巨星墜つ
人はだれしもいつかは死を迎えます。ですが、卯之助の最期は悲劇的です。
卯之助は現在の埼玉県桶川市の桶川稲荷神社で、
日本一重い力石「大盤石」610㎏を足指しした2年後の嘉永7年、
48歳の若さでこの世を去ります。
卯之助には毒殺説があります。
昭和20年代、地元の古老がこんな話を残しています。
「とある西国大名の江戸屋敷において、
大阪方と江戸方の一番の力持ちを対決させ、日本一を決めることになった。
その結果大名お抱えの力持ち力士は負け、卯之助が勝った。
その夜、大名屋敷で双方力士を招いての酒宴が催された。
しかしその帰路、卯之助は突然苦しみ出し、そのまま悶死してしまった」
これは卯之助の位牌です。

表に「日本市大力持 三ノ宮卯之助 四十八才」
裏に「 □ 到刹清㐰士 嘉永七年七月八日 不二位」
越谷市の卯之助研究者・高崎力氏はこういいます。
「位牌に一般的に使われない到刹清㐰士とか不二位などから推測すると、
毒殺というような事件は真実味を帯びてくる」
※位牌の「㐰士」の㐰は、個の略字のような人偏に口の文字が書かれているが、
春日部市の研究者S氏によると、
これは個ではなく「信」の異体字の古字だそうです。
また高崎氏はこうも言う。
「日本市としたのは、一では二や三に書き換えられる恐れがあったからだろう」
このことから、この位牌を書いた人の、
「卯之助こそ日本一」を守り抜きたいという怨念のようなものが感じられます。

江戸浅草観音境内における三ノ宮卯之助の興行引札
=神戸商船大学図書館蔵
卯之助が命を落とした嘉永7年(1854)は、
前年にアメリカからペリー、ロシアからプゥチャーチンが来日するなど、
開国を迫る西欧列強に揺さぶられ始めた幕末の騒乱期です。
こんな時代に、のんびり力持ちの東西対決をさせた大名って一体誰?
ま、それはともかく、この位牌は、
卯之助の没後100年近くたった昭和の戦後間もなく、
越谷市在住のO氏から卯之助生家へ届けられたそうです。
高崎氏の調べでは、このO氏の先祖は興行師で、
常に卯之助と行動を共にしていたマネージャー的存在だったらしいとのこと。
しかし、
東西対決をしたという大名屋敷も卯之助の死因も死亡場所、埋葬場所も不明。
また、位牌をO氏の家でなぜ100年も持ち続けていたのかも、謎のまま。
勘ぐれば、卯之助を招いた西国の大名が秘密の暴露を恐れてもみ消した?
マネージャーのO氏も力持ちの仲間たちも、身の危険を感じて口を閉ざした?
O氏はそんな卯之助を憐れみ、ひそかに位牌を手作りし、
そこに卯之助事件の真相を暗示的に記して、100年も大切に持っていた…。
とまあ、こんな見方もできますが、でも、真相はすべて闇の中。
その後、卯之助の生家ではのちのご当主が位牌を作り直したそうです。
それがこちら。

S氏撮影。
2008年、卯之助生家を訪れた春日部市在住の研究者S氏に、
その家のおばあちゃんがこんなことを…。
「おじいちゃんが仏壇屋に頼んで新しくした。古い位牌はどうなったかわからない」
旧位牌に比べて、新しい位牌は立派ですが、
S氏は、旧位牌の文字と新しいのとでは文字が所々違うことに気づきます。
そして、こんな指摘をしています。
「新しい位牌には「寛永七寅年」と彫られている。
旧位牌にそう書かれていたのでしょう。
でも寛永と嘉永ではえらい違い。あとから寛を削って「カ」に書き換えてある。
旧位牌にあった「不二位」の「不二」が省かれているのは仏壇屋の独断か?
七月七日が七月八日に、力持の「持」が「特」と誤字。
岩槻市史では、
「信」の異体字の古字「㐰」を「個」に、「刹」を「殺」にしているがこれは間違い。
だから仏壇屋が「個士」ではなく「信士」にしたのは正しい」
生家に残されていた卯之助石です。

=越谷市 画/酒井正氏
三ノ宮卯之助が残した力石は、全国最多の39個(不明2個)。
そのうち有形文化財に指定されたのは7個です。
将軍ご上覧の栄を賜り、江戸力持の最高峰・東の大関に出世、
だれも持ったことがない610㎏もの大盤石を指した不世出の力持ち。
ですが、日本一に確定したその日のうちに、卯之助は命を絶たれます。
行年48歳。
巨星墜つ

