FC2ブログ

日本一の力持ち「卯之助」の石にも…

「穴」は奥が深い。な~んてダジャレを言っている場合ではないですよね。
でも、たかが石ころでも穴ぼこでも、こだわり始めると面白くて病みつきになります。
いつもコメントをくださる「s.h.様」も、とうとう
「鵜の目鷹の目で探してみることにします」などと口走るようになってしまいました。

さて、本日もまた盃状穴です。
三ノ宮卯之助という力持ち界の王者も出てまいります。

まずは、これから。
img220.jpg
東京都足立区入谷・氷川神社の力石です。58×38×28余㎝

まるでコンパスで計ったみたいにきれいな円ですね。
縄文人は石に穴を開けるとき、石面に砂を置いて小石で擦ったそうです。
ヤスリの原理ですよね。盃状穴もそんなふうにして開けたんでしょうか。

これは鹿児島県鹿児島郡十島村平島「オーニワ」の力石です。
十島村・オーニワ2
35×32×25㎝            写真提供/十島村教育委員会

オーニワというのは、盆踊りなどをする広場のことだそうです。
「もとは二つあって、青年たちがもちあげて力を競った。
盃状穴で子供たちが木の実や巻貝を割ることもある」(平島・下野敏見氏談)

こちらは、神奈川県川崎市川崎区大師駅前・若宮八幡神社の力石です。
65×34×25㎝
CIMG1053.jpg
立派な刻字があります。正直、この石には穴を穿って欲しくなかったですね。
刻字です。

   「さし石 大木戸 仙太郎 岩附 卯之助 當所 伊之助 指之

この石は仙太郎、卯之助が差した石を後年、伊之助が差し挙げ名前を追記した石です。
江戸力持番付の東の大関・卯之助が差した由緒ある石に、伊之助が挑戦したわけです。

さて、卯之助です。
卯之助の出身地は武州岩附藩三野宮村(現・埼玉県越谷市大字三野宮)。
このことから、卯之助の石には、「岩附」「三野宮」「三ノ宮」の刻字が見られます。

卯之助と卯之助の持ち石のことは稿を改めてご紹介します。
とにかくダントツの力持ちなので、一口では語りきれません。ここでは、
今年、越谷市の有形文化財・歴史資料に指定された6個のうちの1個をお見せします。

CIMG1091.jpg
越谷市越ケ谷・久伊豆神社。             78×46×28㎝

 「奉納 五十貫目 天保二辛卯年四月吉日 三ノ宮卯之助持之 本町 曾田権四郎
     
     注連縄を締めて卯之助神になり
                                雨宮清子
同じものを絵に描いたものがこれ。
img233.jpg
画/酒井 正氏

     「卯之助」を尋ねて初夏に染まるまま
                              斎藤呆人



資料/「新発見・力石」 高島愼助・斎藤保夫 岩田書院 2010
     「九州・沖縄の力石」 高島愼助 岩田書院 2009





スポンサーサイト



力石に穿(うが)たれた盃状穴

盃状穴のお話、ようやく力石まできました。ヤレヤレ。

まずはこれをご覧ください。
静岡市駿河区高松・諏訪浅間神社です。
CIMG0364.jpg
石が三つ並んでいます。
そのうちの一つに、無数の盃状穴があります。
この三個の石は、土俵際に並べてあります。どう見ても人為的に。

ただの石ころに盃状穴を穿つことは考えられません。
私はこれを力石と判断して、何度も聞き込みに出かけました。
ですが、周囲は新興住宅地となって住人はよそからの移住者。しかも若い。
昔からの家もすでに代替わりして、石はおろか神社の来歴さえわかりません。

境内の玉垣の隅には、いくつかの石が埋められています。こんなふうに。
CIMG0373.jpg

ブログを始めたころ、静岡市駿河区の石部神社の力石と重軽石をご紹介しましたが、
その浜続きに、この諏訪浅間神社はあります。
だから力石の可能性は高いのですが…。
でも、これらを力石だと証言する人が皆無のため、
残念ながら、ここでは「力石らしき石の盃状穴」としてご紹介するにとどめます。

こちらは静岡県富士宮市羽鮒(はぶな)(旧芝川町月代)の道祖神場です。
ちなみに「月代」と書いて「げんだい」と読みます。

近くに「朏島」と書いて「みかづきじま」と読む地域があります。
朏=月が出る=新月の三日目に出る月は、なるほど三日月です。
昔の人の想像力の豊かさに感動です。
CIMG0100 - コピー
三叉路にある道祖神場です。

