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非文字資料

三重県総合博物館の訪問記が、
なんだか「ヘン」な方向へ行ってしまいました。

でもね、私はこれ、意図してやっておりました。

私は2019年6月4日のブログに「ヘンな論文」という記事を書きました。
これは大学の先生とお笑い芸人の2足のわらじをお履きになっている
サンキュー・タツオ氏の著書のタイトルです。

この本に我が師匠の高島愼助先生が取り上げられていました。
こんなふうに。

「画像がヘンな論文。真面目だけれどヘンなことになっている」
「石ばかり並べた石グラビア

これに対して私は、
「サンキューさん、読みが浅くありません?」と噛みついた。

もちろんサンキュー氏は、
「ヘンな論文」の研究者たちを愚弄しているわけではありません。
それは重々わかっております。
またこうした地味な「力石」を取り上げてくださったことにも
感謝しております。

ただ、ほんのさわりだけを面白おかしく取り上げてオシマイというのは、
なんだかなあ、いやだよなあと思ったのです。

だってそういう書き方って誤解を招くし、また一番肝心な
これを自著に取り上げた著者熱意意義が全く感じられなかったから。

というわけで、渋沢敬三氏の力をお借りして、
ちっとも「ヘンではない」を証明するために回り道をしたわけです。

こちらは昭和6年、津軽の旅で大草鞋を手にした36歳の渋沢敬三氏です。
この年、祖父の死去に伴い子爵を受け継いだ。

img011_20190715211234581.jpg
「宮本常一著作集50 渋沢敬三」よりお借りしました。

「自分は人の見落したことし残したことをやっていきたい」

これは渋沢が弟子の宮本常一に常々語っていたことです。

文献至上主義の世界で、
渋沢は文字や言葉ではなく物=非文字資料にこだわり、
民具「足半」に注目して、それらをできるだけ収集した。
 ※足半(あしなか)」=土踏まずのあたりまでしかない草履。

足半(あしなか)です。下級武士や庶民が履きました。
img012_20190716062452156.jpg
「澁澤敬三著作集 第3巻」よりお借りしました。

足半の研究に取り組んだころ、先輩の学者が、
「足半のようなくだらぬものを集めて、何の役に立つのか
と眉をしかめたという。

また、渋沢は民具収集にも力をそそいだ。

当時は農家で使っている道具を土俗品と呼んでいた。
渋沢は「いかにも卑下したような感じだ」としてそれを嫌い、
代わりに「民具」という言葉を作った。

足半や民具を集める渋沢は書生の一人から、
「先生はなぜそんな汚らしい田舎くさいものばかりやるのですか」
と言われたとき、ただ「好きだからだよ」と受け流していたという。

しかし本心はこうであった。

「民具は誰が作り、その技術はどこからもたらされたのか。
材料は何か。使用のされ方はどうなのか。
そんなことから常民生活の構造も探り当てられる」と。

上野の西郷隆盛像の足元です。西郷ドンも足半を履いています。
img013_20190716064155de0.jpg

ついでにこんな写真(下の写真)もお見せします。
撮影者の斎藤氏によると、腰に挟んでいるのは兎獲りの罠
この像は、愛犬を連れて兎獲りに行く姿だそうです。

西郷さんが一番かわいがっていたのはメス犬の「ツン」。
そのため長らく、上野の犬はツンだと言われてきたそうですが、
銅像の犬はオス犬だったようで、だからツン説は消えたとか。

私は狛犬の股間はよく見て回りますが、残念ながら、ここのはまだ。
あらぬところを覗きこまれて、ワンくん、恥かしかったかもネ。

2西郷ドン
西郷銅像は高村光雲作、愛犬は後藤貞行

宮本はいう。

「足半にしても先生は、日本人が藁(わら)をどのように利用し、
また履物が日本人の生活の中でどういう位置を占め、
どういう役割を果たしているかを見ようとせしめた。

多くの民具を集めたのも同じ心からで、目先の変わったもの
希少なものを集めるのではなく、
日常使用しているもの、また使用に耐えなくなったものまで集めた。
そこから、真の常民生活を探ろうとしたのである」

