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やがて悲しき…

世間ばなし➁
06 /01 2023
このところいろいろあって、ちょっと疲れちゃって、
それで本日は世間話です。

カンヌ映画祭で北野武さんが新作映画「首」で、万雷の拍手だったそうで…。

大昔、この人の映画を見たら、残虐場面がコマ落としみたいに現れて、
結局、何を言いたい映画だったんだろうということになって、
その後は見る気がしなくなった。

ほかの監督の作品に俳優として出ているときは、
いいね!となるんですけど。

ただ、どの映画の役柄も同じに見えた。

私は映画に詳しくないし凡人だから、
良さがわからないだけかもしれない。きっとそうだろうな。

だって海外のみなさん、あんなに熱狂していたし。

有名俳優を起用して、何本もの映画を制作するって、
すごいお金持ちなんですね。才能もエネルギーも枯渇しないのがすごい。

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で、映画の残虐シーンを背にした北野氏の顔を見ていたら、
なんだかウクライナの大統領とダブってきちゃって…。

ごめんなさいね、おかしなこと思っちゃって。

でも、よその国のお殿様が用意した特別仕立ての「空飛ぶお駕籠」から、
G7の日本国・ヒロシマへTシャツ一枚で現れたのを見たら、

ひょっとしてこれは戦争映画のスクリーンを背にしたお芝居で、
あの悲痛な顔が次の瞬間、
「アッハッハー! みーんなトリックだよ」とお道化出すんじゃないか、と。

こんなことを書くと、「侵略された非常時の国なんだよ。不謹慎な!」と、
お𠮟りを受けそうですが…。
これって、韓国に現れた大統領夫人の美しい装いを見たせいかも。

で、そのお二人の顔にさらに重なったのが、子供の頃観た地方まわり、
そのころはドサまわりと言っていた役者の顔。

なぜこの3人がダブって見えたのか、自分でもわからない。
もしかしたら、
先の二人も芸人出身だから、そういう刷り込みで見ているだけなのかも。


私が住んでいた田舎に大きな製紙工場があって、
そこに芝居小屋があったんです。
芝居小屋といっても歌舞伎座に似た立派なもので、枡席も花道もあった。

格天井には企業の派手な広告が描かれていて、まわり舞台まであった。

まわり舞台は手動式だったから、床下ではおじさんたちが梶棒を持って
ぐるぐる回しているんだと親から聞かされた。

その役者さんたち、興行の前になると舞台衣装を着け、
一座の名を染めた幟を立てて、村のメインストリートをゾロゾロやってきた。

幟には「美空すずめ」とか「中村銀之助」なんていう
当時の有名歌手や俳優の名を寸借したインチキ名が書かれていた。

そうして村中を宣伝して歩くのだが、
太陽に晒されたその顔の気色の悪いことったら。

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男も女も白塗りべったりの顔に真っ赤な口紅。
青やら黒のシャドウで隈取りした中に黄色味を帯びた目。

そういう一団が真っ昼間、わーわードンドコ賑やかにやってくる。

役者が喚くたびに口紅がこびりついた歯がむき出しになり、
安物のカツラが額や耳の境目でフガフガ、パクパク動くので、
その異様さにギョッとなって、私はすぐ家の中へ逃げ込んだ。

夜になると、芝居の幕が開いた。


ほとんどが時代劇で、斬った張ったの大立ち回り。
座長扮する正義の素浪人が、悪人共をバッタバッタと斬り倒す。

小人数の一座だから、
死んだはずの悪人が生き返ってはまた斬られ役を演じるので、
その都度、笑いが起きた。


素浪人は死体が転がる舞台の真ん中に立つと、
血に染まった刀をかざしたまま、静止画像に成り切った。

そのスキを突いて舞台の袖から小走りに現れた悪人が襲いかかる。
観客が「あっ!」と息を飲んだ瞬間、バサリ。
素浪人の刀のほうが一瞬、早かった。


勝新太郎主演。「総天然色」「大映超大作」と銘打った昭和の映画。
「賭場から喧嘩場へ! 腕も上った! 
子分も出来た! 命知らずは寄ってきな!」
と書かれている。
映画

