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博物館へ収蔵されたブログのこと

三重県総合博物館へおじゃましてから、
すでに7か月もたってしまいました。

張り切って始めた「博物館訪問記」も、横道にそれすぎて尻切れトンボ。

初心にかえって、
私の人生最大の喜びとなった収蔵されたブログの写真から見てください。

CIMG4770 (3)

うれしくて、何度もシャッターを切りました。
それで、
とにかくぼーっとなっていたので、肝心の中を見るのをすっかり忘れて、
同じ写真を何枚も…。

そんな私の気持ちを汲んで、もう一枚、見てくださいね。

CIMG4768 (2)

ブログ収蔵は、ひとえに
師匠の元・四日市大学の高島愼助教授のおかげなんです。

このブログはなんと、
先生ご自身が印字して、ファイルにまとめてくださったんです。

力石調査ではまだまだヒヨッコの私なのに、その晩年に花を持たせてくださった。

だから師匠は大恩人!なんです。

先生は大学を退官後、全国行脚で得た膨大な資料を同博物館へ寄贈。

その「高島先生関係資料」の一つとして、
拙ブログも収蔵していただいたというわけです。

ブログのほかに、
私が集めた力石に関する資料、ファイルで12冊ほどになりましたが、
それも追加で納めていただくことができました。

こちらは先生が寄贈した資料の一つ、「へのこ石」です。

ミエム・へのこ石2
三重県津市一身田上津部田・三重県総合博物館「みえむ」  70×36×21㎝

もとは久居市野村町(2006年、津市と合併)にあった力石で、
合併の前年、四日市大学へ寄贈されたものです。

「この石は、畑のかたすみに放置されていたもので、
自治会長さんから、大学で保管していただけるならと寄贈してもらった。

その後、私が定年を迎え、それを機に他の資料とともに博物館へ移され、
保管されているものです」と高島先生。

ちょっと言いにくいですが、「へのこ」とは、男性の性器のこと。
昔は魔除けとして神聖視されていました。

男性のみなさんは、みんな「魔除け」を持っているんですねぇ…。

また石の模様から「鉢巻き石」とも呼ばれていたそうです。
重量は120㎏。米俵二俵分あります。

次回は数ある収蔵品の中から、番付表などをご紹介します。


※写真提供/高島愼助先生


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小鍛冶と小ぎつね

「文治二年」「ちから石」「稲荷の鳥居」

私はコレで迷路に迷い込みました。

壁にぶち当たったら原点に帰る、それしかない!
というわけで、発端の屏風絵に戻ります。

上杉本「洛中洛外図屏風」の「べんけい石」の場面です。
img068_20191016101931c2f.jpg

そして重要なのがこの絵の上部に描かれていた「粟田口」

弁慶石もここから入洛したという洛中・洛外の出入り口です。

文治三年、東大寺院主の勧修坊得業という高僧が、
義経に通じたとして鎌倉の頼朝の元へ連行されます。

その時の経路もこの粟田口から始まります。

粟田口ー松坂、山科を通って逢坂の関。
そして、
園城寺ー瀬田の唐橋を通って伊吹山…、東海道を下って鎌倉へ。

その粟田口です。
img032 (4)

平安時代、この粟田口に、
名工・三条小鍛冶宗近という人が住んでいたそうです。

時の一条帝の求めで剣を打つことになったが、
相槌(あいづち)がいなくて困っていたら、
どこからともなく一人の童子が現れて相槌となった。

相槌(あいづち)=剣を打つ職人の相方。
    金鎚を持った職人と木槌を持った職人が気持ちを一つにして
    「丁々、しっていころり」と打合せること。
    転じて相手の話にうなづくこと。
            
右側が小鍛冶宗近、左側が小きつねの童子。
img20191016_10265161 (2)

