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八丁堀平蔵の歌石・その二

力石
04 /16 2015
八丁堀・亀嶋平蔵は、天明元年(1781)7月16日、
「一代禁酒」と彫付けた力石を佐賀稲荷神社に奉納します。
これには歌が刻まれています。
「歌石」といわれるものです。

一番高いところに置かれた石が「歌石」です。(有形民俗文化財)
img603 (2)
77×44×36㌢ =東京都江東区佐賀・佐賀稲荷神社
黒く見える部分は、雨に濡れた跡です。

さて、ここからが難しい。
これは「歌石」「禁酒石」だと伝わっているのですが、この歌、読めません。
なんとか読めても意味が全然通じません。
このどこが「禁酒」なんだと思ってしまいます。

まずは石の側面の刻字をご紹介します。

   天明元年七月十六日 
   一代禁酒 八町堀亀嶋町 石の平蔵


天明期は江戸の三大飢饉の一つ、天明の大飢饉で、
東北・関東を中心にたくさんの餓死者を出しました。

また側用人の田沼意次が実権を握った時代で、商人と役人の不正が横行します。
賄賂を贈られて便宜をはかる役人を風刺するこんな歌も。

 役人の子はにぎにぎをよくおぼえ

ま、いつの世も…。今はバレても面の皮千枚張りの政治家ばかりで…。

でも江戸の庶民はついに立ち上がります。
全国で百姓一揆や打ち毀しが起ります。
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米屋、質屋、酒屋などが襲撃された。=「幕末江戸市中騒動図」
時代背景はそのくらいにして、本題へ入ります。

これが歌石に刻まれた歌です。
img556.jpg
 =作図/伊東明上智大学名誉教授

これを、今は亡き伊東先生はこう読みました。

奉納 雲きりもはれ行 空の高き石の 
         ひろまるからに 我はささげる


しかし先生ご自身は論文の中で、
「歌の判読はたぶん間違っていると思われる」と書き残しています。

おひざ元の江東区教育委員会ではどう読み解いたかというと、

奉納 雲記りも者れ行 山の高き石の 
         飛ひまるからに 我はささへる


う~ん、これもイマイチ。
そこで助っ人をお願いしました。
静岡市の歴史ある駿河古文書会の重鎮、
中村典夫(みちお)先生です。

この文字が拓本ではなく人の手による作図であること。
石そのものが風化が激しく正確に読み取ることが困難であること。
こういったことから解読をお願いするのは心苦しかったのですが…。

やはり先生はおっしゃいました。
「誰彼(どなた)の解も腑に落ちず、仲々難物
やはり刻字がいささか読みづらいからだと思われます。
その陰刻が本来の「刻」か、また否か。のちに凹凸が出た跡か、これが判然とせず
仲々悩まされます」

「結論から申し上げます。これは解り兼ねます

う~ん、残念。
でも中村先生は誠実な方なので、最後まで解読に努めてくださったんです。
以下は先生からの説明です。少し長いですが後学のため記します。

●初句と第二句の初め、は成程、
「雲起り(くもきり)もはれ行(ゆく)」と読めないことはありません。

●続く第二句の末尾「□ の」が解りません。
「□ の」が一部切れていて、「支(き)」の如くにも思われます。

●第三句は「高き人の」と読みたいところ。しかし「き」と読むには難があります。

●第四句も「ひろまるからに」と読みたいのですが、
果たして確かに「ろ」・「ま」かどうか。ここも疑問です。

●第五句も悩ましい限りです。
「我ハさ□□□」の如くですが、
「我」も印字で見る限り果たして確かに「我」かどうか。

●第五句の最後の四音「さ□□□」ですが、一見すると、
最後の一字は「會」(ヱ・あふ)という字に見えます。
第五句も本当に生きている画(かく)とそうでない画(かく)とが、
混じっているように思われます。

そして中村先生は、最後にこんな感想を。
禁酒石というからには、禁酒の誓いの如き歌意を想像するのですが、
右の次第にて、全くその如き意味が浮かんで参りません」

本当にそうなんです。
このどこが禁酒なんだ!って、
私も思わず叫びたくなったこともしばしば。

「長時間お預かりしたのにかかる結果にて、まことに申し訳なく思います」

とんでもない。
ご無礼をかえりみず古文書の大家にこんな不完全な石の解読をお願いして、
私の方こそ申し訳なさでいっぱい。でもお返事をいただけてうれしかった!!

