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総代さんの行動力

その日私は、力蔵さんのご子孫宅から図書館へ直行。
そこで願ってもない本を見つけました。
府川松太郎さんという方が書いた「追分今昔記」です。

府川氏というのは、追分の角で「追分羊羹」を売る老舗のご主人だった人。

追分の道しるべです。
江戸時代、駿府清水湊を結んだ道です。

左へ入る小道が清水湊への道。道しるべの背後が「追分羊羹」のお店。
CIMG4086.jpg

「追分今昔記」(昭和60年。私家本)によると、
春日神社は鎌倉時代にこの辺りを支配していた入江氏の氏神だったが、
その後、追分の氏神になったもので、元は線路を越えた田んぼの中にあった。

そして、
昭和46年に持ち上がった県道建設のため、現在地へ移転したとのこと。

ということは、あの力石は神社移転と共に運ばれてきたことになります。
「いかい石」は、元の場所に置いてきたのかもしれません。

で、府川氏は本の中で「力蔵と力石」を取り上げていたのです。
そして力蔵さんのこんなエピソードも。

その頃このあたりは寂しいところでよくキツネに化かされた。
ある晩、ここを通りかかった力蔵さんは、
頭に里芋の葉っぱを載せたキツネを見た。そこで力蔵さん、
よし、逆にキツネを化かしてやろうと、川の中を歩く真似をして、
深いよォ深いよォと言いながら、キツネの周りをグルグル」

追分の狐ではありませんが、おキツネさんとおタヌキさんをお目にかけます。

CIMG1459.jpg CIMG1465.jpg
静岡市・畑守稲荷大明神のおキツネさん。右は某寺のおタヌキさん。
参拝者の目に触れないよう、秘所を隠してございます。
それを見たおキツネさん、皮肉っぽく笑っております。

力蔵さんといたずらギツネの勝負はどうなったかというと、

人間を化かしたと思いこんだキツネが油断したすきに、
力蔵さん、担いでいた天秤棒でキツネをしたたかに打った。
不意打ちを食らったキツネはコンと鳴いて闇に消えた。
さしものキツネも懲りたとみえて、その後は姿を見せなくなったとさ」

さて、力石です。
その後、私の神社惣代さん探しは難航。
個人情報保護とかで、教えていただけません。

ところが翌2012年早々、師匠の高島先生から、
「春日神社の総代さんから問い合わせが来た」との知らせです。

総代さんの話では、以前から境内にある「力石」が気になって調べていたら、
図書館で「静岡の力石」という本を見つけ、師匠へ連絡したとのこと。

総代さんは保存に動いていましたが、工事費がかかります。
氏子さんたちの説得に苦慮されている様子だったので、
私の講演へお誘いしました。

私、新聞に載っちゃいました。=静岡新聞=
img181 (2)

その日、総代さんとお二人の役員の方がお越しくださいました。

それから保存が急ピッチ。
完成したのがこちらです。

CIMG0579 (2)

立派な説明板も立てました。

CIMG0566 (2)

説明板には「静岡の力石」の紹介と、
師匠と私の名前(赤丸の中)までいれてくださった。

光栄です。

これはすべて総代さんの迅速で強大な行動力のおかげです。

こういう例は富士市今泉の愛鷹神社にもありました。
この愛鷹神社の総代さんは元富士市立図書館長だった方で、
境内に埋まっていた石が気になって調べ、
周囲を説得して保存されたとのことでした。

それがこちら
富士山の噴火の際飛び出した石もあります。さすが富士山麓の地区ですね。

CIMG0821.jpg
富士市今泉・愛鷹神社

清水区の春日神社の総代さんは保存だけではなく、
自ら民俗文化財指定の申請をされましたが、
残念ながらこちらはなりませんでした。

なにしろ旧静岡市は今まで一度も石造物の悉皆調査をしていない所で、
今後もその予定はないという。
私はこれを庶民文化軽視行政といっています。

今、計画中の歴史博物館も徳川家康一辺倒の感じで、
静岡弁でいう「やっきり」しちゃう状況です。
「ぜひ、博物館の庭に力石を置いてください」とお願いしましたが、
笑われるだけでしたもの。