浪人はそのまま円を描くように刀をぐるりと回すと、再び静止画像になり、
首をひねって観客をねめまわしてキッと睨んだ。

すると満員御礼の客席から、万雷の拍手が起きた。
大向こうから声がかかる。


「なかむらやっ!」

無数のおひねり(投げ銭)が舞台めがけて宙を飛ぶ。
おじさんもおばさんも、持参した重箱の御馳走を頬張りながら一斉に叫ぶ。
「ほれぼれするよォー!」「あんた、さっきは後ろも危なかったよォ!」

役者は額に受けた刀傷の偽物の血を滴らせたまま観客席に向き直ると、
ニンマリ笑い、歯をむき出して叫ぶ。

「ありがとヨ!」

最後に子役を出す。これがまた悲しい役柄で…。
その子がたどたどしい声で言う。
「ととさま、かかさまの仇を討ってくれて、ありがとう」

客はもらい泣きしつつ、またも競っておひねりの雨を降らせた。

そしてすべてが終わると、「悪を滅ぼす正義」の舞台は一変。

さっきまで敵同士だった役者たちやあの幼い子役までもが、
おひねりを夢中でかき集めるシーンとなって、現実に戻っていた。


世界の映画監督と大統領閣下には恐れ多いことだけれど、
私にはなんだか、戦後間もない田舎の芝居小屋で、
見得を決めて拍手喝さいを浴びた座長とこのお二人が重なって…。

そんなふうに思うのは、やっぱり変ですよね。

このところいろんなことがあって、ちょっと疲れちゃったせいかも。
そうですよね、きっと。


紙芝居に見入る戦後の昭和の子どもたち。
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「藝能東西」小沢昭一編集・発行 新しい芸能研究室 1976

面白うてやがて悲しき鵜舟かな   芭蕉

    ーーー明るいニュースーー   

心を乱されて疲れちゃった私のために、
そばつぶさんがこんな情報を届けてくれました。


「73歳が石上げに挑戦」

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神話とサイエンスの融合

盃状穴②
05 /29 2023
「日本史サイエンス 弐
邪馬台国・秀吉の朝鮮出兵・日本海海戦の謎を解く講談社 2022を読んだ。

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著者は播田(はりた)安弘氏。

「古代史のテクノロジー」の著者・長野正孝氏と同じ、エンジニアです。

長野氏は「海の技術屋」と自己紹介していましたが、
播田氏は「船の技術屋」と。

「父は造船所経営。母の実家は江戸時代から続く船大工「播磨屋」の棟梁。
ご自身は三井造船で大型船から特殊船までの基本計画を担当した」という。


どっぷり「船」と共に歩んできた播田氏、
「エンジニアなりの発想で、邪馬台国の謎解きに挑戦した」
そうです。

この本と並行して、
「歴史道・卑弥呼と邪馬台国の謎を解く!
(監修・武光誠 朝日新聞出版 2021)も読んでみた。

こちらの執筆陣は日本古代史、中国古典、文化財、日本史、考古学などの
アカデミックな学者さんたち。


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どちらも「邪馬台国の謎解き」だが、その捉え方が違って興味深かった。

エンジニアのお二人は、当時は「瀬戸内海航行」は無理といい、
大陸との「交易」を重視しているのに対し、
学者連は「瀬戸内海航路」をとり、中国への「朝貢」に重きを置いていた。

技術者のお二人が「瀬戸内海航行は無理だった」として、
山陰航路を主張した理由はこうだ。

播田氏は、かつていろんなチームが行った大陸から日本への
実験航海を取り上げ、その失敗の一つをこう説明していた。


「一見、瀬戸内海は穏やかに見えるが、
潮流が速く、渦を巻き、干満の差が激しく、浅瀬が多く難しい海域。
だから平清盛時代までは宋からの船は福岡止まりで、
瀬戸内海は航行していなかった」


「日本史サイエンス 弐」より
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では山陰ルートはどうかというと、

「日本海側の対馬海流は速く困難を極めるが、古代人は往来していた」
それを可能にしていたのは「流れに任せていたから」と播田氏はいう。


「釜山を船出し、対馬の北端の韓崎まで行き、
そこから南に向かって出港すれば、そのまま対馬海流に流されて北上し、
山陰の益田や浜田に向かって船が進む。

やがて海上から山陰の三瓶山、大山が見えてくる。
そのまま陸伝いに海路を行けば、出雲の方向に高い塔が見えてくる。
九州を目指すより山陰を目指すほうがはるかに楽で、自然に到着する」