そんなわけで、平蔵さんの歌石はひとまず置いといて、
お口直しに、同じ「雲霧」でも解りやすい句で〆といきます。
有名な芭蕉「雲霧…」の句です。

「雲霧…」の句碑の一つ。
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撮影/平井正次氏  =静岡市清水区・鉄舟寺・観音堂

雲霧の暫時百景を尽くしけり
                             (芭蕉句選拾遺)

甲斐国で富士を目のあたりにした芭蕉先生
「雲が切れたかと思うと霧が立ち昇る。
このように瞬時に変わる富士山は、またたく間に百景を形成する」として、
「瞬時変貌する霊峰富士の崇高な姿」を句に詠んだけれど、

平蔵さん
あなたの歌は雲霧が晴れても、まったく全貌が見えてこず、
こっちの頭は雲霧に覆われたままでございます。

※参考文献/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/「新詳説・日本史」山川出版社 1989
     /「伊東明教授退任・古希記念原著論文」上智大学 1988

八丁堀平蔵の歌石・その一

力石
04 /11 2015
石の平蔵の異名を持つ八丁堀・亀嶋平蔵が残した力石は、全部で28個
これは三ノ宮卯之助に次いで全国2位の多さです。

残された石から平蔵を想像してみると、なかなかの人物だったことがうかがえます。
以前にもご紹介しましたが、内田金蔵の手形奉納額の世話人になったり、
よく後輩たちの面倒を見る頼もしい力持ちです。

法明寺(鬼子母神)にある力石群。
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 =東京都豊島区雑司ケ谷

この中に、平蔵とその弟子たちの名が刻まれた石があります。

  「奉納 四十七貫目 霊岸嶌 八丁堀 
  源蔵 亀治 清五郎 長五郎 長吉 平蔵」


ここには長唄「近江のお兼」に歌い込まれた「中の字」こと中村弥兵衛や、 
万屋金蔵の刻字石もあります。

こちらは江戸名所図会に描かれた法明寺(鬼子母神)=部分=です。
img601 (2)
赤丸のところにちゃんと力石が描かれています。

石の平蔵さんもここで石を持ち上げたんでしょうね。
参拝客のびっくりする様子が目に見えるようです。

ここで平蔵の石を少しご紹介します。
何しろ28個もあるので全部はお見せできませんが、ちょっとだけ

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=東京都江戸川区の第4葛西小学校にある平蔵の力石。

こちらは伝吉の記事の中でお伝えした千葉県市川市本行徳・八幡神社の力石。
1千葉・本行徳八幡神社 (2)
埼玉在住の研究者S氏が発見した平蔵28番目の力石です。

亀戸天神社=東京都江東区亀戸=の平蔵の力石です。
CIMG0873.jpg

もう一つあります。
img609.jpgimg608.jpg
作図/高島愼助四日市大学教授  

「奉納 天満宮 霊巌島湊町亀治 右同町 長七 本八丁堀五丁目 熊蔵
八丁堀亀嶋町平蔵 奴 清治 深川 三井親和書 
寛政八丙辰歳三月吉日 元木場金七 刻之


この石には江戸時代の著名な書家・深川(三井)親和が揮毫しています。

三井親和です。
img610.jpg
礒田湖龍画

亀戸天神社の石は共に江東区の有形民俗文化財に指定されています。
見学の折には神社の方に申し込んでくださいね。案内してくださいます。

亀戸天神社です。
CIMG0874 (2)

東京はこうした庶民の文化遺産も大切にするいい街です。

この青空、ずっと続くといいな!