くやじい~

ま、それはさておき、
春日神社の全景をご覧ください。

拝殿左に、保存された力蔵さんの力石がございます。
狛犬がお尻を向けていますが、気にしません。

旧清水市の石造物悉皆調査でも見落とされた力石ですが、
こうしてめでたくデビューできました。

末永く地域のみなさまに愛されていっていただきたいと願っております。

CIMG4084.jpg
静岡市清水区追分・春日神社

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フンだり蹴ったり

今から9年前の2011年6月、偶然、力石と遭遇しました。
さんざん歩き回って何も収穫がないことが多いけれど、
ひょいと出会うことがあるんです。

これはそんな嬉しい発見です。

力石があったのは、静岡市清水区の春日神社です。
その日は地元の歴史団体主催の歴史散歩に参加。
参加者のみなさんはガイドさんを囲んで熱心に説明を聞いています。
そしていっせいに神社の屋根や立派な石碑を見上げています。

私はというといつものクセで、地面や建物のばかりに目を向けています。
知人から「神社や寺へ来ると異様な目つきになる」と笑われていました。

その「異様な目つき」で見つけたのが、これです。
「力石」の文字がババッと眼に飛び込んできました。

小さく見えますが、タテは48㎝もあるんです。
CIMG0117.jpg
静岡県清水区追分・春日神社  48×33×30㎝

拝殿脇にゴミと鳥の糞にまみれてチンマリと。
うんまぁ! フンだり蹴ったりだ」って思いましたよ。

団体行動だからとその日はあきらめ、みなさんの後を追いました。
数日後、再び現地へ来てみたら、神社の屋根の修理中で、
なんと足場が力石を踏んづけていた。

重みで石が割れなきゃいいなあと心配しつつ、
寸法を測り写真を撮っていると、背後になにやら気配が…。
振り向くと、中年の女性が険しい顔で私を凝視している。
「こんにちは」と声をかけたら、慌てて逃げた。気にせず作業続行。

しばらくして、とにかく神社の総代さんを見つけなきゃと聞き込み開始。
手始めに境内に建つ社務所兼公民館の呼び鈴を押したら、
さっきの女性がドアのすき間から目だけのぞかせ、いきなりバタン!

こんなことでメゲてはいられません。
なにしろ静岡県では数少ない刻字の力石ですからね。

「片手差しの力石 嘉永四年生 鷺坂力蔵 納 鷺坂粂吉」

片手差しです。
差し上げた石が蓮の花のように見えるところから「蓮華差し」ともいいます。
「蓮の花には見えないよ」って? 腕が茎、茎の先に花。美しいじゃないですか。

img180.jpg img076_2018012411445283b.jpg
「力石ちからいし」(高島愼助)より、
右は「麻機遊水池の自然」(静岡県土木事務所)よりお借りしました。  

聞き込み続行。
垣根の切れ目から隣りへ入ると、なにやら古そうな建物が忽然と。

「追分のお不動様」、真言宗醍醐派の明王山延寿院です。
追分(おいわけ)とは、街道が分岐したところです。
寺は春日神社と背中合わせに建っていました。

創建は室町時代ごろらしいと言われていますが、
徳川将軍・四代家綱時代の寛文八年(1668)銘の鰐口が現存しているとか。

現在の建物は昭和50年に再建されたもので、
地域の方々からの浄財をもとに、
岐阜市の指定文化財建築専門家の田中繁太郎氏が手掛けたそうです。

延寿院です。県指定文化財。
CIMG4078.jpg
静岡市清水区追分

この延寿院の裏側に民家があって、
老夫婦が縁台で涼んでいたので、これ幸いと声をかけると、
なぜかおばあさんが慌てて家の中へ。
足の悪いおじいさんは動けず、そのまま硬直状態です。

怪しく見られた? 小さなリュックにカメラを持っているだけなのに。
ま、気を取り直して固まっているおじいさんに「力石…」と言ったら、
おじいさん、途端に相好を崩してしゃべりだし、おばあさんまで顔を出した。

「おお、力石かね。前は2個あったっけェが、
いかいほうは戦後、なくなっちゃった。どけェいっただら。いかかったっけよ

バッチリ静岡弁です。
かつて東京から静岡へ転居してきたとき、隣りの奥さんが
いっきゃあキュウリがなってる」と話しかけてきたので、
思わず、えっ?あっ!

「いっきゃあ」「いかい」も大きいという意味で、最後の「わ」は、
東京言葉を真似たものでした。そこまでしなくてもね。なんかセツナイ。
で、今受講している某講座の先生が昨日、いみじくも言ったんです。
静岡へ来たらみなさんがけェって言うのでびっくりしたと。

ちなみに同じ「けェ」でもお隣の山梨県では、「そうけェ」(そうですか)。
静岡では「そうかい」とか「そうかね」で、「そうけェ」とは言いません。
じゃどういう使い方かというと、例えば、
「僕らン子供時分にゃー、こんなふうに言ったっけェが」と、こんな具合。

