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巨星墜つ

人はだれしもいつかは死を迎えます。ですが、卯之助の最期は悲劇的です。

卯之助は現在の埼玉県桶川市の桶川稲荷神社で、
日本一重い力石「大盤石」610㎏を足指しした2年後の嘉永7年、
48歳の若さでこの世を去ります。

卯之助には毒殺説があります。
昭和20年代、地元の古老がこんな話を残しています。

「とある西国大名の江戸屋敷において、
大阪方と江戸方の一番の力持ちを対決させ、日本一を決めることになった。
その結果大名お抱えの力持ち力士は負け、卯之助が勝った
その夜、大名屋敷で双方力士を招いての酒宴が催された。
しかしその帰路、卯之助は突然苦しみ出し、そのまま悶死してしまった」

これは卯之助の位牌です。
img801.jpg

表に日本市大力持 三ノ宮卯之助 四十八才
裏に □ 到刹清㐰士 嘉永七年七月八日 不二位」

越谷市の卯之助研究者・高崎力氏はこういいます。
「位牌に一般的に使われない到刹清㐰士とか不二位などから推測すると、
毒殺というような事件は真実味を帯びてくる」

※位牌の「㐰士」は、個の略字のような人偏に口の文字が書かれているが、
春日部市の研究者S氏によると、
これは個ではなく「信」の異体字の古字だそうです。

また高崎氏はこうも言う。
「日本としたのは、一では二や三に書き換えられる恐れがあったからだろう」

このことから、この位牌を書いた人の、
「卯之助こそ日本一」を守り抜きたいという怨念のようなものが感じられます。

img690 (2)
江戸浅草観音境内における三ノ宮卯之助の興行引札  
=神戸商船大学図書館蔵

卯之助が命を落とした嘉永7年(1854)は、
前年にアメリカからペリー、ロシアからプゥチャーチンが来日するなど、
開国を迫る西欧列強に揺さぶられ始めた幕末の騒乱期です。
こんな時代に、のんびり力持ちの東西対決をさせた大名って一体誰?

ま、それはともかく、この位牌は、
卯之助の没後100年近くたった昭和の戦後間もなく、
越谷市在住のO氏から卯之助生家へ届けられたそうです。
高崎氏の調べでは、このO氏の先祖は興行師で、
常に卯之助と行動を共にしていたマネージャー的存在だったらしいとのこと。

しかし、
東西対決をしたという大名屋敷も卯之助の死因も死亡場所、埋葬場所も不明。
また、位牌をO氏の家でなぜ100年も持ち続けていたのかも、のまま。

勘ぐれば、卯之助を招いた西国の大名が秘密の暴露を恐れてもみ消した?
マネージャーのO氏も力持ちの仲間たちも、身の危険を感じて口を閉ざした?
O氏はそんな卯之助を憐れみ、ひそかに位牌を手作りし、
そこに卯之助事件の真相を暗示的に記して、100年も大切に持っていた…。
とまあ、こんな見方もできますが、でも、真相はすべて闇の中

その後、卯之助の生家ではのちのご当主が位牌を作り直したそうです。
それがこちら
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S氏撮影。

2008年、卯之助生家を訪れた春日部市在住の研究者S氏に、
その家のおばあちゃんがこんなことを…。
「おじいちゃんが仏壇屋に頼んで新しくした。古い位牌はどうなったかわからない」

旧位牌に比べて、新しい位牌は立派ですが、
S氏は、旧位牌の文字と新しいのとでは文字が所々違うことに気づきます。
そして、こんな指摘をしています。

新しい位牌には「寛永七寅年」と彫られている。
旧位牌にそう書かれていたのでしょう。
でも寛永嘉永ではえらい違い。あとから寛を削って「カ」に書き換えてある。
旧位牌にあった「不二位」の「不二」が省かれているのは仏壇屋の独断か?
七月日が七月日に、力持の「持」「特」と誤字。
岩槻市史では、
「信」の異体字の古字「㐰」「個」に、「刹」「殺」にしているがこれは間違い。
だから仏壇屋が「個士」ではなく「信士」にしたのは正しい

生家に残されていた卯之助石です。
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=越谷市       画/酒井正氏

三ノ宮卯之助が残した力石は、全国最多の39個(不明2個)。
そのうち有形文化財に指定されたのは7個です。

将軍ご上覧の栄を賜り、江戸力持の最高峰・東の大関に出世、
だれも持ったことがない610㎏もの大盤石を指した不世出の力持ち。
ですが、日本一に確定したその日のうちに、卯之助は命を絶たれます。
行年48歳

巨星墜つ

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=兵庫県姫路市網干・魚吹八幡神社

しかし日本一の力持ち、三ノ宮卯之助は、今も多くの人に愛され
力石研究者の血を沸かせ続けて、今なお生きています。


    卯之助よ、永遠なれ!



