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おシけぇなすって!

本年はこの人で〆たいと思います。

埼玉の研究者、斎藤氏。

今年も全力で支えていただきました。

力石の新発見では抜きんでた才能の持ち主です。
そして、10月28日にまたまた新発見。

これです。
IMG_9075.jpg
埼玉県北葛飾郡杉戸町・永福寺地蔵堂脇

下はそのときの記事です。

「ビビッとX波が…」

ところが、です。

次にいただいたメールで、潔く敗北宣言
と同時に送られてきたのが、杉戸町の広報紙「Sugito」です。

これです。10、11月の両号でこの力石を取り上げていました。
img20191226_09253036 (2) img20191226_11104270 (2)

つまりこの石は、斎藤氏が見つける1か月半も前に、
すでに地元の方によって発見されていたのです。

ありゃー。

広報紙に掲載された第一発見者(右)と協力者のみなさんです。
地元の方が見つけてみんなで保存に動いた、一番いい形ですね。
img20191226_09272715 (3)
「Sugito」11令和元年(2019)NO.614よりお借りしました。

でもこれでめげる斎藤氏ではありません。
ならばと、
この石に刻まれていた「幸手久㐂町 紙屋 忠治郎」に注目。

ここから斎藤氏の新たな探求が始まりました。

この忠治郎、
江戸・文政期の大物「万屋金蔵」と共演していたことが判明。

渡辺崋山蜀山人にもひいきにされた万屋金蔵との共演ですから、
この忠治郎もかなりの大物です。

ひょっとして忠治郎は江戸の力持ちかと思ったものの、
「久㐂町」とあるので、
久喜町の紙屋の経営者か従業員だったはずと推理。

で、こんなものを見つけました。
紙屋 (2)
明治35年「埼玉県営業便覧」

このことから、
久喜町の「紙屋」は岩間姓とわかりました。

さらに、昭和6年(1931)の「幸手町勢要欄」(下の画像)で、
「岩間金物店」(黄色〇)、その下に「岩間忠一」店(青色〇)を発見。

この2軒は本家と分家で、
分家の「増之助」店は紙屋から金物屋になりのちに廃業。
本家の「忠一」店は生活雑貨の店として今も存在。

忠一の孫にあたる現・ご当主の話では、
万屋金蔵と紙屋忠治郎共演の力石がある雷電神社には、
曽祖父庄五郎の名を刻んだ手水鉢や記念碑があるという。

斎藤氏、色めき立ちますが、本家の過去帳は菩提寺の火災で焼けて、
たどれるのは慶応までと聞いてがっくり。

どうしたら忠治郎がいた文政時代の紙屋にたどり着けるのか、
斎藤氏の探求はまだまだ続きます。

昭和6年の「幸手町勢要覧」です。
幸手 (2)

さて、この「要覧」を見ていた私、
「福田屋旅館 久保田信一」(赤丸)にくぎ付けになりました。

「久保田信一」とは、私の義理の伯父にあたる人なんです。
つまり伯母の夫。こんなところに名前が…。

斎藤氏によると、この人の名は幸手駅東口の記念碑にも刻まれているとか。

なにしろ祖父は妻を3人娶り、総勢10数人の子をもうけた人なので、
そのしんがりの父の、そのまたしんがりに生まれた私には、
話に聞いただけの伯父伯母ばかり。

それにしても「紙屋忠治郎」探索の途中で、私の縁者が見つかるなんて。

で、斎藤氏、この年末に吠えましたよ。

「たかが力石、されど力石。
 ガンガン歴史が広がっていくのがたまらない!」


絶好調の斎藤氏にブログへの顔出しをお願いしたら、
「これなら」とOKしてくれたのが、ニセ寅さんとのツーショットです。

顔出しは断固拒否の斎藤氏でしたが、大の寅さんファンですからね。

寅さんの力は偉大です。

IMG_9248 (002)
東京・葛飾柴又帝釈天となりの「寅さんサミット」にて。2019年

たちまちいつもの陽気なおじさんに戻って、

「おシけぇなすって! 
 こちとら力石は、タイムカプセルでごザんす」


はぁ?
IMG_9290 (002)

本年も石の話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
どうぞ、よいお年を!


