いつの間にか「傘寿」㉔
いつの間にか傘寿2
越し方を振り返っていたとき、
一番輝いていたのは、やっぱり徳間書店時代だったと思った。
次から次へとあのころの光景が浮かんで、なぜか私は涙が止まらなくなった。
入社して間もないころ。オンボロ社屋にて。
写真の裏に撮影者の手で「1964・4・17」と記されている。
女性の先輩編集者がいなかったから、
初めは庶務の女性から出版社のイロハを教わった。

そんなある日、部屋へ入ってきた「コウカイさん」から尋ねられた。
「雨宮クン。徳間書店って名前はどうかね」
私は即座に答えた。
「いいと思います。なんだか岩波書店みたいで」
そう言ったら、コウカイさんは破顔一笑して、「そうだろう。そうだよな」
最近読んだ佐高信氏の「飲水思源」に、アサヒ芸能と徳間の二社体制から
合併して一社にするとき揉めたと書いてあった。
「徳間」にすることは決まっていたが、「出版」か「書店」かで紛糾。
反対派は「徳間出版にするべきだ。書店だなんて本屋みたいだ」と進言。
だが社長は頑として「書店」を押し通したという。
それは私が退社した翌年の出来事だった。
入社した時、建築中だった新社屋が完成。私たちは高層の社屋に移った。
快適だったが以前のようなごった煮の味わいは薄れた。
「怪物的傑物」の「コウカイさん」と顔を合わす日も少なくなり、
「コウカイさん」は正真正銘の「社長」として、手の届かない人になった。
仲良しの同僚と潮来へ。

在職2年半の間に、私は3回引っ越した。
最後は中央線沿線に住み、そこから毎朝、女性専用車両に乗り、
東京駅から新橋駅で下車。
烏森口を出ると広場があって、
台の上で大日本愛国党の赤尾敏氏が演説をしていた。
会社へ向かうとき、中年の男から「〇〇の店を知りませんか」と聞かれて、
「すみません。知りませんので交番でお聞きください」と言ったら、
男は神妙な顔で丁寧に頭を下げた。
編集室に入って事の次第を話したら、みんながドッと笑った。
「雨宮クン。からかわれたんだよ」と。
男が言った「〇〇」は、男女の秘め事に使う性具だと教えられた。
歌舞伎汁粉というお汁粉屋さんもあった。
ウエイトレスが歌舞伎役者の声色で、
「番町皿屋敷、ハイ、灰皿」と言って、テーブルに灰皿を置いた。
昼食に行く大衆食堂のライスに、ネズミの糞が入っていたことがあった。
店員は少しも慌てず、皿から糞だけ除いたので仕方なく残りを食べた。
みんなも「ネズミの糞の炊き込みご飯」を、平気で食べていた。
お腹を壊しはしなかったが、今から考えると万事、鷹揚な時代だった。
「お前さんは頭でっかちでいかん」と、編集長に言われた。
「やっぱり短大卒は中途半端で使いモンになんねえな」とも。
そうケナシつつ、「オイ、コーヒー飲みに行こうか」とよく誘われた。
社員旅行にて。在職2年半の間に編集長が二人。
ふざけて舌を出しているこの人は、最初の編集長。
ちょっとスケベでズケズケものを言ったが、
世間知らずの危なっかしい「子羊」を、よく守ってくださった。