「往路で九州から朝鮮半島へ行く場合は、福岡から出航するより、
西の唐津や平戸から船出して壱岐へ行き、海流に乗って対馬の北端へ。
そこから陸沿いに南下して対馬海流を利用すれば朝鮮半島へ着く。
古代の船でも楽に航海できたと思われる」

難しい「流体力学」などについては、本書をどうぞ。

矢印が「韓崎」
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海流のほかに播田氏が強調しているのは、
「翡翠と鉄の交易」です。

「5500年前の縄文時代、
新潟県糸魚川支流の姫川や海岸で翡翠が発見され、加工が始められた。
ここには世界最古の翡翠加工所があった。
その翡翠が大陸の人々に届けられ、大陸からは鉄が入ってきた。

その証拠に、
6000年前に日本で作られた曽畑式土器が朝鮮半島で出土したり、
逆に朝鮮半島で作られた櫛目式土器が日本で出土している。
韓国の「天馬塚金冠」
(5~6世紀のもの)に、姫川の翡翠が使われている。

このことから、糸魚川から山陰へ向かう「翡翠の道」と、
大陸から山陰へ向かう
「鉄の道」が存在した」と播田氏はいう。

これは長野氏の「大陸とを結ぶ縄文時代からの交易路」と同意見です。

ただ、長野氏の「倭国は日本海沿岸の竪穴住居群の連合体。
卑弥呼は丹後あたりにいたのではないか」
に対して、播田氏は違います。

この邪馬台国の所在地について「九州説」と「近畿説」がありますが、
未だに決着がついていません。
だから「魏志倭人伝」が示す邪馬台国までのルートも未確定です。

確定しているのは、対馬、壱岐を経て北九州の博多までで、
これはどの学者さんたちにも異論はないとのこと。

では、「技術屋さん」お二人が考えた「山陰ルート」はどうかというと、
「畿内説」の学者さんたちにも取り上げられてはいますが、
やはり、圧倒的に支持されているのは「瀬戸内海ルート」だそうです。


「船の技術屋」播田氏は、ルートと邪馬台国についてこう考えました。

対馬→壱岐→松浦→糸島→博多と確定ルートは同じですが、
その先から違ってきます。


「博多から福岡県遠賀郡へ行き、そこから船に乗り山口県下関を経由して
山陰に渡り、日本海を進んだ」


「邪馬台国は最初九州にあり、卑弥呼の死後山陰ルートで但馬から
円山川を遡って豊岡に上陸。そこから近畿に入り纏向勢力を併合した」


「古代史サイエンス 弐」より
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私はもう、「なるほど!」と唸りっぱなし。

学者さんたちの説より播田氏のいう
「神話とサイエンスを融合させた視点からの検証」のほうが、

技術に裏付けされて、説得力があって、断然、面白かった!

サイエンス、最高!

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出雲、丹後は古代の国際都市だった

盃状穴②
05 /26 2023
長野正孝氏はその著書で、
自身が古代史に踏み込んだ理由をこう言っている。

「日本の最初の正史である「日本書紀」を読みながら、
古代史の現場に立った時、現場の地形と「日本書紀」の内容や、
この国が積み重ねてきた歴史学的知見との間に乖離があることに気づいた」

長野氏のライフワークは海洋史、土木史研究。


現役時代は広島港、鹿島港、第二パナマ運河などの計画・建造に従事。
世界三十余国の海や川をつぶさに見て歩いたといい、
自らを、「海の技術屋」と称している。

その長野氏が「日本書紀」に持った大きな疑問の一つがこれ。


「日本海側の古代史がほとんど記載されていない!」

あっ、これって、他の学者さんたちも主張している
「ヤマト王権を目立たせるために藤原不比等が使ったトリック」ってことか、
とワタクシメの心もザワつき、色めき立ちました。


長野先生が想定した「倭国」。「古代史のテクノロジー」PHP 2023より
倭国

中国の歴史書「魏志」東夷伝 倭人条に、
「邪馬台国の卑弥呼」が出てくることから、その所在地について、
長い間論争が続いている。

で、そのことについての長野氏の見解はこうだ。

「当時、国家が存在したとは思えない。
朝貢は国家を代表したものではなく、商売人の頭目の表敬訪問であった。
集団は利益で結びつく。それが交易の成り立つ摂理である。


卑弥呼が存在したとすれば、丹後周辺であろう。
漢書のいう百余国というのは、日本海沿岸にあった集落のことだろう。
ここには世界一長い海の交易路、縄文人のネットワークがあった」

