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さよなら、三ノ宮卯之助

三ノ宮卯之助
10 /22 2021
三ノ宮卯之助が掲載された新聞記事が、埼玉在住の方から送られてきた。

これです。
卯之助記事
読売新聞 2021年10月15日付け

このように地元の郷土研究会が、
ふるさと活性化の起爆剤に卯之助を起用するのも、
それをマスコミに売り込んで宣伝してもらうことにも、異論はありません。

ただ、研究会の卯之助研究は、3,40年も前の一個人の研究情報に依拠し、
それを再調査しないまま広報している、そのことを危惧しているのです。

新たに作った冊子の内容も、昔の資料のまま。

例えば、肥田文八の出身地の「長宮村」を、「現在の春日部市長宮」と、
相変わらず間違えたまま。

正しくは、「現・さいたま市岩槻区長宮」ではないでしょうか。

埼玉から遠く離れた私が、なんで地元の郷土史の方々に、
「間違いですよ」と指摘しなければならないのか。

悲しくなります。

NPO法人作成のパンフレット
img20211018_16381797 (2)

「余計なお世話」なんだろうな。

でも私は、地元が話題に挙げ喧伝するほど「あざとさ」が目に付いて、
だんだん「卯之助」にうんざりしてきてしまったんです。

力石や力持ちのことを知って欲しいと願い、そのためには、
マスコミに取り上げられることを喜んできた私ですが、

でも私が愛し、その対象とするのは、
妙なエピソードや伝説などをまとわない「ありのまま」の力持ちたちなので。

さよなら、三ノ宮卯之助

私はこう思っているんです。

プロ、アマ問わず力持ちは、決して「偉人」でもなければ、「化け物」でもない。
伝説の中に生きようとしたのでもない。

ただ、己の力の限界に挑み続けた生身の人たちなんだって。


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迷走するにもほどがある 怒!

三ノ宮卯之助
10 /13 2021
「筆子塚」に刻まれた「向佐夘之助」が、
どのように解釈され、それがどのように迷走していったかを見ていきます。

「筆子」とは、寺子屋に通う子供たちのこと。
「筆子塚」とは、筆子たちが師への報恩のために建てた碑のこと。

多くは、師が没した時や数年後に、成人した筆子たちが建立。

さて、三野宮香取神社の「筆子塚」です。

今から11年前の2010年9月、
斎藤氏は、この神社の「筆子塚」台座に、卯之助の名を発見。

これは例の「足持石」発見の翌年のことです。

そのときの苦い経験から、卯之助研究者のT氏への問い合わせは、
同氏と親交がある、さいたま市在住の酒井正氏に依頼した。

だが回答はT氏ではなく、石仏に詳しいK氏からきた。

優しい酒井さんの手紙には、斎藤さんへの気遣いが端々に。

T、K氏のお二人とも新たな卯之助ファン=研究家が現れて、
詳しくお調べのことと喜んでおられましたよ」と。

酒井さんです。
以前、ブログに載せたいと伝えたら、この写真を送って下さった。
img20210419_10172153 (2)

さて、酒井さんからの手紙です。

2010年9月14日、越谷市郷土研究会の副会長(現・顧問)で、
石造物の悉皆調査をされたK氏からの回答として、
次のような伝言がありました。

①台座の向佐多次郎が夘之助の何にあたるか判らない。
 ただ、K氏は年代的に見て卯之助本人であるのは
ほぼ間違いないと言いながらも、断定はできないとのこと。

※私の独り言=「年代的に見て卯之助本人」、もうここからおかしい。
           理由は後述。

②現在、「生家」といっている向佐家は、卯之助の生家ではなく、
 兄弟姉妹の子孫らしい。

③卯之助が江戸、三野宮…、どこかで、
 自分の家庭を持っていたかどうかもわからない。

この「家庭」なる言葉、旅がらすの卯之助には似合いませんが、
斎藤氏からの問い合わせに呼応したものでしょう。

斎藤氏の調査では、
「多次郎の名は文献・資料からは見いだせなかった。
生家のおばあさんも、全くわからないとのこと」

この手紙から10日ほどして、再び、K氏からの追伸が届いた。

中に、K氏の手になる
平成9,10年(1997,8)の「石造物調査報告書」のコピーがあった。

これです。

「天神像」とあります。左側赤丸に向佐多次郎 同 夘之助とあります。
img20211007_18561478 (4)

