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吟醸「力石」

「力石」と名付けられたお酒があります。

銘酒「力石」徳利
CIMG4751.jpg

これにはこんな逸話が…。

「埼玉県比企郡小川町の酒蔵・細川酒造では、
かつて「正成」という酒を出していたが、関西に同じ銘柄のものがあり、
明治32年に使えなくなった。

そのころ主人が旅行先の伊豆方面の寺で、
「開運の石」というものを持ち上げたら、軽々とあがってしまった。
以後、これにあやかって商標「力石」にした」(保田義治氏談)

こうして長年、多くの方に親しまれてきた清酒「力石」でしたが、
洋酒に押されて全国的に日本酒の伸びが鈍ったため、

「昭和60年ごろ、「力石」の醸造権を群馬県の群馬酒造に譲渡」
(高橋正氏談)

下の写真は、群馬酒造の傘下に入り、
引き続き埼玉工場で製造していたころのものです。

清酒「力石」布袋 と 高級清酒「力石」前掛け
CIMG4747.jpg

前掛けが折れ曲がっていたのをそのまま写したため、
「埼玉工場」の「埼」文字が隠れてしまいました。トホホ。

そのころの細川商店のHPです。

「細川商店(株)」

しかし日本酒の低迷は続き、2007年、群馬酒造も廃業。

清酒「力石」は今度は、
群馬酒造から同じ群馬県の聖徳銘醸へ移ります。
 ※甘楽郡甘楽町白倉686-1 蔵見学あり。

「聖徳銘醸(株)」

最初の醸造元の細川商店は、現在、
無農薬・無化学肥料の米や野菜の通販のみの商店になっていますが、
清酒「力石」も扱っているそうです。
 ※細川商店は事務所のみ。

もう一つお見せします。

本格芋焼酎「河津三郎の力石」
CIMG4752.jpg

これは河津桜で有名な伊豆の河津町商工会が、
平成20年から3年間の限定で作った幻の焼酎です。

原料のさつまいもは地元の「黄金千貫」、
醸造は富士山の湧水を使った「富士錦酒造」でしたから、
これは絶品でした。

とはいうものの私は下戸なので、中身だけ知人に飲んでもらいました。

こちらが力石焼酎に名を冠した鎌倉武士・河津三郎です。
日本三大仇討ちの一つ、あの曽我兄弟のお父さん

といっても、今では知る人も少なくなりましたが…。

手前に置かれた力石は、河津三郎の「手玉石」です。

CIMG0083 (1)
静岡県賀茂郡河津町・河津八幡神社

静岡県には男も泣かせる「おんな泣かせ」なんてお酒がありますが、
かろうじて命脈を保っている清酒「力石」の現状は、

ちょっぴり寂しい~。

ほんに、
「おんな泣かせ」ならぬ「ちから姫泣かせ」ですわ。


※参考文献/「埼玉の力石」高島愼助 岩田書院 2007
※情報提供/賀茂郡河津町役場 産業振興課
        /細川商店
        /斎藤氏
※協力/三重県総合博物館  

追悼 

温厚な静岡市民そのままだった潮丸さん(東関親方)、さようなら。
それにしても若すぎる旅立ちで残念です。    

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博物館へ収蔵されたブログのこと

三重県総合博物館へおじゃましてから、
すでに7か月もたってしまいました。

張り切って始めた「博物館訪問記」も、横道にそれすぎて尻切れトンボ。

初心にかえって、
私の人生最大の喜びとなった収蔵されたブログの写真から見てください。

CIMG4770 (3)

うれしくて、何度もシャッターを切りました。
それで、
とにかくぼーっとなっていたので、肝心の中を見るのをすっかり忘れて、
同じ写真を何枚も…。

そんな私の気持ちを汲んで、もう一枚、見てくださいね。

CIMG4768 (2)

