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いつの間にか「傘寿」㉔

いつの間にか傘寿2
12 /04 2023
越し方を振り返っていたとき、
一番輝いていたのは、やっぱり徳間書店時代だったと思った。

次から次へとあのころの光景が浮かんで、なぜか私は涙が止まらなくなった。

入社して間もないころ。オンボロ社屋にて。
写真の裏に撮影者の手で「1964・4・17」と記されている。
女性の先輩編集者がいなかったから、
初めは庶務の女性から出版社のイロハを教わった。
社屋

そんなある日、部屋へ入ってきた「コウカイさん」から尋ねられた。

「雨宮クン。徳間書店って名前はどうかね」
私は即座に答えた。
「いいと思います。なんだか岩波書店みたいで」
そう言ったら、コウカイさんは破顔一笑して、「そうだろう。そうだよな」

最近読んだ佐高信氏の「飲水思源」に、アサヒ芸能と徳間の二社体制から
合併して一社にするとき揉めたと書いてあった。


「徳間」にすることは決まっていたが、「出版」か「書店」かで紛糾。
反対派は「徳間出版にするべきだ。書店だなんて本屋みたいだ」と進言。
だが社長は頑として「書店」を押し通したという。

それは私が退社した翌年の出来事だった。

入社した時、建築中だった新社屋が完成。私たちは高層の社屋に移った。
快適だったが以前のようなごった煮の味わいは薄れた。
「怪物的傑物」の「コウカイさん」と顔を合わす日も少なくなり、
「コウカイさん」は正真正銘の「社長」として、手の届かない人になった。

仲良しの同僚と潮来へ。
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在職2年半の間に、私は3回引っ越した。
最後は中央線沿線に住み、そこから毎朝、女性専用車両に乗り、
東京駅から新橋駅で下車。


烏森口を出ると広場があって、
台の上で大日本愛国党の赤尾敏氏が演説をしていた。

会社へ向かうとき、中年の男から「〇〇の店を知りませんか」と聞かれて、
「すみません。知りませんので交番でお聞きください」と言ったら、
男は神妙な顔で丁寧に頭を下げた。

編集室に入って事の次第を話したら、みんながドッと笑った。
「雨宮クン。からかわれたんだよ」と。
男が言った「〇〇」は、男女の秘め事に使う性具だと教えられた。

歌舞伎汁粉というお汁粉屋さんもあった。

ウエイトレスが歌舞伎役者の声色で、
「番町皿屋敷、ハイ、灰皿」と言って、テーブルに灰皿を置いた。

昼食に行く大衆食堂のライスに、ネズミの糞が入っていたことがあった。
店員は少しも慌てず、皿から糞だけ除いたので仕方なく残りを食べた。
みんなも「ネズミの糞の炊き込みご飯」を、平気で食べていた。
お腹を壊しはしなかったが、今から考えると万事、鷹揚な時代だった。

「お前さんは頭でっかちでいかん」と、編集長に言われた。
「やっぱり短大卒は中途半端で使いモンになんねえな」とも。
そうケナシつつ、「オイ、コーヒー飲みに行こうか」とよく誘われた。

社員旅行にて。在職2年半の間に編集長が二人。
ふざけて舌を出しているこの人は、最初の編集長
ちょっとスケベでズケズケものを言ったが、
世間知らずの危なっかしい「子羊」を、よく守ってくださった。
宴会3

「社長は読売の記者だったんだぞ」と教えられ、
「真善美って知ってるか?」とも聞かれた。
「入社試験で女の子はお前と慶応の女子大生が残ったが、
副社長の山下辰巳さんがお前を押して決まったんだ」


そのころ流行り出したつけまつげをつけて出社したら、
「そんなものすぐ取れ。あなたは素のままがいい」と、
美容指導をする男も現れた。

「そうなのか」と、私は素直に従った。


翌年入社してきた学習院出の男に「話がある」と言われて喫茶店へ。
いきなり「俺と付き合う気はあるか」と聞かれて、即座に「ない」と言ったら、
「付き合わないんなら、自分のコーヒー代は自分で払え」と言われて絶句。

