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愛される力石に

力石
05 /03 2020
前回のブログ記事(2020・4・29)「力石に想いを込めて」に、
「へいへいさん」撮影の氷川神社の力石を掲載したところ、

埼玉の研究者・斎藤氏からこんなメッセージを頂戴しました。

「へいへいさんの現状写真を見て、
懐かしく、そして嬉しく思いました」

ここ氷川神社の力石は、ちょっと見ぬ間に、
「出世魚」ならぬ「出世石」に大変貌を遂げていたのです。

そこでこの力石の、現在に至るまでの変遷をたどってみました。

まずは、
2005年9月発行の「さいたま市の力石」に掲載された
酒井正氏のスケッチからご覧ください。

img20200502_09244961 (2)
埼玉県さいたま市西区島根・氷川神社

酒井さんが見たころは、草むらに埋もれていました。

これをたとえて言えば、

出世魚のブリなら「ワカシ」の時代。
昔あった若者組の組織なら「小若衆」の時代。

それから9年後の2014年5月
斎藤氏が訪れたときはこんなふうになっていました。

1島根氷川神社

草むらからお日さまを拝める場所に出てきました。

出世魚なら「イナダ」の時代。
若者組なら「中若衆」の時代。

立派に保存された写真を見た斎藤氏、

「当時、氏子や関係者のみなさんが、「ああでもねぇ」「こうしたら?」
などと議論を重ねていた様子が浮かんできて…」と。

3島根氷川神社

それから1年2か月後の2015年9月には、大きな変化が…。

こちらは俳人で医師の五島高資氏の撮影です。

力石が起き上がりました。
足元をコンクリートで固めて仲良く寄り添わせ、立札も立てました。

出世魚なら「ワラサ」の時代。
若者組なら「大若衆」の時代。

神社五島撮影氷川

そして今年2020年4月
へいへいさんが訪れたときは、さらに進化していました。

しめ縄もかけられて、神々しくなっています。
おみくじがすごいですね。
おおぜいの若者たちが恋の願掛けに訪れているようです。

出世魚なら出世の頂点、「ブリ」
若者組なら誰もが一目置く「組頭(くみがしら)」

神社へいへい氷川

いかがでしたか?

酒井氏のスケッチから15年。
斎藤氏の写真から6年。
五島氏の写真から5年。

そしてへいへいさんの写真の今。

ただの石ころが見事な出世を遂げました。

でも、「ブリ」や「組頭」というよりも、こう言った方がふさわしいですね。

「みなさまに愛される力石に生まれ変わりました」

斎藤氏、万感の思いを込めて、

「氏子や関係者のみなさん、ありがとう」


※参考ブログ/五島高資氏の「力石を詠む」
        /へいへいさんの「へいへいのスタジオ2010」
※参考文献/「さいたま市の力石」高島愼助 酒井正 岩田書院 2005


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「馬」のあれこれ③

力石
07 /11 2016
もう誰も通らなくなった峠道に、今も立ち続けている馬頭観音さん。

草に埋もれながら手を合わせ、来るあてもない旅人たちの安全を
一人ぼっちで祈っている、切ないけれど決して惨めなわけじゃない。

こちらは町に残った馬頭さんです。
摩耗していますが、消防分団の駐車場に保存されています。

野の仏も町の仏も祈りの心は同じです。

CIMG1115 (2)
静岡市

この馬頭さんの造立は天保年間。
北村、東村、羽高村と刻まれていますから、
元はこの3つの村境にあったものと思われます。

こちらは文字だけの馬頭観音(左)です。
右の石碑はこの先にある「平沢観音」への道しるべ
CIMG1304 (2)
静岡市

馬との暮らしが絶えて久しくなりましたが、
今もその痕跡がこうして存在しているのは、
いいことだなあと私は思うのです。

学校の行き帰りに子供たちはここを通ります。
全く関心を持たなくても、記憶のひだのどこかに刻まれるはずです。
その記憶が後年、必ず蘇えります。
私自身がそうでしたから。

