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総代さんの行動力

力石の保存
01 /27 2018
その日私は、力蔵さんのご子孫宅から図書館へ直行。
そこで願ってもない本を見つけました。
府川松太郎さんという方が書いた「追分今昔記」です。

府川氏というのは、追分の角で「追分羊羹」を売る老舗のご主人だった人。

追分の道しるべです。
江戸時代、駿府清水湊を結んだ道です。

左へ入る小道が清水湊への道。道しるべの背後が「追分羊羹」のお店。
CIMG4086.jpg

「追分今昔記」(昭和60年。私家本)によると、
春日神社は鎌倉時代にこの辺りを支配していた入江氏の氏神だったが、
その後、追分の氏神になったもので、元は線路を越えた田んぼの中にあった。

そして、
昭和46年に持ち上がった県道建設のため、現在地へ移転したとのこと。

ということは、あの力石は神社移転と共に運ばれてきたことになります。
「いかい石」は、元の場所に置いてきたのかもしれません。

で、府川氏は本の中で「力蔵と力石」を取り上げていたのです。
そして力蔵さんのこんなエピソードも。

その頃このあたりは寂しいところでよくキツネに化かされた。
ある晩、ここを通りかかった力蔵さんは、
頭に里芋の葉っぱを載せたキツネを見た。そこで力蔵さん、
よし、逆にキツネを化かしてやろうと、川の中を歩く真似をして、
深いよォ深いよォと言いながら、キツネの周りをグルグル」

追分の狐ではありませんが、おキツネさんとおタヌキさんをお目にかけます。

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静岡市・畑守稲荷大明神のおキツネさん。右は某寺のおタヌキさん。
参拝者の目に触れないよう、秘所を隠してございます。
それを見たおキツネさん、皮肉っぽく笑っております。

力蔵さんといたずらギツネの勝負はどうなったかというと、

人間を化かしたと思いこんだキツネが油断したすきに、
力蔵さん、担いでいた天秤棒でキツネをしたたかに打った。
不意打ちを食らったキツネはコンと鳴いて闇に消えた。
さしものキツネも懲りたとみえて、その後は姿を見せなくなったとさ」

さて、力石です。
その後、私の神社惣代さん探しは難航。
個人情報保護とかで、教えていただけません。

ところが翌2012年早々、師匠の高島先生から、
「春日神社の総代さんから問い合わせが来た」との知らせです。

総代さんの話では、以前から境内にある「力石」が気になって調べていたら、
図書館で「静岡の力石」という本を見つけ、師匠へ連絡したとのこと。

総代さんは保存に動いていましたが、工事費がかかります。
氏子さんたちの説得に苦慮されている様子だったので、
私の講演へお誘いしました。

私、新聞に載っちゃいました。=静岡新聞=
img181 (2)

その日、総代さんとお二人の役員の方がお越しくださいました。

それから保存が急ピッチ。
完成したのがこちらです。

CIMG0579 (2)

立派な説明板も立てました。

CIMG0566 (2)

説明板には「静岡の力石」の紹介と、
師匠と私の名前(赤丸の中)までいれてくださった。

光栄です。

これはすべて総代さんの迅速で強大な行動力のおかげです。

こういう例は富士市今泉の愛鷹神社にもありました。
この愛鷹神社の総代さんは元富士市立図書館長だった方で、
境内に埋まっていた石が気になって調べ、
周囲を説得して保存されたとのことでした。

それがこちら
富士山の噴火の際飛び出した石もあります。さすが富士山麓の地区ですね。

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富士市今泉・愛鷹神社

清水区の春日神社の総代さんは保存だけではなく、
自ら民俗文化財指定の申請をされましたが、
残念ながらこちらはなりませんでした。

なにしろ旧静岡市は今まで一度も石造物の悉皆調査をしていない所で、
今後もその予定はないという。
私はこれを庶民文化軽視行政といっています。

今、計画中の歴史博物館も徳川家康一辺倒の感じで、
静岡弁でいう「やっきり」しちゃう状況です。
「ぜひ、博物館の庭に力石を置いてください」とお願いしましたが、
笑われるだけでしたもの。

くやじい~

ま、それはさておき、
春日神社の全景をご覧ください。

拝殿左に、保存された力蔵さんの力石がございます。
狛犬がお尻を向けていますが、気にしません。

旧清水市の石造物悉皆調査でも見落とされた力石ですが、
こうしてめでたくデビューできました。

末永く地域のみなさまに愛されていっていただきたいと願っております。

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静岡市清水区追分・春日神社

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フンだり蹴ったり

力石の保存
01 /23 2018
今から9年前の2011年6月、偶然、力石と遭遇しました。
さんざん歩き回って何も収穫がないことが多いけれど、
ひょいと出会うことがあるんです。