こいつはその後、退職して個人経営の小さな出版社を起こした。
個性的な会社だったので、評価は高かった。

困ったのは、Tという執念深い他の部署の編集長から、
「仕事だから」と執拗に飲み屋に誘われることだった。

顔に大きな切り傷がある男で、
酒乱で酒が入ると日本刀を振り回すといううわさのある嫌われ者だった。

ある日、Tに絡まれている私を見た営業部のおじさんが、
Tの気が済むように酒場まで私に付き添い、
頃合いを見てそこからタクシーに乗せて逃がしてくれた。

女が仕事を続けることは本当にしんどい。落ち込むと小さな旅に出た。
短大時代、「女」と言ったら、ポエムの会の女性教授から、
「なんであなたは自ら卑下するんですか。女性と言いなさい」と叱られた。
教授の地位を得るまでの女ゆえの苦悩がひしひしと伝わってきた。
しんどい

Tは振られた腹いせに印刷所の営業マンを懐柔して、
「原稿紛失事件」をデッチあげ、さらに「雨宮は昨日、堕胎をした」と吹聴。
出入りのフリーライターの女性からの依頼で指定場所に書籍を送ったら、
なぜかTが、
「雨宮は会社の物品を横領したからクビにすべきだ」と社長に直訴した。

直属の編集長が言った。
「心配するな。社長は笑っていただけだよ。Tの狙いは俺なんだよ。
俺を失脚させるには一番弱いところから崩せば、と思ってやってるんだ」

そのあと、こんな話も。
「Tは社長命令で、ある国会議員候補者の選挙の手伝いをしていたとき、
事故で大ケガをしたんだ。その時の恩義があるので強く言えないんだよ」

しばらくして、私を騙したフリーライターの女性から手紙がきた。

「Tに頼まれて仕方なくあんな電話を掛けてしまいました。ごめんなさい。
私は仕事が欲しくてTの愛人になりました。恥じています。
Tと別れて故郷に帰ります」

仕事のために愛人になるって、なんだか切ないようなバカバカしいような。
数年後、故郷で結婚したとの手紙をいただいて、私は心底ホッとした。


父が収穫したアケビ。
ノイローゼ気味になって休暇をとり、数日、故郷へ帰ったことがあった。
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クソ真面目な先輩に騙されたこともあった。

その日、銀座界隈をはしごしたあと、
最寄り駅へ送ると言われて乗せられたタクシーは、
家とは反対方向の見知らぬ街へひた走り。
夜半過ぎに着いたのは、横浜の新興住宅地に建つ先輩の自宅だった。

同期の男性も一緒だったので油断したのがいけなかった。

夜明けを待って家を抜け出し駅を目指して走り、一番電車に飛び乗った。
幸い、両親と同居する人だったので何事もなかったが、
翌朝、もぬけの殻が発覚して大騒ぎになり「両親からこっぴどく叱られた」
と平身低頭されたが、無視した。

先輩たちから飲みに誘われたとき、
私はバーテンにアルコール抜きのニセ酒を頼んで危機を切り抜けていた。

近年、伊藤詩織さんの事件を知って、
仕事をエサに酒を飲ませる古典的手法が、今も生きていることに驚いた。

入社して5カ月目、広告作りに少しでも役立てようと
レタリングの通信教育を始めたが、忙しくて途中で断念した。
レタリング

そうそう、新社屋の地下に社長経営の「樽小屋」という飲み屋があった。
みんなからは会社の飲み屋なんかではグチもこぼせないと悪評だったが、
社長はご機嫌だった。

「飲水思源」の中に、懐かしい名前が出ていた。
「生出寿
(おいでひさし)」さん。

東大仏文科出身で、佐高氏言うところの、
全学連のリーダーだった「心情右翼のコミュニスト」。

戦時中は海軍にいたから、のちに海軍の本をたくさん書いた。

その生出さんが、副編集長から傍系の「ちゃんこ料理屋」に移動と聞いて、
社内が大騒ぎになった。
当の本人は飄々としてちゃんこ屋の亭主に成り切っていたが、
内心は忸怩たるものがあっただろうとも思った。

社員旅行。知らない顔はほとんど週刊誌の記者たち。
この中に「アサヒ芸能」記者から「月刊アニメージュ」編集長を経て、
「風の谷のナウシカ」などジブリ作品を企画プロでユースした
尾形英夫氏もいたはず。
社員旅行