「社長は読売の記者だったんだぞ」と教えられ、
「真善美って知ってるか?」とも聞かれた。
「入社試験で女の子はお前と慶応の女子大生が残ったが、
副社長の山下辰巳さんがお前を押して決まったんだ」
そのころ流行り出したつけまつげをつけて出社したら、
「そんなものすぐ取れ。あなたは素のままがいい」と、
美容指導をする男も現れた。
「そうなのか」と、私は素直に従った。
翌年入社してきた学習院出の男に「話がある」と言われて喫茶店へ。
いきなり「俺と付き合う気はあるか」と聞かれて、即座に「ない」と言ったら、
「付き合わないんなら、自分のコーヒー代は自分で払え」と言われて絶句。
こいつはその後、退職して個人経営の小さな出版社を起こした。
個性的な会社だったので、評価は高かった。
困ったのは、Tという執念深い他の部署の編集長から、
「仕事だから」と執拗に飲み屋に誘われることだった。
顔に大きな切り傷がある男で、
酒乱で酒が入ると日本刀を振り回すといううわさのある嫌われ者だった。
ある日、Tに絡まれている私を見た営業部のおじさんが、
Tの気が済むように酒場まで私に付き添い、
頃合いを見てそこからタクシーに乗せて逃がしてくれた。
女が仕事を続けることは本当にしんどい。落ち込むと小さな旅に出た。
短大時代、「女」と言ったら、ポエムの会の女性教授から、
「なんであなたは自ら卑下するんですか。女性と言いなさい」と叱られた。
教授の地位を得るまでの女ゆえの苦悩がひしひしと伝わってきた。

Tは振られた腹いせに印刷所の営業マンを懐柔して、
「原稿紛失事件」をデッチあげ、さらに「雨宮は昨日、堕胎をした」と吹聴。
出入りのフリーライターの女性からの依頼で指定場所に書籍を送ったら、
なぜかTが、
「雨宮は会社の物品を横領したからクビにすべきだ」と社長に直訴した。
直属の編集長が言った。
「心配するな。社長は笑っていただけだよ。Tの狙いは俺なんだよ。
俺を失脚させるには一番弱いところから崩せば、と思ってやってるんだ」
そのあと、こんな話も。
「Tは社長命令で、ある国会議員候補者の選挙の手伝いをしていたとき、
事故で大ケガをしたんだ。その時の恩義があるので強く言えないんだよ」
しばらくして、私を騙したフリーライターの女性から手紙がきた。
「Tに頼まれて仕方なくあんな電話を掛けてしまいました。ごめんなさい。
私は仕事が欲しくてTの愛人になりました。恥じています。
Tと別れて故郷に帰ります」
仕事のために愛人になるって、なんだか切ないようなバカバカしいような。
数年後、故郷で結婚したとの手紙をいただいて、私は心底ホッとした。
父が収穫したアケビ。
ノイローゼ気味になって休暇をとり、数日、故郷へ帰ったことがあった。

クソ真面目な先輩に騙されたこともあった。
その日、銀座界隈をはしごしたあと、
最寄り駅へ送ると言われて乗せられたタクシーは、
家とは反対方向の見知らぬ街へひた走り。
夜半過ぎに着いたのは、横浜の新興住宅地に建つ先輩の自宅だった。
同期の男性も一緒だったので油断したのがいけなかった。
夜明けを待って家を抜け出し駅を目指して走り、一番電車に飛び乗った。
幸い、両親と同居する人だったので何事もなかったが、
翌朝、もぬけの殻が発覚して大騒ぎになり「両親からこっぴどく叱られた」
と平身低頭されたが、無視した。
先輩たちから飲みに誘われたとき、
私はバーテンにアルコール抜きのニセ酒を頼んで危機を切り抜けていた。
近年、伊藤詩織さんの事件を知って、
仕事をエサに酒を飲ませる古典的手法が、今も生きていることに驚いた。
入社して5カ月目、広告作りに少しでも役立てようと
レタリングの通信教育を始めたが、忙しくて途中で断念した。