台座正面に、
卯之助の出身地とされる三野宮村の筆子たちの名前が並んでいます。
しかしこの中に「向佐家」はありません。

台座右側(調査書では左側)の村名は「大森村」。
「向佐」名があるその隣はただ「村」とだけ。大森村の枝村の意か?

上部に句が刻んであります。
寺子屋の師匠の辞世の句でしょうか。

問題は次の調査書です。右寄りの中ほどをご覧ください。

「夘之助の名前が刻まれているが、これは、
この頃活躍した日本一の力持ちの三ノ宮卯之助
指すものと思われる」

おいおいおい

「この頃活躍した」って、卯之助はこの安政5年にはもういないはずでしょ?
没年は4年前の嘉永7年だって公表したのは、あんた方じゃないの。

img20211007_18561478 (3)

追伸では13年前の調査書の、この個所をトーンダウン。

「過去帳などの消失により、確証は得られない現在は断言できない」

しかし、直接話を聞いた酒井氏は、その時の様子をこう補足している。

K氏は、天神像の夘之助は三ノ宮卯之助を指すものと思うものの、
それを活字にするのはご慎重のようでした」

「ご慎重」と言ったって、13年も前に活字にしてるじゃないですか。
それに、13年たってもまだ、「卯之助本人」だと、思い込んでいる。

寺子屋の師匠と子供。「稚六芸の内 書数」 歌川国貞・画
寺子屋

寺子屋が増加し始めたのは、天保期(1830~1844)といわれていますから、
文化四年(1807)生まれで、地方の片田舎にいた卯之助が、
寺子屋へ通えたかどうかさえ疑問です。

酒井氏がどんなにK氏を、
「石造物に関しては凄いとしか言いようのない方」と褒め、
「推測の範囲で楽しむのがよろしいようで」とフォローしても、

間違いは間違いです。

だって、卯之助はすでにこの世にいなかったのですから。

調査報告書の編集委員や研究会内部から、
「それはおかしい」と言う声は挙がらなかったのでしょうか。

私如きが言うのはおこがましいですが、私はこう思うのです。

「歴史には間違いがある。しかしそれは決して恥ずべきことではない。
歴史の考察は、先人の業績を踏み台にして、
それに次世代が新事実を積み上げていくこと。
ただし、最も大事なのは、自説の間違いを認める潔さ」だと。

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斎藤氏撮影

さて、とりけらさんがご自身のブログに書いた
「筆子塚の夘之助は(三ノ宮)卯之助の子供らしいという話があるとか」の、
その典拠にしたのが、

K氏と同じ越谷市郷土研究会の会員のブログ、
「越谷探訪」の記事です。それには、こうありました。

K氏の「大袋地区の石仏」(平成9,10年度調査/平成27年12月改定)に、
「(筆子塚)の夘之助は、三ノ宮卯之助(嘉永7年没)の息子であろうか」とある。
この息子であろうかというK氏の考察には信ぴょう性がある。

おいおいおい

先輩のみならず後輩までも。

1997年には「卯之助本人」と書き、
2010年の斎藤氏からの問い合わせには
「本人と推測しているが断言できない」といい、
それから5年後に今度は、「卯之助の息子」とは、

そのどこに「信ぴょう性がある」といえますか!