尾形氏の著書「あの旗を撃て!」(オークラ出版 2004)の中に、
「山下辰巳副社長」のことが出てくる。

「エリートでシャープなところもある反面、豪放な一面も持ち、
中でも放屁の名人で会議の席上でもしばしば数発ぶっ放す。
新入社員のころはこの”山下砲”を浴び、ずいぶん驚かされた」と。

編集長から「山下さんの強い押しでお前は採用されたんだぞ」と聞いた時、
その恩人がなぜ姿を見せてくれないのか、みなさんみたいになぜ声を掛けて
くださらないのか不思議に思っていたが、
ひょっとしてこの「山下砲」を聞かせたくなかったのかも。

在職中私が山下副社長を見たのはたった一回、それも後ろ姿だけだった。


思えば、この会社に集っていた人たちは、
戦中・戦後の動乱と混乱を潜り抜けてきた猛者ばかりだった。

みんな無頼で酒飲みで、純情で優しかった。

「コウカイさん」の周りには各界の著名人が絶え間なく集まり、
そういう人たちが交差し入り乱れて新しい文化を作り、時代を席巻していた。

コウカイさんが豪快に走り抜けた「昭和の一番いい時代」。
その始まりの末席に、
何かの手違いみたいに採用された私も座らせていただいたのだ。


思い出しているうちに私はいつしか、あのころの女の子に戻っていた。

セピア色の写真を手にしたまま、私は懐かしさにまた泣いた。


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いつの間にか「傘寿」㉓

いつの間にか傘寿2
12 /01 2023
徳間書店には2年半しかいなかった。

短期間ではあったが、そここそが私の原点になった。
この原点に出会えたことが、
その後の私を何があってもめげないサバイバーにしてくれた。

社長の「徳間康快」という人はあらゆる意味で「大きな人」だった。
いつ見ても笑顔の人だった。
私たちは愛を込めて、「コウカイさん」と呼んだ。


社員旅行でオイチョカブをやった。コウカイさんボロ負け。私が勝った。
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佐高信氏は、
著書「飲水思源・メディアの仕掛け人 徳間康快」で、こう書いている。


「飲水思源は水を飲むときはその井戸を掘った人を思えと言う意味の
中国の言葉。


コウカイならぬゴウカイ(豪快)とも呼ばれた徳間康快は、
文化の井戸を掘った。それは必ず水が出ると信じて掘ったのではなく、
徒労に終わっても掘り続けなければ水は出ないと覚悟して、
さまざまな井戸を掘り続けた」

さらに佐高氏は、
スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏が、
徳間社長から言われたこんなことも書いている。

ある日、鈴木氏は徳間社長からこう尋ねられた。

「俺もいろんな会社をやってきて苦境に立たされてきたし、
ひどい目にもあってきたけれど、
これさえあれば切り抜けられるというのは何だと思う?」

わからないので鈴木氏が黙っていると、こう続けたという。

「人間的魅力だ。
これさえあればあらゆる艱難辛苦は乗り越えられる」

そう、コウカイさんはまさに、人間的魅力にあふれる人だった。


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株式会社金曜日 2012

私はオリンピック開催の年の1964年に、
「アサヒ芸能出版社」の「徳間書店」に入社した。
この年が初めての新卒者募集だったとあとから聞かされた。

どうりで、オヤジばかりだと思った。


会社の募集を何で知ったかは忘れたが、ひと目見て虜になった。
この出版社で出している週刊誌はハダカばかりと聞いてはいたが、
募集広告の文面は簡潔で新鮮、活気に溢れ、淫靡さは微塵もなかった。

文面は忘れたが、
私はその募集広告から勝手にこんなメッセージを受け取った。

「権威、縁故はクソくらえ。
これから発展するぞ、やる気がある者だけ、来たれ!」

なんだか闘志満々になって、
「ここだ! ここしかない!」と思い込み、即、願書を出した。

「短大生ですが、受験だけでもさせてください」と。

入社の3年前に「アサヒ芸能出版社」から書籍部門を「徳間書店」として
分離独立していたから、受かればたぶん書籍の所属だろうと思ったものの、
ハダカ週刊誌だって構わないとも思っていた。