さて、延寿院の隅にこんな石があったけど、
ひょっとしてその「いかい石」ってこれかな?
でももうこの石がそうだったのか知る人は誰もいません。

CIMG4080.jpg

で、おじいさんはさらに情報をくださった。
「あんなおめェもん、よく担げェたっけなァ。あれ担いだ男の家があるよ」
すっかり警戒心を解いたおばあさんが、「そこ行ってあそこ曲がって」と。

ちなみに「おめェもん」は「重いもの」のこと。

さっそく教えていただいたご子孫宅へ。
応対してくださった鷺坂さん、戸惑いつつも、
「そうです。力蔵はうちの先祖です。
でも東京から来たということしかわからないんです

それでも私は大満足。
お礼を申し上げて辞し、その足で清水中央図書館へ急いだのでありました。


<つづく>

「ありましたッ!」

「久代ですッ! ありましたッ!」

電話の向こうから柔らかくもとびきり弾んだ声。
私はこの声を何度耳にしたことか。

電話の主は静岡市清水区由比の望月久代さんです。

今から8年前、
由比地区には力石がたくさんあるのではと思った私は、
当時、由比の郷土研究グループの会員で、
会報「結愛」の編集長だった望月良英氏に思い切って電話をかけた。

見ず知らずの私からの電話に戸惑いつつも、
良英氏が即座に名前をあげたのが、郷土史家の久代さんだったのです。

もう何でも突撃。当たって砕けろ。思えばご迷惑もずいぶんおかけしました。

久代さんの新発見第一報の力石がこちらです。
CIMG1192.jpg
静岡市清水区東山寺大門・大門薬師堂

久代さんはご主人と家業のみかん農家を営みながら、
長年、幼稚園の園長先生を務め、
また、静岡市との合併前の旧由比町時代には、
文化財保護審議会の委員として文化財の保護活動に携わった方です。

この大門薬師堂の力石は、私が電話をした前年の平成21年
久代さんはすでに先人が書き残した冊子から見つけていました。

上の写真は境内に埋まっていたものを相撲の土俵上に並べたところです。

平成22年11月、私は師匠の高島先生と薬師堂を再訪。
そのとき、地元の松永宝蔵氏が描いた力比べの絵もいただきました。

平成23年
地区をあげての「力石の重さ当てイベント」が行われました。
一番重いのは135㎏、最軽量は35㎏。ぴったり賞の主婦は米10㎏ゲット。

CIMG0011 (2)

それから3年後の平成26年9月、
地区の人たちの手で力石は新しい居場所を与えられ、永久保存されたのです。

昔の人はこれを担ぎましたが、今はこうしてクレーンのお世話に。
img883 (2)
「東山寺の歴史」(望月久代著)より

法印さんのご祈祷も。

img883 (3)
同上。

平成27年3月、
久代さんはご主人と共に説明板を寄贈

それから間もなく、電話の向うからいつもの優しく弾んだ声。
きれいにできましたから、見にきてくださいッ!」

ありがとう、久代さん! 
早速駆けつけたことは言うまでもありません。

「写真撮ってもいいですか? ブログに載せてもいいですか?」
「うふっ! どうぞッ!」

下の写真は、
薬師堂と隣接する東山神社との入口に保存された力石と久代さんです。
この一帯は古い歴史を持つ地域で、この東山神社も、
かつて存在した東山寺という古刹の鎮守だったそうです。
ちなみにこの東山寺は和銅年間(708~715)創建と伝えられています。

そして私が一番驚いたのは、
今も地区の方たちが当番制で神社に毎朝、お灯明をあげていることです。
365日、一日も欠かしたことがないそうです。
数百年以上、ひょっとしたら千年以上、
この神聖な火を絶やさずにきたなんて、凄いことですよね。

力石保存場所・説明板の右側に東山神社の石段があります。
CIMG2742.jpg

ここ大門薬師堂の力石は、久代さんが初めて見つけた力石で、
その発見から6年の歳月をかけて、熱心に地元の方々を説得。
そして見事に保存されたのです。

あの穏やかなお顔からは想像もできない粘り強さです。

現在、確認されている旧由比町の力石は全部で25個。
そのすべてを久代さんが見つけてくださったのです。

現在は郷土史研究や俳句を創りながら、
観光や美術館ボランティア、更生保護女性会委員を務めるなど
相変わらず多忙な日々を送られています。

気負わず、威張らず、自然体で人とも力石とも郷土とも向き合い、
しかし、その粘り強さで着実に成果をあげていった久代さん。
私にとって貴重な、そしてまたとない素敵な出会いでした。