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この石に光を

今年もいろいろなことがありました。

ブログが三重県総合博物館へ収蔵されたこと。
万治石保存式典に招んでいただいたこと。

そして、なによりも嬉しかったのは、
力石の調査に精力的に取り組んでいらっしゃる方の出現です。

どうやら「力石病」に罹患してしまったようで…。
この病い、感染力は弱いけど一度かかったら完治は難しいです(笑)

とにかく写真が素晴らしい。だから力石も引き立ちます。

そんな「へいへいさん」のブログから2点、ご紹介します。

埼玉県は日本最多の力石保有県です。
当然、過去から現在まで研究者がたくさんいました。

だから、もう新発見はないだろうと思われていたのに、
へいへいさん、見つけてしまったんです。

こちらです。
へいへいさん圓福寺

寺の本堂の横に無造作に置かれた石の一つだったとか。

「奉納 三十二メ 御寶前 東京新𣘺 
              施主 鈴木源十」


発見場所の寺です。
寺圓福
埼玉県比企郡川島町・圓福寺

詳しくは以下をご覧ください。

「力石がいっぱいだぁ~」


このお寺、境内を整備中でしょうか。
せっかくの新発見。
このままその他大勢の石にされてしまいそうで心配です。

二つ目をご紹介します。

どこの地域でも、大切に保存された力石もあれば、
草むらや道端にただ転がされているものもあります。

下の記事はへいへいさんが、
「もったいない、もったいない」
心を痛めつつ記録した一つです。

「土留の力石」

それもそのはず。
粗末に扱われていたのは三ノ宮卯之助石でしたから。

卯之助石はこの中にあります。
石卯之助
埼玉県さいたま市岩槻区新方須賀・香取稲荷神社

こちらはさいたま市在住の酒井正氏が描いた同じ場所です。
酒井氏は写真ではなく、すべてスケッチで残しています。

img20191225_10515430 (2)

力石研究者ならだれもが憧れる三ノ宮卯之助の石が、
ここでは土留石にされていたんです。

「奉納 三十貫目 須賀村 三野宮卯之助指之」

本当にもったいないですね。

実はここにはあと2個、刻字の力石があります。

これです。
img20191225_10515430 (3)
42余×48×34㎝       54余×42×35㎝

下は三野宮卯之助の力石です。

左が酒井氏の2005年以前のスケッチ。
右はへいへいさんが今年撮影した卯之助石です。

img20191225_10515430 (4) 05DSC_1740.jpg
54×42余×25余㎝

へいへいさん、記事の最後にこんな言葉を綴っています。

「さいたま市教育委員会のみなさま、
この石に光をあててください」

これは力石に携わるみんなの願いでもあります。


※参考文献・画像提供/ブログ「へいへいのスタジオ2010」
          /「さいたま市の力石」高島愼助・酒井正 
            岩田書院 2005


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遺跡から出土した力石

力石が体育史学の中で取り上げられたのは、
昭和27年、当時の東京教育大学の太田義一教授が
第3回日本体育学会において発表したのが最初だといわれています。
つまり、日本の力石研究は、体育史学の分野から始まったというわけです。

その力石に、考古学の立場から取り組んでいる人がいます。
静岡県埋蔵文化財センターの岩本 貴氏です。

2005年、伊豆半島の付け根にあたる静岡県田方郡函南町の「仁田館遺跡」」から
「二十四メ」の切付(刻字)のある力石が発掘されました。
img191.jpgimg192.jpg
60.8×28.0×29.6㌢ 86㌔ 楕円形の礫

岩本氏は言う。
「尺貫法換算のほぼ24貫に近い重量があり、
切付が重量を示しているとみてほぼ間違いないこと、同種の切付はいわゆる
力石以外に想定しにくいことから本資料は、力石と断定できる

この仁田館遺跡は、狩野川支流の来光川沿いにあります
建物の年代は、推定18世紀後半から19世紀前半。
ここは、源頼朝の家臣、あの曽我十郎を討ち取った仁田忠常の地です。
今もご子孫がお住まいです。鎌倉時代から連綿と続いているなんてすごいですね。

明治前半に撮影されたと推定される仁田館の母屋
礎石の配置などから、この建物と判断された。
img190 (2)
力石は母屋の南東隅柱の基礎材に転用されていたそうです。

この仁田館遺跡からは、法華経を写経した「こけら経」(867枚)も出土しています。
500年も地下に眠っていたそうです。
img194.jpg
静岡県指定文化財。

岩本氏によると、今までに全国の遺跡から出土した切付のある力石は
民家、地元名士宅の母屋=仁田館、城郭天守(2個)、
町屋石階段基礎の4例(5個)。
建物規模、身分階層に一貫性は認めがたく、
柱を支える礎石というような建物基礎材に転用という共通点が認められたという。

研究の対象外に置かれてきた力石に目を止め、
「こうした考古学・埋蔵文化財の発掘調査が提供する情報は、
力石研究に新たな視点を与えられるのではないか」
と発言した考古学者は、岩本氏が初めてではないでしょうか。

歴史、民俗学、体育史学、考古学、
いろんな分野の方がいろんな角度から、この力石を研究してくださったなら、
力石ももっと豊かなものになるだろうと私は思います。


※仁田館遺跡出土の力石は、現在、菊川市の小笠保管庫(小笠高校内)に保管。
※資料・写真等/第17号「研究紀要」
  「力石の考古学的検討~函南町仁田館遺跡出土「力石」の紹介を兼ねて~」 
  岩本 貴  静岡県埋蔵文化財調査研究所(現・静岡県埋蔵文化財センター) 
  2011