入社後、編集長が「男を知らない生娘は大胆で怖い」と、笑った。

採用通知の電報が届いた時、
母が「アサヒゲ、イノー」と読んで大笑いになったのも、今は懐かしい。


二期入社の島田敬三氏は26歳で退社。溝口敦の名で作家デビューした。
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会社は新橋・烏森口にあった。

ルポ・ライターの竹中労氏は、
「木筋二階建て、つれこみホテルを改築したオンボロの社屋」と書いているが、
ここには新社屋に移るまでの短期間しかいなかったので、
オンボロ以外は記憶が薄い。


確か書籍の編集部は販売部と同じ部屋にあって、
週刊誌の編集部はその上階にあった。

「飲水思源」に古い社員の話として、
「そのころ社長は、週刊誌の編集長も兼ねていた」と書いてあったから、
社長室もその一画にあったのだろう。

私が2回目の面接試験を受けたのは、2階の小部屋だったような…。

とにかく人の出入りの激しい、ごった煮のような職場だった。
右寄りの人も左寄りも宗教の信者も学者もいた。

ノッポでおしゃれなゲイさんもいた。体を触られるからと若い男性は
二人だけになるのを避けていたが、逆に私には安全な人だった。

輪ゴムで無造作に髪を束ねていたら、
「女の子がそれではいけません」と忠告された。


出入りする面々も作家、政財界の人、相撲取り、歌手や女優の卵、
記事にクレームをつけて金銭をせびりに来るエセ〇〇や強面の人など、
木造の階段をギシギシさせながらひっきりなしに登って行った。

コンクリートの階段だったかもしれないが、
私には階段を上り下りする人の足音が、「木造の階段をギシギシ」
というふうに聞こえた。

のちに歌手として大成する五木ひろし氏もその一人で、
私がいたころは、ギター片手に飲み屋で弾き語りをする流しをやっていた。


建物は確かにオンボロだったが、
そのオンボロが吹っ飛びそうなほどすごい活気に満ちていた。
生きていることをこんなに実感したことは今までなかった。

仕事中に隠し撮りされた。これは新社屋に移ってから。
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出版局長で中国古典研究者として知られた村山孚氏(神子侃)は、
のちに当時の会社をブログにこう書いている。

「昨今の出版社と違い、社長は経営者というより風変わりな侍、
社員はサラリーマンというよりインテリヤクザだったり、
梁山泊風の仲間だったり、とにかく奇妙な集団だった」

「1955年、アサヒ芸能へ入社して整理部へ。ハダカ写真に抵抗があったが、
編集長にされてしまった。だが手がけた週刊誌は売れず、一年でクビに」

「ハダカ写真の編集長は適任ではなかったが、引き受けたのは心の隅に
青年の功名心があったからだろう」との述懐も。

その後、松枝茂夫、竹内好という中国文学の大家とその門下生13名と共に、
村山氏もその一員となって「中国の思想」12巻に着手。
会社近くのアパートの一室を研究室にして、若い学徒らと過ごすようになった。


ハダカ写真から一転、
中国の韓非子、孟子、論語などに鞍替えした村山氏は、
第10巻「孫子・呉子」の訳を担当した。


コウカイさんは試してダメでも見捨てず、必ずその人を生かした。

左伝

村山さんは陽が落ちたころ、
ホームレスたちの真ん中に座って、みんなと酒盛りをしていることがあった。
「あれ、村山さん」と声を掛けると、酔眼を向けてニタッと笑った。

みんなは「奥さんが怖いんで家に帰りたくないんだよ」と言っていたが、
ブログには妻への愛情あふれる言葉ばかりが並び、
その愛妻を亡くされたときは慟哭。「俺もすぐそっちへ行くからな」と。


その村山さん、
「もう時効だから告白するが」と前置きしつつ、こんなことも書いていた。

「34,5歳ごろ、ほろ酔い気分で飲み屋の赤ちょうちんを電車の尻につけた。
赤ちょうちんをぶら下げたまま走り去る電車を見送りながら、バンザイをした。
しかしこれは犯罪行為だと気が付き、以後、イタズラは止めた」