どういう交易かというと、「玉石」だという。

新潟・糸魚川のヒスイ、長野県、北海道の黒曜石、秋田県のアスファルト
岩手県久慈市の琥珀、佐渡の赤玉、能美の碧玉、出雲のメノウ…。

古代史学の水野祐先生も、
「古代の出雲」吉川弘文館 1972で、こうおっしゃっています。

「北陸と山陰地方は古くから海上を通じて通航が行われていた。
出雲文化は海によって開けた。
出雲はシベリア、満州、韓半島と中国山地とを結ぶ南北交通路と、
日本海の東西を結ぶ東西航路とがクロスする交通の要衝であった」

これ、島根県・宍道湖産のしじみです。店頭に並んだのはこれ一度切り。
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「ここが変わる!日本の考古学」ー先史・古代史研究の最前線ー
藤尾慎一郎・松木武彦編 吉川弘文館 2019に、こんな記述がある。

「魏志倭人伝には、2世紀後半ごろ、倭国が大いに乱れたと書かれている。
文献に残る最古の戦いの記録とされる倭国の乱だが、
これを境に卑弥呼が擁立され、邪馬台国の時代に入ることから、
多くの古代史ファンの関心を集めている。

しかし考古学的に倭国争乱の証拠があるかと言えば、
見つかっていないというのが実態である」

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長野氏はいう。
「玉造りに秀でていたのが、丹後と出雲。
大陸からは銅鐸や鉄、優れた技術や文化がもたらされた。
古代の交通路は海と湖と川。そのころの畿内の船や港湾の技術は未熟で、
瀬戸内海航路はまだ開発されていなかった」


「朝鮮半島から対馬、壱岐、糸島、下関、出雲という交易路を通って、
渡来人が大勢やってきた」

そういえば「禹王と日本人」王敏 NHK出版 2014にも書かれていた。

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「日本書紀・欽明五年十二月の段に、
佐渡嶋に「みしはせ」人(中国東北の民族)が暮らしている。
嶋の東側には朝鮮半島経由でやってきた人々の村がある」
と。

長野氏の論を進めます。

「航海には水の補給が不可欠。その供給地には、
「渡し(和多志)」=航海を助ける専門家集団
(のちに海賊になる)がいた。
「渡し」には船の安全を祈る「渡しの神」を祀る神社があり、
そこは水の供給所であり、宿泊施設でもあった」


私はこの個所を読んで、
神社の成り立ちはそういうことかもしれないと、えらく納得したんです。

古墳は水辺にあってその上に祠や神社があることが多いのも、
そういうことかも、と。


祈りの場のほかに水の補給、宿泊、そして情報交換の場であった。
そういう
「実」を伴なったからこそ、
神社は重視され有難がられたのだろう、と。


静岡県沼津市に「高尾山古墳」という古墳前期前半に造られた
前方後方墳があります。
ここの発掘調査に携わった筑波大学の滝沢誠教授によると、


「前方後方墳は全国で500基余、静岡県内では7基。
その6割が東日本に存在する。

西日本とは異なる政治的背景を持った有力者たち
がいたのではないか」

これを沼津市文化財センターでは、「スルガ最初の王」と呼んでいる。



「出土品の青銅製の鏡は2世紀代の中国の官営鏡工場で製作されたもの。
また副葬品の構成が東日本最古期の前方後方墳のものと類似しており、
このことから、
これらの地域の人々に共通した意識があったものと思われる」


「古墳後期になって前方後円墳が現れるので、そのころ大きな社会の
変化があって、大和王権の影響があったと考えられる」
(滝沢誠教授)

長野先生もこういう。
「4世紀後半になると大陸から安い鉄が大量に入り、これにより列島の
鉄が値崩れを起こし、日本海側の「倭国」と言われた集落は衰退していった」

ここで初めて、畿内の大和政権の登場です。


で、それから400年後に現れた藤原不比等らが何をしたかというと、
日本海沿岸に栄えた「倭国」の栄華を横取りして、
すべて畿内の大和政権の事績とするために、
記紀から、日本海側の古代史を消し去った。