ブログ収蔵は、ひとえに
師匠の元・四日市大学の高島愼助教授のおかげなんです。

このブログはなんと、
先生ご自身が印字して、ファイルにまとめてくださったんです。

力石調査ではまだまだヒヨッコの私なのに、その晩年に花を持たせてくださった。

だから師匠は大恩人!なんです。

先生は大学を退官後、全国行脚で得た膨大な資料を同博物館へ寄贈。

その「高島先生関係資料」の一つとして、
拙ブログも収蔵していただいたというわけです。

ブログのほかに、
私が集めた力石に関する資料、ファイルで12冊ほどになりましたが、
それも追加で納めていただくことができました。

こちらは先生が寄贈した資料の一つ、「へのこ石」です。

ミエム・へのこ石2
三重県津市一身田上津部田・三重県総合博物館「みえむ」  70×36×21㎝

もとは久居市野村町(2006年、津市と合併)にあった力石で、
合併の前年、四日市大学へ寄贈されたものです。

「この石は、畑のかたすみに放置されていたもので、
自治会長さんから、大学で保管していただけるならと寄贈してもらった。

その後、私が定年を迎え、それを機に他の資料とともに博物館へ移され、
保管されているものです」と高島先生。

ちょっと言いにくいですが、「へのこ」とは、男性の性器のこと。
昔は魔除けとして神聖視されていました。

男性のみなさんは、みんな「魔除け」を持っているんですねぇ…。

また石の模様から「鉢巻き石」とも呼ばれていたそうです。
重量は120㎏。米俵二俵分あります。

次回は数ある収蔵品の中から、番付表などをご紹介します。


※写真提供/高島愼助先生


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小鍛冶と小ぎつね

「文治二年」「ちから石」「稲荷の鳥居」

私はコレで迷路に迷い込みました。

壁にぶち当たったら原点に帰る、それしかない!
というわけで、発端の屏風絵に戻ります。

上杉本「洛中洛外図屏風」の「べんけい石」の場面です。
img068_20191016101931c2f.jpg

そして重要なのがこの絵の上部に描かれていた「粟田口」

弁慶石もここから入洛したという洛中・洛外の出入り口です。

文治三年、東大寺院主の勧修坊得業という高僧が、
義経に通じたとして鎌倉の頼朝の元へ連行されます。

その時の経路もこの粟田口から始まります。

粟田口ー松坂、山科を通って逢坂の関。
そして、
園城寺ー瀬田の唐橋を通って伊吹山…、東海道を下って鎌倉へ。

その粟田口です。
img032 (4)

平安時代、この粟田口に、
名工・三条小鍛冶宗近という人が住んでいたそうです。

時の一条帝の求めで剣を打つことになったが、
相槌(あいづち)がいなくて困っていたら、
どこからともなく一人の童子が現れて相槌となった。

相槌(あいづち)=剣を打つ職人の相方。
    金鎚を持った職人と木槌を持った職人が気持ちを一つにして
    「丁々、しっていころり」と打合せること。
    転じて相手の話にうなづくこと。
            
右側が小鍛冶宗近、左側が小きつねの童子。
img20191016_10265161 (2)

めでたく剣は出来上がり、童子は稲荷山へ消えた。
この童子、稲荷山に住む小キツネだったそうな。

そこで宗近、剣の表に「小鍛冶宗近」、裏に「小狐」と名を入れ、
「小狐丸」と名付けて帝へ捧げ奉った。

でもねえ、初期のころのものには狐は出てこないんですよ。
女房が相槌になって、美しい夫婦愛になっているんです。

キツネが出てくるのも一匹だったり三匹だったり。

下は柳森神社の「おたぬきさん」です。

「キツネばかりじゃないよ。おいらたちもこうしてがんばってるんだよ。
他(た)を抜(ぬき)たい、出世したい人は参拝に来てね!」

CIMG3864 (2)
東京都千代田区神田須田町。
ここには力持ちの神田川徳蔵一門が持った力石群があります。

ま、それはさておき、
宗近の氏神は「稲荷の明神」

そして相槌となった小狐は、剣が完成するや、

「これまでなりと言い捨てて群雲(むらぐも)に飛び乗りて、
東山稲荷の峰にぞ帰りける」

この稲荷社ってどこだ、と探したら二社あった。

知る人ぞ知る「伏見稲荷大社」
そしてもう一社は「花山稲荷神社」

小ぎつねがやってきたのは、どっち?