昔の村の道です。新道はこの下を通っています。家々の向こうに富士川が流れ、
それと並行して静岡県富士市から山梨県甲府市へのJR身延線が走っています。
富士川はこのあたりで芝川と合流し、駿河湾へと注いでいます。
この芝川は、富士山の伏流水が地表に出た白糸の滝に端を発した川なのです。
だから夏でも身を切るような冷たさです。

写真の真ん中にある大きな碑が道祖神。右手の石碑は道しるべ。
そして左手にある2つの石が力石です。

大きくしてみますと、こんなふうです。
CIMG0102.jpg
富士山の溶岩を力石にしたものです

若者たちが力石を盛んに使っているときは、穴などあけませんので、
これはもう使われなくなって、放置されたあとに穿たれたものと思われます。

ここで少し寄り道をします。
私はこの道祖神場にある道しるべに、ものすごく魅了されたんですね。
とにかく姿形も文字も美しいし、
なにか呼びかけられているような親しみを覚えました。
拡大しますと、こんなです。
CIMG0100.jpg
これ、「いかだ道」の道しるべなんです。

「いかだ道」の調査をされている辻村保男氏によると、
富士川は甲州木材輸送のルートであったため、
多くの筏師たちが筏を組み竹棹一本に命を預け、この急流を下ってきたそうです。

彼らは河口近くの木屋へ無事木材を荷揚げすると、
今度は故郷の甲州へ帰るために、竹棹を担いで陸路を歩いて行ったとか。
そのとき彼らを導いたのが、この「いかだ道」の道しるべだったそうです。

img224.jpg
写真は、昭和13年ごろまで行われていた安倍川(静岡市)の筏流し

旧芝川町月代のいかだ道道しるべには、こう刻まれています。

     右さくば道 はぶな道 左つり橋 みのぶ道



※筏流しの画像転載/「安倍川と安倍街道」 海野 實 明文出版社 平成3年
※参考資料/「かわのり」 =芝川町にもあったいかだ道を巡って」= 辻村保男 
         芝川町郷土史研究会 34号 2009

嬉しいな! こんなところにもありました

を求めてウン千里」?
いえいえ、あくまでも力石を求めて歩いております。
そんな時、偶然みつけた「穴ぼこ」、ご紹介します。

神奈川県川崎市川崎区石観音堂です。
寛文5年(1665)の創建。
CIMG1018.jpg
有名な川崎大師平間寺の近くにあります。
そこかしこに歴史の重みを感じます。偉そうな歴史じゃなくて庶民の…。

これが石観音堂の「盃状穴」、手水石に穿ってありました。
年季が入ってます。
CIMG1033.jpg
なんでもこの手水石、「霊亀石」といい、こんな言い伝えがあるそうです。

享保18年、この年は不漁続きでみんな困っていました。
そんなとき、ある漁師が漁を終えて帰ろうとすると舟が動かない。よく見ると、
舟の下に大きな石が…。手水石にしたらよかろうと持ち上げたが動かない。
と、そこへ2,3匹の亀が現れて、力を貸してくれた…。
それをこのお堂に奉納したら、それ以後豊漁になった、というめでたいお話。

まさに「霊亀石」
盃状穴は、この石の持つ霊力にあやかろうとして穿たれたんでしょうね。

もう一つお見せします。
なんだかよくわからない石造物に穿ってありました。
CIMG1029.jpg

さて、
これは、「江戸名所図会」に描かれた「石観音堂」です。
img219.jpg
ちゃんと力石も描かれています。
入口左の説明は、「霊亀石」と書いてあるのでしょうか。

そしてこちらが石観音堂にある実際の力石です。
CIMG1021.jpg
7個あります。

 一日に一カ所探す力石 汗を拭き拭き今日もわが行く
                                         天野 翔

天野さんも苦労しています。生ビールが待ってますよ~!