民具足半も、そして力石非文字資料なんです。


 ※「常民」という言葉も渋沢の造語
   国民や庶民とう言い方は上から目線のようで嫌ったという。
   渋沢の造語の民具や常民をのちに柳田国男も使い始めます。


※参考文献・画像提供/「宮本常一著作集50 渋沢敬一」未来社 2008
              /「澁澤敬三長作集 第3巻」平凡社 1992
              /斎藤
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力石を担いだ栄一翁

「瞬間の累積」という写真集があります。
これは渋沢敬三の父・篤二が明治後期に撮影した写真集です。

渋沢が「父の33回忌に何か記念になるものを…」と考え、
1万数千点ある写真から550枚選んで編んだものだそうです。

この写真集は私家本として、昭和38年10月6日に発行。
しかし渋沢敬三は、本が出たわずか19日後、
入院先の病院で逝去してしまいます。

享年67歳

廃嫡となった父の代わりに実業界で働いてきた息子は、
自分の死の1ヵ月前、本のあとがきにこう書いた。

は趣味の豊かな人で、写真、狩猟、狂歌もよくしていて、
義太夫も上手だったし、愛犬家としてもひとかどの人でありました」

先日、この写真集を見ました。

大島川の荷船、多摩川の鵜飼、馬のふりわけに乗った旅人…。
不夜城どころか闇夜の野っ原だった東京新宿駅周辺。

子供のころの敬三さんが相撲を取っている写真もありました。

で私は、この貴重な、それこそ敬三氏が命がけで手がけた写真集を、
もしや力石石担ぎのシーンが写っているのでは」
などという卑俗な野望を持って拝見したのですが、

トホホ、なかったんです。

こちらは父・篤二も息子の敬三も関わっていた澁澤倉庫内の力石群です。

1福住稲荷
東京都江東区永代・福住稲荷神社

ここにある力石10個すべてが、江東区有形民俗文化財です。

ああ、これもまた「兵(強者=つわもの)どもが夢の跡」になるのか、
と落胆しつつも、シツコク探しつづけまして、

とうとう見つけたんですよ、「力石」のこんな記述を…。

それは、敬三の祖父・栄一の
渋沢栄一伝記資料 第一巻 第一章 幼少年時代」に収録された
「上田郷友会」会員による寄稿文の中にありました。

その寄稿文です。

「旧幕時代には村に若者連の集まる場所に、
力試しをする力石と称するものがあって、
今日なお処々に残されて居るものがある。

神畑の伝ふる所によれば、翁(栄一)、青年の際、お得意まわりに来られ、
村の若者連に参加し、此の力石を試みたが群を抜き、若者連一人として
翁に及ぶものがなかったという」

「栄一翁が青年のころ、お得意まわりに来られ…」というのは、
栄一の実家で家業にしていた染料の「藍玉」を、
信州上田神畑の得意先の紺屋(染物屋)に売りに来たということです。

