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孫が来た!

沖縄から孫が来ました。
3歳と5歳のやんちゃな男の子。

大井川鉄道のトーマスくんかSLに乗せてあげたいと思って、
静岡のおばあちゃんは張り切りました。

でも運行時期や時間が孫たちの時間とあいません。
それで小さなトロッコ電車に乗ることにしました。
昔の森林鉄道です。

登山をやっていたころはこれに乗って、南アの入口・井川まで入りました。
そのころは屋根だけしかない吹きさらしでした。

今はミニ列車というそうです。途中、日本一の急勾配を登ります。
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大井川鉄道=静岡県榛原郡川根本町千頭

小さなトンネルをいくつも通ります。
ダム湖で大勢の人がカヌーをやっていました。

木々も川も緑一色です。

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茶畑も美しい。

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私たちは途中の「接阻峡温泉駅」で下車。
ここから上り電車で元の千頭駅まで戻ります。

ここにはおじいちゃんの駅員さんがいました。
「ふるさと資料館があるけど、ぼくたちにはまだ無理だなあ」

駅員さんが言っていた「ふるさと資料館やまびこ」です。
遠くから大学の先生や研究者、学生さんたちがやってくるそうです。

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静岡県榛原郡川根本町犬間

駅近くのトンネルです。
線路の一番奥の暗がりがそうです。
小さな小さな山のトンネルです。

CIMG4818.jpg

往復約2時間。幼い孫たちにはやはりきつかった。
孫たちをSLやトーマスくんに乗せてあげたい、
お嫁さんが気兼ねしないよう山の温泉宿でゆっくりしてもらいたい、
そういう私の意見を息子たちは優先させてくれたのだが…。

千頭駅に着いたら、運よく到着したばかりのSLが…。
海外からの団体さんが降りてきました。

CIMG4824.jpg

機関士さんの席に乗せてもらいました。
釜の蓋も開けて見せてくれました。

昔はもくもくと黒い煙を吐き、
吐きだした火の粉が茅葺の屋根について火事になったとか。
今は燃料も改善されて、そんなことはなくなったそうです。

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若い機関士さん、汗だくです。
でもニコニコとみんなを迎え入れていました。

千頭駅から山越えで今度は静岡の我が家へ。
峠越えの猛烈なクネクネ道で、孫二人はゲーゲー。

それでも家に入ると元気いっぱいになって、お菓子をパクパク。
一休みのあと、今度は東京のおばあちゃんの家へ。
孫も大変ですね。

キーボードを送る約束をして、
ハグを二回もして見送りました。

CIMG4833.jpg

最初息子は我が家にゆっくり泊まることを望んでいました。

豪華な旅より、
自分が育ったふるさとを自分の子供たちに見せたかったのだと
あとから気づきました。

「また行きます」の息子からのメールに、
「今度は家へ」と返事をしたことは言うまでもありません。

※5歳の長男、SLを見て喜ぶと思ったら、「イヤダ!」と近づきません。
 どうやら思い描いていたのはトーマスくんだったようで…。

 号トーマス

確かにこちらのSLおじさん、コワモテですものね。

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「おばあちゃんも機関室に乗れたよ」と写真を見せたら、「じゃあ乗る」と。

トーマスくんは構内にいたのですが、しっかり隠されていて見えません。
トーマスの権利元の承認を経て実施されているそうで、
来月6月と7月には運行されるようです。

海外からも申し込みが殺到するほどの人気で、
チケットはなかなか取れないとのことでした。

長男坊は事前に送ってあった大井川鉄道の絵本で学習してきたそうです。
期待通りにいかなかったけど、この次のお楽しみとなりました。
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駿府二丁町

駿府、今の静岡市は江戸幕府を開いた徳川家康が、
幼少時代を過ごし、晩年になって隠居所として住んだ町です。

慶長12年(1607)、66歳で秀忠に将軍職を譲った家康は、再び駿府へ戻り、
ここに「大御所政治」を展開。
そして、矢継ぎ早に、
全国通貨の慶長小判の鋳造、活字印刷金属瓦西洋式帆船
建造を手がけます。これはすべて、日本初のものです。

駿府城下には全国から商工業者が集まり、諸外国の要人たちが家康を訪問。
駿府はたちまち人口が膨れ上がり、東海一の都市と称されました。

そんな中にできたのが「二丁町遊郭」です。
敷地1万坪。幕府公認。
のちにここの一部が江戸吉原へ移ります。

これは二丁町の花魁が差していた髪飾りの一部です。

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記者時代、取材先の画家さんが花魁の髪飾りをペンダントに作り替えて、
私にくださったものです。

