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誉れの力石建立祭り

力持ちの古谷野庫太郎と会った翌日、
平原直は九州全土をめぐる講演旅行に出た。

帰京は一か月後。

旅行中、平原は「力石と力持ちを思い浮かべて独り興奮していた」。
興奮は収まりそうにもない。
そこでとうとう、旅先から古谷野へ手紙を書いた。

「力持ちの技法こそは、われわれ先人たちが苦心を重ねた末編み出した
貴重な日本の伝統技術の一つであると思う。
このまま日本の伝統文化の中から消してしまうのは残念だ。
帰京したら復活の準備にかかりたい」

その1か月後、帰京したら、古谷野はすでに一人で突っ走っていた。

ほどなく二人の描いた復活の夢は現実となり、
翌・昭和29年1月、日本運輸倉庫の広場で華々しく開催された。

その名も、「誉れの力石建立祭り」と銘打って。

力持ち・古谷野の誇らし気な顔が見えるようです。

式典には今は亡き飯田徳蔵の息子・定太郎(青矢印)も出席。
徳蔵縁者のEさん3姉妹の祖母すみさん(白矢印)も馳せ参じた。

DSC_6131_20181118161357f61.jpg

定太郎の脳裏には、自分が戦地から帰還したわずか1週間後に、
息子の無事を確かめて他界した徳蔵のことが
次々浮かんだのではないでしょうか。

こちらは平原が16ミリ撮影機で撮った力石の設置会場です。
右端に徳蔵の歌石、
「東男(あづまを)の力を飾る祭りかな」が見えています。

CIMG4393.jpg

古谷野はこの日のために、深川佐賀町一帯から神田側界隈にいる
力持ち力士や力持ち愛好家たちに呼びかけていた。

その呼びかけに応じて、昔の仲間が20人余も集まった。
その中に昔、大関を務めた斉藤逸(橘町逸)がいた。

これは古谷野の「銘石調帳」にあった斉藤逸の印判です。

img006_20181118163623ebf.jpg

これには、「現在此の力石は両国回向院に有」と記されていますが、
回向院には見当たりません。
ほかでもこの石の所在は不明です。

斉藤逸は大正15年、
名古屋で開催された「清正公さんの力くらべ」に徳蔵と出かけ、
力持ちを披露しています。

埼玉の斎藤氏はこの「逸つぁん」に親近感を覚えて、
どうしても顔をみたくなり、ついにそれらしき人物を探しあてた。

これはその名古屋で、神輿を担ぐ徳蔵をとらえた写真です。
この担ぎ方は「輪がけ」というのだそうです。

逸斎藤

右矢印が徳蔵です。
斎藤氏は左矢印の人物が斉藤逸ではないか、と推測しました。

決め手は「同じ柄の浴衣を着ている」こと。
斎藤氏いわく。
「二人は江戸者の証しであるで粋な吉原繋ぎの浴衣姿で出場した」

そういえば、同じ柄ですね。
私もこれが「逸つぁん」だと思えてきました。

逸さんのご子孫にお聞きできれば確実なんですけどねえ。


※参考文献/「物流史談 物流に学ぶ人間の知恵」平原直 流通研究社
         2000
※画像提供/流通経済大学・物流博物館
        /徳蔵子孫
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3枚の写真

先のブログ記事、「力石を愛し続けた男」で、
私はこの写真を掲載しました。

昭和28年に初対面を果たした力持ちの古谷野庫太郎と、
物流の父・平原直(右)が力石の前で並んでいる写真です。

一段高い所に立ててある石には「山豊石」と彫られています。
あとで出てきますので覚えておいてください。

1枚目の写真
DSC_6120.jpg

でも掲載後、「平原アルバム」の別の写真を見て、ハタと考えてしまいました。
どちらも同じ時期のものですが、上の写真の男性と2枚目の写真の男性は、
額の生え際あたりなど、どう見ても別人

平原は著書(回想録)にこう書いています。
「昭和28年の秋、秋葉原にある日本運輸倉庫役員の大庭作次が、
私にぜひ会わせたい人がいると言って古谷野庫太郎を引き合わせてくれた」

「それから私は、
古谷野さんが苦心して集めた力石の集積場に案内してもらった。
そこには古谷野さんが尊敬してやまない神田川徳蔵を中心に
力石がるいるいと並べられており、その周辺には竹垣がめぐらされていた」

2枚目の写真
DSC_6138.jpg

ということは、2枚目のこの人物が古谷野ということになります。
そうすると、平原と並んでいる最初の写真の人物は、
古谷野の上司の大庭作次ではないか、と思えてきたのです。