※参考文献・画像提供/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
               四日市大学論集大17巻1号 2004
※画像提供/S、酒井正


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オリンピックに出たならば

卯之助には「大盤石(おおばんいし)といわれる力石が4個あります。
その名の通り、特別大きな重い石のことをいいます。

四日市大学の高島愼助教授によると、
「特に基準は決められてはいない。力石と刻字された大盤石より大きい石もある。
石に大盤石の刻字があれば大盤石となる」とのことです。

ここでは卯之助の「大盤石」を見ていくことにします。

まずは、たびたびご紹介してきた大阪府北区大阪天満宮大盤石
卯之助34歳のとき差した石です。

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115×79×23㎝         作図/伊東明上智大学名誉教授 

これは故郷の三野宮香取神社大盤石。このとき卯之助41歳。 

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100余×97×23㎝ 写真/読売新聞           画/酒井正

こちらは埼玉県戸田市上戸田の氷川神社大盤石です。
卯之助の大磐石の中では最小のもの。またこれを差した時の年齢は不明。

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70×49×39㎝                    画/酒井正氏 
氷川神社には卯之助石を含め15個の力石があります。

4個目は、日本一の大盤石です。
埼玉県桶川市寿の桶川稲荷神社にあります。
重さがなんと610㎏実測です。
卯之助このとき45歳

力石から発展したウエイトリフティングですが、
105㎏級以上でイランの選手がクリーン&ジャークで、
263㎏を挙げたのが世界記録だそうです。
足と手の違いはあるものの、卯之助が挙げた石は610㎏
世界チャンピオンの持った重さの倍以上です。

さらに力石は持つところがなく、いびつで表面がツルツルしていますから、
バランスをとりにくい。これを小柄な卯之助が挙げた。

もし卯之助がオリンピックに出たならば、間違いなく世界チャンピオンです。
(ひいき目かって? はい、願望&ひいき目で言ってます)

610㎏の日本一の力石「大盤石」
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画/酒井正氏             実物     125×75×35㎝     

下の写真は、桶川市の市民祭で、
卯之助はこの大盤石をこのように差したという再現をしているところです。

大勢の人が石を持ちあげ、それを卯之助の足の上に乗せます。
持ちこたえられないと、石の下敷きになりますから命がけです。
ちなみにこれは祭り用のハリボテですから、ご安心を…。

桶川市民祭り1 (5)

「大盤石 嘉永五年壬子歳後二月 岩槻 三ノ宮卯之助持之
石主 大坂屋清右衛門 世話人 大坂屋佐五兵衛 江戸屋重次郎 
古久屋治郎右衛門 加藤市左衛門 布屋彦右衛門 布屋安五郎
栗原權左衛門 青木屋彦八 伊勢屋平兵衛 木嶋屋源右衛門
林屋勘七 伊勢屋忠右衛門

   商人の力顕す大盤石
            歴史を語る初午の朝   杉井梢虫

ここに世話人として名を連ねているのは、
当時の桶川の「紅花(べにばな)の大商人たち」です。
卯之助はこうした地元の旦那衆の招きでこの桶川宿を訪れ、
全国最大の610㎏もの石を足差(指)しで挙げました。

ここ桶川は今も紅花の産地です。
こちらは、桶川市マスコットキャラクターのオケちゃん

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頭に紅花が咲いています。

オケちゃんよりベニコちゃんの方が可愛いなあと私は思うのでありますが…。

こちらは私が購入したお守り
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桶川稲荷神社     越谷市で売られている卯之助の和菓子

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桶川市で売られている卯之助の和菓子「大盤石」

総理大臣になると、自分の名前を冠したお菓子を売ったりしますが、
卯之助は総理大臣にならなくても、お菓子になりました。

    力石見て力石なる菓子を食う   高島愼助



<つづく>


※参考文献・画像提供/「日本一の力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力
               越谷市での講演資料 平成16年
               /「埼玉県の力石」高島愼助 岩田書院 2007
※画像提供/酒井正
        /読売新聞 2013年4月24日
        /桶川市観光協会
※参考文献/「力石を詠む」シリーズ