これも久代さんが見つけた力石です。
CIMG0033 (2)
静岡市清水区由比阿僧・瘤山観音堂

ちょっと寂しい光景ですが、こうして力石の存在を掘り起こしたことで、
昔の青年たちの力比べの歴史が、地元の方々へ確実に伝えられていったと、
私は信じています。


   =朗報です=

前々回お伝えした野田市今上下・八幡神社の「万治石」と、
愛宕神社で動きがありました。
次回、詳細をお伝えします。


<つづく>

協力者のパワー

昨年暮れ、野田市役所から「万治石」についての電話を頂戴した折り、
役所の方がこうおっしゃった。

「しかし、この力石は神社所有なので役所で保存に動くことはできません。
それで神社の宮司さんに、
これは大変貴重な石なのでぜひ保存を、とお願いしたところ、
早速、氏子さんたちに話して善処したいと言っていました」

そうなんです。
時々「役所に保存をお願いしたのに何もしてくれない」という話を聞きますが、
保存は所有者がするものなんです。

私が関わった保存の話、2、3 お聞きください。
すでにこのブログでご紹介してきましたが、再度…。

一番早い保存は5年前の2013年の、
静岡県富士宮市大晦日(おおづもり)の力石です。

最初はこんなふうに放置されていました。この峠の向うは山梨県です。
CIMG0529.jpg

2個あります。
5個あったそうですが、右の石垣に使ってしまったとか。

この石の発見と保存に至るまで、10数人の方がご協力くださったのです。
石の所在地はバスも通らない山のテッペンだったので、
いつも協力者のご夫婦が半日がかりで車で連れて行ってくださって…。

最初は私の講演を聞いたこのご夫婦が力石に興味を持ってくださり、
それを知り合いの方に話したら、力石なら実家にもあるよ、と。
案内されて行ってみたら、写真のような状態で置かれていました。

このことはすぐ、その方の兄でご当主の望月氏へと伝えられました。
それから間もなく、「よし、保存しよう」となったのです。
秋祭りに懇意にしている石屋さんに引き合わせるから来てくれという。

秋祭りとは大晦日集落の氏神さま、芭蕉天神宮のお祭りです。
この日ばかりは山上に子供太鼓が鳴り響き、露店も出て大にぎわいです。
そんな中私は、他県の保存写真を持参して石屋さんにお会いしました。

それから半年後、協力者のお一人から電話がきました。
「雨宮さん、喜んでくれ。出来たぞ! 立派なものが」

これです。見事に保存された力石、どうぞご覧ください。

CIMG0620_201801041254434eb.jpg

この保存は石屋さんが、望月氏への恩返しをこめて無償で設置。
「力石は初めて知りました。石屋としていい仕事をさせてもらいました」と。

ほんの半年前まで、私はご協力いただいたみなさんとは面識もなかったのに、
それをここまでしてくださった。もうなんといったらいいのか。

石屋さんです。
CIMG0613.jpg

このことから、同集落の方の家にご自分が使った石があることも判明。
新たに3個の発見につながりました。

石を保存した場所にはかつて青年集会所があって、
その広場が力比べの場所だったそうです。石はそのときのものでした。
広場にある大カヤの木は対岸の集落からもよく見えて、
青年たちはその木を目指して集まったそうです。

また、昭和50年代まで力比べをしていたとのことで、
多くの方から体験談を聞くことも出来ました。

市の文化財保護審議会へ民俗文化財の申請を、と勧めたら、
望月氏は「そうなればいいなあ。それまでがんばって生きる」と。

代々この集落を守ってこられたご当主の望月ご夫妻です。
CIMG0611.jpg

それ以降私は、
芭蕉天神宮の春と秋のお祭りには、一升ビン持参で参拝。

そんな私に会うたびに、望月氏は「文化財はまだかねえ」と。
でも残念ながら、それは実現しませんでした。
それから間もなく、ご当主は天寿を全うされて黄泉路へ。

その亡き夫の墓前に正座して、
寒風の中、残された奥さまが切々と歌った「武田節」。

♪ 祖霊ましますこの山河 
   敵に踏ませてなるものか
   人は石垣 人は城


私は涙が止まらなくなりました。今でも耳に蘇ります。

そのころの富士宮市は、
「富士山世界文化遺産」で、それどころではなかったのだと思いますが、
後日、若い学芸員のお二人に、
力石の話をゆっくり聞いていただく機会を与えていただきました。

望月一族が守ってきた芭蕉天神宮です。
杉林の山道をクネクネ登って行くと、忽然と現れる「天空の社」です。

CIMG0510 (2)