長野県野辺山の「大馬頭冠像」
img088.jpg
画/酒井 正氏

人生の終盤に入り始めたころ、ふと馬頭観音さんが目に止まりました。
そのとき、まざまざと浮かんできた遠い記憶がありました。
「馬力屋のトメさん」です。

長い坂道を馬のひづめだけがカッカッと闇夜に響きます。

戸を開けると、馬がただ一人でまっすぐ登ってきました。
荷車の空の荷台には、
泥酔して前後不覚のトメさんが大の字に伸びています。
母が言いました。
「馬は利口だから、ああしてトメさんを家まで連れて帰るんだよ」

それから間もなく、
田舎でも車の所有が増えて、馬力運送業のトメさんは廃業
あのときの馬はどうなったのかはわかりません。

こちらは練馬区大泉学園町に残る
「力持ち惣兵衛さんの馬頭観音」です。
練馬区登録有形民俗文化財。
惣兵衛の力石
提供/高島愼助四日市大学教授

正面に「馬頭観世音」
両脇に「當知是處 即是道場」
 (まさにここ すなわちこれ どうじょうとしるべし)

「天保十一庚子天 九月日 加藤惣兵衛七十六秤目」

七十六秤目(はかりめ)」とあるので、力石であることがわかります。

実はこれ、惣兵衛さんが建てた馬の墓石なんです。
この石にはこんな話が伝わっています。

ある日、惣兵衛さんは武家屋敷の主人から、
「この大石を持ち上げられたら差しあげましょう」と言われて挑戦。
見事に担ぎあげます。

約束どうり石を貰い受け、愛馬の背中に乗せて家路を急ぎました。
ようやく家の近くまで来た時、
馬は石の重さに耐え切れず、そのまま押しつぶされて息絶えてしまいました。
惣兵衛さんは泣く泣く馬を葬り、この石を墓標にしたということです。

<ムチャしたものですねえ。

自分を押しつぶした石が墓石になって、自分を圧し続けるってのも
なんだかなあ。
それがまた文化財になったというのも、
お馬さんにとっては複雑な心境だろうなあ。

こちらは馬頭さんではありませんが、馬の絵が刻まれた珍しい力石です。

矢口馬の絵千葉
千葉県山武郡大網白里町(現・大網白里市)・矢口神社

躍動感あふれるお馬さんです。
この石に刻まれた「今井久吉」さんも、
トメさんのように、馬と関わって生きてきた人なのかもしれません。

秋風に馬の絵踊る力石  高島愼助

※参考資料・画像提供/「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003
           /「力石・ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011
※画像提供/「郷土の石佛・写生行脚一期一会」酒井正 私家本 平成22年

「馬」のあれこれ②

力石
07 /04 2016
前回、卍を刻んだ顔らしきものを胸から出している
謎の「馬頭」さんをご紹介しました。

静岡県伊東市にはこんな馬頭さんもいらっしゃいます。
観音様におんぶ、というより背後霊みたいにのしかかっています。

img083.jpg
静岡県伊東市・弘誓寺の無縁墓地
「伊東ー石佛石神誌」伊東市立伊東図書館 平成12年より

力石にも「馬」を刻字したものがあります。
場所は東京都墨田区の牛嶋神社
その昔は「牛御前社(うしごぜんしゃ)「牛の御前(みまえ)といいました。

ここです。奈良・大神神社と同じ三つ鳥居です。
CIMG0938 (2)

こちらは、
「新撰東京名所図会」=風俗画報 明治30年=に描かれた牛嶋神社です。
img085.jpg

左が隅田川。桜の名所でした。
黄色の丸が本殿。赤丸の中に牛が描かれています。

その撫で牛さんは今も健在です。
CIMG0940.jpg

なぜか赤いよだれ掛けをかけています。

ちなみに、
地蔵さんによだれ掛けをかけるのは、
死んだ我が子の匂いを地蔵さんに知ってもらうためで、
「この匂いのする幼子が賽の河原で泣いていたら、どうかお救いください」
と願った哀しく切ない親心がこめられているんです。