私は思わず、吹き出した。
なんだぁ、村山さんこそ奇妙で風変わりな人だったんじゃないの。

村山さんのこのブログを見つけたのは、あれから40年もたったころだった。
懐かしくてすぐ連絡を入れたら、
「おおーっ、覚えてるぞ」と、例の村山調の返事が来た。

そのとき、思った。

もしかしてこの私も、
梁山泊の仲間の一人に入れていただいていたのかもなあ、と。


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いつの間にか「傘寿」㉒

いつの間にか傘寿2
11 /28 2023
二人っきりになった父と母に、何か喜んでもらえることをしたいと思った。

母はなによりも本が好きだったし、父が「隠れ本好き」なのを知っていたし、
それに私は出版社にいるのだからと本を送ることにした。

二人が好きそうな本を社員割引きの7掛けで買って送ったら、
折り返し母から手紙が来た。

「お父さんは清子の手紙をジッと読んで目をそらし、
手紙だけお母さんの方へ寄こし、楽しそうに読み始めました。


  子の文のやさしさ汗の目にしみる

これでもかこれでもかとでもいうように、連日の猛暑。
清子は溶けそうなアスファルトの上をコツコツと歩いているのかしら。
パラソルをさしてください。日射病になりますから」


父に贈った林房雄氏の「西郷隆盛」
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手紙の末尾に母から、さらなるお願いがあった。

「新潮社刊 俳人伝記集 吉屋信子著『底の抜けた柄杓』
手に入りましたらお願いいたします。母より」

と書いた後、気が引けたのか、
「でも今度はこちらで買いますから、心配しないでください」とあった。

しばらく逡巡したのだろう、数行あけたあと、今度は、

「『西郷隆盛』は五巻までいただきました。
出来ましたら後、おねがいします。
お父さんが楽しみに待ってゐるようですので」と、書かれていた。


こんな小さな広告でも何度も赤を入れられた。
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母の希望した吉屋信子の「底の抜けた柄杓」を送ったら、
嬉しさ全開の礼状が来た。

「今日は待望の本と手紙をありがとうございました。
おどる胸をおさへて紐を解き、一気に三分の二読んでしまいました。
ほんとうにありがとう」


今東光氏の本には、勝新太郎さんが「発刊に拍手」を送っています。
「今氏の小説群は今日の壮観であろうか。
構想行文が天馬空を行く如く爽快で男性的である」
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またある日の手紙には、改まった口調の礼状が届いた。

「昨日は高價な本二冊もお送りいただきありがとう。
こんな立派な本を読むのも絶へて久しき。
毎日少しずつ読ませてもらおうと心楽しく思ってをります。

心もとない巣箱から(子供たちが)順々に飛び立って行き、
ついに最後の一羽も大空めがけて飛び立ち、
破れた古巣を抱いて虚しき心も癒えし今日この頃。

運ばれた短い文のふしぶしに、楽しさ満ち溢れてゐるのを知り、

うれしく思っています。
いつの間にこんな丈夫な木になってゐるのか。
雨にも風にも嵐にも、きっと耐へて行く事を信じます」


「色にかけてはひけ目をとらず、欲にかけては並ぶものなし」などと書く私を、
編集長がからかった。「色の道を知らないから、ズケズケ書けるんだよなぁ」
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若手社員たちが「雨宮清子の処女を守る会」を作った。
当時編集部は3つあった。
別の編集長から猛烈なセクハラを受けたが、みんなが守ってくれて助かった。


「艶話(えんわ)いなもの」の作者、近藤啓太郎氏のところへ行ったら、
仕事場は日本旅館だった。仲居さんに案内されて部屋へいったら、
敷きっぱなしの布団から顔だけ出して、「おお、来たか」

「僕の小説、どこが面白かった?」と聞くから、私は廊下に正座したまま、
「はい。チンクサーレがおもしろかったです」と言ったら先生、大爆笑。
チンクサーレは男性自身に塗るとそこが腐る薬のことで、
コンケイ先生の造語。浮気者の亭主への浮気防止薬だったのです。
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「清子は雨にも風にも嵐にも耐えていくと信じています」
と言う手紙の中に愚痴も忘れない。