※参考文献・画像提供/「謡曲三百五十番集」江戸文藝之部 
               日本名著全集刊行会 昭和三年
※画像提供/「上杉本洛中洛外図屏風を見る」小澤弘 川嶋将生 
        河出書房新社 1994

義経と韓信

「文治二年」の解明に決定打がなく、スッキリしませんが、
参考までに、才丸の句、

     文治二年のちから石もつ   

これを受けて詠んだ次のコ斎の句もあげておきます。

     乱れ髪俣(股)くゞりしと偽らん   コ斎

「芭蕉全集」の校注者によると、句の意味はこのようです。

「力石の持ち競べで乱れた髪を、韓信の故事のごとく、
股くぐりをしたためと偽った」

韓信(かんしん)とは、

古代中国の戦国時代、
劉邦(りゅうほう)につかえ、合戦にあけくれ、
ついに劉邦に天下をとらせた武将。

劉邦=前漢王朝の初代皇帝

劉邦です。
劉邦 (2)

その韓信の故事とは、

貧乏だった若いころ、村の不良に、
「お前は臆病者に違いない。もしそうでないならその剣で俺を刺してみろ。
できないなら俺の股をくぐれ

と言われて、韓信は黙って股をくぐった。
周りのみんなは笑ったが、韓信の気持ちはこうであった。

「ここで相手を斬り殺しても何の得にもならない。
仇持ちになるだけだ。
恥はいっとき。自分には大きな志があるのだから」

その後、めきめき頭角を現わし、
主と仰いだ劉邦に天下をとらせた韓信。

その韓信と、兄・頼朝のために合戦にあけくれ、
兄を将軍へと導いた義経とがどことなく似ているような…。

コ斎が急に「韓信」の名をあげたのも、
「文治二年」からの連想かも、なんて思ったりしたんですけど、

こじつけすぎかなぁ。

ま、それはともかく、コ斎は、

「力石を持ち上げたとき髪が乱れたのを、
韓信みたいに股くぐりしたせいだとカッコつけた」と詠んだ。

重い力石を歯を食いしばって持ち上げたら、
髪を束ねていた元結(もっとい)がゆるんでザンバラ髪になった。

img320_201910130901540f7.jpg
「力石ちからいし」より

それを見た仲間たちが、
「オイオイ、それじゃいい男が台無しじゃないか」と笑った。

そこで若者は照れながらもこう言い放った。
「韓信の股くぐりよ」

そんな情景が浮かんできます。

この韓信、最期は、
謀反を企んだとして一族もろとも殺されてしまいますが、
それも義経の最期とダブリます。

才丸の句にこんなのもあります。

    梅が香に更(ふ)けゆく笛や御曹司

御曹司とは牛若丸、つまり義経のことです。


     ーーーーー◇ーーーーー

      =三国志=

ブログ「平成の世捨て人」さんに、
三国志の人形展の記事が出ています。
韓信や劉邦は出てきませんが、とても興味深く楽しい記事です。

ここにうまく貼り付けられなかったので、リンク欄からお願いします。
9月11,16,24,27日、10月1,6日に掲載されています。


※参考文献/「校本・芭蕉全集」第三巻 連句篇上 富士見書房 平成元年
※画像提供/「力石ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011

なんで「文治二年」なんだろう

小石川の連句の席で、嵐雪が「麻布の寝覚め…」と詠んだ。

それを受けて其角が、「いなりの鳥居…」と続けた。

そこで麻布にある稲荷神社をさがしてみたら、三社見つかった。
前回、ご紹介したのがその神社です。

三番目の霞山稲荷大明神かも、と色めき立ちましたが、
どこをつついても力石は霞みに隠れて出てこない。

朝もやの向こうでおキツネさんに笑われてしまいましたが、
手を突っ込んだ手前、今さら引けません。

難関突入です。ちょっとオーバー(笑)