研究者・高島愼助・四日市大学教授

谷口 優・四日市大学教授はいう。

高島先生の”力石行脚”が、我を悟る為の内観の旅から始まったかどうかは、
私は未だ聞いていない。だが真摯に、ひたむきに、殉教者の様に
日本全土の力石を探ねるエネルギーの背景には、
先生の敬虔な自己探求性”内観の旅”をイメージするのである」

平成5年、高島先生の師、伊東 明・上智大学名誉教授が亡くなられた。
ご遺族は残された膨大な資料を、この最後の弟子に託された。
そこから高島先生の力石行脚が始まります。

調査中の先生です。
CIMG0096.jpg

  シュラフ積みヤドカリの旅力石(いし)を追い
                                   高島愼助

谷口優先生に絶えず「尻を蹴飛ばされながら」、軽自動車にシュラフを積んで、
北海道から沖縄まで、ただひたすら…。
その成果を都道府県別に本にまとめ
さらに力士たちを紹介した「石に挑んだ男達」
総論としての「力石ちからいし」などを出版しました。

高島先生です。
DSCF0013.jpg

ユニークなのは、全国から力石を詠んだ俳句や短歌、川柳、スケッチなどを集め、
それを本にしていることです。この「力石を詠む」シリーズは、7冊目となりました。

今年2月の埼玉県越谷市中央市民会館での講演です。
日本一の力持ち、三ノ宮卯之助の力石6個が、
市指定の有形文化財・歴史資料になった、その記念講演です。
CIMG1087.jpg

私も駆けつけました。
埼玉在住の調査研究者3名も顔を揃えました。
この方々のことはまた改めてご紹介します。

そして、コレ、先生の密かな楽しみ、「伊勢型紙」です。
伊勢型紙とは、三重県鈴鹿市白子の伝統工芸です。
柿渋で張り合わせた和紙を細かく彫って、着物の文様などの染色に使うそうです。
先生はこの伊勢型紙の技法で、
広重の「東海道五十三次」を
二年がかりで完成させました。

これはそのうちの「原 朝之富士」。
tokaido14.jpg

姫路市出身。学生時代は体操選手。医学博士にして力石研究者。
「郷土および庶民の文化遺産”力石”について」
で毎日郷土提言賞三重県優秀賞受賞。

 
 ひとひらのはなびらふわりちからいし
                              高島愼助




研究者・伊東 明上智大学名誉教授

平成5年に亡くなるまで、力石の研究に尽力された上智大学名誉教授、
伊東 明先生をご紹介します。
ご専門の「体育史学」の立場から、力石に光をあてられた方です。
先生の残された資料は、青森県から沖縄県にまで及びます。

伊東 明先生です。
img055 (2)
写真提供/高島愼助・四日市大学教授

「力石は、ほとんどの全国各地の神社仏寺などの境内で見かけることができる。
それでありながら、文献資料としては番附などを除いて全くないし、
規則ややり方に関するものも皆無に等しい」

という状況の中で、先生は、
「大石を高く持ちあげて群がる敵に投げつける大力無双の豪傑物語
といういわゆる伝説上の力持ちから掘り起こし、
東京都江東区の志演神社内にある寛文4(1664)年の切り付け(刻字)の石が、
刻字の力石としては、都内で最古のものであることを突き止めます。

「力石による力持ちの最盛期は江戸中期から明治初年
「演技の様式も一応決まり、神社の神賑わしの行事、花相撲の余興、
大都市では曲俵、曲持ちなどを加えて、力持ちの興行として行われるようになった」
農山漁村の若者たちによる力石は、都会の興行化とは異なり、
生活に密着して発達した」
と述べています。

東京都江東区・亀戸天神社の力石と伊東先生のスケッチです。
CIMG0869 (3)img184 (2)

写真とスケッチは違う力石です。
伊東先生は、1988年当時、亀戸天神社で4個の力石を発見していますが、
その後新たに2個見つかり、現在では6個保存されています。
写真の力石は新たに見つかった石の一つです。

そして写真の石は文化9年に、またスケッチの石は寛政8年に亀戸天神社に
奉納されたものです。そのどちらにも名前が刻まれているのは、
石の平蔵と異名をとった「八丁堀亀嶌平蔵」です。

こちらは熱海市上多賀・多賀神社の力石です。
img185 (2)
寸法は53×32×24㌢

伊東先生が、昭和54年7月に調査したときのスケッチです。
「若衆力石」と墨書があります。

ところが昨年、再調査したときには、
この力石はすでに行方が分からなくなっていました。
まだどこかにあるのではないかという淡い期待と寂しい思いを抱きながら、
神社を後にしました。

資料/上智大学研究紀要。伊東 明。1968年、1988年。






プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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