「人生及び結婚の敗残者の私が、こんなことを言うのは一寸変だけれど、
人生はやり直しがききません。

   性合わぬ夫と幾年暮らしつつ
        涙しつつもむち打つ我に」


母の心の動きは、相変わらず右に左に揺れているのか、
ドキッとする手紙のあと、
今度は何事もなかったような日常を綴った手紙が届いた。

「もうすぐお父さんが仕入れから帰る頃です。
お父さんも昨日から清子からの本を読んでゐます。
お父さんには講談本のほうがよいようです」

母はあからさまに「性合わぬ夫」と、父をコケにしていたが、
父は私に言ったことがあった。
「お母さんと一緒になってよかったよ」

なにはともあれ、二人で寄り添って暮らしている様子に私は安堵した。

そんなある日、社長がニコニコしながら私に近づいてきた。


「雨宮クン。ご両親からおいしいものを送っていただいたよ。ありがとう」

一瞬、ドキンとした。


すぐ母に問い合わせたら、
「社長さんやみなさんに食べていただこうと思ってね、お父さんと二人で
草餅をたくさんついたの。お餅のほかに柿と栗も入れてお送りしたの」

写真の裏に母の文字で、
「ゲバ学生ではありません。アケビを取るお父さんの雄姿」と。
父は栗もこうしてとってくれたのでしょう。
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子供の頃、店を閉めた大晦日の深夜、大きな臼を真ん中に、
父が杵を持ち母が手返しをしていた餅つきの光景が浮かんだ。

実家の庭には大きな丹波栗の木があった。
甘柿の木はなかったから、父が隣町の果物屋から買ってきたのだろう。


都会の人にはヨモギの匂いはきついかもしれないし、
生の栗の処理に困っただろうと私は気を揉んだが、
東京の会社を知らない父と母からの、田舎まるだしの素朴なこの贈り物を、
社長は心から感謝して受け取ってくれた。

ありがたかった。


社員旅行で。徳間社長と普段は交流がない女性社員たちと。
改めて徳間社長の生年月日を調べたら、この時はまだ42歳。若かったんだ。
いつもニコニコしていて器の大きな人でした。
当時の奥様はミス早稲田だったとか。恐妻とのうわさも。
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いつの間にか「傘寿」㉑

いつの間にか傘寿2
11 /25 2023
新人編集者の私の仕事は主に3つ。

一つは作家さんや画家さんたちを訪問しての原稿の受け渡し。
二つ目は小説の校正作業。
これは初校、再校、三校と3回おこなった。

三つ目は広告の作成です。

デザインの学校を出たわけでもないのに、
いきなり新聞や週刊誌、チラシの広告を作れというのです。
デザインも文章もどの絵柄を使うのかも、私に全部丸投げ


でもやってみると、これが楽しかった。
どういうレイアウトにするか、とか、どのさし絵を持ってこようか、とか。

一番ワクワクしたのは、
ひと目見て、つい買いたくなるようなキャッチコピーを考えるときだった。

当時自分が作った広告を私はまだ持っているんです。スクラップブックで。

たとえばこんなもの。
ハードボイルド作家として一世を風靡した大藪春彦。サンカ小説の三角寛。
「柳生武藝帳」の五味康祐(正しくは示に右の文字)、菊村到の新作など。
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大藪春彦氏の奥様も元・編集者だったから、私はすぐ馴染んだ。
その大藪宅へ伺ったら、台所からご本人が叫んだ。
「ちょっと待ってて。今朝、大きなタコ獲ったんだ。今、茹でてるから」

その日私は茹で上がったばかりの大ダコと編集長への土産のお酒と
私へのチョコレートと原稿を抱えて帰社。
電車の中でタコが匂って、二十歳の乙女は恥ずかしくて、
タコを抱いたまま早く下車駅が来るのを祈っていた。

岩崎栄の「徳川女系図・家重濡れ牡丹の巻」には、
「放蕩将軍・家重の漁色はやまず」、今東光の「愛染時雨」では、
「浮世絵的エロチシズムの極致。二人は青酸カリサイダーを共に飲み下した。
そして双方からにじり寄るとヒシと抱き合った」
などと、人目を引きそうなコピーをルンルンと書いていた。


五味康祐氏、45歳。写真も若い。
「他でもない。柳生は忍びが本体じゃ」「忍び?」
かりそめにも将軍家兵法指南たる柳生家が、下賤の術と蔑まれる忍びとは…。
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そのころ関西の演劇界で活躍されていた花登筐さんが小説を初めて書いて、
この出版社に持ち込んだ。
以後、「フグとメザシの物語」「すててこ大将」など矢継ぎ早に出版。
原稿を渡されるのはいつも喫茶店。優しい人で、このひとときが楽しかった。
「僕、直木賞、欲しいんだ。取れるかなぁ」「取れます。絶対」なんて言って。
でも取れなかった。