その空白を埋めるために、何人もの架空の天皇さんを登場させて、
日本書紀に盛り込んだ。
(長野正孝。大山誠一)

というのですから、
あまりのことに、私は
「ポワ~ン」としてしまったのであります。
ただねぇ、長野先生、「タカミムスヒ」の「ヒ」を「ビ」と表記しているんですよ。何でか、お聞きしたいところですが…。

で、長野先生の本に、能登の「雨の宮古墳群」の話が出てきたんですよ。

私、思わず、
「おおーっ! 私と一緒じゃないですか!」

マスコットキャラクターの「あめろく」さんです。
まるで自分を見ているような…。

あめろく
ここは能登の王を葬った国の史跡で、
北陸最大級の前方後方墳など全部で36基もの古墳があるそうです。


「雨の宮古墳群」

命名の由来を中能登町の教育委員会にお聞きしました。

「以前は、雨の宮1号墳の古墳上に、
「天日陰比咩(あめひかげひめ)神社」が建っておりました。
(現在は移築)。
当神社は古くから、地域の”雨乞い社”としての役割を担っていて、
俗に「雨の宮」と呼ばれていた。古墳の名称の由来はここから来ております」


私の先祖も、
「雨を降らせ給え。かしこみかしこみもうす」なんてやってたのかしら。

幸い、今回の地震の影響は受けなかったそうです。

私は名前とは真逆の晴れ女だけれど、こうなったら是が非でも、
「あめろく」さんに会いに行かなくちゃ。

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出色の本

盃状穴②
05 /23 2023
「古代史のテクノロジー」PHP 2023
の著者、長野正孝氏は、名古屋大学工学部出身の工学博士。

そういう経歴の方が、古代史に挑んで本を書いていた。

拝読してうわっとなった。


私の頭にこびりついていた「歴史は歴史学者」という固定観念が、
パッパラパーと吹っ飛んだ。


長野先生、やりますねぇ! とても理系の人とは思えません。(笑)

古代のテクノロジー

だって私が知る理系の人の文章って、一般人向けなのに、
ここぞとばかりに数式やら専門用語を多用して、

「お前らは何も知らないだろうから、俺が教えてやる」
という鼻持ちならない態度がいやらしいほど出ているし。


逆に文学的手法だって使えるんだぞと言わんばかりに書いた随筆などは、
定型文の羅列で面白くもなんともない。

こむづかしく書けば立派な文章とでも思っているのか、
想像力の欠如、発想の貧困が際立つ。


とまあ、十把ひとからげに過剰にわめき散らしましたが、
こんなふうに私が理系を標榜する輩を敬遠するのは、
かつてこんな経験をしたせいかも。しかも二人もの元・リケジョから。

「あなたは文系かしら? どこの大学、出てますの? 
私は一応、名のある大学の理系を出てますから」


そのうちの一人がある日、こう言って自慢した。

「テレビのクイズ番組、主人はダメだったけど私、全問正解よ。
主人より知能指数が高かったのよ」


アホか!

長野氏は、2017年に出した
「古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける」で、こう言っている。

「技術屋として港やマチづくりの仕事に携わってきた経験から、
私は、『海からの人やモノの移動』という立ち位置から謎解きに
挑戦しようと考える」


いいですねぇ。

日本人は「均一化」とか「同調圧力」とか、
なんでもみんなと同じでなければという意識が強い。
そのせいか、間違っていようが一度確立した学説を変えることをしない。

だから私は異分野の人の果敢な挑戦が好き。たとえ荒唐無稽に見えても、
案外、真実を突いているのでは、と思うことが多々あるからだ。

そして私がこれも「出色の本だ!」と思ったもう一冊は、

「装飾古墳の謎」文芸春秋 2023です。

装飾古墳

著者は考古学者の河野一隆氏。
「通説に反証する」、その視座に魅了されました。


今まで私が古墳に抱いていた内部の印象は、
灰色で埃っぽく、ただ巨大な石棺がポツンと置かれた

「古代の残骸」


で、内緒ですけど、私、こんなことも思ったりするんですよ。
古代人が長い年月とものすごい労力を掛けて造った墓なんだから、
掘らずにそっとしておいてやればって。(笑)