K先生、「本人説」から「息子説」へ大変換。

もし、証拠もなく、
卯之助の没年とのズレに気づいて、慌てて「息子」に変えたのなら、

失礼な言い方ですが、それは「改定」ではなく、「偽装」です。

権威ある方の発言や著述は信用度が高い。
読み手の知らない分野のことならなおさらです。だから責任は重いのです。

「推測を活字にするのは慎重に」と言いながら、18年後にまた
活字にしていることも、その根拠が必要と私は思います。

「仮説を立てて真相に迫る」ことと、「推測で断言」は、別モノですから。

img697 (3)
三ノ宮香取神社 酒井正・画

ブログ「越谷探訪」のこの記事、
「三野宮香取神社の力石と石仏など境内風景」は、今年4月ですからまだ新しい。

ブログ主さん、「三ノ宮卯之助の息子説は信憑性がある」とした確たる証拠を
お示しいただけたら、ありがたいです。

さて、

「家斉将軍が上覧した」と碑に刻み、100年後に死亡報告と位牌が届いたといい、
死因は食中毒か毒殺で悶死と、これまたおどろおどろしい話を世間に流布。

そして今度は「卯之助には息子がいた」という新説。

センセーショナルなエピソード満載です。

同会では市民対象の歴史探訪を行っている。
ここへ来て、「この人は三ノ宮卯之助の息子らしいなんて説明されたら、
たまったもんじゃない。

耳から入る情報、特に初めて聞く人には、
「らしい」なんかすぐ取れて、「息子」とのみインプットされるのは、よくあること。

世間受けする話題こそ、広がるのも定着も早いのです。

「推測の範囲で楽しむ」?

冗談じゃない! それこそ歴史への冒涜です。

なんだか卯之助は、地元でおもちゃにされているような気がして…。

考えすぎかなぁ。「迷走」に翻弄されて、めまいがしてきた。


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死んだはずだよ、卯之助さん

三ノ宮卯之助
10 /10 2021
卯之助話がようやく終わってヤレヤレと思ったのも束の間、
「とりけらさん」「へいへいさん」のブログを拝見して、

唖然茫然。

そこには、卯之助の没年に疑惑が生じる記事が…。

生家の当時のご当主によると、卯之助の没年は嘉永7年(1854)。

しかし、三野宮香取神社に残された「天神像」(筆子塚)の台座に、
「向佐多次郎 同 夘(卯)之助」と刻まれていて、

その年号が公表していた没年より4年もあとの
安政5年(1858)というのだ。※「向佐」は卯之助の本名。

なに! 卯之助は没年から4年も生きていた!

どこまで世間を騒がせるヤツなんだ、ッたく! 
と、ボヤキつつ、
うやむやが一番嫌いな、融通の利かない私のこと。

早速、真相究明に乗り出しました。

まずは、
「とりけらのアウトドア&ミュージック日記」から。

こちらは三ノ宮香取神社の卯之助石の保存場所です。
三野宮とりけらさん
埼玉県越谷市三野宮

とりけらさんは野の草花音楽に詳しいだけではなく、
ポタリングの利点を生かして、水源富士塚などを巡っている方。

これがまた微に入り細を穿って、詳しいこと。

最近では力石にも言及してくださっています。

そのとりけらさんの「安政5年生存説」を思わせる
「天神像」(筆子塚)の記事がこちら。

「三ノ宮卯之助(うのすけ)の力石が…」

問題の天神像です。学問の神さま、菅原道真が彫られています。
とりけら筆子塚

とりけらさんのこの記事を見て、
「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんも、早速現地へ。

このお二人、フットワーク抜群です。
そして故郷・埼玉をこよなく愛することや、自然が大好きな所も似ています。

へいへいさんはもう皆さまにはおなじみかと思いますが、
探求心はもちろん、情感あふれる写真のすばらしさには定評があります。

三野宮香取神社の卯之助の力石群と石像です。
へいへいさん筆子塚1

詳細は下記をどうぞ。

「三野宮香取神社の力石と筆子塚」

この「天神像」は、
とりけらさんとヘイヘイさんが指摘しているように「筆子塚」です。

その台座左の面に、確かに「夘之助」の名がありました。

向佐多次郎
同 夘之助


「死んだはずだよ、お富さん」じゃないけれど、

私もびっくり。

♪ 死んだはずだよ、卯之助さん、
  生きていたとは、お釈迦様でも、知らぬ仏の卯之助さん

へいへいさん筆子塚2

実はこの話には、があります。

その種明かしの情報は、やっぱり斎藤氏が持っていました。

斎藤氏も上記のお二人同様、埼玉県人です。
埼玉の人はやっぱり凄い! 私が尊敬する酒井正さんも埼玉の人です。

上げたり下げたり、私も忙しい(笑)