黒漆地に螺鈿(らでん)、金工象嵌(きんこうぞうがん)。
 ※螺鈿=夜光貝や真珠をはめ込んだもの。
 ※金工象嵌=金をはめ込んだもの。

どんな女性の持ち物だったんだろう、幸せになれただろうかと思いつつ、
ずいぶん愛用しましたが、とうとう壊れて、今はこれだけ残りました。

「わたしの叔母は二丁町の娼妓であった」ー、
という書き出しで始まる「静岡の遊郭二丁町」という本があります。
著者の叔父が身請けした「つね」という娼妓は、
最後に訪れたこの幸せに感謝しつつ、間もなく結核で亡くなります。

しかし叔父は、身請けまでしておきながらなぜか決して入籍はしなかった。
そんな「つね」への思いを胸に、戦後、著者の調査が始まります。

この遊郭は静岡大空襲で焼失する昭和20年まで存在しました。

著者は調査の過程で、終戦間際の二丁町に、
「20人くらいの朝鮮人慰安婦がいた」という話を元・楼主から聞きます。

「若い女たちを集めたものの大陸への運搬船が沈んじゃって運べなくて。
それで日本のあちこちへ分散させた。その一部が二丁町へも来た」
「日本語も出来ないのに、戦後、彼女たちはどうなったのか」

思いがけない話を耳にした著者は、こんな感想を漏らしています。
戦争がこのようなかたちで二丁町に繋がっていようとは想像もできなかった」

ずいぶん前になりますが、私にも衝撃を受けた経験があります。
調べていた郷土資料の中に、娼妓たちの名前や住所を書いたものがあって、
その中に見知った家の住所を見付けてしまったのです。

貧しい家のため、その親から身売りされた娘なのに、
親はその娘を恥じて、年季が明けても家へ迎え入れることをしなかったという。

今、贅沢をしたいがために売春をする少女たちがいる。
そんなことを昔の娼妓たちが知ったら、どう思うだろうか。
「自分を粗末にしちゃいけないよ」って、言うのかもしれません。

私はこの「花魁の髪飾り」をいつもパソコンの横に置いています。
螺鈿や金工象嵌は今も美しく輝いています。

苦界に落ちても「穢れのない、凛とした気高さ」を感じるのです。


※参考文献/「静岡の遊郭 二丁町」小長谷澄子 文芸社 2006
        小二田誠二・静岡大学教授のHP「人言小二田研究室」

読書

本日は「焼畑フォーラム」へ出かける予定だったのに寝坊して行き損ねた。
フットワークが鈍くなった。
そこで読んだ本の中から一冊とりあげて、こんな感想を書いてみました。

          ーーーーー◇ーーーーー

苫米地英人さんという方の、
「明治維新という名の洗脳」=ビジネス社 2017=を読んだ。
おもしろかった。

お名前は知っていたが、今まで著書は読んだことがなかった。
でもこれは説得力があって、納得することが多かった。

明治維新については諸説あって、正直、よく解らない。
解らないけど「これって変だよな」という薄ぼんやりした疑問は持っていた。
それはこんな疑問です。

270年も平和が続いた日本が明治に入った途端、戦争を始めて、
以後、昭和に至るまで、戦争に明け暮れるようになったのはなぜなんだろう。
日本の風俗習慣をばっさり切り捨てて「西欧の猿真似」に徹したのは、
いくらなんでも鮮やか過ぎないか。

皇室までイギリス王室を真似たのはなぜ?

生麦事件でイギリス人を殺して薩英戦争を起こした薩摩藩の武士や、
イギリス公使宿舎を焼打ちしたり、外国艦船へ砲撃した萩藩(長州)の武士たちが、
同じ年にそのイギリスへ留学(密航)出来たのはなぜ?

留学した彼らは「長州ファイブ」と呼ばれ、若くして明治政府の高官になった。
資金もない地方の藩の下級武士たちに、なんでそんなことができたのか。

そして一番の疑問だったのが、
明治初年早々、なぜ外国の銀行が横浜に林立できたのかということだった。

その答えが「明治維新という洗脳」に出ていた。
ずばり、「国際金融資本家たちの暗躍」

苫米地氏は言う。
「明治維新はロスチャイルド家などの国際金融資本家集団が、
戦争で儲けるために仕掛けた。長州ファイブはその手先だった。
そしてその状況は今も続いている」と。

真偽はわかりません。
でもおもしろい。

元柳橋のたもとの謎の「大王石」とそれを持った柴田幸次郎の記事で、
私は蒔絵師の柴田是真のことを書いた。
この是真のことを明治になって、旧幕臣の塚原渋柿園がこう言っている。

「会津と官軍が戦っていたころ、あの人(是真)ときたらまるで気狂いで、
李竜眠の十六羅漢の画幅を携えて、銀座役人にこれを千両で買ってください、
そのお金を会津へ送って弾薬の料にしてもらうからと泣いて頼んだ」

懐古趣味と言われようが時代遅れと蔑まれようが、
私は国際金融資本家のエージェントになった長州ファイブより、
こういう是真のような人のほうがずっと好きだ。

孫が来る!