めでたく剣は出来上がり、童子は稲荷山へ消えた。
この童子、稲荷山に住む小キツネだったそうな。

そこで宗近、剣の表に「小鍛冶宗近」、裏に「小狐」と名を入れ、
「小狐丸」と名付けて帝へ捧げ奉った。

でもねえ、初期のころのものには狐は出てこないんですよ。
女房が相槌になって、美しい夫婦愛になっているんです。

キツネが出てくるのも一匹だったり三匹だったり。

下は柳森神社の「おたぬきさん」です。

「キツネばかりじゃないよ。おいらたちもこうしてがんばってるんだよ。
他(た)を抜(ぬき)たい、出世したい人は参拝に来てね!」

CIMG3864 (2)
東京都千代田区神田須田町。
ここには力持ちの神田川徳蔵一門が持った力石群があります。

ま、それはさておき、
宗近の氏神は「稲荷の明神」

そして相槌となった小狐は、剣が完成するや、

「これまでなりと言い捨てて群雲(むらぐも)に飛び乗りて、
東山稲荷の峰にぞ帰りける」

この稲荷社ってどこだ、と探したら二社あった。

知る人ぞ知る「伏見稲荷大社」
そしてもう一社は「花山稲荷神社」

小ぎつねがやってきたのは、どっち?


※参考文献・画像提供/「謡曲三百五十番集」江戸文藝之部 
               日本名著全集刊行会 昭和三年
※画像提供/「上杉本洛中洛外図屏風を見る」小澤弘 川嶋将生 
        河出書房新社 1994

義経と韓信

「文治二年」の解明に決定打がなく、スッキリしませんが、
参考までに、才丸の句、

     文治二年のちから石もつ   

これを受けて詠んだ次のコ斎の句もあげておきます。

     乱れ髪俣(股)くゞりしと偽らん   コ斎

「芭蕉全集」の校注者によると、句の意味はこのようです。

「力石の持ち競べで乱れた髪を、韓信の故事のごとく、
股くぐりをしたためと偽った」

韓信(かんしん)とは、

古代中国の戦国時代、
劉邦(りゅうほう)につかえ、合戦にあけくれ、
ついに劉邦に天下をとらせた武将。

劉邦=前漢王朝の初代皇帝

劉邦です。
劉邦 (2)

その韓信の故事とは、

貧乏だった若いころ、村の不良に、
「お前は臆病者に違いない。もしそうでないならその剣で俺を刺してみろ。
できないなら俺の股をくぐれ

と言われて、韓信は黙って股をくぐった。
周りのみんなは笑ったが、韓信の気持ちはこうであった。

「ここで相手を斬り殺しても何の得にもならない。
仇持ちになるだけだ。
恥はいっとき。自分には大きな志があるのだから」

その後、めきめき頭角を現わし、
主と仰いだ劉邦に天下をとらせた韓信。

その韓信と、兄・頼朝のために合戦にあけくれ、
兄を将軍へと導いた義経とがどことなく似ているような…。

コ斎が急に「韓信」の名をあげたのも、
「文治二年」からの連想かも、なんて思ったりしたんですけど、

こじつけすぎかなぁ。

ま、それはともかく、コ斎は、

「力石を持ち上げたとき髪が乱れたのを、
韓信みたいに股くぐりしたせいだとカッコつけた」と詠んだ。

重い力石を歯を食いしばって持ち上げたら、
髪を束ねていた元結(もっとい)がゆるんでザンバラ髪になった。

img320_201910130901540f7.jpg
「力石ちからいし」より

それを見た仲間たちが、
「オイオイ、それじゃいい男が台無しじゃないか」と笑った。

そこで若者は照れながらもこう言い放った。
「韓信の股くぐりよ」

そんな情景が浮かんできます。

この韓信、最期は、
謀反を企んだとして一族もろとも殺されてしまいますが、
それも義経の最期とダブリます。

才丸の句にこんなのもあります。

    梅が香に更(ふ)けゆく笛や御曹司

御曹司とは牛若丸、つまり義経のことです。


     ーーーーー◇ーーーーー

      =三国志=

ブログ「平成の世捨て人」さんに、
三国志の人形展の記事が出ています。
韓信や劉邦は出てきませんが、とても興味深く楽しい記事です。

ここにうまく貼り付けられなかったので、リンク欄からお願いします。
9月11,16,24,27日、10月1,6日に掲載されています。


※参考文献/「校本・芭蕉全集」第三巻 連句篇上 富士見書房 平成元年
※画像提供/「力石ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011