ここの牛さんのはどういう意味があるのでしょうか。
よだれに薬効があるとか。

また、牛がいるからといって、天神さんではないみたいです。
「牛は大人(うし)または主(ぬし)の借字」とか。

青丸のところに石碑が描かれています。
いま、このあたりに力石が集められていますが、
残念ながら、とても「保存」とは言い難い状態です。

CIMG0926 (2)

ここには江戸力持ちが持った9個の力石があります。
酒問屋・内田屋の金蔵八丁堀・亀嶋平蔵などの有名人がずらり。

この神社をブログに載せる方はたくさんいても、三つ鳥居や撫で牛ばかり。
まあこの状態では力石に目が向かないのも無理はありません。

コンクリートで固められてただの残骸と化しています。泣けてきます。
CIMG0935.jpg

「馬石」に至ってはめり込んじゃってます。
CIMG0928 (2)
105×36×36㎝

「奉納 馬石 西川岸 清治郎 八丁堀 平蔵」

馬頭さんではありませんが、馬ヅラのように長い石です。

1986に伊東明上智大学名誉教授が描いた「馬石」です。

img084.jpg
「東京都墨田区内の力石の調査・研究」伊東明 1986 上智大学紀要

保存は今ひとつですが、嬉しかったことがあります。
若い巫女さんに力石の場所を聞いたら、即座に「はい。あそこです」と。
ちゃんと力石をご存知だったのです。

牛の御前さま。改めて申し上げます。

これだけの文化財的力石をお持ちですから、
今度改築するときには、ぜひ、それなりに美しく保存していただけたら、

江戸の華が「モオー」ひとつ開きます。


「馬」のあれこれ①

力石
07 /01 2016
ふと、開いた10年前の調査ノート。

そうそう、
石仏ドロボーに間違われて、
おまわりさんが茶畑から監視していたこともあったっけ。

とまあ、しばし回想。

さて、ただ今「聞か猿トリオ」の謎解きの途中ですが、
もう一つ、みなさまのお知恵拝借。

この写真の石仏です。
持ち主の方は「馬頭観音さんです」とおっしゃっていました。

CIMG1181 (9)
静岡市 

クローズアップするとこんな感じ。
一面六臂。持物(じもつ)は確かに馬頭さんです。

CIMG1181 (2)

上部に光明真言の梵字おん梵字(おん)が刻まれています。

右に、元治元□□開基□□
左に、二月十七日 施主 南村 大沼茂大夫

十七日と日付がはっきりと刻まれていますが、これは何かなあ?
建立者の特別の日なのでしょうか。

お顔です。ものすごく優しく穏やか。馬頭はどこにもありません。

CIMG1181 (5)

私が一番、ハッとしたのは胸の部分です。
広げた胸から顔のようなものを出しています。

馬の頭かなとも思いましたがわかりません。
吉祥印の卍(まんじ)が刻まれています。

CIMG1181 (8)

優しさの中に、得体のしれない凄みを感じます。

昔の峠道の登り口に立ち尽くして、すでに150年余り。

やっぱり、馬頭観音さまでしょうか?

清見神社は夏草の中

力石
04 /21 2015
「夜半のねざめに鐘の音ひゞきぬ。
おもへばわれは清見寺のふもとにさすらへる身ぞ。ゆかしの鐘の音や」

これは明治の文学評論家・高山樗牛「清見寺の鐘声」の一節です。

これがその清見寺(せいけんじ)の鐘楼です。
CIMG1908.jpg
 =静岡市清水区興津清見寺町

清見寺(清見興国禅寺)の歴史は古く、七世紀後半の天武朝のころ、
東北の蝦夷に備えて関を設け、そこに鎮護の仏堂を建てたのが始まりという。
時の権力者の庇護を受け、江戸時代には朝鮮通信使の宿舎にもなりました。

清見寺の五百羅漢です。
img621.jpg

ところがここには意外な一面が…。

「余はここに黙して過ぐる能はざる一事を見たり」
ドイツ生まれの博物学者ケンペルは、元禄6年(1691)、江戸へ向かう途中、
興津・清見寺門前で10歳から12歳の男の子が化粧して座っているのを見ます。
これは表向きは膏薬を売り、実は旅人に買われる子供たちだったのです。