石観音堂の力石には、立派な刻字があります。
「鶴林石」なんて、素敵な石も。

二つばかりお目にかけます。まずはこれ。
CIMG1031.jpg
地元・四ツ家(谷)の伊之助が持った石です。
伊之助の刻字石は、現在、ここと川崎大師などに12個保存されています。

そして、もう一つ。
CIMG1030.jpg
ご存知「八丁堀亀嶋町」の、といっても、「そんなの知るか」といわれそうですが、
石の平蔵こと八丁堀平蔵です。

刻字があります。

八丁堀亀嶋町平蔵 本八丁堀一町目 権平 五拾八貫余 長五郎 
百組 長吉 大嶋村直吉 伊之助


平蔵の刻字石は、東京を中心に現在23個保存されています。
八丁堀平蔵、この響きがなんともいいですねえ。

平成の今は、58貫の力石どころか、
一億3000万人を乗せたこの日本国を、手玉石の如く自在にあやつる怪力の、
「平蔵」というエライ方がおられます。



追記/八丁堀亀嶋町平蔵の現在確認されている力石は、23個と表記しましたが、
    その後新たに5個発見され、現在28個ということです。
    埼玉在住の力石研究者S氏から、情報をいただきました。
    
    S氏は関東一円を10年余の歳月をかけてくまなく調査し、今なおその歩みを
    止めることなく、力石の調査をされています。
    S氏による新発見の力石は、膨大な数に上ります。
    また、刻字を正確に読み取ること、拓本にするなど文献資料として残す
    ことが重要と考えて、それを力石探訪の真ん中に据えて活動しておられます。
    このブログに多大な助言をいただいております。



「盃状穴」、もう少しお見せします

「力石」へ行く前に、ボコボコと穿たれたいろんな石をお見せします。
まず、ささやかな穴ぼこから。

静岡市・大安寺の石段です。2個穿たれています。
CIMG1400.jpg

「これ、何の穴かご存知ですか?」と人に聞いても、
偶然できた穴じゃないの」と無視されるのがオチ。もう100%…。

こちらは静岡市・小黒浅間神社の手水石です。
縁に無数の穴があります。
img221.jpg
                     写真提供/平井正次氏                    

昨日、これは「盃状穴」、またの名を「女の穴」と申し上げました。
そして、穴は「生命の誕生」「生命の再生」の場所だということも…。
古代人でなくても、
自分の体から自分とそっくりの生物が出てくるなんて摩訶不思議。
「神のなせるわざ」としかいいようがありません。
だからこそ「穴」に、はかりしれない「霊力」を感じたのだと思います。

盃状穴は女性たちが子宝に恵まれることや、
安産子供の健やかな成長を祈りながら、
石の表面を小石で根気よくゴリゴリ擦ってできた穴なんです。
人に見られたら効めがなくなるので、夜陰に乗じて行ったそうです。

     盃状穴どんな願いをかけたやら

こうした穴に雨水が溜まると「いぼ取り水」に使われました。
穴の霊力を信じていたからこそ、なんですね。
昭和初期に子供だった人は、この穴にヨモギを入れ、
小石で突いておままごとをしたそうです。
静岡県東部では「とりもち穴」と呼んでいます。

これは静岡県駿東郡長泉町の路傍の石碑です。
CIMG1009.jpg
碑に「南無妙法蓮華経」と彫られています。

この台座に盃状穴があります。
穴の中に小銭が入っています。どんな願掛けをしたんでしょうか。
CIMG1010.jpg

静岡市・軍神社(軍人坊、軍神坊)の盃状穴です。
旗立石の一部? 放置されていました。
CIMG1186.jpg
創建は大化の改新のころといわれている古社です。
近くに古代の東海道だった「曲金遺跡」がありますし、
境内には樹齢1000年余という大クスの木もありますから、あり得る話です。

祭神は軍神・摩利支天と武神・武甕槌(たけみかづち)命。
戦国時代、徳川家康も戦勝祈願をした神社です。
境内に日清・日露戦勝記念の巨大な砲弾型の忠魂碑があります。

この石に無数に穿たれた盃状穴、
息子を戦場へ送る母親たちが、表向きは「お国のために」と言いつつ、
夜陰に乗じて生きて帰れと願ってできた穴なのかもしれません。

さて、
この神社の横に「法蔵寺」という古刹があります。
軍神社とは異体同心のお寺です。この寺と軍神社にかかわってきた人に、
海野氏がいます。江戸初期からの豪農、名家です。
この家から、
「背くらべ」「おもちゃのマーチ」などの作詞家・海野厚が出ています。