種明かし、というより、本当はやりたくない大暴露

それでは次回まで、しばし…。


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力持ち、華の競演

三ノ宮卯之助
10 /01 2021
卯之助の顕彰碑にまつわる話、いよいよ最終回です。

やれ、「家斉御上覧」などなかっただの、
弘化4年の「足持石」をなぜ、碑から落としたのかとか、
詰めがまったく足らないよ、などなど、

碑の建立に関わったみなさまには、さぞ耳障りな連載だったか、と。

最後にシュルシュル、パンとネズミ花火をお見舞いしたいと思います。

卯之助最期の場面です。

「嘉永7年7月、卯之助はさる関西の大名の江戸屋敷で、
東西力持ちの力比べをした」

あり得ません。

前年の嘉永6年6月、
浦賀(横須賀市)へ、ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊「黒船」が入港。

「横浜売物図絵」唐物店之図 五雲亭貞秀・画(銅板油絵)
img20210930_07584727 (3)

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(お茶のこと。蒸気船とかけた)、
たった四杯(4隻)で夜も寝られず」

と狂歌に歌われた、あれです。

民衆は暢気なもので、これから日本に大変革が起きることなど夢にも思わず、
物珍しさに大挙して見物。

下の絵は少し時代が下った文久の頃。

井伊大老暗殺,生麦事件勃発と、血なまぐさい事件が続き、
攘夷だ、佐幕だと大騒ぎしているのに、庶民はのんびり稲荷参り。

なにしろ大政奉還した慶喜さんが大阪から逃げ帰ってきたというのに、
庶民は無関心。門松立ててお屠蘇気分だったというんですから。

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「千代田稲荷之図」一川芳員・画

しかし、幕府はそれどころではなかった。

各大名たちに芝から品川、上総、安房の江戸湾の沿岸警備を命じ、
町火消し、大名火消しまで総動員。

武具のない武士は古道具屋から急きょ、購入。

そんなさ中、将軍家慶が死去。

ペリーから「開国せよ」と突き付けられた老中・阿部正弘は、
大名たちに意見を求めた。

品川沖に台場を築造したのが8月。

翌・嘉永7年1月、ペリー再来日。

2月、アメリカ船に米を献上。力持ちの鬼熊も加わった(右から3人目)。

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この時、力士小柳がアメリカ水兵3人と相撲を取り、勝ったという。

上の絵の左端が相撲に勝った「小柳常吉」です。

小柳常吉
小柳常吉

巨漢の小柳がアメリカ水兵3人を投げ飛ばしても、アメリカは強かった。
とうとう開港を約束させられた。

3月、日米和親条約に調印。

下の絵は、横浜港におけるペリー提督の上陸記念式です。

右側にぎっしり並んでいるのは、見物の群集だろうか。

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5月、富裕商人たちへ御用金を申し付ける。
6月、大砲用の火薬庫が次々爆発して、被害甚大。死者が多数出た。
同月,関西大地震。11月には安政の大地震。

こういう緊迫した情勢から見ても、卯之助生家の当時のご当主が言った
「7月、大名屋敷で東西力持ちの力比べ」なんて、

あり得ないでしょう。

それでなくても、大名たちは日ごろから、「武家諸法度」で統制され、
特にこの時期、「酒や遊びは慎むように」と言い渡されていたのです。

また、「その晩、祝宴の帰り、悶死。毒殺の疑い」と言いますが、
これ、生家のご当主から高崎氏、そこから研究会の面々拡散。

拡散に従い、さらに興行師の名前や師の肥田文八の出身地が変わったり、
果ては、卯之助の道場が東京都中央区の水天宮の近くにあったなどと、
道場まで作られて、
そこへの帰路に悶死したなど、珍説、奇説、新説が流布してしまった。