超がつくほどの限界集落ですが、力石は望月氏亡き後も芭蕉天神宮と共に、
ご子孫と周辺集落の方々の手でしっかり守られております。


<つづく>

宍粟市のような温かさを…

力石は、石仏や道祖神、庚申塔に比べて圧倒的に知名度が低い
石の表面に文字が刻んであれば残りやすいのですが、
無銘の石ともなると、それがどんなに多くの若者に親しまれた石であっても、
いつしか忘れられ、ただの石になっていきます。

それを惜しんで保存に乗り出すのは、地域の町内会や熱意ある個人の方々で、
静岡県の場合は、行政が保存することはほとんどありません。
また所有者個人に保存をお願いするのも、それぞれの事情もあって難しい。

まことにもって、力石は「悲運の石」でございます。

静岡市葵区の個人宅の力石です。
葵区瀬名・藤巻宅1 (1)

以前は阿弥陀堂に置かれていて、
青味がかった石なので、「堂の青石」と呼んでいたという。
版画家で郷土史家だった中川雄太郎氏は、著書の中にこう書いています。

大正から昭和の初めにかけて
青年たちが郷倉(ごうぐら。年貢米を入れた蔵)の庭や畑で相撲をよくやった。
花火を打ち上げたり他村からの飛び入りもあって、大変なにぎわいだった」
img338.jpg
相撲の始まりといわれる「当麻蹴速と野見宿祢」の相撲

「余興に大門の渡辺立蔵さんが米俵を口にくわえて土俵を歩き回ったり、
米俵2俵を腹の上に置き、その上に石臼を置いて餅をつくなどの力わざをみせた。
堂の青石は百㌔もあろう円い石で、青年たちが力試しの担ぎ競べをした」

阿弥陀堂が壊されたあと、石は近くのFさん宅へ引き取られた。
「力石という石であることは、亡くなった父から聞いてはいますが…」
庭の草むらにコロンと転がっている石に、Fさんはやや困惑気味。

こちらも富士宮市淀師の個人宅の力石です。
CIMG0203.jpg
庭の物干し台の傍らに置かれていました。
「邪魔なんだよなあ。どこかで引き取ってくれたらいいんだけど」と現当主のOさん。

「いらない」と若き当主は言い放つ 亡父の愛でし力石哀し
                                            
                                           雨宮清子
Oさんの亡くなったお父さんの談話が残されています。

「これは江戸時代より先祖代々伝わった力石で、
近所の若い人たちが祭日とか農休み、
その他何かの行事があるときなど大勢集まり、
力くらべにこの石を持ち上げたと先代より聞いております」

Oさんとて父親の大切にしてきた石だからこそ、
今まで自宅に置いていたことでしょう。
けれど、力石の思い出など何もないOさんに、「愛着を持って」といっても
無理があります。無理はありますが、このままでもいけません。

その答えを見事に出しているところがあります。
兵庫県宍粟市(しそうし)です。

これは宍粟市波賀町の波賀公園に保存された力石です。
chikara06.jpg
波賀城史跡公園の足下に広々とした波賀公園があります。
力石群はその公園内の「波賀文化創造センター」近くに、
写真の様に保存されています。

ここにある石は
元の所在地のお堂が取り壊されたり離村で住民がいなくなるなどで、
力石が処分されたり放置されるのを危惧した行政が、
それらを集めて、文化センターの敷地に保存したものです。

この石の一つ一つには、石の出身村名や字名が彫られています。
「かつてはこんな村があったんだよ。そこでは若者たちが力比べを楽しんでいたんだよ」
そんなことを、石たちが証明してくれているわけです。

行政の温かさを感じます!

力持ち大会でがんばる君もそう思いませんか?
竹原子ども力くらべ1
広島県竹原市「子ども力くらべ大会」

宍粟市に、
力石の保存の素晴らしさと難解市名を存続していることへのエールを送った私に、
役所の方から丁寧なお返事がきました。

「激励メール、ありがとうございます。
合併の際、宍粟市という名は、
読めない、書けないから読みやすいものに変えてほしいという意見がありましたが、
私たちはこの歴史ある地名を大事にしたい、ということでこれに決めました。
また力石はできるだけよい状態で後代へつなげていければ、と思っています」

本日ご紹介した静岡市、富士宮市やその他の個人所有の力石に、
また、寂れたお堂や路傍に泥まみれで放置されている力石たちに、
静岡各地の行政から宍粟市のような温かい手が差し伸べられることを、

私は切に願っています。



※参考文献/「村と伝説」「村の民俗」中川雄太郎 1965、1969
        /「淀師区誌」富士宮市淀師区長 芝切匠 平成12年
 画像提供/「大和名所図会 巻之三」
        /竹原市子ども力大会の画像。高島愼助教授


 

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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