ただ今、某役所へ動画の使用許可をお願いしています。
ユーチューブに出ていたので許可はいらないかなァとも思いましたが、
やはりきちんとやっとこうか、と。

それでお返事待ちの間、世間話にお付き合いください。

先日、沖縄在住の息子から、5月に子供を見せに行きたいとの連絡。
孫は5歳と3歳。もう嬉しくて。張り切りましたです。
前から一度、大井川鉄道のトーマス号に乗せてあげたいと思っていたので、
さっそく計画を練りました。

でも、東京のもう一人のおばあちゃんも孫たちの訪問をお待ちかねです。
それに日程がトーマス号やSL運行と合わない。

そこで、当日は山の温泉宿へ泊まり、翌日は昔の森林鉄道のトロッコ電車を往復。
駅でSLやトーマスくんと対面とあいなりました。
モノレールしか走っていない沖縄です。喜んでくれますね、きっと。

本日は孫たちに本を送りました。

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昔、息子たちに読み聞かせた古い本です。
消毒を兼ねてきれいにしました。
錆びたホチキスにはテープを貼りました。

さすがに「かじや」さんが出てくるのは古すぎるので止めました。
発禁になった「ち○○○サ○○」も入れませんでした。

CIMG4660.jpg

新しい本も入れました。
もちろん、鉄道関係ばかりです。
好きだった「きかんしゃ やえもん」は本屋で新しいのが見つからず、
替わりに昔の本を入れました。

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ついでに、昔、息子たちのために作った私の手作り絵本も、
と思ったけれど、大きすぎて入らず断念。

CIMG4664.jpg

孫へのお菓子やお嫁さんの好きな遠州の干し芋、
息子のために「たたみいわし」もいれました。

で、いざ、近くの郵便局へ。

いつもは優しいお姉さん職員が厳しい顔で、
「危険物は入っていませんか? 爆発物があると危険なので」
「これは名護市のどのあたりの住所ですか?」
「本当に絵本とお菓子だけですか?」と念を押す。

以前、カナダへしょっちゅう送っていたときはなんにも聞かなかったのに、
沖縄、名護市と聞くと急に険しい顔になって、毎回、同じことを聞く。

徒歩3分のところに住み、いつも利用している顔なじみの私が、
住所も電話番号も書いて、爆弾なんて仕込みますか!

「警察や航空会社から厳しく言われているので」と、
お姉さん職員もつらそうだったけど、いい気持ちはしないよな。

ま、到着はあさって。みんな喜んでくれるかな!

お話、伝わったかな

力石のお話をしてきました。
場所は地元の特別養護老人ホーム。

最近は施設と地域のみなさんとの交流を深める催しが盛んですね。
このホームではひと月に一度、いろんな講師を招いているとのこと。
名付けて「さくらカフェ」

私もその一人としてお声を掛けていただいたのです。

初めて聞く「力石」なんてモノに興味も湧かないだろうなァと思っていたら、
常連さんを始め、たくさんの方がきてくれました。

さっそく、始まり始まり~。

CIMG4631.jpg
静岡市葵区東・麻機園

もうね、言葉で力石を説明するのは無理なので、
スライドショーのオンパレード。
ここの参加費はお菓子とコーヒー付きで100円。お茶は飲み放題です。

みなさんコーヒー飲みながらリラックス。
ですが、施設の地域連携担当のスタッフさんたちは大忙し。

スクリーンには徳蔵さんも力自慢の現代っ子たちも登場です。

tyoubamae_web.jpg CIMG0441 (4)

私が初めて他人様の前で話したのは、30数年前。
もう下手で下手で。思い出すと冷や汗です。

最近は心臓もバクバクしなくなり、立て板に水の如き話しっぷりで(笑)

でもやっぱりみなさんに受けたのは力石より地元の話です。

江戸時代末に駿河国を丹念に歩いて地誌を残した桑原黙斎という人がいて、
この人がここにも来ていたので、その足跡をたどりながら、
私が選んだ石造物をお目にかけました。

