八丁堀平蔵の歌石・その二
力石
八丁堀・亀嶋平蔵は、天明元年(1781)7月16日、
「一代禁酒」と彫付けた力石を佐賀稲荷神社に奉納します。
これには歌が刻まれています。
「歌石」といわれるものです。
一番高いところに置かれた石が「歌石」です。(有形民俗文化財)

77×44×36㌢ =東京都江東区佐賀・佐賀稲荷神社
黒く見える部分は、雨に濡れた跡です。
さて、ここからが難しい。
これは「歌石」「禁酒石」だと伝わっているのですが、この歌、読めません。
なんとか読めても意味が全然通じません。
このどこが「禁酒」なんだと思ってしまいます。
まずは石の側面の刻字をご紹介します。
天明元年七月十六日
一代禁酒 八町堀亀嶋町 石の平蔵
天明期は江戸の三大飢饉の一つ、天明の大飢饉で、
東北・関東を中心にたくさんの餓死者を出しました。
また側用人の田沼意次が実権を握った時代で、商人と役人の不正が横行します。
賄賂を贈られて便宜をはかる役人を風刺するこんな歌も。
役人の子はにぎにぎをよくおぼえ
ま、いつの世も…。今はバレても面の皮千枚張りの政治家ばかりで…。
でも江戸の庶民はついに立ち上がります。
全国で百姓一揆や打ち毀しが起ります。

米屋、質屋、酒屋などが襲撃された。=「幕末江戸市中騒動図」
時代背景はそのくらいにして、本題へ入ります。
これが歌石に刻まれた歌です。

=作図/伊東明上智大学名誉教授
これを、今は亡き伊東先生はこう読みました。
奉納 雲きりもはれ行 空の高き石の
ひろまるからに 我はささげる
しかし先生ご自身は論文の中で、
「歌の判読はたぶん間違っていると思われる」と書き残しています。
おひざ元の江東区教育委員会ではどう読み解いたかというと、
奉納 雲記りも者れ行 山の高き石の
飛ひまるからに 我はささへる
う~ん、これもイマイチ。
そこで助っ人をお願いしました。
静岡市の歴史ある駿河古文書会の重鎮、
中村典夫(みちお)先生です。
この文字が拓本ではなく人の手による作図であること。
石そのものが風化が激しく正確に読み取ることが困難であること。
こういったことから解読をお願いするのは心苦しかったのですが…。
やはり先生はおっしゃいました。
「誰彼(どなた)の解も腑に落ちず、仲々難物。
やはり刻字がいささか読みづらいからだと思われます。
その陰刻が本来の「刻」か、また否か。のちに凹凸が出た跡か、これが判然とせず
仲々悩まされます」
「結論から申し上げます。これは解り兼ねます」
う~ん、残念。
でも中村先生は誠実な方なので、最後まで解読に努めてくださったんです。
以下は先生からの説明です。少し長いですが後学のため記します。
●初句と第二句の初め、は成程、
「雲起り(くもきり)もはれ行(ゆく)」と読めないことはありません。
●続く第二句の末尾「□ の」が解りません。
「□ の」が一部切れていて、「支(き)」の如くにも思われます。
●第三句は「高き人の」と読みたいところ。しかし「き」と読むには難があります。
●第四句も「ひろまるからに」と読みたいのですが、
果たして確かに「ろ」・「ま」かどうか。ここも疑問です。
●第五句も悩ましい限りです。
「我ハさ□□□」の如くですが、
「我」も印字で見る限り果たして確かに「我」かどうか。
●第五句の最後の四音「さ□□□」ですが、一見すると、
最後の一字は「會」(ヱ・あふ)という字に見えます。
第五句も本当に生きている画(かく)とそうでない画(かく)とが、
混じっているように思われます。
そして中村先生は、最後にこんな感想を。
「禁酒石というからには、禁酒の誓いの如き歌意を想像するのですが、
右の次第にて、全くその如き意味が浮かんで参りません」
本当にそうなんです。
このどこが禁酒なんだ!って、
私も思わず叫びたくなったこともしばしば。
「長時間お預かりしたのにかかる結果にて、まことに申し訳なく思います」
とんでもない。
ご無礼をかえりみず古文書の大家にこんな不完全な石の解読をお願いして、
私の方こそ申し訳なさでいっぱい。でもお返事をいただけてうれしかった!!
そんなわけで、平蔵さんの歌石はひとまず置いといて、
お口直しに、同じ「雲霧」でも解りやすい句で〆といきます。
有名な芭蕉の「雲霧…」の句です。
「雲霧…」の句碑の一つ。

撮影/平井正次氏 =静岡市清水区・鉄舟寺・観音堂
雲霧の暫時百景を尽くしけり
(芭蕉句選拾遺)
甲斐国で富士を目のあたりにした芭蕉先生、
「雲が切れたかと思うと霧が立ち昇る。
このように瞬時に変わる富士山は、またたく間に百景を形成する」として、
「瞬時変貌する霊峰富士の崇高な姿」を句に詠んだけれど、
平蔵さん、
あなたの歌は雲霧が晴れても、まったく全貌が見えてこず、
こっちの頭は雲霧に覆われたままでございます。
※参考文献/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/「新詳説・日本史」山川出版社 1989
/「伊東明教授退任・古希記念原著論文」上智大学 1988
「一代禁酒」と彫付けた力石を佐賀稲荷神社に奉納します。
これには歌が刻まれています。
「歌石」といわれるものです。
一番高いところに置かれた石が「歌石」です。(有形民俗文化財)