西鶴も言っています。
「興津と僧侶と男色とは、古きころよりの由緒あることなり」
知らなかった! 学校ではそんなことひと言だって教えなかった。
「海道記」の著者は、
「ここは清見の名の通り、濁る心も澄むほど清らかな所だ」と称賛していたし。

この男色を日本に移入したのはあの弘法大師・空海さんなんだそうで…。
仏教では女を不浄なものとしたから、代わりに美少年を性の処理に使ったとか。
時宗の開祖・一遍上人も世捨て人の鴨長明も一休さんもわび・さびの芭蕉さんも、
みーんな稚児を相手の暮らしをしていたとは!
ああ、「弘法も筆のあやまり」の本当の意味?を、私は知ってしまった!

話が妙な方向へ飛んでしまいました。あまり根ほり葉ほり書くと嫌われます。
軌道修正して、

清見(きよみ)神社です。
CIMG0208.jpg
清見寺の近くにあります。前方に興津埠頭が見えます。
同じ「清見」でも寺は「せいけん」、こちらは「きよみ」と読みます。

金文字で「力石」と刻みたり 
        清見神社は夏草の中
  雨宮清子
                                
これが清見神社の力石です。
CIMG0162.jpg
奉納年も奉納者名もありません。地元の方に聞いても「さあ?」

この神社へ行くには、背後の林道から下る道と町中から登る道があります。
清見寺は明治時代の東海道線開通で境内が分断されていますが、ここも同じ。
しかし清見寺には陸橋がありますが、町中からこの神社へ行く道は、
警報機のない踏切を渡らなければなりません。これはかなり緊張を強いられます。
肝を冷やしつつ渡った先に、今度は延々とつづく急な石段が待っています。

百八十五段を登りつめ力石に会いにゆく
          振り向けば興津の海、満々
 
 雨宮清子
                                       
冒頭の高山樗牛は、興津で病身を養いますが31歳でこの世を去ります。
墓は遺言により同じ清水区の龍華寺にあります。

さて、明治・大正のころの興津は、
その風光明媚なことから政治家や文学者に愛されてきました。
中でも有名なのは、
明治の元勲・西園寺公望の別荘「坐漁荘(ざぎょそう)です。

17歳の西園寺公望」です。
CIMG1902.jpg

坐漁荘の名は、
坐して釣り糸をたれる中国・周の軍師、呂尚(太公望)の故事からとったとか。

坐漁荘で思い出すのは、お会いした当時80歳だった小池次男さんのこと。
小池さんは第二次大戦に突入したころ、
選ばれて坐漁荘に赴任した警備警察官でした。

坐漁荘の前に並んだ昭和14年当時の警備警察官。
img331.jpg
後列右端が小池さん。  写真提供/小池次男氏

新聞の連載記事の取材のため、
静岡県西部にあるご自宅をお訪ねした私を、ご夫妻共々迎えてくれたあと、
開口一番、小池さんはこうおっしゃった。
「こんな年寄のむかし話、本当に役にたつのでしょうか」
私は即座に返した。
「私がお聞きしたかったのは、そのお話なんです」

小池さんのその控えめで謙虚な姿勢に胸を熱くしたあの日のことを、
私は、20年たった今も忘れることはありません。

小池さんは生き生きと語りました。
「緊張の連続だった警備の非番の日に見た女優・楠トシエの舞台。
休暇で帰ったときお見合いして結婚した話
夫人のゆき枝さんも当時を振り返りながら話に加わりました。
39円50銭の安月給でね。生活は苦しくてねえ」

文献に記されたことだけが歴史ではない。
むしろ市井の人の口を通して語られる「埋もれたままの話」
そうした生の、リアルな個人史にこそ得難い真の歴史がある、
そういうスタンスでずっと私は記事を書いてきました。

力石の探索・研究もまた、この延長線上にあるつもりです。

先日、偶然にもかつて取材させていただいた方にお会いしました。
こちらも20年ぶりです。
その日のうちに私のこのブログを読んで下さり、早速メールをいただきました。

「発信力は健在ですね!」

嬉しい再会と最高の褒め言葉。つくづく思いました。

良かったな、自分の信念を貫いてきて。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