それはさておき、
この本の口絵には、極彩色の内部や奇妙な渦巻き文様、船、人体など
古代の世界が生き生きと再現されていたのです。

河野氏によると、
こうした装飾古墳は九州北部・中部と関東、東北南部に偏っていて、
畿内には少ないという。

※高松塚古墳などの壁画は、装飾古墳ではなく「壁画古墳」というそうです。

この装飾古墳、大和王権の近畿中央部には少ないので、
「ローカルな古墳文化」と言われてきたそうです。

この中央重視の風潮はいやですねぇ。

中央は文化の発祥の地で、文化水準が地方に比べて格段に高い。
そういう意識が現代にもありますものね。

自分の所に「装飾古墳」が少ないからといって、
「ローカルな古墳文化」と決めつけるのは、あまりにも傲慢過ぎる。

だって、当時はヤマトの地こそが、
ローカルだったかもしれないじゃないですか。いやその可能性の方が高い。


「装飾古墳の謎」の口絵です。
装飾古墳口絵

河野氏はそこを果敢に突き、「通説に反証」しています。
その一つに、
「石人石馬」と「筑紫磐井の反乱」をあげています。

「九州には固有の石人石馬の文化があった。
記紀をみると、磐井君は大和の大王に弓を引いて滅ぼされ、
石人石馬文化は消滅して、それが装飾古墳に代わったとされている。

しかし、その後の調査で、
装飾古墳でありながら石人は共存していたことが判明し、
その結果、従来の通説は間違いで再検討を余儀なくされている」


「また筑紫君一族とそれを討伐した継体大王の古墳の形はそっくりで、
副葬品も共通していた可能性が高い。
このことから、中央と九州は磐井の乱ごときで断絶するものではなかった
と見るのが正しそうだ」


そうかぁ、そうなるとやっぱり古墳の発掘は必要だってことになる。

そして、河野氏はこうも言う。

「そのころの大和はまだ統一されておらず、各地の大王の連合体だった」

「記紀は勝者の視点から書かれているから、どこまで真実と見てよいか疑問」

「天孫降臨の夢・藤原不比等のプロジェクト」の著者・大山誠一氏が、
「日本人は今なお、不比等の呪縛下にある」と書き、
「古代のテクノロジー」の長野氏もまた、こう記している。

「藤原氏一族の陰謀の闇は深く、1300年後の現在でもなお学者たちは、
そのトリックに惑わされている」と。


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増田文夫氏の「内房の力石」

内房の力石
05 /20 2023
「私事で恐縮ですが…」

そんな書き出しでお手紙をくださったのは、
富士宮市在住の増田文夫氏だった。

4年前私は、増田氏から力石の情報をいただき、
氏が古老の聞き取りなどから探し当てた3か所・計4個の力石を、
ご案内いただいたのです。

「今夏で定年退職して10年の歳月を数えることとなり、人生の一区切りとして、
この間に調べた郷土・内房の石造物について、
纏める作業を現在行っております」

手紙にはあの時と変わらぬ誠実なお人柄がにじみ出ていました。


その郷土誌の中に「力石」も、ということで原稿をお送りくださったのです。

「第4章 内房の力石 
~もう忘れさられた力自慢・腕比べ自慢の石~」


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あの日、最初にご案内いただいた「内房富士浅間神社」です。

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静岡県富士宮市内房相沼

「この石は大人一人でも動かせないほど重かったそうで、青年が中心になって
担ぎ上げて自慢したそうであるが、担げた人には周りで見ていた人々が、
パチパチと手を叩いて褒め讃えたそうだ」


「石の重さは123㎏ある。村一番の力持ちの惣作さんはこの石を担ぎ、
数歩歩いたそうで、担いで歩ける人は相沼でもいなかった。
担げない人にとっては「神の石」で、触ることもできないほどであった」

=談話は遠藤寿夫さん(昭和6年生まれ) 「内房の力石」増田文夫=

内房富士浅間
同上

ページをめくるごとに、胸が熱くなりました。

私が蒔いた「力石」という種は、吹けば飛ぶような小さな種だったけれど、
こうして地元の郷土史家の手で育てられて立派に実を結び、
これから本となって町の図書館に置かれるのです。

こんなに有難いことはありません。


私が通い詰めた「大晦日(おおづもり)の力石も収録されています。
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大晦日の古社「芭蕉天神宮」のお祭りにも何度も伺いました。
地主さんの仲良しの老夫婦にはずいぶんお世話になりましたが、
お二人とももういない。