花登筐「銭牝」
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「西郷隆盛」の著者・林房雄氏は確か当時、鎌倉に住んでいた。

はるばる訪ねた私を、まるで孫娘が来たとでもいうように
ご夫妻で歓待してくださり、帰りにはそのころ賛否両論で世間を騒がせていた
「大東亜戦争肯定論」のご著書を持たせてくださった。

笹沢佐保氏からは、できたばかりの日生劇場のチケットをいただいた。
「何枚欲しい?」と言うから「2枚」と言ったら、「恋人の分か?」「はい」

当日、会社の女性社員と出かけたら、
近くの席から私を見て、わっはっはと大笑いした。
どんな男が来るか見てやろうと思っていたんでしょう。私はエヘヘと返した。

個人所有の小型飛行機に乗せてくださった方もいて、もう楽しいことばかり。

ところがただ一人、怖い人と遭遇。
大御所・村上元三氏です。

当時この方は「鎮西八郎」シリーズを執筆。
上は「司馬遼太郎選集」の広告。この原稿には編集長の赤が入っています。
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村上氏の所は初めてだったが、いつものように何の憂いもなく出かけた。
ところが玄関へ現れたご本人、仁王立ちしたままいきなり大音声。

「こんな子供を寄越すなんてけしからん!」

帰社して事情を話したら編集長が、
「ただ原稿をいただくだけなのに、なんだ、えらそうに!」と憤慨した。

まあ、私は23歳の時、のちに夫となった彼と入ったパチンコ屋で、
警察官二人に補導されそうになったから、
元三先生には頼りないヒヨッコに見えたのでしょう。

会社の出版内容は、お色気物やお涙ものの柔らかいものから、
「中国の思想」「近代日本の名著」「日本刀全集」などの硬いものと幅広く、
頭の切り替えが忙しかった。


柴田光男氏の名前が入ったふろしきです。
柴田氏は当時の美術刀剣商・刀剣鑑定士。
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当時は「水石」ブームで、編集長と現地へ出かけたりもした。

そのころ、旧参謀本部編纂の「日本の戦史」全11巻が進行中。
私は毎月、監修者の大学教授のお宅へ原稿取りです。

そのうち、先生に気に入られて、「息子と見合いをしてほしい」と。

「拒めば原稿は渡さない」というので、人生初の見合いをしました。
でもねぇ、さすがに結婚はまだ早い。それに仕事も面白くなってきたし、
というわけで断るのに悩みました。


結局、編集長が「まだ二十歳そこそこで、仕事を始めたばかりですから」
と電話して、別の社員が菓子折り持参で謝罪に行ってくれた。

もちろん私は、教授宅へは出入り禁止になりました。
目出度く受け入れていたら、
私は「義父」からマンツーマンで歴史を教えていただけたのに、
ちょっと惜しかった。


色刷りのチラシ。
表は赤色で、
「義経記」「平家物語」「吾妻鏡」の三古典を総編集した「原典 源義経」
こちらは裏で「日本の戦史」。黒一色。定価はそれぞれ570円と580円。
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傘寿になったら、そんな昔のことが映像の如く鮮やかに蘇ってくるんです。

あのとき教授の息子のエリートサラリーマンの妻になったら、
母の念願通り、「上品なお召を着て里帰り」できたかも。
いやいや、あの優しい作家さんと結婚したら楽しい家庭が築けたかも。

長兄の紹介に素直に従い、航空自衛隊の秘書課に勤務して、
素敵なパイロットの奥さんになったら幸せだったかも、なぁんて。

あれから60年。
牛肉100g80円、映画鑑賞1回平均221円の時代に、新書版が300円前後。
映画より高かったが、よく売れた。

今は出版不況と言われ、町から本屋が消えた。

隔世の感あり。

ああ、青春は遠くなりにけり。


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いつの間にか「傘寿」⑳

いつの間にか傘寿
11 /22 2023
教員免許は取得した。図書館司書の資格も取った。

でも教員にはなりたくないと思った。
こんな未熟な教師が生徒たちを教え導くなんて、正直、怖かった。

図書館勤務も気が進まなかった。
なんだかカビ臭そうだし、堅苦しそうだし…。


寮の規則は厳しかったが、室内ではみんなのびのびしていた。
夜の宴会ではビールも登場。
写真がブレているのは、撮影者が酔っぱらっていたから。
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そんなとき、長兄から電話が来た。