栄一翁の出身は、今の埼玉県深谷市血洗島で、
実家では、藍葉の買い付けや製造した藍玉の販売をしていたそうです。

こちらは力石に刻まれた澁澤倉庫㈱の社章です。

3福住稲荷

この社章は渋沢家で使っていた藍玉の商標が起源だとか。

元は糸巻きを模したもので、
この糸巻きの形が、楽器の鼓を立てた形に似ているところから、
立鼓(りゅうご)と呼ばれているそうです。

現在も澁澤倉庫㈱の社章として使われています。

こちらは敬三の父の写真集にあった「立鼓」です。
綱町・渋沢邸落成式の時の写真で、
「立鼓」の社章の半てんを着た人が写っています。

こうした男たちに支えられた
鳶(とび)連による梯子乗りの写真もありました。

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明治41年撮影。「瞬間の累積」より一部お借りしました。

7、8歳のころから祖父に連れられて、
藍葉の買い付けや藍玉の販売に信濃や群馬などを歩いた栄一少年。

14、5歳になると今度は、
従兄弟たちと商用の旅に出たそうですから、
信州での石担ぎの話は、そのころのものではないかと思います。

地元の若者が担げなかった石を軽々と担いでしまうなんて、
いきなり出来ることではありませんから、
日ごろから故郷の仲間たちと石担ぎを競い合っていたはずです。

栄一は15歳のころ、地元の若者組の若者頭(がしら)になっていますから、
知力、統率力に加えてかなりの力持ちだったと思います。

ちなみに、あの西郷ドンも青年のころは、
若者頭(鹿児島では二才=にせ)で、
以前、大河ドラマで西郷ドンが担いだ力石が紹介されたそうですね。

さて、
ここまで来るとさらに欲が出て、
栄一青年が担いだという力石を見つけたくなりましたが、

大海に針を探すが如し

でもまあ、
信州・上田の神畑で石を担いだ話がでてきて、
やっと渋沢家力石がつながりました。

やれやれ。


※参考文献/「渋沢栄一伝記資料 第一巻 第一章 幼少年時代」
        竜門社編 1956 の中の「渋沢翁と紺屋手塚の老婆」柴崎新一 
        上田郷友会月報 第六二〇号 第一五 117頁 昭和13年9月
※画像提供/「瞬間の累積ー渋沢二明治後期撮影写真集」渋沢敬三
         昭和38年 私家本
        /斎藤

力持ち、社史に載る

昭和32年の「澁澤倉庫六十周年」記念式典で、
力持ちの妙技を披露した「深川力持睦会」

出演したのは、
澁澤倉庫従業員の3人と三倉荷役、帝国・大成倉庫の従業員たちを含む
男性10人とお囃子の女性5人。

この晴れ舞台に立った澁澤倉庫従業員の根本正平が、
その20年後、「東京澁澤同友会会報」にこんな談話を残している。

力持ちは無形民俗文化財に指定され、今では木場の角のりと並んで、
テレビでも時々お目にとまっていると思います。

澁澤倉庫六十周年記念に曖依(あいい)村荘で、また日本倉庫協会の
椿山荘の総会でも披露しましたから、実物をご覧の方も多いでしょう。
曲技のコツはと聞かれますが、やはり練習。それに我慢でしょう」

こちらは社史に掲載された「力持ち」の演技の様子です。
img009_201907082003403bd.jpg
      
主な種目は「江戸の花五人持」「酒樽の差し上げ」「力石の差し分け」など。
仰向けに寝た人の上に舟や人や俵を乗せた「宝の入船」は、
下の人に780Kgもの重量がかかるというのだから命がけです。

根本たちは沖縄海洋博へも行ったという。
 
※「沖縄国際海洋博覧会」
  沖縄返還と日本本土復帰を記念して昭和50年に開催。
  現在跡地は「沖縄美ら海水族館」などになっています。

この海洋博からすでに半世紀。
当時10歳で博覧会に行った子なら還暦ですよ。

平成なんてちょっと前だと思っていたのに、元年生まれはもう31歳。
そして令和と変わり…。

時の立つのが早いこと!