そうそう、新社屋の地下に社長経営の「樽小屋」という飲み屋があった。
みんなからは会社の飲み屋なんかではグチもこぼせないと悪評だったが、
社長はご機嫌だった。
「飲水思源」の中に、懐かしい名前が出ていた。
「生出寿(おいでひさし)」さん。
東大仏文科出身で、佐高氏言うところの、
全学連のリーダーだった「心情右翼のコミュニスト」。
戦時中は海軍にいたから、のちに海軍の本をたくさん書いた。
その生出さんが、副編集長から傍系の「ちゃんこ料理屋」に移動と聞いて、
社内が大騒ぎになった。
当の本人は飄々としてちゃんこ屋の亭主に成り切っていたが、
内心は忸怩たるものがあっただろうとも思った。
社員旅行。知らない顔はほとんど週刊誌の記者たち。
この中に「アサヒ芸能」記者から「月刊アニメージュ」編集長を経て、
「風の谷のナウシカ」などジブリ作品を企画プロでユースした
尾形英夫氏もいたはず。

尾形氏の著書「あの旗を撃て!」(オークラ出版 2004)の中に、
「山下辰巳副社長」のことが出てくる。
「エリートでシャープなところもある反面、豪放な一面も持ち、
中でも放屁の名人で会議の席上でもしばしば数発ぶっ放す。
新入社員のころはこの”山下砲”を浴び、ずいぶん驚かされた」と。
編集長から「山下さんの強い押しでお前は採用されたんだぞ」と聞いた時、
その恩人がなぜ姿を見せてくれないのか、みなさんみたいになぜ声を掛けて
くださらないのか不思議に思っていたが、
ひょっとしてこの「山下砲」を聞かせたくなかったのかも。
在職中私が山下副社長を見たのはたった一回、それも後ろ姿だけだった。
思えば、この会社に集っていた人たちは、
戦中・戦後の動乱と混乱を潜り抜けてきた猛者ばかりだった。
みんな無頼で酒飲みで、純情で優しかった。
「コウカイさん」の周りには各界の著名人が絶え間なく集まり、
そういう人たちが交差し入り乱れて新しい文化を作り、時代を席巻していた。
コウカイさんが豪快に走り抜けた「昭和の一番いい時代」。
その始まりの末席に、
何かの手違いみたいに採用された私も座らせていただいたのだ。
思い出しているうちに私はいつしか、あのころの女の子に戻っていた。
セピア色の写真を手にしたまま、私は懐かしさにまた泣いた。

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一番輝いていたのは、やっぱり徳間書店時代だったと思った。
次から次へとあのころの光景が浮かんで、なぜか私は涙が止まらなくなった。
入社して間もないころ。オンボロ社屋にて。
写真の裏に撮影者の手で「1964・4・17」と記されている。
女性の先輩編集者がいなかったから、
初めは庶務の女性から出版社のイロハを教わった。

そんなある日、部屋へ入ってきた「コウカイさん」から尋ねられた。
「雨宮クン。徳間書店って名前はどうかね」
私は即座に答えた。
「いいと思います。なんだか岩波書店みたいで」
そう言ったら、コウカイさんは破顔一笑して、「そうだろう。そうだよな」
最近読んだ佐高信氏の「飲水思源」に、アサヒ芸能と徳間の二社体制から
合併して一社にするとき揉めたと書いてあった。
「徳間」にすることは決まっていたが、「出版」か「書店」かで紛糾。
反対派は「徳間出版にするべきだ。書店だなんて本屋みたいだ」と進言。
だが社長は頑として「書店」を押し通したという。
それは私が退社した翌年の出来事だった。
入社した時、建築中だった新社屋が完成。私たちは高層の社屋に移った。
快適だったが以前のようなごった煮の味わいは薄れた。
「怪物的傑物」の「コウカイさん」と顔を合わす日も少なくなり、
「コウカイさん」は正真正銘の「社長」として、手の届かない人になった。
仲良しの同僚と潮来へ。