これはそんな嬉しい発見です。

力石があったのは、静岡市清水区の春日神社です。
その日は地元の歴史団体主催の歴史散歩に参加。
参加者のみなさんはガイドさんを囲んで熱心に説明を聞いています。
そしていっせいに神社の屋根や立派な石碑を見上げています。

私はというといつものクセで、地面や建物のばかりに目を向けています。
知人から「神社や寺へ来ると異様な目つきになる」と笑われていました。

その「異様な目つき」で見つけたのが、これです。
「力石」の文字がババッと眼に飛び込んできました。

小さく見えますが、タテは48㎝もあるんです。
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静岡県清水区追分・春日神社  48×33×30㎝

拝殿脇にゴミと鳥の糞にまみれてチンマリと。
うんまぁ! フンだり蹴ったりだ」って思いましたよ。

団体行動だからとその日はあきらめ、みなさんの後を追いました。
数日後、再び現地へ来てみたら、神社の屋根の修理中で、
なんと足場が力石を踏んづけていた。

重みで石が割れなきゃいいなあと心配しつつ、
寸法を測り写真を撮っていると、背後になにやら気配が…。
振り向くと、中年の女性が険しい顔で私を凝視している。
「こんにちは」と声をかけたら、慌てて逃げた。気にせず作業続行。

しばらくして、とにかく神社の総代さんを見つけなきゃと聞き込み開始。
手始めに境内に建つ社務所兼公民館の呼び鈴を押したら、
さっきの女性がドアのすき間から目だけのぞかせ、いきなりバタン!

こんなことでメゲてはいられません。
なにしろ静岡県では数少ない刻字の力石ですからね。

「片手差しの力石 嘉永四年生 鷺坂力蔵 納 鷺坂粂吉」

片手差しです。
差し上げた石が蓮の花のように見えるところから「蓮華差し」ともいいます。
「蓮の花には見えないよ」って? 腕が茎、茎の先に花。美しいじゃないですか。

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「力石ちからいし」(高島愼助)より、
右は「麻機遊水池の自然」(静岡県土木事務所)よりお借りしました。  

聞き込み続行。
垣根の切れ目から隣りへ入ると、なにやら古そうな建物が忽然と。

「追分のお不動様」、真言宗醍醐派の明王山延寿院です。
追分(おいわけ)とは、街道が分岐したところです。
寺は春日神社と背中合わせに建っていました。

創建は室町時代ごろらしいと言われていますが、
徳川将軍・四代家綱時代の寛文八年(1668)銘の鰐口が現存しているとか。

現在の建物は昭和50年に再建されたもので、
地域の方々からの浄財をもとに、
岐阜市の指定文化財建築専門家の田中繁太郎氏が手掛けたそうです。

延寿院です。県指定文化財。
CIMG4078.jpg
静岡市清水区追分

この延寿院の裏側に民家があって、
老夫婦が縁台で涼んでいたので、これ幸いと声をかけると、
なぜかおばあさんが慌てて家の中へ。
足の悪いおじいさんは動けず、そのまま硬直状態です。

怪しく見られた? 小さなリュックにカメラを持っているだけなのに。
ま、気を取り直して固まっているおじいさんに「力石…」と言ったら、
おじいさん、途端に相好を崩してしゃべりだし、おばあさんまで顔を出した。

「おお、力石かね。前は2個あったっけェが、
いかいほうは戦後、なくなっちゃった。どけェいっただら。いかかったっけよ

バッチリ静岡弁です。
かつて東京から静岡へ転居してきたとき、隣りの奥さんが
いっきゃあキュウリがなってる」と話しかけてきたので、
思わず、えっ?あっ!

「いっきゃあ」「いかい」も大きいという意味で、最後の「わ」は、
東京言葉を真似たものでした。そこまでしなくてもね。なんかセツナイ。
で、今受講している某講座の先生が昨日、いみじくも言ったんです。
静岡へ来たらみなさんがけェって言うのでびっくりしたと。

ちなみに同じ「けェ」でもお隣の山梨県では、「そうけェ」(そうですか)。
静岡では「そうかい」とか「そうかね」で、「そうけェ」とは言いません。
じゃどういう使い方かというと、例えば、
「僕らン子供時分にゃー、こんなふうに言ったっけェが」と、こんな具合。

さて、延寿院の隅にこんな石があったけど、
ひょっとしてその「いかい石」ってこれかな?
でももうこの石がそうだったのか知る人は誰もいません。

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で、おじいさんはさらに情報をくださった。
「あんなおめェもん、よく担げェたっけなァ。あれ担いだ男の家があるよ」
すっかり警戒心を解いたおばあさんが、「そこ行ってあそこ曲がって」と。

