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麻布の稲荷ってどこ?

三重県総合博物館
10 /08 2019
頼朝、義経、西行が慌ただしく動いたのが文治二年(1186)。

それから約500年たった江戸初期、この年号が連歌の会で出てきました。

先日ブログで示したその連歌です。

     わくら葉やいなりの鳥居顕れて            其角
               文治二年のちから石もつ       才丸

わくら葉=病葉。老葉。
       夏、青く茂っている葉の中に、一枚だけ色づいた葉のこと。

黄色や褐色に変色した「わくら葉」は老いを現わし、
鮮やかな赤は季節を先取りした先駆者、抜きんでた優れ者。

「たまたま、偶然」という意味もあるとか。

で、其角は続けて「いなりの鳥居」と言っていますから、
ここでの「わくら葉」は鳥居同様、周囲の葉とはまったく違う
鮮やかなだったと思うのです。

その赤い「わくら葉」と鳥居が朝もやの中に忽然と現われた。

CIMG0914.jpg
静岡市清水区・美濃輪稲荷神社

「芭蕉全集」の注釈では、この稲荷神社は「麻布」と書いています。

なぜ麻布かというと、前句の嵐雪がこう詠んでいるからです。

     麻布の寝覚ほととぎす啼け

「寝覚め」ですから。それも早朝。

そこで麻布の稲荷神社を当たってみました。

三社見つかりました。

一つ目は「麻布十番稲荷神社」(港区麻布十番)。

この神社は昭和25年の再建という新しいものですが、
元は、
江戸初期の慶長年間創建の末広神社(青柳稲荷神社)と、
10世紀初頭創建の竹長稲荷神社で、

米軍の空襲で焼失したため合祀し、
名称も「十番稲荷神社」と改称して現在地に遷座したそうです。

麻布で稲荷ですから、コレかなと思いましたが、
でもですね、力石は影も形も話すらない。

そこで二つ目の
元麻布に鎮座する「麻布氷川神社」をあたってみました。

創建は頼朝や義経の先祖・源経基というのですから、
うん、これかもと期待がふくらみます。

松の木をご神体にしていたとかで、
「麻布一本松神社」ともいわれていたそうです。

江戸名所図会に描かれた「麻布一本松」
img20191006_14594052 (2)

松がご神体とは、
あの京都三条河原の「弁慶石」の松をほうふつとさせるではないですか。

ただ、ここにもお稲荷さんはいらっしゃるんですが、
近くの松平陸奥守(仙台藩)の屋敷跡にあったものを
昭和の初めに移したそうですから、新しいんですね。

がっかり。

思わず期待がしぼみかけましたが、
でもなんと、境内に力石らしき石があるんですよ。

さっそく神社へお聞きしたら、
「昔からポツンと置かれているのですが、力石かどうかはわかりません」

写真を見る限り、力石なんですけどねぇ。

下に「麻布氷川神社」のホーページを置きました。
「麻布氷川神社について」のページの3番目あたりの右下に
力石らしき石が出ています。

麻布氷川神社

で、今度は三番目の神社、桜田神社(西麻布)へ。

桜田神社=元・霞山稲荷大明神
   
中世には霞が関にあって、
頼朝が美田五百七十石を寄進したそうです。

寛永元年(1624)、麻布に遷座。

江戸名所図会の「霞山稲荷社」です。ちょっとピンボケ。
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其角が「わくら葉や」と詠んだ句会は、
遷座から60年余もたっていますから、
この稲荷社の名は世間に充分知れ渡っていたはず。

これは有力です。

余談ですが、
この元・霞山稲荷大明神(桜田神社)は、
「新選(撰)組」の沖田総司や乃木将軍ゆかりの神社で、
今も「新選(撰)組」ファンの参拝が絶えないそうです。

しぼんだ期待が再び膨らんできました。


※参考文献・画像提供/「日本名所図会全集/江戸名所図会巻二」  
               復刻版 長谷章久監修 名所普及会 昭和50年
※参考文献/「校本 芭蕉全集 第三巻 連句篇」大谷篤蔵ほか校注
         富士見書房 平成元年