ややこしいのは、
最初の写真にあった「浦しま 五十六メ目」石が、
2枚目の写真にも映り込んでいることです。

この位置です。

2枚目の写真の配置図
1誉の祭り
刻字解読・作図/斎藤氏

さらにややこしいことに、こんな写真(3枚目)も出てきました。

中央の大きな力石は徳蔵の「東男(あづまを)歌石です。
この歌石の位置は2枚目、3枚目の写真共に同じ場所ですが、
歌石の隣りの「五十六メ目」は他の石と入れ替わっています。

「五十六メ目」石と入れ替わった石には「山」のような文字が見えますから、
みなさんに覚えておいてくださいとお願いした
最初の写真の「山豊石」かもしれません。
主役の座を徳蔵に譲って、歌石のはるか下に置かれています。

他の石の位置も微妙に違っています。

3枚目の写真
DSC_6155.jpg

また、
2枚目の写真で古谷野が大事そうに抱えているのは「再会」石ですが、
これが3枚目の写真では、「山に兵」の社号の石に置き換わっています。

これです。
img003_20181113194824b58.jpg

現在は東京都千代田区神田須田町の柳森神社にあります。

3枚目の写真の配置図
1誉の祭り (2)
刻字解読・作図/斎藤氏

力石を愛し続けた男、古谷野が、
配置に迷って、あれこれ移動したのでしょうか。

これらのほとんどは、写真マニアの平原が撮影した写真ですが、
でも平原は古谷野と初めて会った日の翌日
講演のため九州へ旅立ち、東京へ帰ったのはその1か月後です。

こんがらがってきました。

この3枚の写真は、それぞれ違う日に撮影されたと考えた方が自然です。
平原氏の回想録に記憶違いがあるのかもしれませんが、
まあ、どちらにしても昭和28年ごろの日本運輸倉庫前に変わりはありません。

、この中に、
みなさまにぜひ注目していただきたい石があります。
「再会」と刻まれた石です。

この力石は現在、流通経済大学(茨城)の新校舎に置かれていますが、
この石には心温まるエピソードがあります。

そのお話は後日


※画像提供/流通経済大学 物流博物館
※参考文献/「物流史談 物流の知恵に学ぶ人間の知恵」平原直
         流通研究社  2000

ちょっとひと息

  =追々記=

横浜の通り魔捕まりましたが、私が8月に遭遇した杖の男に似ているんですよ。
わざわざ横浜からこちらまで来るとは考えられませんが、
でも「恥さらしな人間のクズ」と私に吐き、
金属製の変な杖を振り上げかけた姿は今も脳裏にこびりついています。

  =追記=

本日(11日)、静岡浅間神社内にある資料館へ。
境内は着飾った七五三の小さな紳士淑女たちで華やいでいました。

その中に、白地に金糸銀糸、赤青などの豪華な刺繍をほどこした
チマチョゴリの可愛いお嬢さんが二人いました。
ふんわりしたスカートがまた素敵で…。
アジアの民族衣装が好きな私、思わず声をかけてしまいました。

チョゴリは以前、同じバスに乗る女子高生が着ていて知っていましたが、
高校生のは制服なので地味だったから、
今日、思いがけず美しいチョゴリを見せていただいて感激。

もうね、心の中で叫びましたよ。
「どの子もどの子も幸せになァーれ!」って。
あの衣装、私も一度は着てみたい!

      ーーーーー◇ーーーーー

このところ力石の話をして欲しいとの依頼が続いて、
仕事から帰ると毎夜パワーポイントと格闘の日々。

力石の話を聞いてくださるなんてこんな嬉しいことはありません。
で、張り切り過ぎてバテまして、更新が遅れております。
そこで先月末撮った私の散歩道で、つかの間、楽しんでいただけたら、と。

初めは山道から。
極早生、早生、青島とこれからみかん農家さんは大忙しです。
昔は東北から援農の若者たちがみかん切りにきて、
こちらで結婚した人もいたとか。

私は化粧品や洗剤の匂いが苦手で、ひどいときは呼吸困難になりますが、
植物の自然な香りは全然平気で、むしろ気持ちが安らぎます。
ことにみかんの花の匂いは、いっぱい吸いこんで楽しんでいます。