奥様は、長年連れ添った夫を亡くしたばかりのとき、
先祖代々の墓に正座して亡き夫の墓前に向かって「武田節」を歌った。
晩秋の夕闇の中、容赦なく吹き付ける冷たい風に煽られて歌声が空に散る。

♪ 祖霊ましますこの山河 敵に踏ませてなるものか

戦国時代の信濃・望月氏の末裔らしく、凛としたその姿に、
私は涙が止まらなくなった。


完成した力石の前に並んだ望月旭、順代ご夫妻。
「文化財になるといいなぁ」とおっしゃっていましたが、
私の力不足でとうとう果たせなかった。

集落で一軒となり、
青年の頃担いだ力石を見せてくれた望月正一氏も、もういない。
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静岡県富士宮市内房大晦日・かつての若者小屋の広場。

この力石の保存工事すべては、長年お世話になったご夫妻への感謝のため、
石屋さんから寄贈された。ご夫妻が眠る先祖代々の墓の隣りにあります。

地元の句会の方々が力石を詠んでくださった句も載せていた。

俳句

増田文夫氏です。

この日は「内房富士浅間神社」に詳しい方もご紹介くださり、
貴重な資料を見せていただきました。


「かつては相撲の土俵があった」と増田氏。
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内房相沼・内房富士浅間神社

末尾に私のことも載せてくださっていました。
増田氏は私を先生と呼ぶ。「ただの物好きなおばさんですよ」と言ったら、
「僕が先生と呼ぶのは二人しかいない。その一人は雨宮先生です」と。

そう言われるたびに、なんだかムズムズして自然と頭が下がった。

でも、
よそ様のことを書いても自分のことが書かれることはめったにないので、
恐縮しつつも嬉しくて…。

内房

ここは山梨県との境の集落だったため、それだけに歴史が深い。

江戸時代、甲斐との境にあったのが塩の関所。
その近くに富豪の油屋があって、あの十返舎一九が泊り、絵を残している。

こちらは内房浅間神社に置かれた不思議なお猿さんです。
二匹とも胸の前で手を組んでいます。
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内房富士浅間神社

近ごろは過ぎた昔を思い出すことが多くなりました。

来る日も来る日も力石一色になり、
文献を求めて県内の図書館、博物館、郷土資料館をくまなく歩き、
またあるときは、地図を片手に片っ端から寺社やお堂を見て回った。

「あんなマイナーなもの」という他分野の研究者たちの嘲りにもめげず、
コツコツと努力を重ねて200個近い力石を見つけてきた。

地元の方々の話に耳を傾ける中で、新たな力石を見つけたことも多々あった。

「お茶入れたで、飲んでってや」「新茶ができたで、持ってって」
そういってくれた村の衆の顔が今も目に浮かぶ。

駅員から「遠いですよ」と言われても、すべて自費での調査では歩くしかない。
ヘロヘロで辿り着いた郷土館は休みだったが「御用の方は…」の張り紙の通り
呼び鈴を押したら管理人さんが現れて、中へ招じ入れてくださった。

いつも一人なので、調査中の自分の写真はこれくらいしかない。
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岡山県笠岡市・笠岡市郷土館

力持ち大会があれば岡山、兵庫、京都などザック一つで駆けつけた。

炎天下の見知らぬ街をトボトボ歩き、
思わぬ大雪に急きょ足に滑り止めをつけて、
初対面のご住職と雪かきをして墓地の力石を掘り出したことも。

そんな力石を訪ねた日々が今は懐かしい。

廃村で見た桜吹雪。海辺の村の寂れた神社で怪しまれて、
一生懸命、説明しても力石の話が通じず、
頭のおかしなおばさんだと思われたり、お巡りさんを呼ばれたり。

力持ちが担ぎ上げたという石の地蔵さんを探すうちに迷い、
人っ子一人いない山中でイノシシの罠にかかりそうになったりもした。

でも、素敵な力持ちさんたちと出会って感動をいただき、
そして、今度は地元の方が独自で本を刊行する。

いつも孤独な一人旅だったけれど、
個人、行政と大勢の見知らぬ人たちに支えられてきた。

しみじみ思いました。いい「力石人生」だったなって。


廃村はただ白し力石に花ふりつむ   雨宮清子

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