※追記

師匠の高島先生から、
「鬼子母神の鬼は角がないんだよなあ」との連絡が…。
そうなんですよねえ。でも変換できないし…。
「雑司ケ谷鬼子母神」のHPでも角付きの文字を使っています。
でもちょっと説明が必要ですね。

「鬼」という字の「甶」は角の付いた面、「儿」は人の意。
つまり人が面を被って死者の霊魂に扮するさま、神霊ということのようです。

一説には、
鬼子母神は人間の子を取って食うという恐ろしい鬼でしたが、
お釈迦様に諭され帰依したことから、安産と子育ての神になったんだそうです。
それで角が取れて、甶から田になったので、
それ以後「鬼子母神」の「鬼」は角のない文字が使われるようになった…、
つまり、以下のような文字になった、というわけでございます。

image001.gif

この文字、師匠が送ってくださったんです。
やっぱり持つべきものは師匠です。感謝してます。

<つづく>

※参考文献・画像提供/「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009
※画像提供/「江戸名所図会(中)」
         校註者鈴木棠三・朝倉治彦 角川書店 昭和55年
        /埼玉在住の研究者S氏

ちょいと、文学散歩

力石
03 /12 2015
酒塚のある日緬寺にほど近い海沿いに、
作家・芹沢光治良の「芹沢文学館」があります。


円卓が置かれた文学館内部です。
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=沼津市我入道

この土地は、
芹沢が7年の歳月をかけて完成させた自伝小説「人間の運命」の舞台なんです。

「生まれた村は貧しい漁村で、男の子はみな漁師にさせられた。
男の子のいない家では、よそから子供を買った。その子の年齢や健康状態で、
十円とか十五円とかの定価がつく。
その子は名前の上に定価が定冠詞のように付いて呼ばれる。
十円で買われた松郎は"十円の松ちゃん"というように」


そして芹沢は本の中で語る。
「その貧困のすぐそばに御用邸があり、特権階級の別荘があった」


漁師にならず中学校へ進学したため、芹沢は人々から排斥され、
以後、故郷と絶縁します。
その芹沢の心を故郷へ向けるために、
中学校の後輩たちが文学館建設に奔走。
昭和45年、故郷との和解のきっかけとなった文学館が完成します。


芹沢文学館から先は、千本浜が続きます。
その松林の中に、若山牧水の歌碑があります。

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全国の牧水歌碑の第一号です。  =沼津市千本浜公園

「幾山河こえさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく」

牧水は千本松原の美しさに魅せられて、大正9年、ここに移住します。
大正15年、松原伐採計画が出た時、
牧水はその反対運動の急先鋒になります。

「須磨明石は箱庭、筑前の千代松原は刈萱の原、三保・酒田には深みがなく、
犬吠埼・銚子河口は規模が小さい。
この千本松原こそ天下第一」と。


でも「深みがない」といわれた三保の松原は
今は世界遺産なんです、牧水さん。

さて、牧水といえばお酒です。

人の世に楽しみ多し然れ共
          酒なしにして何の楽しみ

という具合。

しかし、胃腸や肝臓を壊して昭和3年、43歳で他界してしまいます。
その前日のメニューがものすごい。

朝食に、午前中、昼食に、午後、夕食に、夜中に三度もを飲み、
末期の水も当然だったそうですから、ぶったまげてしまいます。

この牧水歌碑にほど近く、作家井上靖の詩碑があります。

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城の石垣か古墳の石室みたいな井上靖の詩碑「千個の海のかけらが…」
=沼津市千本浜公園

「中学生時代、御成橋付近を歩いていく牧水を畏敬の念で眺めていた」
井上靖は、「作家、故郷へ行く」の中で、こんなことを言っている。

「牧水の碑は、いい場所に建っている。
駿河湾の荒い波と松籟(しょうらい)の音に四六時中包まれている」


その井上靖の碑が、のちに牧水と同じ場所に建ったんですね。
なんとなくいい話です。

でも同じ作家の井上「ひさしさん」は、こんなことを…。

「文学碑はたくわん石のなりそこね」
作家の田辺聖子さんも
「夥しく建ってさまになるのは、木の卒塔婆だけである」

確かに! 言えてる。

でもですね、
牧水歌碑や靖詩碑は決してたくわん石でも卒塔婆でもありません。
千本松原にぴったりの堂々たる文学碑です!