さて、こちらは澁澤倉庫内の
福住稲荷神社に保存されている根本正平の力石です。
この稲荷神社については、
渋沢敬三も「福住の屋敷にあった」と著書に記しています。

でも力石や力持ちに言及していないのがなんとも残念。

2福住稲荷
東京都江東区永代・福住稲荷神社

こちらは「富岳」石。
横に「澁澤倉庫内」と刻字されています。(赤矢印)

これは昭和8年(1933)に奉納された石で、
根本は立会人として名を刻んでいます。

4福住稲荷

「富岳」が奉納されたこの年、渋沢敬三、37歳。

第一銀行常務、澁澤倉庫参与という実業家と、
「豆州内浦漁民史料」に着手するという学者の両輪で多忙を極めていた。

しかし、私生活では昭和6年の祖父・栄一の死、
翌7年には、敬三自身の発病と父・篤二の死という不幸に見舞われた。

そうした試練を乗り越えて迎えたのが、この昭和8年だった。


※参考文献・画像提供/「澁澤倉庫百年史」澁澤倉庫㈱社史編纂委員会
                平成11年
※画像提供/斎藤氏

「親和」の精神

渋沢敬三の祖父、栄一が設立した澁澤倉庫(株)は、
昭和32年(1957)に創業60周年を迎えています。

このときの社長は敬三の中学時代以来の親友・中山正則
敬三の弟子の宮本常一は、その中山について著書にこう記している。

「家庭的には不幸であった中山を渋沢の母は実に大事にした。
だから中山は渋沢の母を本当の母のように慕い、仕えていた」
  ※敬三の母は公卿・橋本実梁の妹。

渋沢が戦後公職追放になり、経済的にも家庭的にも苦しくなったとき、
中山は、「こういうときこそ、そばにいてやってくれ」と宮本に頼んだ。
  ※岩崎財閥出の妻は、このとき渋沢の元から去っていったという。

下の写真は、昭和14年ごろの渋沢家の自家菜園です。
公職追放になった敬三はここで鍬を持ち、肥桶を担いで働いた。

その「にわか百姓」の敬三を見て、
多くの篤農家が援助の手を差し伸べたという。

そんな中、関東系と関西系では鍬の刃先が違うことに気づき、
その原因を土質であることをつきとめたりしています。

どこまでも研究者ですね。

img008_20190706082123f94.jpg

宮本の話を続けます。

「それで私は用事がなくてもたびたび上京して、中山の言葉を含めて、
私のようなものでもお役に立てればと伝えたら、渋沢は号泣した。
私は生まれてはじめて、そして一度だけ、渋沢のそういう姿に接した」

「平静を装いつつ、いかに張りつめた気持ちで日々を生きてきていたことか。
そうした渋沢をもっともよく知っていたのが中山であった」

敬三の子息・雅英も、
戦後すべてを失った父の姿をこんなふうに回顧している。

「その頃から父が居間で、
一人でトランプをしている姿を見かけることが多くなった。
カードが擦り切れて汚くなっても意に介さず、
同じ遊びを何百回、何千回と繰り返すのである」

出口の見えないそんな状況も5年目の昭和26年、ようやく解除。
このとき渋沢、55歳

しかし、有能な弟子たちを戦争で失い、残った者たちも故郷へ帰るなどして、
築きあげた常民文化研究所はガタガタ。
しばらくは宮本常一と二人だけの研究所が続いたという。

敬三は「澁澤倉庫六十年史」(昭和34年発行)にこんな祝辞を寄せている。

「終戦後、私が最も敬愛する中山さんが社長になられ、
ー略ー
戦後澁澤という名はよしたらと申したこともありましたが、
社員諸君のご希望でそのままになりました。
ー略ー
ここに澁澤倉庫ありというふうになって喜んでおります」

その中山正則の記念式典での挨拶が残されています。

「わが社の伝統の中心をなすものは「親和」の精神であります。
創業以来、この精神が一貫して流れてきているのであります。

もし、我々の間にこの精神が伝わらなくなったとするならば、
名は澁澤倉庫であっても、実質は澁澤倉庫でなくなったと極言されましょう」

この日、従業員やその家族による多彩な演芸が行われた。
そしてこの日の呼び物として登場したのが、
東京都無形民俗文化財に指定されたばかりの「力持」の演技だった。


※参考文献・画像提供/「宮本常一著作集50 渋沢敬三」
               未来社 2008
※参考文献/「澁澤敬三著作集 第3巻」「犬歩当棒録」平凡社 1992
        /「澁澤敬三著作集 第4巻」「旅の人生 父渋沢敬三の思い出」
         渋沢雅英 平凡社 1993
        /「澁澤倉庫百年史」澁澤倉庫株式会社 平成11年