それがまた、「位牌」と称する「戒名」の解釈にまで及んでしまった。

歴史研究を標榜する方々の論文としては、ちょっと問題だと思います。
論文は歴史小説やドラマとは違いますよ。

卯之助の偉業に傷がつきます。

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兵庫県姫路市網干区宮内・魚吹八幡神社の卯之助像。

さて、この「悶死」について、私が抱いた疑問は、これです。

「毒殺」にしろ「食中毒」にしろ、
祝宴に同席したはずの興行師はなぜ、無事だったのか。

もう一つ、

江戸時代は旅人が旅先で死んだら、ただちにその宿場の役人に届け、
遺体は現地の寺へ埋葬。

故郷へ飛脚が走り、生家へそのことを知らせるという制度があった。

江戸と越ケ谷なんて目と鼻の先なのに、
同郷の興行師は、なぜ、それをしなかったのか。

卯之助のエピソードには、
「講釈師、見て来たようなウソを言い」の臭いがしないでもないけれど、

たとえそうでも、
なにしろ、610㎏もの大石を足差しした三ノ宮卯之助です。

下の絵は、没する2年前に差した610㎏の「大盤石」です。
卯之助、この時、45歳。

卯之助の最期を語るにふさわしく、
地元・紅花の大商人たちが世話人として、おおぜい名を連ねています。

img20210930_10055935 (3)
埼玉県桶川市寿・稲荷神社 酒井正・画

この日本一の石を差した、日本一の力持ちを「世間に知らしめたい」という
生家の主の「先祖を誇る気持ち」は、充分、理解できます。

そして、少々、無理があったけれど、

ひたすら「愚直に生きた男」卯之助を、今に蘇らせたのは、
まぎれもなく生家の主と、それを支援した高崎氏を始め、
地元の人たちの熱意です。

英雄伝説が生まれること自体、英雄であったと言う証しかもしれません。

卯之助の石は、文化財にもなった。

卯之助生地・三野宮神社の「大磐石」の拓本です。
CIMG1088 (4)

そして東京では、浅草奥山で興行したときの「足持石」が、
斎藤氏により見いだされ、越谷市民が説明板を立て、
台東区の「史跡」にまでなった。

三ノ宮卯之助は、大江戸・浅草の地で、とうとう鬼熊に並んだ。
それを追い越す勢いにまでなった。

片やプロに生き、一方はアマチュアに徹した
この江戸を代表する二人の物語を、

六代目神田伯山さんに、新作の講談として作っていただけたら、
と、私は心から願っております。

題して、

「浅草奥山、卯之助・鬼熊 力持ち、華の競演」


私の本棚にある「講談本」です。
CIMG5670 (2)
「評判講談全集」大日本雄弁会講談社 昭和6年

余談です。

「足持石」があった合力稲荷神社には、こんな話が…。

俳優で芸能研究者だった小沢昭一氏の
「ぼくの浅草案内」(筑摩書房 2001)に、師の正岡容(いるる)が、
この神社でつぶやいた言葉として、

殺された妓の三味線があるという、おいなりさんの前で待とうよ」

どこまでも、謎めいた神社です。


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愚直に生きた男

三ノ宮卯之助
09 /28 2021
卯之助が残した力石には、ほかの力持ちの名前はあまりない。

天保4年の「家斉御上覧」の「家斉」は、あり得ないと以前、書きましたが、
もう一つ、私見を述べれば、この番付に載った45名の力持ちたちは、

卯之助の一門とか仲間ではなく、むしろ若き卯之助を見出して育てた、
同郷で豪農の肥田文八配下の者たちというべきです。

若干26歳の無名の力持ちに、これだけの人を集める器量はなかったはずだし、
のちの卯之助の友人や世話人の少なさを見れば、それが自然です。

残念ながら卯之助は、他のスター的な力持ちのように錦絵にも描かれず、
当時の随筆や見聞録にも登場しない。

わずかに力持ち興行の歴史の中に、
「嘉永元年、子供力持ちは廃れ、牛馬を曲差しすることが流行った」とあり、

「川崎弥五郎は板に馬を乗せ、三ノ宮卯之助は小舟に牛を乗せて差し、
世評が高かった」とあるだけ。

これです。
img690 (4)