=兵庫県姫路市網干・魚吹八幡神社
しかし日本一の力持ち、三ノ宮卯之助は、今も多くの人に愛され、
力石研究者の血を沸かせ続けて、今なお生きています。
卯之助よ、永遠なれ!
※参考文献・画像提供/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
四日市大学論集大17巻1号 2004
※画像提供/S、酒井正
卯之助は現在の埼玉県桶川市の桶川稲荷神社で、
日本一重い力石「大盤石」610㎏を足指しした2年後の嘉永7年、
48歳の若さでこの世を去ります。
卯之助には毒殺説があります。
昭和20年代、地元の古老がこんな話を残しています。
「とある西国大名の江戸屋敷において、
大阪方と江戸方の一番の力持ちを対決させ、日本一を決めることになった。
その結果大名お抱えの力持ち力士は負け、卯之助が勝った。
その夜、大名屋敷で双方力士を招いての酒宴が催された。
しかしその帰路、卯之助は突然苦しみ出し、そのまま悶死してしまった」
これは卯之助の位牌です。

表に「日本市大力持 三ノ宮卯之助 四十八才」
裏に「 □ 到刹清㐰士 嘉永七年七月八日 不二位」
越谷市の卯之助研究者・高崎力氏はこういいます。
「位牌に一般的に使われない到刹清㐰士とか不二位などから推測すると、
毒殺というような事件は真実味を帯びてくる」
※位牌の「㐰士」の㐰は、個の略字のような人偏に口の文字が書かれているが、
春日部市の研究者S氏によると、
これは個ではなく「信」の異体字の古字だそうです。
また高崎氏はこうも言う。
「日本市としたのは、一では二や三に書き換えられる恐れがあったからだろう」
このことから、この位牌を書いた人の、
「卯之助こそ日本一」を守り抜きたいという怨念のようなものが感じられます。

江戸浅草観音境内における三ノ宮卯之助の興行引札
=神戸商船大学図書館蔵
卯之助が命を落とした嘉永7年(1854)は、
前年にアメリカからペリー、ロシアからプゥチャーチンが来日するなど、
開国を迫る西欧列強に揺さぶられ始めた幕末の騒乱期です。
こんな時代に、のんびり力持ちの東西対決をさせた大名って一体誰?
ま、それはともかく、この位牌は、
卯之助の没後100年近くたった昭和の戦後間もなく、
越谷市在住のO氏から卯之助生家へ届けられたそうです。
高崎氏の調べでは、このO氏の先祖は興行師で、
常に卯之助と行動を共にしていたマネージャー的存在だったらしいとのこと。
しかし、
東西対決をしたという大名屋敷も卯之助の死因も死亡場所、埋葬場所も不明。
また、位牌をO氏の家でなぜ100年も持ち続けていたのかも、謎のまま。
勘ぐれば、卯之助を招いた西国の大名が秘密の暴露を恐れてもみ消した?
マネージャーのO氏も力持ちの仲間たちも、身の危険を感じて口を閉ざした?
O氏はそんな卯之助を憐れみ、ひそかに位牌を手作りし、
そこに卯之助事件の真相を暗示的に記して、100年も大切に持っていた…。
とまあ、こんな見方もできますが、でも、真相はすべて闇の中。
その後、卯之助の生家ではのちのご当主が位牌を作り直したそうです。
それがこちら。


S氏撮影。
2008年、卯之助生家を訪れた春日部市在住の研究者S氏に、
その家のおばあちゃんがこんなことを…。
「おじいちゃんが仏壇屋に頼んで新しくした。古い位牌はどうなったかわからない」
旧位牌に比べて、新しい位牌は立派ですが、
S氏は、旧位牌の文字と新しいのとでは文字が所々違うことに気づきます。
そして、こんな指摘をしています。
「新しい位牌には「寛永七寅年」と彫られている。
旧位牌にそう書かれていたのでしょう。
でも寛永と嘉永ではえらい違い。あとから寛を削って「カ」に書き換えてある。
旧位牌にあった「不二位」の「不二」が省かれているのは仏壇屋の独断か?
七月七日が七月八日に、力持の「持」が「特」と誤字。
岩槻市史では、
「信」の異体字の古字「㐰」を「個」に、「刹」を「殺」にしているがこれは間違い。
だから仏壇屋が「個士」ではなく「信士」にしたのは正しい」
生家に残されていた卯之助石です。

=越谷市 画/酒井正氏
三ノ宮卯之助が残した力石は、全国最多の39個(不明2個)。
そのうち有形文化財に指定されたのは7個です。
将軍ご上覧の栄を賜り、江戸力持の最高峰・東の大関に出世、
だれも持ったことがない610㎏もの大盤石を指した不世出の力持ち。
ですが、日本一に確定したその日のうちに、卯之助は命を絶たれます。
行年48歳。
巨星墜つ

=兵庫県姫路市網干・魚吹八幡神社
しかし日本一の力持ち、三ノ宮卯之助は、今も多くの人に愛され、
力石研究者の血を沸かせ続けて、今なお生きています。
卯之助よ、永遠なれ!
※参考文献・画像提供/「三ノ宮卯之助の力石(2)」高島愼助・高崎力
四日市大学論集大17巻1号 2004
※画像提供/S、酒井正
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