 

文殊の石

長い長い「戦争体験」からやっと戻って参りました。
埼玉県三ノ宮生まれの力持ち、卯之助もまた、長い全国巡業から戻ります。

前回のお話をかいつまんで…。

越谷市在住の卯之助研究者・高崎力氏は、
卯之助の足跡を追って、甲州街道へ入りました。
そして、長野県の諏訪大社下社秋宮で七十貫の卯之助石を確認し、
その足で大阪へ向かいます。

その大阪の大阪天満宮で「足指」と刻字された大磐石との対面を果たします。

大阪天満宮の大盤石と高崎氏。
img734 (3)
=大阪府北天神橋

そこから兵庫県姫路市の魚吹八幡神社へと足を延ばしました。
立派な卯之助像があるあの神社です。
ここでの奉納力持ちは、卯之助34歳のとき。

ところがここから卯之助の足取りはぷっつり途絶えてしまいます。
これはあくまでも、卯之助の足取りのわかる文献がないことと、
卯之助の刻字石が未発見だということなのですが…。

魚吹八幡神社の奉納力持ちから7年後の嘉永元年(1848)3月、
突如、卯之助は故郷・三野宮(香取)神社に姿を現わします。
卯之助は41歳になっていました。

以前にもお伝えしましたが、ここで卯之助が持ち上げた「大磐石」は、
平成25年(2013)、越谷市の有形民俗文化財・歴史資料に指定されました。

同じ嘉永元年の卯之助石が、さいたま市にも残されています。

これです。
img764.jpg
=さいたま市緑区大門・大門神社  画/酒井正氏
78×46×28余㎝

奉納 大王石 嘉永元戌申 □月大吉辰 三ノ宮卯之助
 世ハ人 中嶋政五郎 願主 河鍋寅松

   卯之助の汗血はるか大王石   酒井一止

この嘉永年間には、牛馬を曲差しすることが流行ったそうです。
同じ力持ち力士の川崎弥五郎が馬一頭を板に乗せ曲差しすると、
卯之助は牛一頭を小舟に入れて差すといった具合。
これに対抗したのが大阪出身の大碇梅吉です。

大碇一座による子供曲持
img729.jpg
天保版「大碇曲持引札」

天保年間、子供の力持ちが流行しました。
これには、大碇(おおいかり)一座や鉄割(かなわり)一座が活躍します。
安岡章太郎の「大世紀末サーカス」(朝日新聞社・1984)によると、
「碇の字のつく名前は足芸人のことをいう」のだそうですが、どうでしょうか。

とにかくその大碇梅吉さん、卯之助に対抗して、
人を乗せた馬2頭を船に入れ頭上高く差し上げたというのですから、
たまげてしまいます。このとき梅吉26歳
以来、大碇といえば力持ちの代名詞のようになったそうです。

卯之助、負けるな!

明治になると、こうした芸人たちは盛んに海外へ出かけます。
粘菌学者で民俗学者の南方熊楠もイギリスで足芸の美津田滝次郎と知り合い、
アメリカでは曲馬師の京極駒治に会っています。
力石の力持ちも海外へ出ますが、足芸や軽業の芸人には及びません。

曲馬師の京極駒治と弟たち。
img791.jpg

さて、
卯之助が長い全国興行から帰ってきたとされる嘉永元年には、
もう一つ特筆すべきことがありました。
卯之助はこの年、念願の江戸力持番付の東の大関になりました。
名実ともに日本一の力持ちになったわけです。

故郷に腰を落ち着けたかのような卯之助ですが、
ひょんなところから卯之助が旅に出ていたことがわかりました。

平成15年、
四日市大学の高島愼助教授が越谷市での講演を終えて帰宅したところ、
留守中に甲府市教育委員会から手紙が届いていました。
なんとそれは、卯之助石発見を知らせる手紙だったのです。

甲府市教育委員会から知らされた卯之助石
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=山梨県甲府市太田町・穂積神社
70×40×35㎝

百廿貫 嘉永二年 武州岩附三ノ宮卯之助 同岩附長□□ 同七五□
 同馬□ 鷺ノ宮徳治□ 

説明板にはこう書かれています。

「文殊の石 石の上に手を置き願い事を述べ3回廻れば願いはかなう

凡人でも3人寄れば知恵の仏様・文殊にも劣らない知恵が生まれる
そういう故事と、
卯之助たち3人の力持ちが上げた石とを重ねたものと思われます。

この石は卯之助にあやかり、
今では受験生の合格祈願の石になっているとか。

   
    大丈夫と元気与えし力石   鉾崎ちえみ



<つづく>

≪追記≫

さいたま市・大門神社の「大王石」の刻字について
調査資料には「九月大吉辰」と「□月大吉日」の二通りがありました。
春日部市在住の研究者・S氏に問い合わせしたところ、
わざわざ確認に出向いてくださいました。感謝します。