この足の曲持ちという芸は、すでに文政期に見世物として出てきます。

いつの時代にもそうですが、収益を挙げるためには、
より奇抜な芸を考案して客を呼びこむ必要があったわけで、

そこが、「道楽」でやるのか、「仕事」かの違いだと思います。

下の絵は、江戸の両国広小路で興行した大阪の「早竹虎吉一座」です。
仰向けの人物が描かれています。「軽業」と名乗っています。

私は子供の頃、サーカスでこうした軽業を見たことがあります。
今思うと、これが「足芸」だったんですね。

芸人は、中年の女性でした。

仰向けで天井に向けた両足に襖(ふすま)を乗せて、
その縁を足袋を履いた指でつかみ、それを器用にクルクル回すのです。

「ハッ! ハッ!」という鋭い掛け声が、今も耳に残っています。

img20210924_09173414 (2)
「観物画譜」朝倉無声 東洋文庫

さて、卯之助です。

いつのころからか、興行師と行動を共にしてそれを糧にしていた。

そしてある日突然、この世から消えた。
それを100年もの間、生家では知らなかったという。

卯之助研究者の高崎力氏は、「伝承によると」と断った上で、
講演記録にこう書いています。

「戦後の昭和になって、
卯之助のマネージャーの子孫と称する人が生家にやってきて、

嘉永7年、卯之助は関西のさる大名の江戸屋敷で、
東西力くらべをやって勝った。そして祝宴のあと突然、悶死した」

そう言って、
引札の版木位牌と称する粗末な板切れを差し出したという。

高崎資料によると、これを受け取ったのは生家の当時のご当主とのこと。

また、斎藤氏は、
このご当主の妻と思われる未亡人から、こんな話を聞いている。

「おじいさんは卯之助のものを一生懸命集めていた」

「熱心に集めていた」というのに、届けられた版木をまな板に使っていた
というのは、チト、解せません。

「大盤石」天保11年
img752 (1)
大阪市北区天神橋・大阪天満宮 伊東明・画 115×79×23㎝ 

また、
同じ町内に住みながら、興行師の子孫が他人の位牌を100年も持ち続け、
戦後の昭和になって届けたというのも、

おかしな話で。

届けに来て間もなくその子孫はこの土地を離れ、その2,3年後に
高崎氏が詳細を聞きたくてももうできなかったというのも、

なんだかなあ。

「東西対決・毒殺されたかも」という話も、
「卯之助は虚弱だったけれど、努力して力持ちになった」
「川で動けなくなった舟を持ち上げた」と、今に流布している話も、

真偽は別にして資料を読むと、
どうやら出どころはすべて、生家の当時のご当主と村長だったようで…。

しかし、
そうした「英雄伝説」をすべて取っ払い、
石差しの履歴と残された力石から、私が感じた卯之助は、

とても不思議な男で、

顔が見えてこないのです。声も聞こえてこない。

見えてくるのは、
生きることに不器用で無口で人付き合いが苦手、石を差す以外に欲はなく、

英雄を気取る気持ちなど微塵もない、

そういう「愚直に生きた男」という印象だけなのです。


              ーーーーー◇ーーーーー

ーーー「天空のお社・栗橋八坂神社」の近況ーーー

ブログ「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんが、
栗橋八坂神社の今をブログに載せてくださっています。

まだ完成は先になるそうですが、力石はこんな素晴らしい場所に置かれます。
また情報は、おいおいお知らせしていきます。

「未完成のスーパー堤防に鎮座する八坂神社」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