富士見西行

三重県総合博物館
10 /05 2019
69歳で2度目の「小夜(さや)の中山」を歩いた西行。
何を思ってか、
東海道をはずれて頼朝のいる鎌倉・鶴岡八幡宮に姿を現します。

時は文治二年八月十五日。

同じ日の同時刻に、なぜか頼朝も八幡宮を参詣。

下の写真は、鶴岡八幡宮前の駐車場にある力石です。

2個ありますが、どちらも
610㎏の力石を持った稀有の力持ち・三ノ宮卯之助の力石です。

1鎌倉三栄稲荷
神奈川県鎌倉市雪ノ下 三栄稲荷神社

三ノ宮卯之助といえば、力持界のスター。
出身地の埼玉県では文化財に指定され、お菓子にもなっていますが、
ここのは、

石垣にめり込んじゃって…。

トコトン冷遇されています(涙)

2鎌倉三栄稲荷

ま、泣き言はそれくらいにして、

「吾妻鏡」によると、
「老僧が一人、八幡宮の鳥居の辺を徘徊していたので名字を聞いたら、
佐藤左衛門尉義清(のりきよ)法師と名乗った」

西行さん、
わざと頼朝の目につくようにウロウロしたり、
43年も前に捨てた武士時代の名を告げたり、

頼朝から、歌道や弓馬のことを尋ねられると、
「歌道の奥深いことは全く知らない
弓馬のことは罪業の原因になるので、すべて忘れた」なんて言う。

さらに、
翌朝、頼朝が引き留めるのにも従わず、贈り物の銀(しろがね」の猫も
門前の子供に与えて立ち去ったという。

頼朝さん、とことんコケにされています。

交野(大阪府枚方市)の天の河のほとりにたたずむ西行です。
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西行がいつ奥州へ着いたか、いつ戻ったかは不明だそうですが、
目的の金はその年の10月、砂金450両が京へ到着したとのこと。

奥州の藤原氏は西行の先祖とはいえ、
それだけの砂金を出させた西行の手腕はたいしたもの。

それをわずか2か月足らずで京へ送り届けた藤原氏はもっと凄い。

その西行さん、奥州へ旅立つ前、どうも伊勢で義経と会っていたような…。
その数か月後、西行は太平洋側の東海道を下って奥州へ。
義経は日本海側の北陸道を回って同じ奥州へ向かっている。

「吾妻鏡」にはそんなことも書かれています。

で、「吾妻鏡」を読んでいると、
頼朝さん、義経をわざと「泳がせていた」みたいな感じ。
いづれ奥州へ行くだろうと…。

学者さんたちも、
「頼朝の本当の目的は義経ではなく、奥州・藤原氏討伐にあった」
なんて言ってますし。

そして文治5年、
義経は最大の庇護者の秀衡死後、息子の泰衡に攻められて自刃。
このとき義経31歳。

間髪を入れず頼朝はその泰衡を攻めたため、
奥州藤原氏は滅亡してしまいます。

願成就院の願いは見事に成就したわけです。

義経自刃の翌年、西行もまた河内の弘川寺で73歳で示寂。

こちらは「富士見西行」像です。
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静岡市清水区東山寺・林香寺。鎌倉時代創建。

西行はこの旅で富士山の歌を詠んでいます。

   風になびく富士のけぶりの空に消えて
              ゆくへも知らぬわが思ひかな


西行といえば、
  
   ねがわくは花の下にて春死なん
               そのきさらぎの望月のころ


が辞世の句として世間に流布されていますが、

実は西行自身は「風になびく」の歌を
「これぞわが第一の自嘆歌(辞世の歌)」と弟子に伝えていたそうです。

「命なりけり」と絶唱した小夜の中山をようよう越えたとき、
忽然と姿を現した霊峰富士を見て、
もはや思い残すことはないと感じたのであろう」(白洲正子)