なんで「文治二年」なんだろう

小石川の連句の席で、嵐雪が「麻布の寝覚め…」と詠んだ。

それを受けて其角が、「いなりの鳥居…」と続けた。

そこで麻布にある稲荷神社をさがしてみたら、三社見つかった。
前回、ご紹介したのがその神社です。

三番目の霞山稲荷大明神かも、と色めき立ちましたが、
どこをつついても力石は霞みに隠れて出てこない。

朝もやの向こうでおキツネさんに笑われてしまいましたが、
手を突っ込んだ手前、今さら引けません。

難関突入です。ちょっとオーバー(笑)

其角ゆかりの三囲(みめぐり)神社の柔和なおキツネさん。
CIMG0916_20191011150550595.jpg  CIMG0917_20191011145757c00.jpg
東京都墨田区向島

其角の「いなりの鳥居」を受けて、次の才丸はこう詠んだ。

   「文治二年のちから石もつ」

それらを「芭蕉全集」の校注者はこう解釈した。

「麻布あたりの朝の景。
ちから石は持ち上げて力試しをする石。社頭に多い。
(だから才丸は、其角が詠んだ)鳥居を古い稲荷社のものとした」

句の場所が「麻布の古い稲荷社」というのは、
句を詠んでいけば素人の私でもわかります。

私がアレッ?と思ったのは、その年号なんです。

文治元年でも三年でもなく、はたまた、
義経の自刃や奥州の藤原氏滅亡があった文治五年でもない。

本の校注者は「文治二年」は「頼朝時代の年号」とだけ記していたけれど、
句や歌は想像でも詠むとはいえ、
「だから詳しい解釈はいらない」では困るんです。

芭蕉門下の俳人たち。
左から二人目は芭蕉と共に「奥の細道」を歩いた曽良(そら)

img20191011_14144956 (2)img20191011_14134693 (2)
「芭蕉全集」より

だって不思議じゃないですか。
「文治二年」と言い切っているのですから。

「明治は遠くなりにけり」というのと、
「明治二年は〇〇」というのとでは意味が違ってきますもの。

私は以前、ブログにこう書いた。

「文治二年」と刻字された力石は最初から存在しなかった。
ただこの年号はみんなの共通認識になっていた特別の年号のはず、と。

才丸はその年号を稲荷の古社の力石に仮託して詠んだ。

兄・頼朝に討たれた義経は、
悲劇の英雄として浄瑠璃や御伽草子で世間に広まり、
時代を越えて人気者になっていった。

だから江戸時代の武士や町人たちは、
こぞって、「義経記」や「太平記」を買い求め、読んだという。

下は「奥の細道」と奥付です。

芭蕉は500年前の義経自刃や藤原氏滅亡の地を見て一句詠んだ。

   夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと

奥付には、「寛政元年酉年中秋再板」とあります。

img20191011_14163149 (3)img20191011_15234649 (2)
「芭蕉全集」より

その義経を思って「文治」を思い浮かべたのなら、
奥州で無念の最期を遂げた文治五年の方がわかりやすいのに、
才丸はわざわざ「文治二年」と詠みこんだ。

となると、才丸さんの脳裏に浮かんだのは、
この年、奥州への途中で頼朝に会ったあの「西行」だったんだろうか。

ほかに目を転じると、
この年にはこんなこともありました。

後白河法皇による高野山での平氏一類の怨霊しずめの大供養。
東大寺衆徒による伊勢神宮・神宮寺での平氏追善供養。

なにしろ、平家の怨霊だらけだったのですから。

そして政局が武士へと移り鎌倉時代が幕を開けた、

仏教界でも浄土宗、日蓮宗、禅宗などの新仏教が次々興り、
国家・貴族を守る仏教から民衆を救う仏教へと変わっていった。

そういう大変革の時代の幕開けが、この「文治二年」だった。

才丸はそこを言いたかったのかと。

考えすぎでしょうか。

      
     ーーーーー◇ーーーー

   
     =「弁慶鏡ケ井戸」=

  ブログ「路傍学会」会長さんの記事に、
  義経一行が奥州落ちの途次、弁慶が見つけたという井戸が出てきます。
  ぜひ、お読みください。
 
  「路傍学会」


※参考文献・画像提供/日本名著全集・江戸文藝之部第三巻「芭蕉全集」
               日本名著全集刊行会 昭和四年

麻布の稲荷ってどこ?