最後に日緬寺に戻って「力石」のご紹介です。

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全国の酒造元から献酒されたお酒。 =沼津市下香貫牛臥
毎年、新嘗祭のとき、
「酒をもってその報恩に感謝する祭」
が行われています。

そしてこちらが、日緬寺の「力石」です。
CIMG0704 (2)
俵型の石が6個。

「両国の信者が力士にちなんで奉納したもの」という以外、
残念ながら、詳細は不明です。

日緬寺の酒塚

力石
03 /09 2015
またまたお酒の話です。
下戸の私には、酒飲みの醜態に酔いしれるという悪癖がございます。
まったくもって酒飲みはオオバカモノでございます。


友もなく酒をもなしに眺めれば
      いやになるべき夜半の月かな
 蜀山人 

往々にして呑兵衛は、酒を飲む前から自分に酔っております。

飲んでからは夢に酔い、脱俗の境地に酔いしれて、
やがて醒めるに従って、笑いながら泣き、威張りながら怯え、
楽しそうに振舞うほどに侘しくなり、
あれやこれやと理屈をつけて自己弁護しつつ自己嫌悪に陥るという
ただのエーカッコシーでございます。


酒を飲み女を買った報いにて 
       しず心なく鼻の散るらん


酒乱から地位名望も水の泡
       世に大酒の癖は許さじ


許すも許さないもこうなったらもう手遅れ、ご愁傷様ってやつでございます。

酒というものはかくも害毒をもたらすものでありますが、
江戸時代、
この酒の危険性と必要性とを仏教道歌に託して行脚していた人がいました。
美作国(岡山県)の人、飛山長左衛門です。

長左衛門はこの仏教道歌を石に刻み、全国各地酒塚を建てて歩きます。
その酒塚の一つが静岡県沼津市にあります。


これです。
CIMG0703.jpg
長左衛門、22国目の酒塚。
現存する唯一のもの=大本山日緬寺(にちめんじ)
伊豆・下田の個人宅にあったものを昭和19年、現在地へ移転。

上から杯、ひょうたん、樽、ひき臼、膳となっておりますが、
以前は杯の上に笠がかぶさっていたそうです。
ひょうたんの前面には、こんな刻字があります。


宝暦八年十月二十七日
撞鐘        主美作
    供養塔
廻国        飛山氏


裏面には、ひょうたん、樽などに掛けた仏教道歌が刻まれています。
例えば、


くわっけい(活計)は すこしのむのがよひものを
      たる(樽)ほどのめば よいすぎる□□(かな)


そして、一杯いただいで陶然となったときが極楽だとして、こう歌っています。

ごくらくを ねがわばいそげーのみ(一飲み)の
              きえぬうちこそ のちのよのたね


お隣の三島市>には、こんなお墓がございます。
急坂で難儀する旅人を助けて、箱根路を往復した雲助・又四郎の
「雲助徳利の墓」です。


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盃と徳利を彫付けた墓標
=旧東海道・箱根峠から三島へ下る石畳終点付近

終生、酒を愛した又四郎のために仲間たちが建立したそうです。
いい人だったんですねえ。


本来、雲助は「浮雲のごとき境涯ゆえに雲という」そうで…。
街道や峠に出没した盗賊とはわけが違う。
駕篭を担ぎ、旅人の荷を背負って駄賃をもらうれっきとした労働者。
民俗学者の柳田国男も言っています。

「雲助の親分は一種の人傑なり。大雲助なり」

又四郎はきっと大雲助だったに違いありません。

ね、羅漢さんもそう思いません?
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のんびりと将棋に興じている羅漢さん =沼津市・大通禅寺
   
珍しい酒塚のある大本山日緬寺のつづきは、またあした。

※参考文献
/「日本酒仙伝」篠原文雄 読売新聞社 昭和46年
/「禁酒文芸 百人一首」小諸禁酒会編 日本国民禁酒同盟出版部
大正12年 仙台郷土史研究会会員・佐伯昭氏所蔵

志演神社の志演は「しのぶ」と読みます

力石
10 /23 2014
「志演」を「しのぶ」だなんて読めませんよね。
正式名称は、「志演尊空神社」(しのぶそんくうじんじゃ)、
東京都江東区北砂にあります。

神社の説明によると、
最初は、学問の神様・菅原道真の子孫が、
江戸の初めに祀った稲荷神社だったとか。

ところが元禄年間、五代綱吉が鷹狩りに来たとき、
民の志を演(の)ぶる=広く及ぼす=こと殊勝なり」といったことから、

「志演」と改称したんだそうです。う~ん、ホンマかいな??