右はお茶の花。楚々とした風情がたまりません。

CIMG4448.jpg CIMG4455.jpg
  
山から下りて平地へ。

実りの秋です。TPPで日本の農業が危ういとか。残念です。

CIMG4442.jpg

空では雀オドシのオオワシが舞っています。刈られた田んぼにはケリ。

CIMG4459.jpg CIMG4435.jpg

春になるとハヤが群れて泳ぎます。
 
CIMG4439.jpg

湧水です。
畑に使っていますが、人も散歩の犬も飲んでいます。
こんな水がいたるところに湧き出ています。

CIMG4440.jpg

帰路、立ち寄った図書館で「綿の木」を見ました。
実がはぜると綿が出てきます。中に種が入っています。
司書の方が「来年育ててみてください」と種をくださった。

途中の公園で「金沢・兼六園の菊桜」を見つけました。
厳冬の2月、
友人のおもてなしで楽しい時間を過ごした金沢を思い出しつつ、
家路につきました。

CIMG4417.jpg CIMG4429.jpg

旅する力石

今日のブログは長~いです! 飽きずにお付き合いのほどを…。

   ーーーーー◇ーーーーー

力石って、よく動くんです。昔はもうしょっちゅう。
お地蔵さんもたびたびいなくなりました。

「毎晩、夜遊びに出歩くお地蔵さんに困り果てた寺の住職が、
とうとうお堂に閉じ込めてしまった」なんて話も。

実はこれ、お地蔵さんが自分で出歩いたわけではありません。
夜こっそり若者たちが運び出したのです。昔は、自分の力で持ち運べたら、
力石でも地蔵でも「盗んで」よかったのです。

単なる若者たちの力の誇示だったから、許されていたのかもしれません。
それにお地蔵さんは、あんなすましたお顔をしているのに、
子供と遊んだり、若者に担がれたりするのが大好きだったそうですから。

二頭身のお地蔵さんです。
CIMG4480.jpg
静岡市葵区・貴庵寺

ことに力石はよく「盗まれた」。
若者たちにとって力石は神聖な石だったから、
盗まれた村の若者たちはメンツにかけて、すぐ取り返しに出掛けた。
だから一晩のうちに力石はあっちへ行ったりこっちへきたりと、
目まぐるしく「旅をする」ハメになったのです。

さて、昭和28年の「郵船倉庫」の庭に置かれていた力石のうち、
前回は「浦しま 五十六メ目」をご紹介しましたが、
今回はその隣にあった「福住」石のその後です。

「福住」石は、富岡八幡宮にありました。
でも見てください。
この石のお宿は石捨て場みたいな場所で、ちょっと悲しい

その上、ここの石、ちょっとずつ変化しているのです。

2012年撮影。5個あります。
富岡福住
東京都江東区富岡・富岡八幡宮

2018年撮影。誰かがいたずらでもしたのでしょうか。
石がバラけて、さらに悲しい状況になっていました。でも5個はそのままです。

IMG_6083.jpg

石がバラけたせいで、はっきり「福住」と確認できました。

IMG_6085.jpg

でもですね、現在は5個ですが、
実は15年前の2003年には6個あったのです。
この歳月の間に、1個、減ってしまったということになります。

2003年撮影。このときは確かに6個ありました。
img562_201811030934285d2.jpg

なくなってしまったのは、たぶん「つる乃子」石です。

「福住」「つる乃子」も、有形文化財に指定された力石なのに、
なんて扱いなんでしょう。
昔の若者たちが泣いていますよ!

と憤慨していたら、斎藤氏が見つけてくれました。
力石ハンター・埼玉の研究者、斎藤氏の面目躍如です。

斎藤氏は2016年当時、すでに668個もの力石を新発見している方です。
その後も続々と発見していますから、すでに700個は突破したかと思います。

「つる乃子」の旅先は、八幡宮からほど近い紀文稲荷神社でした。

これです。力持ちの飯虎が持った「飛龍」石と並んでいました。
DSCF1486.jpg
江東区永代・紀文稲荷神社

「見つけたときの感動は格別。こういう瞬間を味わうために
力石を追いかけているような気がします」」とおっしゃる斎藤氏、
こんな発見もしています。

下の写真は、
写真集「江東区 なつかしい昭和の記録」掲載の
「深川の力持(昭和34年)です。

ここに「朱雀」と刻まれた石が写っています。
この石の所在は不明でしたが、斎藤氏はこれも見つけてしまいました。

DSCF6361.jpg

発見場所は紀文稲荷神社と同じ江東区永代にある福住稲荷神社
この神社は「渋沢倉庫(株)」内にあるそうです。

渋沢倉庫は、日本の資本主義の生みの親と言われた渋沢栄一が、
明治30年(1897)に創業した物流の会社です。

見事な力石がズラリと並んでいます。

1渋沢倉庫
江東区永代・福住稲荷神社

ひょっとして富岡八幡宮の「福住」石は、元はここに奉納された力石かも。
だってどちらも「福住」ですから。

こちらは渋沢倉庫(株)の社章りうご(輪鼓・輪子)を刻んだ力石です。

2渋沢倉庫

そしていよいよ「朱雀」の登場です。

「さし石 朱雀 渋澤倉庫内 佐賀町 正平 芳郎 英雄 
 昭和十五年五月吉日 村松□

昭和15年とは新しいですね。名前も現代風です。

倉庫渋沢

みなさん、力石の小さな旅、いかがでしたか?