頼朝、義経、西行が慌ただしく動いたのが文治二年(1186)。

それから約500年たった江戸初期、この年号が連歌の会で出てきました。

先日ブログで示したその連歌です。

     わくら葉やいなりの鳥居顕れて            其角
               文治二年のちから石もつ       才丸

わくら葉=病葉。老葉。
       夏、青く茂っている葉の中に、一枚だけ色づいた葉のこと。

黄色や褐色に変色した「わくら葉」は老いを現わし、
鮮やかな赤は季節を先取りした先駆者、抜きんでた優れ者。

「たまたま、偶然」という意味もあるとか。

で、其角は続けて「いなりの鳥居」と言っていますから、
ここでの「わくら葉」は鳥居同様、周囲の葉とはまったく違う
鮮やかなだったと思うのです。

その赤い「わくら葉」と鳥居が朝もやの中に忽然と現われた。

CIMG0914.jpg
静岡市清水区・美濃輪稲荷神社

「芭蕉全集」の注釈では、この稲荷神社は「麻布」と書いています。

なぜ麻布かというと、前句の嵐雪がこう詠んでいるからです。

     麻布の寝覚ほととぎす啼け

「寝覚め」ですから。それも早朝。

そこで麻布の稲荷神社を当たってみました。

三社見つかりました。

一つ目は「麻布十番稲荷神社」(港区麻布十番)。

この神社は昭和25年の再建という新しいものですが、
元は、
江戸初期の慶長年間創建の末広神社(青柳稲荷神社)と、
10世紀初頭創建の竹長稲荷神社で、

米軍の空襲で焼失したため合祀し、
名称も「十番稲荷神社」と改称して現在地に遷座したそうです。

麻布で稲荷ですから、コレかなと思いましたが、
でもですね、力石は影も形も話すらない。

そこで二つ目の
元麻布に鎮座する「麻布氷川神社」をあたってみました。

創建は頼朝や義経の先祖・源経基というのですから、
うん、これかもと期待がふくらみます。

松の木をご神体にしていたとかで、
「麻布一本松神社」ともいわれていたそうです。

江戸名所図会に描かれた「麻布一本松」
img20191006_14594052 (2)

松がご神体とは、
あの京都三条河原の「弁慶石」の松をほうふつとさせるではないですか。

ただ、ここにもお稲荷さんはいらっしゃるんですが、
近くの松平陸奥守(仙台藩)の屋敷跡にあったものを
昭和の初めに移したそうですから、新しいんですね。

がっかり。

思わず期待がしぼみかけましたが、
でもなんと、境内に力石らしき石があるんですよ。

さっそく神社へお聞きしたら、
「昔からポツンと置かれているのですが、力石かどうかはわかりません」

写真を見る限り、力石なんですけどねぇ。

下に「麻布氷川神社」のホーページを置きました。
「麻布氷川神社について」のページの3番目あたりの右下に
力石らしき石が出ています。

麻布氷川神社

で、今度は三番目の神社、桜田神社(西麻布)へ。

桜田神社=元・霞山稲荷大明神
   
中世には霞が関にあって、
頼朝が美田五百七十石を寄進したそうです。

寛永元年(1624)、麻布に遷座。

江戸名所図会の「霞山稲荷社」です。ちょっとピンボケ。
img20191006_14565436 (2)

其角が「わくら葉や」と詠んだ句会は、
遷座から60年余もたっていますから、
この稲荷社の名は世間に充分知れ渡っていたはず。

これは有力です。

余談ですが、
この元・霞山稲荷大明神(桜田神社)は、
「新選(撰)組」の沖田総司や乃木将軍ゆかりの神社で、
今も「新選(撰)組」ファンの参拝が絶えないそうです。

しぼんだ期待が再び膨らんできました。


※参考文献・画像提供/「日本名所図会全集/江戸名所図会巻二」  
               復刻版 長谷章久監修 名所普及会 昭和50年
※参考文献/「校本 芭蕉全集 第三巻 連句篇」大谷篤蔵ほか校注
         富士見書房 平成元年
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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