ちなみに「おめェもん」は「重いもの」のこと。

さっそく教えていただいたご子孫宅へ。
応対してくださった鷺坂さん、戸惑いつつも、
「そうです。力蔵はうちの先祖です。
でも東京から来たということしかわからないんです

それでも私は大満足。
お礼を申し上げて辞し、その足で清水中央図書館へ急いだのでありました。


<つづく>

宍粟市のような温かさを…

力石の保存
10 /07 2014
力石は、石仏や道祖神、庚申塔に比べて圧倒的に知名度が低い
石の表面に文字が刻んであれば残りやすいのですが、
無銘の石ともなると、それがどんなに多くの若者に親しまれた石であっても、
いつしか忘れられ、ただの石になっていきます。

それを惜しんで保存に乗り出すのは、地域の町内会や熱意ある個人の方々で、
静岡県の場合は、行政が保存することはほとんどありません。
また所有者個人に保存をお願いするのも、それぞれの事情もあって難しい。

まことにもって、力石は「悲運の石」でございます。

静岡市葵区の個人宅の力石です。
葵区瀬名・藤巻宅1 (1)
以前は阿弥陀堂に置かれていて、
青味がかった石なので、「堂の青石」と呼んでいたという。
版画家で郷土史家だった中川雄太郎氏は、著書の中にこう書いています。

大正から昭和の初めにかけて
青年たちが郷倉(ごうぐら。年貢米を入れた蔵)の庭や畑で相撲をよくやった。
花火を打ち上げたり他村からの飛び入りもあって、大変なにぎわいだった」

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相撲の始まりといわれる「当麻蹴速と野見宿祢」の相撲

「余興に大門の渡辺立蔵さんが米俵を口にくわえて土俵を歩き回ったり、
米俵2俵を腹の上に置き、その上に石臼を置いて餅をつくなどの力わざをみせた。
堂の青石は百㌔もあろう円い石で、青年たちが力試しの担ぎ競べをした」

阿弥陀堂が壊されたあと、石は近くのFさん宅へ引き取られた。

「力石という石であることは、亡くなった父から聞いてはいますが…」
とFさん。
ですが庭の草むらにコロンと転がっている石に、Fさんはやや困惑気味。

こちらも富士宮市淀師の個人宅の力石です。

CIMG0203.jpg

庭の物干し台の傍らに置かれていました。
「邪魔なんだよなあ。どこかで引き取ってくれたらいいんだけど」
と現当主のOさん。

「いらない」と若き当主は言い放つ 亡父の愛でし力石哀し 雨宮清子

Oさんの亡くなったお父さんの談話が残されています。

「これは江戸時代より先祖代々伝わった力石で、
近所の若い人たちが祭日とか農休み、
その他何かの行事があるときなど大勢集まり、
力くらべにこの石を持ち上げたと先代より聞いております」


Oさんとて父親の大切にしてきた石だからこそ、
今まで自宅に置いていたことでしょう。

けれど、力石の思い出など何もないOさんに、
「愛着を持って」といっても無理があります。
無理はありますが、このままでもいけません。

その答えを見事に出しているところがあります。
兵庫県宍粟市(しそうし)です。

これは宍粟市波賀町の波賀公園に保存された力石です。
chikara06.jpg

波賀城史跡公園の足下に広々とした波賀公園があります。
力石群はその公園内の「波賀文化創造センター」近くに、
写真の様に保存されています。

ここにある石は、
元の所在地のお堂が取り壊されたり離村で住民がいなくなるなどで、
力石が処分されたり放置されるのを危惧した行政が、
それらを集めて、文化センターの敷地に保存したものです。


この石の一つ一つには、石の出身村名や字名が彫られています。
「かつてはこんな村があったんだよ。
そこでは若者たちが力比べを楽しんでいたんだよ」


そんなことを、石たちが証明してくれているわけです。

行政の温かさを感じます!

力持ち大会でがんばる君もそう思いませんか?
竹原子ども力くらべ1
広島県竹原市「子ども力くらべ大会」

宍粟市に、
力石の保存の素晴らしさと、
難解市名を存続していることへのエールを送った私に、
役所の方から丁寧なお返事がきました。

「激励メール、ありがとうございます。
合併の際、宍粟市という名は、読めない、書けないから
読みやすいものに変えてほしいという意見がありましたが、
私たちはこの歴史ある地名を大事にしたい、ということでこれに決めました。
また力石は、
できるだけよい状態で後代へつなげていければ、と思っています」

本日ご紹介した静岡市、富士宮市やその他の個人所有の力石に、
また、寂れたお堂や路傍に泥まみれで放置されている力石たちに、
静岡各地の行政から宍粟市のような温かい手が差し伸べられることを、