思うに、
昔はよその自慢の石を「盗む」ことも力試しの一つでしたが、
ここに登場した神社の石の移動は、
どうやら「深川の力持ち」のイベントと関連がありそうです。
使った後、返す神社を間違えちゃったのかも。

最後に私の好きな「旅」のお話を一つ。

鎌倉・円覚寺の和尚が女のことで失敗して、
南予(四国・愛媛県南部)へ下ることになった。
和尚は阿弥陀さまと連れだって寺を出た。

そしては和尚が阿弥陀さまを背負い、
は阿弥陀さまが和尚を背負って歩き、南予へ着いた。

その後、阿弥陀さまを塗りかえるため京都へ修理に出した。
京都では同じ阿弥陀さまを三体作ったので、どれが本物かわからなくなった。
そこで和尚が背を差し出したら、
本物の阿弥陀さまが和尚の背中に乗ってきたんだと


※画像・情報提供/斎藤氏
           /「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003
           /「昭和30年、40年代の江東区 なつかしい昭和の記録」
            青木満監修 三冬社 2010

「浦しま 五十六メ目」

前回、物流の平原直と力持ちの古谷野庫太郎が、
戦後の昭和28年、秋葉原駅近くにあった日本運輸倉庫前で、
初めて会った話をしました。

そのとき撮影した写真に気になる石がありました。

こちらです。
DSC_6120 (2)

左の石には「五十六メ目」の刻字があります。
古谷野の「銘石調帖」には、こう書かれています。

「浦しま 五十六メ目 
  郵船 浦島丸 船頭名不明 箱崎へ

「浦島丸」って、もしかしたら、これでしょうか?
 
「浦島丸」 大正14年(1925)進水。冷凍・冷蔵運搬船。
横浜船渠(株)建造、東京湾汽船(株)

昭和5年(1930) 東京・伊勢常商店へ売却。
昭和17年(1942) 相沢喜一郎(東京)へ売却。
昭和22年(1947) 船名録に抹消予定と記載。

古谷野が「箱崎へ」と記した「箱崎」とは、「日本橋箱崎町」のこと。
ここは隅田川にかかる清州橋永代橋の間にあった島で、倉庫群が並んでいた。
そしてこの島には対岸の佐賀町同様、船頭が大勢住んでいた。
 
※昭和51年に川が埋め立てられて、箱崎町は陸続きになった。

img413.jpg

古谷野が「銘石調帖」に書き添えた「郵船」が「日本郵船」のことなら、
この箱崎町には日本郵船の倉庫がたくさんあったので、
「浦島丸」はこの会社の船だったのかもしれません。

古谷野自身がこの界隈の船頭の子だったから、
「浦島丸」についてはよく知っていたと思われます。

また佐賀町は、現物正米取引所があったところなので、
神田川米穀市場同様、米俵を担ぐ荷役労働者がたくさん働いていました。

平原が力持ちに興味を持つきっかけとなった「神業の腕を持つ冨虎」や、
同じ「虎」名を持つ「飯虎」もまた、
佐賀町、箱崎町で荷担ぎとして働き、その名を石に残した人物です。

飯虎の力石です。
左は故・伊東明上智大学名誉教授のスケッチによる「虎峯」
右は「瓢石」(白矢印)
img144.jpg CIMG0783 (2)
東京都中央区日本橋箱崎町・八大龍王社元宮。  江東区富岡・富岡八幡宮

   「虎峯 さが町 飯虎持石」

   「瓢石 佐賀町 菊蔵 箱崎町 飯虎」

残念ながら、
先の「浦しま 五十六メ目」石には、これを持った力持ちの名がありません。
「箱崎へ」と書かれているところから、
日本郵船の倉庫か、郵船と縁の深い神社へ運ばれたはずですが、
現在、この石の所在は不明です。

「浦島丸」やこの石にお心当たりのある方がいらっしゃったら、
ぜひ、ご一報をお願いいたします。

右の「福住」石については次回。


※画像提供/流通経済大学・物流博物館
        /「東京都中央区の力石の調査・研究」伊東明 
         上智大学体育・第18号 1985
※参考文献/ネット「なつかしの日本の汽船」

文中敬称略
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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