在職2年半の間に、私は3回引っ越した。
最後は中央線沿線に住み、そこから毎朝、女性専用車両に乗り、
東京駅から新橋駅で下車。
烏森口を出ると広場があって、
台の上で大日本愛国党の赤尾敏氏が演説をしていた。
会社へ向かうとき、中年の男から「〇〇の店を知りませんか」と聞かれて、
「すみません。知りませんので交番でお聞きください」と言ったら、
男は神妙な顔で丁寧に頭を下げた。
編集室に入って事の次第を話したら、みんながドッと笑った。
「雨宮クン。からかわれたんだよ」と。
男が言った「〇〇」は、男女の秘め事に使う性具だと教えられた。
歌舞伎汁粉というお汁粉屋さんもあった。
ウエイトレスが歌舞伎役者の声色で、
「番町皿屋敷、ハイ、灰皿」と言って、テーブルに灰皿を置いた。
昼食に行く大衆食堂のライスに、ネズミの糞が入っていたことがあった。
店員は少しも慌てず、皿から糞だけ除いたので仕方なく残りを食べた。
みんなも「ネズミの糞の炊き込みご飯」を、平気で食べていた。
お腹を壊しはしなかったが、今から考えると万事、鷹揚な時代だった。
「お前さんは頭でっかちでいかん」と、編集長に言われた。
「やっぱり短大卒は中途半端で使いモンになんねえな」とも。
そうケナシつつ、「オイ、コーヒー飲みに行こうか」とよく誘われた。
社員旅行にて。在職2年半の間に編集長が二人。
ふざけて舌を出しているこの人は、最初の編集長。
ちょっとスケベでズケズケものを言ったが、
世間知らずの危なっかしい「子羊」を、よく守ってくださった。

「社長は読売の記者だったんだぞ」と教えられ、
「真善美って知ってるか?」とも聞かれた。
「入社試験で女の子はお前と慶応の女子大生が残ったが、
副社長の山下辰巳さんがお前を押して決まったんだ」
そのころ流行り出したつけまつげをつけて出社したら、
「そんなものすぐ取れ。あなたは素のままがいい」と、
美容指導をする男も現れた。
「そうなのか」と、私は素直に従った。
翌年入社してきた学習院出の男に「話がある」と言われて喫茶店へ。
いきなり「俺と付き合う気はあるか」と聞かれて、即座に「ない」と言ったら、
「付き合わないんなら、自分のコーヒー代は自分で払え」と言われて絶句。
こいつはその後、退職して個人経営の小さな出版社を起こした。
個性的な会社だったので、評価は高かった。
困ったのは、Tという執念深い他の部署の編集長から、
「仕事だから」と執拗に飲み屋に誘われることだった。
顔に大きな切り傷がある男で、
酒乱で酒が入ると日本刀を振り回すといううわさのある嫌われ者だった。
ある日、Tに絡まれている私を見た営業部のおじさんが、
Tの気が済むように酒場まで私に付き添い、
頃合いを見てそこからタクシーに乗せて逃がしてくれた。
女が仕事を続けることは本当にしんどい。落ち込むと小さな旅に出た。
短大時代、「女」と言ったら、ポエムの会の女性教授から、
「なんであなたは自ら卑下するんですか。女性と言いなさい」と叱られた。
教授の地位を得るまでの女ゆえの苦悩がひしひしと伝わってきた。

Tは振られた腹いせに印刷所の営業マンを懐柔して、
「原稿紛失事件」をデッチあげ、さらに「雨宮は昨日、堕胎をした」と吹聴。
出入りのフリーライターの女性からの依頼で指定場所に書籍を送ったら、
なぜかTが、
「雨宮は会社の物品を横領したからクビにすべきだ」と社長に直訴した。
直属の編集長が言った。
「心配するな。社長は笑っていただけだよ。Tの狙いは俺なんだよ。
俺を失脚させるには一番弱いところから崩せば、と思ってやってるんだ」
そのあと、こんな話も。
「Tは社長命令で、ある国会議員候補者の選挙の手伝いをしていたとき、
事故で大ケガをしたんだ。その時の恩義があるので強く言えないんだよ」
しばらくして、私を騙したフリーライターの女性から手紙がきた。
「Tに頼まれて仕方なくあんな電話を掛けてしまいました。ごめんなさい。
私は仕事が欲しくてTの愛人になりました。恥じています。
Tと別れて故郷に帰ります」
仕事のために愛人になるって、なんだか切ないようなバカバカしいような。
数年後、故郷で結婚したとの手紙をいただいて、私は心底ホッとした。
父が収穫したアケビ。
ノイローゼ気味になって休暇をとり、数日、故郷へ帰ったことがあった。