その結果、
「初めのは剥落があり、どう見ても九とは判読できない。
はそう言われればそうかもしれなという感じ。日でないのは確か。
結果としては月大吉辰」
とのお返事をいただきましたので、本文ではその通りの表記にしました。


※参考文献・画像提供/「怪力伝説」「江戸力持三ノ宮卯之助」高崎力
               葛飾区郷土と天文博物館 平成11年度特別展
               /「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
                四日市大学論集大17巻1号 2004
               /「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
               /「見世物研究」朝倉無声 昭和3年
               /「南方熊楠日記1」 八坂書房 1987
               /「力石を詠む」シリーズより


「卯之助石」の熱きかな

郷土の力持ち・三ノ宮卯之助を追いかけて大阪までやって来た高崎力氏は、
大阪天満宮で卯之助の大磐石と対面。
そこからさらに兵庫県姫路市へと向かいます。
魚吹(うすき)八幡神社にある卯之助石に会うためです。

図会に描かれた網干・宇須幾津(うすきつ)八幡宮=魚吹八幡神社
img750.jpgimg749.jpg
「播磨名所巡覧図会」より   

ここにある卯之助石は、古くから知られていたそうですが、
学会への報告は、昭和48年、神戸商船大学の岸井守一教授の
「四国地方(瀬戸内海沿岸)の力石の研究」によってなされました。

高崎氏は神社宮司さんと網干史談会の方々から、こんな話を聞きます。

「昔の網干町は揖保川の河口の港町で、内陸部の農林産物、
瀬戸内海の海産物や塩の集散地として栄え、大阪への船便があった」
「大阪・天満宮で卯之助一座の力持ちを見た網干の船頭たちが、
ここへ招待したのではないか。往復とも船便を使用したものと思う」

魚吹八幡神社です
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お目当ての卯之助のモニュメントがみえます。  =姫路市網干(あぼし)区

近づいてみると、こんな感じ。感激のご対面!
CIMG0404 (3)
社務所再建記念として、平成18年に建立

3年前の夏、私は卯之助に会いにここへきました。
ここへは高崎氏もS氏も高島先生も来たんだと思ったら感無量…。
しかし感激もつかの間、とにかく暑い!
強烈な日差しを浴びて卯之助は一層逞しく見えましたが、私は青菜に塩状態。

卯之助の石はこれです。
CIMG0411.jpg

左の石=75×40×29㎝ 155Kg(実測)
垣内 佐一郎持 新宮夘吉持 江戸力者 三ノ宮卯之助 曲持 
浜田 祐三郎持 津市場村 津田新七

右の石=46×28×29㎝ 110Kg(実測)
「卯之助指之」


「江戸力者(りきしゃ)という刻字から、
卯之助の名声は、遠く姫路にまで聞こえていたことがわかります。
その偉大な力持ちと同じ石を、地元の豪の者4名が担いでいます。
近隣の村人や着飾った娘たちで、当時の境内は華やかに賑わったことでしょう。

台座に引札が刻まれていました。
CIMG0413.jpg

石に刻まれていた「曲持」は足に石を載せる技のこと。
この「曲持」銘の入った力石は、ここの石が全国唯一のものです。
卯之助の得意技はこの足の曲持ですが、
石のほかに小舟に牛や馬を載せて足で差し、評判を取ります。
卯之助は小柄ながら筋骨隆々だったそうですが、それにしてもすごい怪力です。

高崎氏によると、
重いものをさす場合、それを足に載せる介添えを必要とし、
腰下に布団を当てたとのことです。

img673 (3)

ここでちょっと力石の興行の様子を記してみます。

力持ちは、3尺(90㎝)ほど高く盛り土をしたところで行います。
最初は前芸で、酒樽や米俵、石をあげます。
次に中芸
演技はお腹の上に米を7、8俵載せる腹やぐらやお腹の上で餅をつく腹受けなど。
最後に真打ちの登場です。
真打ちの多くは足の曲持ちを行います。
卯之助はもちろん真打ちです。

こちらは現在の卯之助像です。
魚吹八幡9
提供/高島愼助四日市大学教授

3年前、私が訪れたときには5個だった石が、一つ増えて6個になっています。
こんなふうにきちんと保存がなされると、どこからともなく石がやって参ります。
個人のお宅で持て余していたか、はたまた路傍に捨て置かれていたか、
いずれにしても安住の地を得て、まずはよかった!