写真の「富士見西行」像は、
元は、静岡市由比倉沢の富士が見える見晴らし所にあったが、
明治元年の天皇御東幸の際、
「沿道の石像・石仏は撤去せよ」との通達で、お寺で引き取ったとのこと。

「現在の場所から富士山は見えません」(望月久代)

ああ、これぞ

「ゆくへも知らぬわがおもひ」かな。


※画像提供/斎藤
        /「西行法師行状絵巻」小松茂美編 中央公論社 1995
※参考文献/「西行」白洲正子 新潮社 1998
        /「東山寺の歴史」望月良英監修 望月久代編著
         私家本 平成27年

寺とか神社とか

三重県総合博物館
10 /02 2019
願成就院(がんじょうじゅいん)という古刹があります。

場所は静岡県伊豆の国市。

建立は文治五年(1189)。
建てたのは頼朝の妻・政子の父で、このあたりを支配していた北条時政

平氏なんですけど、なぜか娘は源氏の棟梁に嫁ぎました。

で、この寺院、奥州平泉の
藤原氏滅亡を祈願して建てたというのですから凄まじい。
でも伽藍構成は平泉の毛越寺を模して建てたというんですからややこしい。

以前はちょっと寂れた感じでしたが、
平成25年にここの仏像5体が国宝に指定されて、
にわかに脚光を浴び、参拝者が押し寄せるようになりました。

なにしろ仏像はすべて、あの超有名な仏師の運慶作。
胎内から文治二年の銘札がでてきたそうです。

文治二年は、義経が兄・頼朝に追われて逃げ始めた年です。
そういう時代に運慶さん、一生懸命彫っていたんですね。

願成就院のパンフです。
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さっそく私も拝観にいきましたが、受付のおばあさんの怖かったこと。
中においでの不動明王と脇侍の「せいたか童子」からも
眉間にしわを寄せてハッタと睨まれて固まりましたが、

阿弥陀様の穏やかさに緊張も溶けました。

でも、手を合わせつつも、私はなんだか複雑な気持ちになって…。
だって相手を滅亡させるという願いが成就するために建てたんですもんね。

ついでにいうと、平家が建てたあの広島県の厳島神社

一説には、平清盛の父忠盛が表向きは平家の氏神とし、
中国・宋との密貿易の隠れ蓑として使ったというのですから、

なんだかなぁ。

確かに入り江があって神域であれば、密かに船を入れられるし。
それで私腹を肥やしたというのですから、やっぱり興ざめしてしまいます。

ついでのついでに言うと、
清盛西行は同じ年に生まれて、
青年時代は北面の武士として一緒に働いていたとか。

同期生ですが、片や政権の長、片や世捨て人

僧形の清盛像(六波羅蜜寺)です。
「清盛の肖像画を見ると、
この人は乱視やないかと思うてるんです」(歴史家の中村直勝)

まあ、世の中が乱れていたのは確かですけどね。

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戦勝祈願隠れ蓑のほかに、
ライバルを陥れて殺し、その怨霊鎮めに建てた寺社もあります。

寺社のそうした創建の目的を考えると、
一体、私は何に手を合わせているのかと思ってしまいます。

とまあ、いつになく複雑な心境になりました。

荘厳で美しい寺社も好きですが、
でもやっぱり私は、巨石に神(精霊)を降ろして祈っていた原初の、
そんな自然と一体になった素朴さの方がいい。

そんな原初の姿を今に残す
「神と一体になって遊ぶ」シーンをお見せします。

姫路市大津区天満の「力持ち」です。
秋祭りに神明神社と蛭子神社で行われます。

拝殿前の地面に土俵を描くことで、ここが神の降臨する場だと示します。
たった一本の線なのに、その瞬間から、
その線を挟んで円の外側は、内側はになります。

その聖なる場で、若者たちが力技を見せます。

力比べが終わると神はお帰りになり、土俵はたちまち元の境内に戻ります。

CIMG2580.jpg
姫路市無形文化財

力持ちは明治のころまで「力士」と呼ばれていました。
力士は神仏を守る守護神「金剛力士」。

この日若者たちは、みんな金剛力士になりました。


※カテゴリーを三重県総合博物館にしっぱなしで、
 博物館と義経や願成就院とどう繋がるんだとお叱りを受けそうですが、
 博物館さま、もう少し目をつぶっていてくださいね。

