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消えた卯之助石④

地面に這いつくばって見つけた
「文政十二己丑歳」「瓦曽根」の文字。

どうやらこの石は裏返しになっているようだ。

でもこれが探していた「卯之助石」だとすると、
地名の「瓦曽根」が二カ所になってしまう。

ひっくり返してみたい衝動に駆られるものの、どうしようもない。

そう思いつつ、もう一度上から見た。

一見、何の変哲もない石です。でもよく見ると、妙な痕跡が…。

img20210510_17010816 (6)
埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院跡地(現・照蓮院)

石に傷のようなものがついている。
その傷の中に、「納」という文字が見えた。

たぶん、「奉納」と刻まれていたに違いない。
それが無残にも、削りとられているではないか。

移転工事や風化でこんなことになったとは思えない。
どう見ても人為的だ。

一体だれが、何のために。

img20210510_17010816 (5)

拡大したのがこちら。

はっきり、奉納の「納」の文字が確認できます。

さらにその右下に、文字らしきものを発見。

「鈴宇志」と判読。人名か?

人名だとしても、この刻字、
「刻まれた時期がどう見ても新しいんですよ」と斎藤氏。

img20210510_17010816 (10)

つまり、とても江戸時代の刻字とは思えないというのです。

仮に、この「鈴宇志」の刻字が「文政十二年」に刻まれたものだとしても、
年号だけが反対側に彫られているなんてあり得ません。

書体はどうでしょうか。

下の文字と見比べてみてみなさまには、どう見えるでしょうか。

img20210510_17001854 (7)

また、「鈴宇志」って、変わってますよね。

地名では、静岡県浜松市三ヶ日町に「宇志」があります。
また徳島県鳴門市には、「宇志」という神さまを祀った神社があるとか。

人名だったら、「宇志」は、うし、たかし、たかゆきと読むのだそうです。

「鈴」は「鈴木」の略でしょうか。

のちの人がこの石を担いで、
誰かの石の裏側に自分の名前を追記したとも考えられますが、

ならば堂々と表に追記すればいいのに。

なんでしょうね、この「奉納 鈴宇志」

なぜ、「奉納」を削られてしまったのでしょう。
悪意があってのことでしょうか。

謎は深まるばかり。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月16日)

「埼玉県桶川市加納・氷川八幡宮」


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消えた卯之助石③

ーーーお願い

最後に書き添えてありますので、ご覧ください。


     ーーーーー◇ーーーーー


「須賀初五郎」の3個の石の前で、ゴロンと横たわっている石は、
果たして行方不明卯之助石だろうか。

と、気を持たせつつ、検証していきます。

斎藤氏は2006年、この場所を訪れた際、この石に注目。

もしかしたら、これこそみんなが探している「卯之助石」ではないか。
ひょっとしたら、寺の解体の折、裏返しになったのではないか。

そういう推論のもと、
フェンスの外から調査開始。

謎の石です。
上から見るとこんな感じ。うーん、何もありませんねぇ。

img20210510_16593529 (3)
埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院観音堂跡地(現・照蓮院駐車場)

ならば横からというわけで、
地面に這いつくばって見たのがこちら。

這いつくばって…。(*^_^*)

この様子をみた人は、さぞ肝を潰したことでしょうね。

でもその甲斐あって見つけました。

おお! なんと文字があるではないですか。(赤線の部分)

img20210510_17010816 (4)

それにしても妙な位置に彫られていると思いつつ読み込んでみたら、
端正な文字で、

「文政十二己丑歳」

卯之助と久蔵が行動を共にしたのは、
文政12年から天保4年の4年間とされているから、

まさに、ぴったしカンカン。

img20210510_17001854 (7)

さらに目を凝らしてみると、その横に、

「瓦曽根」の文字が…。

img20210510_17010816 (7)

わかりやすく縦に拡大しました。

img20210510_17010816 (9)

立派な書体です。

「これこそ行方不明とされている卯之助と久蔵の力石に違いない」

してやったり! 自然に笑みがこぼれたものの、

だが待てよ、
伊東先生のスケッチには、「文政十二己丑歳 瓦曽根」の文字はない

記録にあるのは、これだけ。

「奉納 七十メ余  
三ノ宮卯之助 江戸 本郷久蔵 瓦曽根 若者中」


img20210507_09012945 (2)