其角ゆかりの三囲(みめぐり)神社の柔和なおキツネさん。
CIMG0916_20191011150550595.jpg  CIMG0917_20191011145757c00.jpg
東京都墨田区向島

其角の「いなりの鳥居」を受けて、次の才丸はこう詠んだ。

   「文治二年のちから石もつ」

それらを「芭蕉全集」の校注者はこう解釈した。

「麻布あたりの朝の景。
ちから石は持ち上げて力試しをする石。社頭に多い。
(だから才丸は、其角が詠んだ)鳥居を古い稲荷社のものとした」

句の場所が「麻布の古い稲荷社」というのは、
句を詠んでいけば素人の私でもわかります。

私がアレッ?と思ったのは、その年号なんです。

文治元年でも三年でもなく、はたまた、
義経の自刃や奥州の藤原氏滅亡があった文治五年でもない。

本の校注者は「文治二年」は「頼朝時代の年号」とだけ記していたけれど、
句や歌は想像でも詠むとはいえ、
「だから詳しい解釈はいらない」では困るんです。

芭蕉門下の俳人たち。
左から二人目は芭蕉と共に「奥の細道」を歩いた曽良(そら)

img20191011_14144956 (2)img20191011_14134693 (2)
「芭蕉全集」より

だって不思議じゃないですか。
「文治二年」と言い切っているのですから。

「明治は遠くなりにけり」というのと、
「明治二年は〇〇」というのとでは意味が違ってきますもの。

私は以前、ブログにこう書いた。

「文治二年」と刻字された力石は最初から存在しなかった。
ただこの年号はみんなの共通認識になっていた特別の年号のはず、と。

才丸はその年号を稲荷の古社の力石に仮託して詠んだ。

兄・頼朝に討たれた義経は、
悲劇の英雄として浄瑠璃や御伽草子で世間に広まり、
時代を越えて人気者になっていった。

だから江戸時代の武士や町人たちは、
こぞって、「義経記」や「太平記」を買い求め、読んだという。

下は「奥の細道」と奥付です。

芭蕉は500年前の義経自刃や藤原氏滅亡の地を見て一句詠んだ。

   夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと

奥付には、「寛政元年酉年中秋再板」とあります。

img20191011_14163149 (3)img20191011_15234649 (2)
「芭蕉全集」より

その義経を思って「文治」を思い浮かべたのなら、
奥州で無念の最期を遂げた文治五年の方がわかりやすいのに、
才丸はわざわざ「文治二年」と詠みこんだ。

となると、才丸さんの脳裏に浮かんだのは、
この年、奥州への途中で頼朝に会ったあの「西行」だったんだろうか。

ほかに目を転じると、
この年にはこんなこともありました。

後白河法皇による高野山での平氏一類の怨霊しずめの大供養。
東大寺衆徒による伊勢神宮・神宮寺での平氏追善供養。

なにしろ、平家の怨霊だらけだったのですから。

そして政局が武士へと移り鎌倉時代が幕を開けた、

仏教界でも浄土宗、日蓮宗、禅宗などの新仏教が次々興り、
国家・貴族を守る仏教から民衆を救う仏教へと変わっていった。

そういう大変革の時代の幕開けが、この「文治二年」だった。

才丸はそこを言いたかったのかと。

考えすぎでしょうか。

      
     ーーーーー◇ーーーー

   
     =「弁慶鏡ケ井戸」=

  ブログ「路傍学会」会長さんの記事に、
  義経一行が奥州落ちの途次、弁慶が見つけたという井戸が出てきます。
  ぜひ、お読みください。
 
  「路傍学会」


※参考文献・画像提供/日本名著全集・江戸文藝之部第三巻「芭蕉全集」
               日本名著全集刊行会 昭和四年
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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