尊空は伏見宮の王子、尊空親王のことで、
この人を祀った祠と志演神社を昭和22年に合祀して、
現在の名称になったんだそうです。

ま、それはともかく、志演神社の力石です。
chikara02.jpg

前回、年代刻字で日本最古の力石は、
埼玉県久喜市樋ノ口の八幡神社の寛永九年
2番目が同じ神社の万治年間のもの、
3番目は千葉県野田市・八幡神社の
万治四年の力石とお伝えしました。

志演神社の石は寛文四年(1664)で4番目、
東京では一番古い力石です。

寛文は四代家綱の時代です。
家綱はわずか10歳で将軍になりますが、
そのとき起きたのが由比正雪の乱。
正雪はわが駿府の生まれで、自害したのも駿府の宿「梅屋」。
別に自慢するわけではないんですが…。

それから6年後に起きたのが、明暦の大火、俗に振袖火事

越後屋の商人が、娘さんに図柄見本を見せているところ。
img368.jpg
「呉服行商の図」 勝川春勝画

寺の美少年に一目ぼれした娘が、少年と同じ柄の振袖を作ってもらい、
美少年の代わりに毎夜抱きしめて、ついに病死。
その振袖を手に入れた娘たちも次々亡くなったため、寺で供養に焚き上げた。
そしたら、火のついた振袖が風に舞って
それが元で江戸の大半を焼失、死者10万余という大惨事に。

ただし、老中の家の出火を寺のせいにしたなんて説もございます。
でも、この振袖火事と八百屋お七の火事と
混同
している方が結構いらっしゃいます。
お七は放火犯、振袖火事の25年後の事件でございます。
それにしても若き将軍さま、大変でした。

話が脱線しました。

故・伊東 明上智大学名誉教授が描いた志演神社の力石です。
img356.jpg
80×50×30㎝  安山岩  石銘「志乃武石」

この石、昭和40年ごろには境内に放置されていたそうですが、
その後神殿の植え込みに立ててあったそうです。
平成13年に区の有形民俗文化財に指定され、
今は立派な台座に保存されています。

さて、この石の刻字(切付)が只今、
問題になっております。

伊東先生は、「寛文四大二月八日」「九□八」と判読。
江東区教育委員会では、「寛文四辰天二月朔日」「□嶋正□」と判読。

寛文四は共通していますが、伊東先生は「□嶋正□」を見落とし、
区教委は「九□八」を見落としています。
また、「」と「辰天」、
八日」と「朔日」という違いも出ています。

なにしろ、今から350年も前の刻字です。
おまけに、
大火事や大震災、空襲と幾多の火をかいくぐってきた石だから剥落が激しい。
正しく解読するのは至難のわざです。

img369.jpg

そこで、浅学故の怖いもの知らずで、こんなふうに推理してみました。
「大」ではなく「辰」が正しく、「八日」は「朔日」が正しい。
また「」の刻字はもともとないのではないかと。

「九□八」は、石の重量を貫目ではなく、
○斗○升と米の重さで示したものと判断しました。
というわけで、推理した結果がコレ。

正面中央に「九□八」
正面左に「□嶋正□」「寛文四辰二月朔日」


いかがでしょう? 江東区教育委員会様!

「天」ときたので、さては隠れキリシタンのものか、なんて思ったりしましたが、
力石にキリシタンの暗号を刻むのも変だし、これは考えすぎですね。

CIMG0338.jpg

なにしろ「志演」を「しのぶ」と読ませる神社です。刻字も人を惑わせます。
伊東先生、あちらの世界で、
「オヤオヤ」なんて笑っているかもしれません。

<つづく>

※参考文献/「伊東明教授退任・古希記念原著論文」伊東 明 1988
        /「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