さて、卯之助研究者の高崎氏、再びここで卯之助の足跡を見失います。
魚吹八幡神社での興行は、天保11年(1840)。
このとき卯之助34歳
記録上に再び卯之助が現れるのは、それから7年後の嘉永元年です。

高崎氏は「全国巡業に明け暮れていた」と推測していますが、
卯之助石は魚吹八幡神社以西からは一つも発見されてはおりません。

現れたかと思えばまた消える
そのたびに卯之助研究者はやきもきさせられますが、
そんなところがまた卯之助の魅力なのかもしれません。

   
   炎天の「卯之助石」の熱きかな   高島愼助



<つづく>

追記
高島教授からいただきました。

魚吹八幡神社の力石は、
現在の形に保存される以前は国旗掲揚台の下に放置されていて、
そのときすでに6個、確認されていたそうです。
平成18年の保存処置の折、欠損して形の良くない6個目はそのまま放置。
しかしのちに改めて、卯之助の足元に置かれたとのことです。

元の仲間のところに戻れて本当に良かった。
関係者の皆さま、ありがとう!


※参考文献/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力 
         四日市大学論集 第17巻1号 2004
        /「見世物研究」朝倉無声 昭和3年
        /「江戸力持力士 三ノ宮卯之助」伊東明 
         上智大学紀要37巻3号 1988
        /「力石を詠む(四)」高島愼助・山口友子 岩田書院 2010
※画像提供/「日本名所風俗図会」より「播磨名所巡覧図会 巻之四」
         角川書店 昭和56年

いよいよ全国巡業へ

十一代将軍家斉の前で力持ちを成功させた卯之助、
その3年後には、
江戸力持・西の関脇に昇進し、待望の三役入りを果たします。
このとき卯之助29歳

ご上覧の名誉と関脇の地位を得た卯之助が次に目標としたのが、
尊敬する先輩力士、土橋久太郎や万屋金蔵と同じ全国巡業

江戸力持ちの東の大関土橋久太郎と西の大関万屋金蔵が、
それぞれ一座を組んで上方(関西)へ旅立ったのが文政8年(1825)のこと。
当時は上方から江戸へやってくる者はあっても、
江戸から上方へ出かける力持ちはほとんどいなかったため、
現地では大歓迎を受けます。

その時の「難波新地における江戸力持」の興行引札です。
img636 (2)
高島愼助四日市大学教授蔵

実は
ここでの力持ちを描いた浮世絵師歌川国広木版墨摺が残されていますが、
所蔵の日本芸術文化振興会さんから、
「使用許可は原則団体で、調査研究の出版物等への掲載目的に限る。
個人の場合は学術論文への掲載のみ」とのことで使用を断られてしまいました。
みなさんにお見せできなくて残念です。

国広の絵では、
土橋久太郎が百五十貫目の石を左の絵の様に差しています。
「石の曲もち」と書かれていますので、
石を体のどの部分にも触れさせずに一気に持ち上げたのかもしれません。

img295 (2) img732.jpg

一座の一人、木村与五郎は「邯鄲(かんたん)夢の枕」を演じています。
これは中国・唐の小説「枕中記」に出てくる故事で、夢がかなう枕という意味です。
これを力持ちが演じると、
横臥の姿勢をとり空中浮遊するという右の絵のようになります。

大阪の難波新地での久太郎組は、人気を博し、
「互ひの力腰と手に、抜かりは見えぬ五大力
さはさりながら弱る色なき御風情、褒めてやろぞへ當ろぞへ
遊里で唄われたほどだったとか。