「この年号、石の表でもなく裏でもない横っちょの妙な場所にあるから、
伊東先生はこの文字を見逃したのではないだろうか」

なんとか突き止めたくて、あれこれ思案。

地面に隠れた石の裏側を見てみたいという衝動に駆られるも、
石はフェンスの向こう側で、ドデーンと動きません。

しばらく石を眺めていた斎藤氏、

今度は、石の表面に「文政十二」とは異なる文字と、
なんとも言い難い奇妙な痕跡を見つけたのであります。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月9日)

「静岡県沼津市内浦重須・老人集いの家」

本日は5日前の記事です。
せっかく私メの歌を取り上げてくださっているので…。


ーーーーお願いーーーーー

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消えた卯之助石②

フェンスに囲まれているのは、廃寺跡に保存された石造物群です。

保存というより、閉じ込められて窮屈そうに見えますが、
散逸はまぬがれますね。

ただそばへ寄って調査できない、それが難点です。

かつて栄えた寺院が消滅するって、寂しいものですね。

観音堂跡地2
埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院跡地(現・照蓮院駐車場)

下の写真は、15年前の2006年当時のここの力石です。

「さし石」の文字がはっきりしていますので、まだ風化は進んでいません。

というのは、4個のうちの3個は「明治27年奉納」という、
比較的新しい力石だからだと思います。

2006年のころ。
img20210510_17001854 (4)

もう一枚お見せします。

手前の石は4個目の石です。

これがまた謎めいた力石ですが、これは次回に書きます。

img20210510_17010816 (3)

で、この時から15年後の今年の姿がこちら。

みんなそろってヨロヨロ。

後ろの青面金剛像も傾いています。

保存というのは、ただ、しまっておけばいいのではないですね。
人々に見てもらい触ってもらってこそ、「生きる」ような気がします。

2021年撮影
img20210510_17015823 (3)

さて、「さし石」と書かれたこの3個の石、

「須賀初五郎」の名と「明治27年9月」の年月が刻まれていますが、
書体、人物、奉納年、すべて同じです。

石の貫目が18貫と小振りなのが気になります。

この人の石は同じ越谷市東大沢の香取神社にもあると、
「力石に挑んだ男達」(高島愼助 岩田書院 2009)に出ていますが、

うーん、そうかなぁと、私の猜疑心がむくむく。
同一人物とするには根拠が薄いのではないですか?

第一、「初五郎」は同じでも、名字(または村名)が「須賀」「清水」で違います。
※かつて「須賀村」が存在。

また、居住地の違いもあります。

「清水」の奉納先の香取神社所在地が「東大沢鷺後(さぎしろ)」で、
石に「當所 初五郎」「清水初五郎」とありますから、ここ出身。

「須賀初五郎」はかつてあった「須賀村」を名乗った可能性もありますが、
明治も後半になると本名を記すことが多くなるので、その可能性も。

奉納年はというと、
「清水初五郎」は、弘化4年(1847)と嘉永4年(1851)で、
三ノ宮卯之助と同時代の人です。

一方の「須賀初五郎」は明治27年(1894)で、
先の「初五郎」とは、47年もの開きがあります。

へいへい4
越谷市中央市民会館の卯之助顕彰碑

香取神社に40貫と50貫の石を残した清水初五郎、
仮に弘化4年の時、二十歳とすれば明治27年には67歳。

担げないこともないでしょうが、

かつて40貫、50貫を担いだ力士が老いたとはいえ、
18貫を石に刻んで奉納するなんて、プライドが許さないでしょう。

それにこの二人の石の刻字は、書体や形式が違いすぎる。

これは別人だと思った私、恐れ多くも師匠の高島先生へ、
「別人ではないか」との質問状を差し上げました。

こちらがそのお返事。

間違いだったかも。
香取神社の2個は「清水初五良(郎)」で、
最勝寺跡の3個は「須賀初五郎」とすべきだったかもしれません」

おお! 先生、正直でよろしい(笑)

ウフフとほくそ笑んだところで、次回はいよいよ、
3個の「初五郎石」の前に寝そべっている「謎」の石に迫ります。

これが果たして、消えた卯之助石となるか、お楽しみに!


