも、「大ヅモリ」の謎解きはこの辺でやめておきます。
だって、人間一生の楽しみは、
粟餅ひと臼炊くほど短く、儚い(はかない)ものだそうですから、
この「夢」の続きはまたの機会に…。
信州から落ち延びてきた望月一族が開いたと推定される大晦日集落。
文化文政のころには家数50軒ほどになったものの、昭和50年代には
10軒ほどに減少。平成の今はさらに減って2軒になってしまいました。
標高400㍍の尾根筋に、
甲斐から駿河湾沿いの由比へ抜ける入山街道が走っていました。
今、その大ヅモリの森の中に廃屋が残っています。
まだどなたかが暮らしているような、そんな気配さえ感じられます。
入山街道からはずれた一画に芭蕉天神宮があります。
手島日真氏の「由比町の歴史」にここのご神体のことが書かれていました。
「内房・大晦日の芭蕉天神のご神体は、富士郡芝川町(現・富士宮市)の
西山本門寺に祀られている」
その西山本門寺にある伝「織田信長の首塚」です。

静岡県富士宮市西山
驚きました。
一昨年亡くなられた神社惣代の望月氏はご存知だったのでしょうか。
縁者の方は「恐らく知らなかっただろう」と。
なんでも明治の廃仏毀釈の折り、当時、由比加宿問屋をしていた
由比太郎左衛門がこの寺へ納めたというのです。
廃仏毀釈なんだから神社がご神体を隠すこともないのに、と思っていたら、
どうやら仏教徒も黙っていなかったみたいですね。
こちらは仏教排斥運動のとき切りつけられた遠州最大の仏さまです。
お顔だけでなく胸にも無数の疵があります。「丈六」という文字も。

浜松市・龍潭寺
手島氏によると、政府の仏教排斥政策に怒った仏教徒たちが、
逆に神社のご神体を破壊する事態が各地で起き、
ご神体の代わりに破れうちわを神殿に飾るなどしたそうです。
敬ってきた仏さまを一転、首を切って捨ててしまったり再び敬ったり…。
民衆というものは物事の善悪ではなく、お上のいうことならなんでも、
「ヘヘーッ」と聞いてしまうものなんですね。愚かです。
でも、神社のご神体を西山本門寺という寺で保護したというのは、
思いもよらない不思議な行為です。
信徒からは非難されるかもしれないのに、よく決断したと思います。
表向きとは別にこの事態を憂慮していた人たちが
結構いたということでしょうか。
で、西山本門寺に移されたご神体を大正時代に鑑定した人がいて、
「ご神体には、駿河国・小島(おじま)藩松平家の紋所がついていた」
と手島氏に話したそうです。
この内房村は幕府直轄領でしたから、なんでかなあと思います。
小島藩と芭蕉天神宮の関係って何だろう。
地誌「駿河記」にあった駿河の船手奉行とおぼしき
「山下弥蔵屋敷跡、大ヅモリにあり」の記述が少々気になります。
いずれにしても、
ご神体に大名の紋所が印されていたというのはおもしろいですね。
この小島藩・滝脇松平氏の紋所、今は地元小学校の校章になっています。
小島藩・滝脇松平氏家紋 静岡市立清水小島小学校の校章


小島藩というのは1万石の小大名で、
甲斐と駿河の交通の要衝に抑えとしてあった藩です。貧乏藩で有名でした。
でも今この館跡は国指定史跡になっています。
その松平氏家臣に、江戸中期の戯作者・恋川春町がいます。
狂歌名は酒上不埒(さけのうえのふらち)。
酒の上での不埒だったかは知りませんが、
時の老中、松平定信の文武奨励政策を、
「ぶんぶぶんぶと蚊みたいにうるさいことよ」と揶揄した
鸚鵡返文武二道」(おうむがえし ぶんぶのふたみち)を書き、怒りに触れ、
のちに謎の死を遂げます。
代表作は、片田舎に暮らす金々先生こと金村金兵衛の物語、
「金々先生栄花夢」(きんきんせんせい えいがのゆめ)。
駿河の貧乏藩の家臣が描いた人物が「金、金」というのも皮肉ですが。
この金々先生、浮世の楽しみを味わい尽くそうと江戸へ出ます。
御利益で名高い目黒不動へ来て、近くの粟餅屋へ入ってついまどろみ、
栄華を極めた夢を見ます。

「日本名著全集・黄表紙廿五種」日本名著全集刊行会 大正15年
金々先生、
夢の中で金持ちの養子となったものの放蕩がたたってついに勘当。
そこで目が覚めた。
夢の中では面白おかしく30年を過ごしますが、
目が覚めて現実に戻ったら、いまだ粟餅はひと臼も出来上がらず…。
そこで金兵衛、悟ります。
「浮世は夢の如し。歓びをなす事いくばくぞや。
一生の栄花も邯鄲(かんたん)の枕の夢も、ともに粟粒一炊の如し」
ところで芭蕉天神宮のご神体は、その後どうなったのでしょうか。
まだ西山本門寺にあるのでしょうか。それとも…。
でも、「大ヅモリ」の謎解きはこの辺でやめておきます。
だって、人間一生の楽しみは、
粟餅ひと臼炊くほど短く、儚い(はかない)ものだそうですから、
この「夢」の続きはまたの機会に…。
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