クソ真面目な先輩に騙されたこともあった。
その日、銀座界隈をはしごしたあと、
最寄り駅へ送ると言われて乗せられたタクシーは、
家とは反対方向の見知らぬ街へひた走り。
夜半過ぎに着いたのは、横浜の新興住宅地に建つ先輩の自宅だった。
同期の男性も一緒だったので油断したのがいけなかった。
夜明けを待って家を抜け出し駅を目指して走り、一番電車に飛び乗った。
幸い、両親と同居する人だったので何事もなかったが、
翌朝、もぬけの殻が発覚して大騒ぎになり「両親からこっぴどく叱られた」
と平身低頭されたが、無視した。
先輩たちから飲みに誘われたとき、
私はバーテンにアルコール抜きのニセ酒を頼んで危機を切り抜けていた。
近年、伊藤詩織さんの事件を知って、
仕事をエサに酒を飲ませる古典的手法が、今も生きていることに驚いた。
入社して5カ月目、広告作りに少しでも役立てようと
レタリングの通信教育を始めたが、忙しくて途中で断念した。

そうそう、新社屋の地下に社長経営の「樽小屋」という飲み屋があった。
みんなからは会社の飲み屋なんかではグチもこぼせないと悪評だったが、
社長はご機嫌だった。
「飲水思源」の中に、懐かしい名前が出ていた。
「生出寿(おいでひさし)」さん。
東大仏文科出身で、佐高氏言うところの、
全学連のリーダーだった「心情右翼のコミュニスト」。
戦時中は海軍にいたから、のちに海軍の本をたくさん書いた。
その生出さんが、副編集長から傍系の「ちゃんこ料理屋」に移動と聞いて、
社内が大騒ぎになった。
当の本人は飄々としてちゃんこ屋の亭主に成り切っていたが、
内心は忸怩たるものがあっただろうとも思った。
社員旅行。知らない顔はほとんど週刊誌の記者たち。
この中に「アサヒ芸能」記者から「月刊アニメージュ」編集長を経て、
「風の谷のナウシカ」などジブリ作品を企画プロでユースした
尾形英夫氏もいたはず。

尾形氏の著書「あの旗を撃て!」(オークラ出版 2004)の中に、
「山下辰巳副社長」のことが出てくる。
「エリートでシャープなところもある反面、豪放な一面も持ち、
中でも放屁の名人で会議の席上でもしばしば数発ぶっ放す。
新入社員のころはこの”山下砲”を浴び、ずいぶん驚かされた」と。
編集長から「山下さんの強い押しでお前は採用されたんだぞ」と聞いた時、
その恩人がなぜ姿を見せてくれないのか、みなさんみたいになぜ声を掛けて
くださらないのか不思議に思っていたが、
ひょっとしてこの「山下砲」を聞かせたくなかったのかも。
在職中私が山下副社長を見たのはたった一回、それも後ろ姿だけだった。
思えば、この会社に集っていた人たちは、
戦中・戦後の動乱と混乱を潜り抜けてきた猛者ばかりだった。
みんな無頼で酒飲みで、純情で優しかった。
「コウカイさん」の周りには各界の著名人が絶え間なく集まり、
そういう人たちが交差し入り乱れて新しい文化を作り、時代を席巻していた。
コウカイさんが豪快に走り抜けた「昭和の一番いい時代」。
その始まりの末席に、
何かの手違いみたいに採用された私も座らせていただいたのだ。
思い出しているうちに私はいつしか、あのころの女の子に戻っていた。
セピア色の写真を手にしたまま、私は懐かしさにまた泣いた。

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