私は切に願っています。

※参考文献/「村と伝説」「村の民俗」中川雄太郎 1965、1969
        /「淀師区誌」富士宮市淀師区長 芝切匠 平成12年

後世に伝えていく責務が自分にあると…

力石の保存
07 /31 2014
「大っきいなあ!」
眼前にドーンと広がる富士山。
山頂は天を突き、左右の裾野は優美にどこまでも地平線へ伸びている。

ここは静岡県富士市神戸(ごうど)。
「富士山を神に見立てて、その神の戸口の集落なので神戸というんです」
というのは、長年放置されていた力石を自費で保存したWさん
実直な農家のご主人です。

これが放置されていたときの力石です。
img212.jpg
長年、道路に転がしてありましたが、通行にじゃまだということで、
今度は水神さんの境内に放り込まれてしまったそうです。
これを見たWさん、「これを後世に伝えていく責務が自分にあるのではないか
そう思って、保存に向けて奔走。

神戸地域は、富士の溶岩で水が出ない。集落の人たちは常に水で苦労した。
そんな水不足を解消するために遠い水源地から樋で水を引き、
集落に水をもたらしたのがWさんの祖父だったという
Wさんの「責務」という言葉には、
そんな祖父から伝わる強い郷土愛が感じられました。

立派に保存された力石とWさんです。
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石の重さは167㌔。新たに刻字を施しました。
「力石」 「奉納 平成二十年九月吉日 神戸上町内」

「よその力石を見に行ったりね、何もわからないものだから苦労しました
「説明文は学校の先生に書いてもらいました」

「雨宮さん、これでいいんだろうかね。本当にこれでよかったんだろうかね
Wさんは私に何度もそうおっしゃるんです。
そのたびに私は胸がいっぱいになりました
「息子がね、言ってくれたんですよ。
親父、心配するな、俺が守っていくからって」

力石の保存は大変です。ましてや、個人での保存は…。
でも富士市神戸の力石は、こうして水神さんに立派に保存されました。
そしてそれを守っていくことを、息子さんが約束してくれました。幸せな力石です。

見晴るかす富士の麓の力石   高島愼助

※先日お伝えした「両国橋・謎の石」、解明されつつあります。
  お楽しみに!!                                             

春日神社の力石・その2

力石の保存
06 /25 2014
昨日の続き、静岡市清水区追分3丁目の春日神社です。

追分とは、
旧東海道より清水湊へ抜ける分岐点(追い分け)のこと。
「是より志みず道」の石の道標があります。
道標は、創業300年を誇る「追分ようかん」の店の傍らにあります。
赤いのれんが目を引きます。

ここのご主人だった府川松太郎さんが「追分今昔記」(昭和60年)の中で、
春日神社と力石のことを書いています。

力蔵さんという人は鷺坂伊三郎氏の先祖の人で、
非常に力のあった人だったと伝えられています。

戦時中、春日神社境内に鷺坂力蔵片手ざしの力石があったが、
普通の人では持ち上げることができない重量の丸い石であった。
これを片手で持ち上げたというから、驚くほどの力持ちであった」

春日神社は道路建設のため、昭和46年に現在地へ移転したそうだから、
そのとき力石も持ってきたものと思われます。
府川さんが戦時中に見た力石は今ある石と同じもので、たぶんこれです。

CIMG0118.jpg
寸法は48×33×30。重さは不明。

こんなふうに誰にも顧みられず、長い間放置されていました。
鳥にフンまで落とされています。
近所のご老人がいうには、
「子供のころは二つあった。大きい方は戦時中なくなってしまった」

そのたった一つ残された石も、その後はフンだり蹴ったりの境遇でしたが、
幸運にも神社の総代さんがこの石に関心を持たれて、
平成24年、急ピッチで保存がなされました。それが昨日の写真です。

説明板も立てられました。名文です。
なんと私の名前まで入れてくださった(赤丸のところ)。

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初春や装い新た片手差し   雨宮清子

この「片手差し」、片手に乗せた石が蓮華の花のように見える所から、
「蓮華差し」ともいいます。
またこの「かたて」の刻字のある石は珍しく、この春日神社の「片手差し」
姫路市栗山・法圓寺の「片手留」、同峰山・広峯神社の「片手止」の刻字は、
それぞれ全国で唯一のものです。

講演で熱弁をふるっている私です。新聞記事です。
寝癖のついた髪の毛が、緊張を物語っています。

img181 (2)

さて、会場にお借りしてきた力石、どういう風に運んだかというと、
二つ折りにした毛布の上に石を転がし、毛布の四隅を4人で持って運びました。

これを一人で片手で頭上高く差し上げた鷺坂力蔵さんに、完敗です。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