img222.jpgimg223.jpg
大正12年の装丁(諏訪かげよし)と、厚の50回忌に中川雄太郎氏が制作した版画

海野厚は大正14年に28歳で夭折。この法蔵寺に葬られました。
母校の静岡市立西豊田小学校には、「背くらべ」の歌碑があります。

あだしごとはさておき、盃状穴に戻ります。
この「石穴信仰」、江戸時代には日本中で盛んに行われていたのに、
現代人がトントご存知ないのは、なぜでしょうか。

それはですね、欧米崇拝一辺倒の明治新政府が、
「迷信禁止令」というおバカな法律で庶民を脅したからなんです。
いつの世も、お上の命令には逆らえません。
人々は慌ててコンクリートで穴を塞いだり、地面に埋めて痕跡を消してしまいました。
そしてこの風習も、そのままぷっつり

子を思う日本の女たちの、あったかくてつつましいこの風習、それを全否定するほど、
アメリカさまの思考回路って素晴らしいとは、とても思えないんだけどなあ。


「盃状穴」のお話はまだまだつづく。


※背くらべの写真転載/「背くらべ」海野 厚詩文集 静岡市教育委員会 昭和58年







穴です。「なんだ、穴か」と”あな”どるなかれ

神社の手水石や常夜灯などに「穴ぼこ」があるのを見たことはありませんか?

例えば、こんな穴
CIMG1467.jpg

みなさん全く気にも留めませんが、こんな穴にもそれなりの理由があるんです。
これは静岡市の静岡浅間神社の石橋です。
もうボコボコ。

静岡浅間神社です。今川氏、徳川氏の厚い庇護を受けてきました。
「稚児舞」が有名です。
CIMG1471.jpg

静岡浅間神社には「赤鳥居」と「石鳥居」があります。
穴の開いた石橋があるのは、「石鳥居」の側のこの橋です。
CIMG1473.jpg

これ、「盃状穴」(はいじょうけつ)というんです。
盃状(さかずきじょう)に穿った穴。
この命名は昭和55年と新しいんですね。
山口県の古墳から21個もの穴を穿った石棺(蓋)が見つかったそうです。
そこで、発掘に携わった大学教授によって「盃状穴」と命名されたということです。

でも、石に穴をあける風習は古くから世界中にありました。
日本で大流行したのは、江戸時代です。
当時、なんて言っていたのかわかりませんが、一種の「石穴信仰」なんです。

石穴信仰には、願い事が叶ったら小石に穴を開けてお地蔵さんなどに供える
「おはたし石」があります。
願いが通った、耳の通りが良くなったというわけで、
穴を開けてお礼をしたわけです。

三重県鳥羽市には、
海女さんたちが安全と大漁を祈願する「洗米石」というのがあるそうです。
これがかつて使われていた鳥羽市相差町の「洗米石」です。
img218 (2)

現在の「洗米石」はこちら。
海女さんの魔除けの「セーマン(星形)」に穿たれていて、
穴に洗米、小豆、魚、野菜、酒を供えるそうです。これも盃状穴の一種です。img218.jpg

「韓国にもありますよ」
と教えてくださったのは、蔚山大学校人文大学の魯成煥教授です。
魯教授は、大阪大学で博士号を授与された方で、
京都の国際日本文化研究センターで、
日韓比較神話・民俗学の研究をされていました。
研究を終えられ帰国する日に、日韓の民俗についてお聞きしたわけです。

「韓国では女の穴といわれています」

そうなんです。
石に穿ったこの穴は、「女の穴」「性穴」と呼ばれる穴だったんです。
変な意味にとらないでくださいね。
みなさんがごく普通にくぐる神社の鳥居も、
富士山の風穴や氷穴もみ~んな「女の穴」なんですから。

つまり「命の誕生」「命の再生」のための場所、神聖な穴なんです。
そこから作物の豊穣を願う思想も生まれました。


この穴が力石にも穿たれているんです。
次回はそのお話です。



※資料・写真転載/「伊勢民俗」第41号 「現代の盃状穴ー鳥羽市相差町の石穴信仰」
             橋本好史 伊勢民俗学会 2012



プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

フリーエリア
お願い
このブログに掲載されている 写真・記事等には著作権があります。 無断使用はご遠慮ください。
カレンダー
12 | 2020/01 | 02
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
最新記事
最新コメント
訪問者数
ランキングに参加しています
カテゴリ
月別アーカイブ
最新トラックバック
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR