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愛される力石に

前回のブログ記事(2020・4・29)「力石に想いを込めて」に、
「へいへいさん」撮影の氷川神社の力石を掲載したところ、

埼玉の研究者・斎藤氏からこんなメッセージを頂戴しました。

「へいへいさんの現状写真を見て、
懐かしく、そして嬉しく思いました」

ここ氷川神社の力石は、ちょっと見ぬ間に、
「出世魚」ならぬ「出世石」に大変貌を遂げていたのです。

そこでこの力石の、現在に至るまでの変遷をたどってみました。

まずは、
2005年9月発行の「さいたま市の力石」に掲載された
酒井正氏のスケッチからご覧ください。

img20200502_09244961 (2)
埼玉県さいたま市西区島根・氷川神社

酒井さんが見たころは、草むらに埋もれていました。

これをたとえて言えば、

出世魚のブリなら「ワカシ」の時代。
昔あった若者組の組織なら「小若衆」の時代。

それから9年後の2014年5月
斎藤氏が訪れたときはこんなふうになっていました。

1島根氷川神社

草むらからお日さまを拝める場所に出てきました。

出世魚なら「イナダ」の時代。
若者組なら「中若衆」の時代。

立派に保存された写真を見た斎藤氏、

「当時、氏子や関係者のみなさんが、「ああでもねぇ」「こうしたら?」
などと議論を重ねていた様子が浮かんできて…」と。

3島根氷川神社

それから1年2か月後の2015年9月には、大きな変化が…。

こちらは俳人で医師の五島高資氏の撮影です。

力石が起き上がりました。
足元をコンクリートで固めて仲良く寄り添わせ、立札も立てました。

出世魚なら「ワラサ」の時代。
若者組なら「大若衆」の時代。

神社五島撮影氷川

そして今年2020年4月
へいへいさんが訪れたときは、さらに進化していました。

しめ縄もかけられて、神々しくなっています。
おみくじがすごいですね。
おおぜいの若者たちが恋の願掛けに訪れているようです。

出世魚なら出世の頂点、「ブリ」
若者組なら誰もが一目置く「組頭(くみがしら)」

神社へいへい氷川

いかがでしたか?

酒井氏のスケッチから15年。
斎藤氏の写真から6年。
五島氏の写真から5年。

そしてへいへいさんの写真の今。

ただの石ころが見事な出世を遂げました。

でも、「ブリ」や「組頭」というよりも、こう言った方がふさわしいですね。

「みなさまに愛される力石に生まれ変わりました」

斎藤氏、万感の思いを込めて、

「氏子や関係者のみなさん、ありがとう」


※参考ブログ/五島高資氏の「力石を詠む」
        /へいへいさんの「へいへいのスタジオ2010」
※参考文献/「さいたま市の力石」高島愼助 酒井正 岩田書院 2005


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苔のじいさん

内房・巡り沢の祥禅寺をあとに、今度は仲集落へ。

目的地は山王宮

ここです。
CIMG1183 (2)
静岡県富士宮市(旧芝川町)内房仲

ここには5年前来ていますから、再訪ということになります。

このときご案内くださったA子さん、
「ここにあると聞いたのですが、ハテ、どれなんでしょう?」

そこで師匠の高島先生と探し出したのが草に埋もれていたこれ(手前の石)。
おやおや、力石が蓑を着た亀になってるよ、というわけで、

   草生やし蓑亀(みのがめ)になった力石   雨宮清子

赤丸の中の石は、今回発見された力石です。
CIMG1180.jpg
2014年3月17日撮影

「見つけたぞ! やれやれ」と思っていたのに、実はまだあった。
5年後の新たな発見者は郷土史家の増田氏です。

やっぱり凄い!

仲集落の住人だった故・望月満久氏が、
平成19年に「仲ものがたり」という小冊子を発行。
その中にこんな記述があったという。

宝鏡庵の境内に力石を置き、
住民が集まるごとにこの石を上げ、力自慢を競った。
石の重量は12貫、16貫、20貫と記してありました」

これを読んだ増田氏。さっそく、探索に乗り出します。

そこで新たに見つけたのが、こちら(赤矢印)。
5年前は力石だと知らなかったので、石は単に写り込んだだけ(上の写真)
でも今度は全体を写せました(下の写真)

ちなみに「宝鏡庵」とは「山王宮」と地続きのお堂のこと。
以前発見した力石も今回のも、このお堂の前にあります。

   春陰ひそと堂に埋もるる力石   雨宮清子

CIMG4729.jpg
2019年3月28日撮影

でもですねえ、
この石、先っぽがちょっと欠けてしまっていて、おまけにだらけ。
私、思わず、「なんだよ、すっかり苔のじいさんになっちゃって!」
と毒づいたけど、歳月は石も待たず、なんですねぇ。

   春深し草をめくれば力石
            苔の翁に成り果てており    
雨宮清子

余計なことですけど、ブログ「日々是輪日」の「三島の苔丸」さん、
なんで「苔」なんだろう? お若いのに。

新たに発見された力石「苔のじいさん」です。
CIMG4728.jpg

ともあれ、
望月氏が書き残してくれた力石3個のうち、2個が見つかりました。

でもここで疑問が…。

増田氏は「今回発見の石は12貫、手前の石が16貫で20貫は行方不明」
とされていますが、石質は抜きにして大きさだけから考えると、
手前の蓑亀状態の石(62×33×28㎝)は20貫を越えているはず

石の貫目は「正」=正味=と刻まれている石以外は、
刻字の貫目に八掛けするとその石の本当の重さが出るといわれています。
 ※八掛け=刻字の貫目に0・8を掛けた数字のこと。

昔の若者は力を誇示するため少々、サバを読んだのです。

ですから、力石の実際の重さは刻字貫目より少ないことが多いのですが、
ここの石は逆で、伝えられている貫目より見た目の方が重そうです。

下の絵は、静岡市清水区由比東山寺・薬師堂での力比べです。
2010年にこの場所から6個、掘り出されました。松永宝蔵画

仲集落の若者たちもこんなふうに石担ぎを楽しんだのではないでしょうか。

img904_201905090939212bd.jpg
「静岡の力石」高島愼助、雨宮清子 岩田書院 2011の表紙を飾りました。

さて、故・望月氏のいう「貫目を記してあった」は、
何に記してあったかは不明ですが、
現時点では石の刻字は確認できておりません。

で、埼玉の研究者・斎藤氏も私と同意見で、

「例えば、埼玉にある同じ大きさの石「米八斗目」(63×34×28㎝)は、
32貫120Kg
八掛けしても25、6貫になるから、そこの石も20貫はゆうに超えているはず」と。
 ※米1俵(60Kg)は4斗。

また全国的に、力石は16貫(60㎏)担げて一人前とされていたことから、
力比べには16貫以上の石を持ち上げていました。
なので12貫の力石というのはどうなのか。

これらのことを踏まえて再考する必要がありそうです。
増田さま、疑問を呈しましてごめんなさい。

下の写真、左の建物が宝鏡庵です。
力石は写真中央の、
左の石仏群と右の腰の曲がった老夫婦みたいな2本のの間にあります。

CIMG4734.jpg

今はただ静寂だけが広がっています。

でも、耳を澄ませば
力比べの若者たちの笑い声が、地の底から聞こえてくるような…。


※参考文献/「内房の力石」増田文夫 私家本 平成31年
        /「仲ものがたり」望月満久 私家本 平成19年

2個目の新発見・後篇

塩出(しょで)の枝垂桜を堪能して、再び元の道を引き返す。
行き先は巡り沢集落の祥禅寺です。

祥禅寺の入り口です。

創建不明。
この寺は戦国時代、甲斐の武田信玄の駿河侵攻に伴い、
武田の重臣・穴山梅雪の庇護をうけた。臨済宗妙心寺派。

石柱が傾いているわけではありません。私の撮り方が悪いのです。
CIMG4720.jpg
静岡県富士宮市(旧芝川町)内房巡り沢

増田文夫氏は著書「内房の力石」にこう書いています。

「以前、望月衛さん(当時93歳)にお聞きしたら、
巡り沢にもかつては力石があったと言った。
衛さんが小学生のころ、今の集会所のところに公園があって、
力石はそこにあった。子供たちが数人で転がすのがやっとだったという」

子供だった衛おじいちゃんが見たときから、すでに約90年
力石は公園から姿を消して、行方知れずになっていた。

一体どこへ?と探し歩く増田氏。
そんなある日、
この祥禅寺の入り口で、一個だけ石垣からはみ出ている石を発見。
衛さんに確認すると「これのようだ」と。

静岡県内での267個目の力石です。

寺の入り口です。
みなさま、どこに力石があるかわかりますか?

CIMG4725.jpg

答えは、
「2基ある庚申塔のうちの右側の庚申塔をごらんください。
その庚申塔の下部に刻まれた三猿の右横にあります」

言われなければ絶対わかりません。
増田さんの執念眼力に脱帽です!

で、この力石、石垣に頭の先っぽだけを突っ込むような形で、
コンクリートで固定されていました。

「ぼくもみんなと同じ仲間に入れてよー」って叫んでいるみたいに…。

   石垣の仲間はずれか力石   雨宮清子

さらに近づいて見ると、こんな感じ。
力石を見下ろしている石垣の石(赤矢印)、
なんだか人の顔に見えません?

しかも不気味に笑っている。

上の写真にも、「不気味に笑う石」の顔が半分写っています。

CIMG4723.jpg

  
  石垣仲間はずれの力石を笑う   雨宮清子

この人面石?を見て、私、ゾーッとしたんですよ。

角度をかえてみてもやっぱり不気味に意地悪っぽく笑っている。

その笑う石の右下には、
眉間にシワを寄せた武士みたいな怖いオッサンまでいる。

  石垣力石の孤独を笑う   雨宮清子


CIMG4724.jpg

 
ああ、哀れなり、力石!

と、少々暗い気持ちになったけど、落ち着いてよくよく見直したら、
さっきまでの不気味さや意地悪っぽさは消えて、

「一人ぼっちの力石さん、私たちがいつまでも見守っていてあげますよ」

なぁ~んて言っているような、
そんな慈母のごときお顔に見えてきた。

でも、家に帰って改めて写真を見たら、やっぱりゾッとした。


※夏目さんから投句をいただきました。

  重てえなぁ力石(おめぇ)代われよこの俺と   夏目

な~るほど。そういう見方もありましたか。 
石垣で居続けるのも大変なんだ! 

ついでにおまけ。
この石垣はこんなふうに本堂へと延びております。
石垣の石、あっち向いたり、うつむいたり、そっぽ向いたり…。

CIMG4727.jpg


※参考文献/「内房の力石」増田文夫 私家本 2019

2個目の新発見・前篇

富士浅間神社の小野田徳蔵墓碑を見た後、誘われて桜見物へ。
道の両側に、湧き立つ雲のような大きな枝垂桜が現われました。
花びらがくるくると風に舞っています。

ここは「塩出(しょで)」というところで、その名の通り、
駿河の塩が甲斐へ出て行く時の塩の関所があったところ。

ここに、江戸時代、油問屋だったE家があります。
手広く商って財を成したため、
♪塩出の源兵衛さんは大金持ちよ
と歌にまで歌われたそうです。

下の写真は、今も残るE家の石垣です。
道はこのすぐ先で山梨県への道、国道52号線にぶつかります。
昔の旅人もこの桜の花に目を奪われつつ通って行ったことでしょうね。

CIMG4714.jpg

で、この源兵衛さんの家に、なんとあの「やじきた」を生んだ
十返舎一九の屏風が残されているのです。
この屏風、私も静岡市内で開催された展示会で見たことがあります。

「芝川町誌」によると、
「一九が甲州への旅の道すがら、ここへ立ち寄り画いた狂歌と戯画」

一九はいつごろここを通ったのだろうか。
駿府生まれで母親は甲州出身。たびたび駿府に舞い戻り、
「身延山道中記」(文政2年=1819刊行)も書いている。

内房・塩出のE家に立ち寄ったのは、
東海道の由比から内房ー甲斐の万沢ー南部ー身延山のコースを
歩いたときかもしれません。

こちらは一九の
方言修行 金草鞋(むだしゅぎょう かねのわらじ)」、
「東海道之記」の模写復刻版です。

img402.jpg
桜畔亭版・藤枝戯作文庫の会(静岡県藤枝市) 平成5年。模写/鈴木朋泉

「方言修行 金草鞋」は木曽街道や西国、奥州、善光寺参詣などの道中記で、
文化10年(1813)から没後まで刊行された25編余に及ぶ合巻。
その模写復刻に、
桜畔亭主人の宮本末次氏と鈴木朋泉氏(模写)が挑んだわけです。

もう20年ほど前のことになります。
知人から「藤枝へ行くならぜひ宮本さんを訪ねて」と言われて、
どういう人か知らないまま、土手の桜トンネルを通ってお訪ねしました。

突然の、全くもって無礼な訪問でしたが、宮本さんは満面笑み。
すぐに展示室へ案内してくださった。

その室内には、
宮本さんが収集した浮世絵、戯作文庫、江戸細密工芸品がびっしり。
たちまち江戸へタイムスリップ。

立て板に水、シャレッ気たっぷりに説明してくださる宮本さんが、
だんだん一九に見えてきて…。

そのとき頂戴したのが、この復刻版でした。

この「金草鞋」の登場人物は弥次喜多ではありません。
奥州産の「鼻毛の延高(はなげののびたか)」と、
千久羅坊(ちくらぼう)」という、「ふざけた」名前の二人。

ちなみに、「鼻毛が延びた」は「女にデレデレする」、「ちくら」はニセモノという意。
つまり女にだらしがない男とニセ坊主の二人連れというわけです。

その二人がこちら。
img197_20190429115633dfe.jpg
桜畔亭版・藤枝戯作文庫の会 平成5年 模写/鈴木朋泉

で、この本の中に「桜版亭かわら板」というのがはさんであって、
そこにこんな記述が…。

ミスをしてしまった。表紙の江戸文字風に書いた
「歌川月麿戯画」の「歌川」は間違いで「喜多川」が正しい。

そこで編集子、一九を真似て、狂歌、

   喜多川を歌川姓に間違ひし
         これは正(まさ)しく月とすっぽん」


さて、このブログ記事、力石の紹介まで行くはずでしたが、
またしても横道にそれました。この続きは次回に持ち越し。

   石探し今日は一九で蹴躓(けつまず)   清姫

夏目さんより返句をいただきました。

   清姫は一九に躓(つまず)き一句詠む   夏目

返句の返句

   (まろ)びてもにこやかに立つ令和の日  清姫


※参考文献・画像提供/「方言修行金草鞋」模写復刻板
               桜畔亭・藤枝戯作文庫の会 平成5年

軍神

内房の力石探訪のはずが、つい横道にそれました。
いつものことですが、「何でも見てやろう」精神がちょいと出まして。

だってだと思いませんか?

西南戦争で亡くなった小野田徳蔵さんの墓碑が、
なんで神社の前の道路沿いにあるのか。

そんな私に、内房の郷土史家、増田文夫氏が、
郷土誌「かわのり」の記事を紹介してくれました。

「かわのり」は旧芝川町の郷土史研究会の会誌。
会誌はいう。

「この墓碑は最初、別の街道沿いの、
ドンドン下という字名の大岩の上に建っていた。
ところが明治36年、新しい県道が開通してここは廃道になった」

「そこで前年の明治35年、地元や近隣の在郷軍人等が主体になり、
村長が協力。村を挙げての事業として現在地に移転・完成させた」

CIMG4711.jpg
静岡県富士宮市内房

でも普通、お墓は墓地でしょ?

これに対して増田氏は「あくまでも僕の想像ですが」としつつ、
こんな風に語ってくれた。

軍神として祀られたのだと思います。
最初の場所はその先が内房小学校で、たぶん当時の小学生たちは
登下校の折り、大岩の上の軍神に敬礼して通っていたのではないでしょうか」

「移転後の神社は村社で、戦争へ行く若者たちがお参りしたところです。
ですからそこに英霊を祀って士気を鼓舞するという…。
まあ、そういう時代だったと思います」

この墓碑を移転した2年後、日露戦争が始まります。

「軍神が建っていたその先の小学校には、
明治から昭和までの戦没者の名前を刻んだ慰霊碑が今も建っています」
と増田氏。

「今は火の見やぐらもなくなり、川筋や道筋も変わってしまって、
ここの墓碑のことさえ関心を持って見る人も少なくなりました」

その増田氏、
地元小学校の子どもたちに石造物についての
授業やフィールドワークを始めて3年になるという。

「ふるさとの歴史を調べて子どもたちに教え、伝え、記録に残していきたい」

生まれ育った「内房」への愛情は深く、大きく、温かい。


※参考文献/「かわのり第5号」芝川郷土史研究会 鈴木太一 昭和53年
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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