黙斎が描いたこのあたりの絵です。左上に「鈴石」、右中ほどに「肥付石」、
その下の「沼田」でお百姓さんが働いています。鈴石、肥付石の説明は後述。
img005_2019012207022071a.jpgimg146.jpg

下の写真、
左は峠道の道標です。広大な湿地帯の村だったので峠道が発達しました。
ここはお嫁さんが来た「嫁っこ道」でもありました。昔の嫁入りは夜でしたから、
提灯の行列があのキツネの嫁入りみたいに見えたことでしょう。

右の写真は、全部「聞か猿」という珍しい青面金剛像です。
これは全国で唯一のもの。なので「私の大発見」と強調しておきました。
 
CIMG4411.jpg CIMG3358.jpg
 
「東海道中膝栗毛」に、この集落の艶めかしい尼さんが出てくる話や、
神社の屋根に座って魔物を追い払っている「四方睨み」の石の猿の話、
真言密教の修験者たちや山奥に残された
「不許葷酒山門入」=葷酒山門に入るを許さず=の石柱も。

「葷(くん)」とはニンニクやニラのような臭い食べ物のこと。
つまり「臭いものを食べたり酒臭いヤツは寺へ入るな」という意味です。

そして下の写真、私がこの地域で一番注目している板碑です。
板碑は鎌倉から室町初期に関東地方の鎌倉武士の間で大流行して、
あっという間に衰退した石の塔婆です。

それがこんな草深い田舎にあるなんて、信じられません。
でも土地の人たちはなんにも知りませんし調べません。もったいない。
阿弥陀三尊の種字が刻まれています。力のある武士が住んでいたはずです。

CIMG1099.jpg

石丁場(石切り場)の矢穴石もあります。
背後の尾根上がその丁場で、そこにも矢穴石が残されています。
切りり出したときのことが、江戸時代中期の名主日記に出てきます。

宝永地震で崩れた駿府城の石垣用に500個も切り出したのに、
1個も売れなかった。その売れ残りが神社の石段や石垣になっています。
ここは研究者にもほとんど知られていない石切り場なんです。

矢穴石です。大きな石に穴をあけて楔を打ち、ハンマーで叩いて割りました。
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尾根上の石切り場には「鈴石」という巨石があります。
「石神」「石亀」の字名から、神様が降臨した神聖な場所のはずなんですが、
やっぱり旧家の方々、ご存じありません。

また「七ツ天神」といって、太陽の移動と共に7か所の天神をめぐる
太陽信仰があったはずなんです。冬至の朝、この巨石「鈴石」の真上から
朝日が昇るはずなんです。「七ツ天神」は名称だけ残っていますが、
その意味を知る人は皆無といっていいほどです。

この地域はある時期、住民がそっくり入れ替わったと思うほど、
歴史の断絶があります。

平安初期の「蜻蛉日記」にも出てくる「肥付(こえつき)石」もあります。
この石に触ると足が腫れる「太足(ぼたあし)」になるという怖い石です。

「肥付石」です。
CIMG4464.jpg

桑原黙斎も、
「丘の上に黒漆を塗ったような毒々しい肥付石があった」と書いています。
今はこの先の切り通しにあった「延命地蔵尊」と共に、
特養とケアハウスの間にあって入居者さんに守られています。

「触ると太足になる」怖い石をここまで運んできた人、勇気がありましたね。

みなさんにお伝えしたいことがいっぱいあって、意気込み過ぎたせいか、
ちょっと慌ただしかったかな、と、ちょっぴり反省。

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以前、地元の人から、「誰の許可で(講演)やってんだ! 
新住民にここを勝手に引っ掻き回されては困る」なんて抗議を受けて絶句。
そのころの私は、北海道や東京、町での登山の講演ばかりだったし、
ただの言いがかりと思うもののこの平成の時代に、とかなりびっくりした。

でも世代交代も進み、人口の9割が「よそモン」の新住民になったので、
心置きなく地元で「地元の話」ができるようになりました。

さて、この日のお話は1時間半もの長丁場。
「休憩をとりましょうか」とお聞きしましたが、続けて欲しいとのことで続行。
終了後、地元の方から質問やら昔話やら…。

嬉しかったのは、昨年、私の話を聞いて、
「すぐ矢穴石や刻印のある石を見てきた」との報告があったことです。

このたび、ここに呼んでくださった施設のAさん、
そして熱心にお聞きくださったみなさん、ありがとう!
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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