柳田、渋沢と力石

前々回、ずっと気になっていたこととして、私はこんなことを書きました。

「日本民俗学の創始者、柳田国男と、
民族・民俗・歴史博物学に大きな足跡を残した渋沢敬三のお二人は、
力石力くらべについて何か書き残してくれていないだろうか」と。

まず、柳田国男から調べました。
さすがですね、ありました。

「定本 柳田国男集」の1、5、9、14、15巻の9ヵ所に書かれていました。

これがその一例です。
かいつまんでいうと、こんなことが書かれています。

(一人前の証しとして)広い区域で行われる風習としては、
力石またはさし石ということがある。
目方の知られた大小の力石が、村の御社の境内などに置いてあって、
男は少年の頃から暇があるとそれを差し上げたり肩に載せたりして
ー略ー
最小限度、米一俵を担がれるということが条件であり、それができない者は
僧になり商人などを志願したと同時に、一方、この関門を通った者は、
神を祭る団体に入ることを許され…

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「定本 柳田国男集 第15巻」

柳田はこのほか、力競べ、力自慢、力の信仰など、
力に関する記事を40か所ほど書いていました。

では渋沢敬三はどうか。

明治30年、敬三の祖父・栄一は、
深川福住町の大島川に面した自宅内に「澁澤倉庫」を設立します。

孫の敬三は大正15年にそこの取締役に就任。
昭和34年の「澁澤倉庫六十年史」には、こんな言葉を寄せています。

川岸の道から門を入ると両側に三三の倉が建ち並んでいて
ー略ー
物心がついてからはよくこれらの倉前や倉と倉との間を遊び場にしていました。
荷役方(当時は小揚げといった)が大島川に浮かぶ艀(はしけ)から
肩に米俵等を背負って巧みに踏み板を渡っては倉へ出し入れしていました

こちらがその「三三の倉」です。
 ※三間(さんげん)に三間(さんげん)の意。一間は1.82m。

img006_20190701201650143.jpg
「澁澤敬三著作集 第3巻」よりお借りしました。

子供のころの渋沢の遊び場は倉で、そこで荷役の男たちを見てきている。
そして、昭和の時代には、
その倉庫で佐賀町の力持ちの根本正平が働いていた。

根本は「澁澤倉庫百年史」に元作業員取締として談話を寄せているし、
澁澤倉庫内の福住稲荷神社(東京都江東区永代)には、
根本たちの名を刻んだ力石が、今も10個も保存されている。

これは期待できそうだ。

だって柳田と違って、身近に力持ちたちと接してきたのだから、
その労働形態や風習に興味を持たないわけがない。

ところが、です。
著作をひっくり返しても「力石」の「ちの字」も出てこないのです。
思い余って、
神奈川大学日本常民文化研究所へ問い合わせました。

ここは渋沢敬三の業績を引き継いだ研究所です。
で、すぐにお返事をいただきましたが、そこにはこんな言葉が…。

「渋沢敬三が力石に言及した文献等は見当たりませんでした

涙……


  =古い映像をご覧ください=

神奈川大学・常民文化研究所をクリックすると、
簡易検索の画面が出てきますから、フリーワード欄に「映像」と入れてください。
渋沢敬三とチームが撮影した昭和の古きよき日本の姿が見られます。

山古志村の「牛の角突き」、東北地方の暮らしや祭りなど、
大人も子供もみんな、実にいい笑顔をしています。
テレビのない時代には誰もが主役だったということが実感できます。


※参考文献・画像提供/「定本 柳田国男集」15巻 筑摩書房 昭和44年
               /「澁澤敬三著作集 第3巻」平凡社 1992
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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