77×44×36㌢ =東京都江東区佐賀・佐賀稲荷神社
黒く見える部分は、雨に濡れた跡です。
さて、ここからが難しい。
これは「歌石」「禁酒石」だと伝わっているのですが、この歌、読めません。
なんとか読めても意味が全然通じません。
このどこが「禁酒」なんだと思ってしまいます。
まずは石の側面の刻字をご紹介します。
天明元年七月十六日
一代禁酒 八町堀亀嶋町 石の平蔵
天明期は江戸の三大飢饉の一つ、天明の大飢饉で、
東北・関東を中心にたくさんの餓死者を出しました。
また側用人の田沼意次が実権を握った時代で、商人と役人の不正が横行します。
賄賂を贈られて便宜をはかる役人を風刺するこんな歌も。
役人の子はにぎにぎをよくおぼえ
ま、いつの世も…。今はバレても面の皮千枚張りの政治家ばかりで…。
でも江戸の庶民はついに立ち上がります。
全国で百姓一揆や打ち毀しが起ります。

米屋、質屋、酒屋などが襲撃された。=「幕末江戸市中騒動図」
時代背景はそのくらいにして、本題へ入ります。
これが歌石に刻まれた歌です。

=作図/伊東明上智大学名誉教授
これを、今は亡き伊東先生はこう読みました。
奉納 雲きりもはれ行 空の高き石の
ひろまるからに 我はささげる
しかし先生ご自身は論文の中で、
「歌の判読はたぶん間違っていると思われる」と書き残しています。
おひざ元の江東区教育委員会ではどう読み解いたかというと、
奉納 雲記りも者れ行 山の高き石の
飛ひまるからに 我はささへる
う~ん、これもイマイチ。
そこで助っ人をお願いしました。
静岡市の歴史ある駿河古文書会の重鎮、
中村典夫(みちお)先生です。
この文字が拓本ではなく人の手による作図であること。
石そのものが風化が激しく正確に読み取ることが困難であること。
こういったことから解読をお願いするのは心苦しかったのですが…。
やはり先生はおっしゃいました。
「誰彼(どなた)の解も腑に落ちず、仲々難物。
やはり刻字がいささか読みづらいからだと思われます。
その陰刻が本来の「刻」か、また否か。のちに凹凸が出た跡か、これが判然とせず
仲々悩まされます」
「結論から申し上げます。これは解り兼ねます」
う~ん、残念。
でも中村先生は誠実な方なので、最後まで解読に努めてくださったんです。
以下は先生からの説明です。少し長いですが後学のため記します。
●初句と第二句の初め、は成程、
「雲起り(くもきり)もはれ行(ゆく)」と読めないことはありません。
●続く第二句の末尾「□ の」が解りません。
「□ の」が一部切れていて、「支(き)」の如くにも思われます。
●第三句は「高き人の」と読みたいところ。しかし「き」と読むには難があります。
●第四句も「ひろまるからに」と読みたいのですが、
果たして確かに「ろ」・「ま」かどうか。ここも疑問です。
●第五句も悩ましい限りです。
「我ハさ□□□」の如くですが、
「我」も印字で見る限り果たして確かに「我」かどうか。
●第五句の最後の四音「さ□□□」ですが、一見すると、
最後の一字は「會」(ヱ・あふ)という字に見えます。
第五句も本当に生きている画(かく)とそうでない画(かく)とが、
混じっているように思われます。
そして中村先生は、最後にこんな感想を。
「禁酒石というからには、禁酒の誓いの如き歌意を想像するのですが、
右の次第にて、全くその如き意味が浮かんで参りません」
本当にそうなんです。
このどこが禁酒なんだ!って、
私も思わず叫びたくなったこともしばしば。
「長時間お預かりしたのにかかる結果にて、まことに申し訳なく思います」
とんでもない。
ご無礼をかえりみず古文書の大家にこんな不完全な石の解読をお願いして、
私の方こそ申し訳なさでいっぱい。でもお返事をいただけてうれしかった!!
そんなわけで、平蔵さんの歌石はひとまず置いといて、
お口直しに、同じ「雲霧」でも解りやすい句で〆といきます。
有名な芭蕉の「雲霧…」の句です。
「雲霧…」の句碑の一つ。

撮影/平井正次氏 =静岡市清水区・鉄舟寺・観音堂
雲霧の暫時百景を尽くしけり
(芭蕉句選拾遺)
甲斐国で富士を目のあたりにした芭蕉先生、
「雲が切れたかと思うと霧が立ち昇る。
このように瞬時に変わる富士山は、またたく間に百景を形成する」として、
「瞬時変貌する霊峰富士の崇高な姿」を句に詠んだけれど、
平蔵さん、
あなたの歌は雲霧が晴れても、まったく全貌が見えてこず、
こっちの頭は雲霧に覆われたままでございます。
※参考文献/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/「新詳説・日本史」山川出版社 1989
/「伊東明教授退任・古希記念原著論文」上智大学 1988