「就職決まったか? まだならちょっと来い。きちんとして来いよ」

そうして出かけた先はなんと国会議員会館。


兄は勝手知ったる風情でどんどん入っていく。
私は緊張しながらあとに従った。

部屋ではでっぷり太った議員がにこやかに迎えてくれ、私の顔を見るなり、


「オッ、決まりだね。合格だ。航空自衛隊の秘書課。
でも一応、試験は受けてもらうよ。なに、答案用紙に001と書くだけだ」

兄が深々と頭を下げる。議員はニコニコしながら私に言った。

「2、3年勤めたら、優秀なパイロットと結婚するんだね」


でも私はこの試験をすっぽかした。

「パイロットと結婚? 人の人生、勝手に決めるな!」と反発した。
それにこんな不正はしたくないとも思った。

航空自衛隊の秘書課を蹴った私は、出版社を受験して採用された。

それから間もなく、兄から言われた。


「〇〇議員がお前を褒めてたよ。なかなか気骨のある妹さんだねって」

出版社では4年生大学卒の学生しか採用しないという規定だったが、
作文などの書類審査で特例を認められて受験させてくれた。
筆記試験と2度の面接試験を経て採用されたときは、まさかと思った。

10数名の新入社員の中の紅一点だった。


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母から手紙が来た。

「自分の才能を十二分に発揮できる職場を得られた事は、
人生最大の喜びかと思います。
お母さんは自分の出来なかった事を子供が次々とやってくれる事に、
どんなにうれしいかわかりません」


でも母はこれで末娘が帰ってくるという望みを断たれて落胆したのか、
そのあとにこう書いてきた。

「安心と疲労で寝床の虫になってしまった意気地のない私。
W子やY(次兄)が来てくれて、元気の糸を手繰り出してくれました」

「毎晩毎晩、清子の夢を見て困っています」


母の苦悩をよそに私は自分で掴んだ世界へ、ジャンプ!
その喜びを、その頃流行り出したセルフ写真ボックスで一人で嚙み締めた。


「私、やりましたよ!」「すごいねぇ! おめでとう!」  
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「これからの住まいですが、
お父さんが知り合いに見つけてもらおうかと言っています。
引っ越し費用はありますか?」

私は母のこの申し出も断り、自分で下宿を探した。
その私に、母はいつになく乱れた文字でこう書いてきた。


「二十歳の乙女が誰の力も借りずに、完全に一人で立っているんですもの。
でもよく一人でやりました。

  離れ住む娘に届たし百合の花

がんばれ、清子。負けるな 清子」


「がんばれ、清子。負けるな、清子」は、
母が自分自身へ送る声援だったに違いない。

百合の花の句をたくさん書いてきたけれど、
心ここにあらずの凡庸で乱れた句ばかりだった。


そして、わが身を振り返り、
淋しさと嘆きの入り混じったこんな言葉で手紙を締めくくっていた。

「五十の坂を越しても自分の足で立つことも、
そういう生活の楽しさも知らないお母さんにくらべ、
自分の力で生きてゆく清子を羨ましく思います」


眼科で遠視と言われてメガネをかけたが、すぐやめてしまった。
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この38年後、母は八十八歳の米寿を記念して自叙伝を書いた。
この本は頼まれて、私が編集した。
編集しながら複雑な思いで、母の八十八年の軌跡を辿った。

本に、私が卒業したころのことをこう書いていた。


「子供たちへの毎月の送金に気を張っていたと思います。
最後に清子が卒業して月謝はいらないと言われたときは、
張り詰めていた糸が切れたようでひどいショックで、
ボーッとしてしまったっけ。

当分は店に立つのも気が重く、計算も間違ったりして、
ハッと気づいたこともたびたびだった」


晴れて社会人になった年は東京オリンピック開催の年で、
私は会社の窓から、大空に描かれた白い五輪の輪を見上げていた。

切手乗車券

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