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月12日)

「大阪府箕面市粟生間谷東・路傍」


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消えた卯之助石①

今回の「重箱の隅」は次々回につつくことにして、

その前に、
疑問に思ったコレを展開していきます。

江戸の力持ち「小島久蔵取り上げ過ぎ」じゃないの?

碑面という限られたスペースに、「小島久蔵」は3項目も出てきます。

そのせいか、もっと大事なことが落ちてしまっています。
これはのちのちお伝えします。

さて、碑に3度も登場する「小島久蔵」の一つ目は、

越谷市瓦曽根(かわらぞね)の最勝院・観音堂で、
江戸本郷の久蔵と卯之助が、70貫余の力石を持ったこと。

ただし、「七十メ余」と刻まれたこの石は、現在、行方不明

今、その石を見ることができるのは、
元・上智大学の伊東明先生のスケッチのみという状況です。

img20210507_09012945 (2)

往時の最勝院の様子が、
昭和59年(1984)の「広報 こしがや」元旦号に出ていました。

「江戸時代の瓦曽根は船運の要衝の地で、船頭が多く住んでいた。
正月には瓦曽根河岸の船持仲間がこの寺に集まって、
船中安全祈願をするのが習わしだった」

当時の寺の繁栄が目に浮かぶようです。

しかし相撲や力持ち奉納でにぎわったこの寺も、
流通形態が船運から陸上運送に変わったことで衰退。

昭和30年代まで存続していたものの、その後廃寺の憂き目に。

跡地は、現在、
本寺の照蓮院(真言宗・豊山派)の駐車場になっています。

その駐車場の片隅に、
最勝院にあった石造物が集められて保存されています。

この中(赤丸)に、卯之助石以外の力石も入っています。

観音堂跡地1
埼玉県越谷市瓦曽根1-5-43

伊東先生がここを訪れたのは、平成2年(1990)のこと。
翌年の平成3年に寺は解体されたそうですから、危ういところでした。

で、解体と同時に卯之助石が行方不明になった、
というのですから、
このスケッチがなければ、石の存在は世に知られなかった。

今となっては、貴重な一枚となりました。

しかし、です。

70貫余(263㎏)もある石なんて、重機がなければとても運べません。
不思議なことに、ほかの力石4個は残っているというのです。

肝心の卯之助石だけがなくなったなんて、おかしくないですか?

だって、当時すでに有名になっていた卯之助の刻字石ですよ。
イの一番に保存すべきじゃないですか。

今度、碑の監修をした地元の郷土研究会のみなさんは、
これを黙って見ていたのでしょうか。

この会を率いていた卯之助研究者の高崎力氏は、

一体、何をしていたんでしょう(怒)

言いたかないけど、

埋もれた力石を救い出そうとうろついては不審者に見られ、
所有者の迷惑顔に、何度も頭を下げて保存のお願いに奔走する者にとって、

そうも言いたくなります。

へいへいさん
越谷市中央市民会館・卯之助顕彰碑の一部。

以前大阪で、地蔵堂を壊した折に、
立派な刻字石がこっそり四国へ持ち去られた例があった。

しかも2個も。

こちらは、そのことをとりあげた4年前のブログ記事です。

「尋ね石の時間です③」

此花区西九条・地蔵堂2 (6) 石左志 (2)

石には、時代背景や歴史、持った人たちの土地への愛着や、
奉納した寺社への熱い思いが込められていますから、

見知らぬ土地へ運んで庭石なんかにされたら、
力持ち力士の面目丸つぶれです。

それに、
きちんとした来歴を書き残さない限り、誤った歴史を後世に伝えかねない。

そうならないためにも、


おーい、「七十メ余」の卯之助石よォー、
そろそろ出ておいでー!