西行法師の登場

三重県総合博物館
09 /29 2019
文治二年三月、義経の愛妾・(しずか)が捕らえられて鎌倉へ。

このとき静さんは義経の子を身ごもっていた。
そんな身なのに、頼朝じきじきに「義経の居場所を言え」と尋問したり、
酒席にはべらせて酌をさせたり、を舞わせたり。

言い寄る武将もいて、もうセクハラ三昧

4か月後出産するものの男の子だったため、
赤ん坊は由比ガ浜で殺されてしまいます。

京都では、義経の主だった郎党たちが次々捕らえられて梟首(きょうしゅ)。
しかし、肝心の義経はいまだ行方知れず

そんなさ中の八月には、
北面の武士から世捨て人になった西行が、
戦乱で焼けた東大寺再建の勧進のため陸奥国(岩手県)へ旅立ちます。

こちらは東海道の難所「小夜(さや)の中山」を行く西行(赤丸の中)です。

静岡県の日坂宿(掛川市)と金谷宿(島田市)の間にある峠です。
眼下に「越すに越されぬ」と歌われた大井川が流れています。

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「西行法師行状絵巻」より

西行このとき69歳。ここを歩くのは二度目
そのときの歌がこれです。

   年たけてまた越ゆべしと思ひきや
               命なりけりさやの中山


「西行」の著者の白洲正子氏は、この歌についてこう書いています。

「40年以上も前にはじめて小夜の中山を越えた日のことを憶い出して、
激しく胸に迫るものがあったに違いない。

その長い年月の体験がつもりつもって、
「命なりけり」絶唱に凝結した」

「胸に迫るものがあって、絶唱」-。

いいなあ、この感じ。魂の叫び。

西行ファンの芭蕉もまたここで句を詠んだ。

   命なりわづかの笠の下涼み

しかし白洲氏は、
「言い得て妙とは思うものの、
西行の歌の大きさ深さには比すべくもない」と辛らつ

その白洲氏もまた、ここを訪れています。

「94歳になる茶店のおばあさんに会った」と書いています。

こちらは私が会ったときのおばあさんです。
おばあさんは子育て飴を売る「扇屋」のご主人のちとせさん。

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掛川市小夜鹿

私がお会いしたときは98歳でしたから、
白洲さんが訪れたのはその4年前になります。

さて、西行が焼けた東大寺の大仏に使う金(こがね)を求めた先は、
平泉の藤原氏です。

義経もまた、翌文治三年二月に同じ藤原氏を頼って落ちていきます。

一見、何のつながりもなさそうな二人ですが、同じ奥州へというのは、

偶然でしょうか?


※画像提供/「西行法師行状絵巻」小松茂美編 中央公論社 1995
※参考文献/「西行」白洲正子 新潮社 1988
        /現代語訳「吾妻鏡」五味文彦 本郷和人編
         吉川弘文館 2008