上方からのそんな評判を卯之助は耳にして、
「自分もいつかはきっと」と思ったことでしょう。
そしてその夢を早々に実現させたのです。

卯之助研究者の高崎力氏もまた、そんな卯之助を追う旅を始めます。
高崎氏は、卯之助は久太郎たちの歩いた道程をたどったはずと考え、
その行程を探し始めます。
しかし出発点はおろか、どの街道を通ったかも皆目わかりません。
ならばその道中で残しているはずの力石を探そうと、まずは東海道筋へ。

img744.jpg img744 (2)
広重「東海道五十三次」の小田原・酒匂川 三島・朝ぎり

tokaido13.jpg
高島教授・伊勢型紙作品「東海道五十三次」沼津・黄昏図

高崎氏は小田原、静岡県の三島、沼津と何度も東海道を下りますが、
不思議なことに卯之助の石は全く見つかりません。
静岡県人としてはものすごく残念です。

次に中山道に目をつけますが、それも違った。
残りは甲州街道筋
しかし勝沼や甲府あたりでは卯之助石は未発見だったため、
一気に長野県の諏訪地方へ。

諏訪地方の卯之助石については、以前お伝えしたように、
昭和45年(1970)、地元郷土史家から上智大学教授だった伊東明先生の元へ、
下諏訪秋宮での卯之助石発見の報告がありました。
また同年、
諏訪市・諏訪大社本宮の土橋久太郎の「天龍石」の報告もありました。

img742.jpg
「長野の力石」の表紙に描かれた「天龍石」と「卯之助石」 
スケッチ/高島教授

高崎氏はこの「天龍石」を求めて諏訪市文化財課を訪れます。
そこで「天龍石は上社本宮にある」と教えられ、訪ねたものの、
本宮では「知らない」という。
ようやく「裏山に庚申塔がある」と聞いて、草むらをかき分けていくとありました。

これが「天龍石」です。
img735.jpg
長野県諏訪市中洲神宮寺・諏訪大社本宮
123×60×19㎝

「天龍石 当所若者中 江戸元祖 土橋久太郎持之 
天保乙未歳七月廿日 目方百五拾貫 米俵参俵石上

ここへは関西への巡業の途中に立ち寄ったのではなく、
諏訪大社本宮の招きで奉納力持ちをおこなったということです。
石の上にさらに米俵を3俵も乗せたようですね。

久太郎一座をお披露目する口上も、おもしろおかしく勇ましく、
力持ちのお囃子も、テンテンドドドンと賑やかに鳴り響いたことでしょう。

久太郎が奉納したこの石には「江戸元祖」と刻まれています。
「俺こそが江戸の力持ちの元祖だ」と名乗っていた久太郎の意地が感じられます。
しかし、諏訪大社本宮に招かれてはるばるやってきた江戸力持ち元祖の石も、
今はご覧のような情けない状態です。

さて高崎氏は、この日ようやく下諏訪町の諏訪大社秋宮で、
本命の卯之助石との対面を果たします。

卯之助石です。
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長野県諏訪郡下諏訪・諏訪大社秋宮   89×54×26cm

奉納 七拾メ目 武刕岩槻 三ノ宮住人 卯之助 持之
治郎吉 天保九戌年四月吉日

治郎吉は3年前のご上覧にも出場した卯之助の弟子です。

卯之助が甲州街道を通ってここを訪れ、この七十貫目の石を担いだのは、
先輩・久太郎がこの地で天龍石を担いだ3年後のことでした。

しかし卯之助の足取りは、ここからプッツリ消えてしまいます。
その卯之助の足取りを示す石が、
なんと諏訪からひとっ跳びに大坂の天満宮で見つかります。

これです。卯之助の4個ある「大磐石」の一つ。
img734.jpg
大阪府北区天神橋・大阪天満宮  卯之助の「大磐石」と高崎力氏

久太郎と同時に旅巡業に出た金蔵一座は、
名古屋興行を終えるとその足で大阪へ向かっていますが、
卯之助一座はどういうルートを通って大阪へ出たのかわかっておりません。

諏訪の卯之助石には天保9年の刻字があります。
大坂天満宮の石には天保11年の刻字があります。

この開き、2年。

「この2年間、卯之助はどこで何をしていたのか。さらに遠隔地を廻っていたのか、
あるいはいったん、故郷へ戻ったのか一切不明です」と高崎氏。

その後高崎氏は、
道頓堀、天王寺、住吉大社も調査したが卯之助石は見いだせず、
さらに神戸、須磨、明石方面も探したものの、全く見つけることが出来なかった。

卯之助も不思議な消え方をしたものですね。

ほんとにどこでなにをしていたのやら。


<つづく>


※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
              /「長野の力石」高島愼助 岩田書院 2014
              /「日本一の江戸力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力
               平成16年講演資料
※画像提供/「日本庶民生活史料集成第十五巻 都市風俗」 三一書房 1971
        /四日市大学高島研究室・伊勢型紙
※参考文献/「見世物研究」朝倉無声 昭和3年


プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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