とまあ、吠えたついでに、気になったことを一つ。

「所在不明の石」を碑面に取り上げる場合、
それを記すべきか記さないでおくか、という問題です。

私はこう思います。

この卯之助石みたいに現存しない力石には、
「所在不明」と書き添える方がいい、と。

ついでにもう一つ、

越谷市郷土研究会の歴史探訪のネット公開記事中、
この最勝院の読み方を、わざわざ括弧つきで「けいしょういん」としていたので、
半信半疑ながら信じちゃいましたが、

念のため、本寺の照蓮院のご住職にお聞きしたら、
やっぱり、「さいしょういん」でした。

喝!


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月10日)

「埼玉県さいたま市南区関・神明神社」


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神社名の迷走

今も絶大な人気を誇る三ノ宮卯之助
といっても、知らない人には、レレレ?なんですが、

それはともかく、その顕彰碑が越谷市の市民会館の庭に建った。

さて、ここから重箱の隅をつつきまくります(笑)

「せっかくの慶事にケチつけるのかい」と、お叱りを受けそうですが、
はい、そうなんです。

碑面です。
へいへい3 (2)
へいへいさん撮影の写真を一部カットして、拡大させていただきました。

卯之助の年譜が刻まれています。

重箱の隅その1 「諏訪神社」

「文政8年(1825)正月 卯之助(18歳)
  肥田文八と久喜市太田袋の諏訪神社で力石五十貫を持つ」

碑面には、こう刻まれていますが、
本当に「諏訪神社」でよかったのかなぁ、ということなんです。

この「諏訪神社」はややこしいんです。

資料によって、
「諏訪神社」になっていたり、「琴平神社」と書いてあったり。

こちらは「久喜の力石」(2001年発行)の表紙の一部です。
表紙の力石は「卯之助石」です。

これには「諏訪神社」と表記されています。

img20210505_19381069 (2)
「久喜歴史探し隊」より

ところが2004年の「三ノ宮卯之助の力石(2)」(高島愼助、高崎力)では、

「最近までは諏訪神社と呼ばれていたが」とした上で、「琴平神社」を採用。
別の個所では、「諏訪神社(現・琴平神社)」としている。

こちらが問題の神社です。奥に力石が見えます。

太田袋1
埼玉県久喜市太田袋

力石の説明板です。

これには、「琴平神社」と記されています。

太田袋2

久喜市役所では「琴平神社」、ネット上でも圧倒的に「琴平神社」です。

ではなぜ碑文に、「諏訪神社」としたのか。
碑建立の関係者にお聞きしたら、こんな答えが…。

「埼玉県神社庁の資料では諏訪神社となっていたので」

確かに。

でも地図によって表記が、「琴平」だったり、「諏訪」だったりで、
外部からきた人は迷う。

そもそも、神社名の迷走の原因はどこにあったかというと、

昔、諏訪神社は太田袋村の鎮守で、今とは違う場所にあった。
それが明治43年、村の中央にあった琴平神社境内に遷座。
元からあった琴平神社と浅間神社を合祀して、
以来、諏訪神社を名乗るようになったとか。

前述の「久喜の力石」でも、こう説明しています。

「今の諏訪神社は昔は金毘羅神社といい、近隣の村々から崇敬され、
祭りも大変な賑わいだったそうです」

軒先を貸して母屋を取られた?

現・琴平神社の力石群です。

画像 002

近年、「諏訪」からもとの「琴平」に戻った。でもその経緯はわかりません。

ですが、たとえこれが通称であれ、
碑面は「琴平神社」にするべきだったと私は思います。

理由は、
この力石に刻まれた三ノ宮卯之助と肥田文八が担いだ場所は、
諏訪神社になる前の琴平神社だったからです。

そして、この石に刻まれているもう一人、「當所 高橋繁蔵」は、
琴平神社の文政13年の棟札にある「大工繁蔵」と同一人物とされていて、
琴平神社とは深い関係にあるのだから。

この神社のそばには川が流れ、船運が盛んだったという。
神社に残された力石は、船着き場の荷揚げの男たちが用いたもののはず。

男たちは誉れの石を、信奉していたこの神社に奉納したはず。

だからこそ、ここの卯之助石を語るのなら、

「諏訪神社」ではなく、「琴平神社」にしなければいけなかった、
あるいは「琴平神社(諏訪神社)」とすべきだったと、

私は強調したいのです。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月8日)

「埼玉県春日部市牛嶋・女体神社」


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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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