文治二年という年

三重県総合博物館
09 /26 2019
まずこの連歌からご覧ください。

    わくら葉やいなりの鳥居顕れて        其角
            文治二年のちから石もつ      才丸


私がこの連歌を初めて知ったのは、
力石の調査に入り始めた10余年ほど前でした。

そのときは単純に、
石の表面に「文治二年」と刻字されていたんだな、と。

でも、待てよ、と思い直したのはつい最近。

「弁慶石」に関わって、義経や弁慶の本を読み始めてからです。

で、この際、史実と推理をこき交ぜて、
「義経記」もどきのショータイムを始めようと思い立ったわけです。

歴史家だった網野義彦氏の「歴史に必要なのは想像力だ!
の言葉に力をいただいて語ってまいります。

この句が詠まれたのは、江戸初期の貞享二年(1685)六月二日。

出羽国(山形県)の紅花問屋の豪商・鈴木清風を迎えての
古式百韻興行の席上でした。
 ※「賦花何俳諧之連歌」とありますので、連句ではなく連歌としました。

場所は江戸・東武小石川。
出席者は客の清風ほか、俳聖・芭蕉を筆頭に、
嵐雪、其角、才丸、コ斎、素堂といったそうそうたるメンバーです。

このとき其角才丸という東西の鬼才が詠んだのが、
冒頭にあげた句です。

ただし、文治二年は1186年ですから、
才丸がこの句を詠んだ年までは、約500年もの開きがあります。

この間には応仁・平治の乱に続き、源平の合戦や南北朝期の混乱、
群雄割拠した戦国時代があって、都は焦土と化した。

刻字した力石があったとしても、無事だったとはとても思えません。

ただ力石なる石が存在していたことは、
平安時代後期の仏教説話集、
「打聞集・道場法師説話」によって確かめられます。

 ※「道場法師」は飛鳥時代の怪力の僧。
  奈良・元興寺の僧になったという伝説上の人物。
  平安時代初期の「日本霊異記」にも出てきます。

「道場法師」や元興寺とは何の関係もありませんが、
こんな「謎の仏像」を載せてみました。

「目のない仏像」大阪府・太平寺
img20190924_20112886 (2)
「芸術新潮」1991年1月号 新潮社

「目がない、異様に手が長い、極端にアンバランス、節だらけー
そういう、およそ「正統からはずれた仏像」が各地に存在する。
ずっと未完成の像かと思われてきたが、どうもそうではないらしい」(梅原猛)

こうした仏像には必ず行基伝説があるとのことですが、
この問題に光をあてたのが当時の奈良大学の井上正教授だそうです。

私の好きな世界とはいえ、話が逸れすぎました。

さて、この「打聞集」には、怪力の話だけでなく、
「十五歳になると、四,五尺の石を一人で担ぐ」という
成年戒の話も出てくるのです。

ですから、

「弁慶石」が京の三条河原に現れた室町時代より二つも前の時代に、
すでに力石は存在し、人々は若者たちが石を担ぐことを、
「大人への登竜門」と認識していたことになります。

「文治二年」と刻まれた石が現存していればいいのですが、
残念ながら、今はどこにもありません。

風化してなくなってしまったのかとも考えましたが、
そうではないのでは、と思い始めました。

この石は最初から存在しなかったのではないだろうか。

これが私の結論です。

では才丸は口から出まかせに
「文治二年のちから石」と詠んだのか?

それも違う。

俳句に特定の年号を詠みこむには、それだけの理由があるはずです。

例えば「昭和二十年の…」といえば、
「敗戦」「原爆投下」「マッカーサー」という情景が浮かぶように。

この「文治二年」は、
この俳句興行に参加していた誰もがピンとくる
特別な年号だったのではないでしょうか。

とまあ、愚にもつかないことを自問自答している私ですが、
次回は私の推理をご披露していきたいと思います。

果たして賽の目はどう出ますか!


※参考文献/「説話文学」「打聞集を発見して」山口光円
        「打聞集所収 道場法師説話考」黒部通善
        日本文学研究資料刊行会 有精堂 1976
参考文献・画像提供/「芸術新潮」1991年1月号
       「こんな仏像もあったのか」梅原猛 「霊木化現仏への道」井上正

※悪戦苦闘の末、アドレスを変えました。
  コメント、大丈夫だと思いますので、
  テストのつもりでいただけるとありがたいです。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