「筆子塚」に刻まれた
「向佐夘之助」が、
どのように解釈され、それがどのように迷走していったかを見ていきます。
「筆子」とは、寺子屋に通う子供たちのこと。
「筆子塚」とは、筆子たちが師への報恩のために建てた碑のこと。
多くは、師が没した時や数年後に、成人した筆子たちが建立。
さて、三野宮香取神社の
「筆子塚」です。
●今から11年前の
2010年9月、斎藤氏は、この神社の「筆子塚」台座に、卯之助の名を発見。
これは例の
「足持石」発見の翌年のことです。
そのときの苦い経験から、卯之助研究者の
T氏への問い合わせは、
同氏と親交がある、さいたま市在住の
酒井正氏に依頼した。
だが回答は
T氏ではなく、石仏に詳しい
K氏からきた。
優しい酒井さんの手紙には、斎藤さんへの
気遣いが端々に。
「
T、K氏のお二人とも新たな卯之助ファン=研究家が現れて、
詳しくお調べのことと喜んでおられましたよ」と。
酒井さんです。
以前、ブログに載せたいと伝えたら、この写真を送って下さった。

さて、酒井さんからの手紙です。
●2010年9月14日、越谷市郷土研究会の副会長(現・顧問)で、
石造物の悉皆調査をされた
K氏からの回答として、
次のような伝言がありました。
①台座の向佐多次郎が夘之助の何にあたるか判らない。
ただ、
K氏は
年代的に見て卯之助本人であるのは
ほぼ間違いないと言いながらも、
断定はできないとのこと。
※私の独り言=
「年代的に見て卯之助本人」、もうここからおかしい。
理由は後述。
②現在、「生家」といっている向佐家は、卯之助の生家ではなく、
兄弟姉妹の子孫
らしい。③卯之助が江戸、三野宮…、どこかで、
自分の家庭を持っていたかどうかもわからない。
この
「家庭」なる言葉、旅がらすの卯之助には似合いませんが、
斎藤氏からの問い合わせに呼応したものでしょう。
斎藤氏の調査では、
「多次郎の名は文献・資料からは見いだせなかった。
生家のおばあさんも、全くわからないとのこと」
この手紙から10日ほどして、再び、
K氏からの追伸が届いた。
中に、
K氏の手になる
平成9,10年(1997,8)の
「石造物調査報告書」のコピーがあった。
これです。
「天神像」とあります。左側赤丸に向佐多次郎 同 夘之助とあります。

台座正面に、
卯之助の出身地とされる三野宮村の筆子たちの名前が並んでいます。
しかしこの中に
「向佐家」はありません。台座右側(調査書では左側)の村名は「大森村」。
「向佐」名があるその隣はただ「村」とだけ。大森村の枝村の意か?
上部に句が刻んであります。
寺子屋の師匠の辞世の句でしょうか。
問題は次の調査書です。右寄りの中ほどをご覧ください。
「夘之助の名前が刻まれているが、これは、
この頃活躍した日本一の力持ちの
三ノ宮卯之助を
指すものと思われる」
おいおいおい「この頃活躍した」って、卯之助はこの安政5年には
もういないはずでしょ?
没年は4年前の嘉永7年だって公表したのは、あんた方じゃないの。

追伸では13年前の調査書の、この個所をトーンダウン。
「過去帳などの消失により、確証は得られない現在は
断言できない」
しかし、直接話を聞いた酒井氏は、その時の様子をこう補足している。
「
K氏は、天神像の夘之助は三ノ宮卯之助を指すものと思うものの、
それを活字にするのはご慎重のようでした」
「ご慎重」と言ったって、13年も前に
活字にしてるじゃないですか。
それに、13年たってもまだ、「卯之助本人」だと、思い込んでいる。
寺子屋の師匠と子供。「稚六芸の内 書数」 歌川国貞・画

寺子屋が増加し始めたのは、天保期(1830~1844)といわれていますから、
文化四年(1807)生まれで、地方の片田舎にいた卯之助が、
寺子屋へ通えたかどうかさえ疑問です。
酒井氏がどんなに
K氏を、
「石造物に関しては凄いとしか言いようのない方」と褒め、
「推測の範囲で楽しむのがよろしいようで」とフォローしても、
間違いは間違いです。
だって、卯之助はすでにこの世に
いなかったのですから。
調査報告書の編集委員や研究会内部から、
「それはおかしい」と言う声は挙がらなかったのでしょうか。
私如きが言うのはおこがましいですが、私はこう思うのです。
「歴史には間違いがある。しかしそれは決して恥ずべきことではない。
歴史の考察は、先人の業績を踏み台にして、
それに次世代が新事実を積み上げていくこと。
ただし、最も大事なのは、自説の間違いを認める
潔さ」だと。

斎藤氏撮影
さて、とりけらさんがご自身のブログに書いた
「筆子塚の夘之助は(三ノ宮)
卯之助の子供らしいという話があるとか」の、
その典拠にしたのが、
K氏と同じ越谷市郷土研究会の会員のブログ、
「越谷探訪」の記事です。それには、こうありました。
『K氏の「大袋地区の石仏」(平成9,10年度調査/
平成27年12月
改定)に、
「(筆子塚)の夘之助は、三ノ宮卯之助(嘉永7年没)の息子であろうか」とある。
この
「息子であろうか」という
K氏の考察には信ぴょう性がある。
』おいおいおい
先輩のみならず後輩までも。
1997年には
「卯之助本人」と書き、
2010年の斎藤氏からの問い合わせには
「本人と推測しているが断言できない」といい、
それから5年後に今度は、
「卯之助の息子」とは、
そのどこに「信ぴょう性がある」といえますか!
K先生、「本人説」から「息子説」へ大変換。
もし、証拠もなく、
卯之助の没年とのズレに気づいて、慌てて「息子」に変えたのなら、
失礼な言い方ですが、それは「改定」ではなく、
「偽装」です。
権威ある方の発言や著述は信用度が高い。
読み手の知らない分野のことならなおさらです。だから責任は重いのです。
「推測を活字にするのは慎重に」と言いながら、
18年後にまた
活字にしていることも、その根拠が必要と私は思います。
「仮説を立てて真相に迫る」ことと、「推測で断言」は、別モノですから。

三ノ宮香取神社 酒井正・画
ブログ「越谷探訪」のこの記事、
「三野宮香取神社の力石と石仏など境内風景」は、
今年4月ですからまだ新しい。
ブログ主さん、「三ノ宮卯之助の息子説は信憑性がある」とした確たる証拠を
お示しいただけたら、ありがたいです。
さて、「家斉将軍が上覧した」と碑に刻み、100年後に死亡報告と位牌が届いたといい、
死因は食中毒か毒殺で悶死と、これまたおどろおどろしい話を世間に流布。
そして今度は「卯之助には息子がいた」という新説。
センセーショナルな
エピソード満載です。
同会では市民対象の歴史探訪を行っている。
ここへ来て、
「この人は三ノ宮卯之助の息子らしい」なんて説明されたら、
たまったもんじゃない。
耳から入る情報、特に初めて聞く人には、
「らしい」なんかすぐ取れて、「息子」とのみインプットされるのは、よくあること。
世間受けする話題こそ、広がるのも定着も早いのです。
「推測の範囲で楽しむ」?
冗談じゃない! それこそ
歴史への冒涜です。
なんだか卯之助は、地元でおもちゃにされているような気がして…。
考えすぎかなぁ。「迷走」に翻弄されて、めまいがしてきた。
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