父に自分を重ねて

昭和12年、井口らの念願だった「日本重量挙連盟」が誕生した。

しかし、世間からは「特殊なスポーツ」と見られ、
第12回明治神宮国民体育大会では、卓球などと共に、
「ふさわしくない競技」として除外された。

井口幸男の著書「わがスポーツの軌跡」には、
重量挙に対する世間からの容赦ない言葉が随所に出てくる。

馬鹿力を出すだけのもの」
「重いものを持つだけの単純なスポーツ

そんな中、貴族院議員の三島通陽氏が初代会長を引き受けてくれた。

家族から「重量挙とはおよそ縁遠い人が、どう考えてもおかしい」
と言われて、
「日本にはまだ重量挙の歴史がないのだから、
おかしな会長と思われても仕方がないさ。いまに立派な選手が生まれて、
その人たちの手で本当の運営がされる日がくるまで、
自分はその下地を作るのだからね」と。

写真は、
中国の政治家・汪兆銘氏から贈られた木製のバーベルを挙げる三島氏。
娘たちに「重量挙でなくて、軽量挙ね」とからかわれた。

img053.jpg
昭和15年5月

だが、三島氏は戦後、農地法によって資産を失い会長を退いた。

重量挙が置かれた状況は、戦後になっても変わらなかった。
昭和34年、
全国高体連・重量挙部の優勝校へ高松宮殿下が優勝旗を下賜。
そのお礼にうかがったとき、殿下からこんなお尋ねがあった。

あんなものは止めたほうがよいではないか。
あのような大きな筋肉をつけて一体何になるのかなあ。
仕事に差し支えないか」

それに対して、井口が、

若い時代には、あのような筋肉に憧れを持つ時期がありまして、
鍛錬に従って筋肉が隆々として参りますことが、
本人にとりましては楽しみの一つでございます」

と「お答え申し上げたところ、殿下はお笑いになっておられた」という。
のちに井口は著書の中で、こんな感想をもらしている。

「当時世間では重いものを持ち上げる動作や愛好者に対して、
嘲笑、罵倒、陰口をたたくという、実に埋もれた時代であった。
今日の発展を思うと、御下賜旗のことが偲ばれ、感慨ひとしおです」

しかし、バーベルの一つ前の力石の時代に生きた徳蔵は、
「見世物」「下層階級のやるもの」などという
井口ら以上の心ない蔑視や陰口をたくさん受けていたはず。

下の写真は、神田川米穀市場・帳場前の神田川(飯田)徳蔵です。

足元に力石、手にバーベル。
「力石からバーベルへ」の過渡期と、
徳蔵がその中心的役割を担ったという象徴的な写真です。

幸龍寺バーベル (2)

「たかが見世物」などと蔑視を受けたはずなのに、
アルバムに残された写真には、そんな卑屈さは微塵もない。
写真の中の徳蔵と仲間たちは、いつでもどこでも自然体で、
心底楽しげに、誰もが満面の笑顔で石挙げに興じている。

そんな徳蔵を井口はこう評価する。

「力石を相手に汗を流して力技を披露し、同好の士に酒をふるまう。
それが楽しくてしょうがなかったと聞かされて、
私はこの中にこそ真のアマチュア精神があると思い、
実に気持ちのよい話だと、微笑ましく拝聴した」

徳蔵が重量挙げの道場をつくり、そこで練習する井口たちへ
「強くなれよ」と激励したのも、世間からの「嘲笑、罵倒、陰口」を
自ら体験しているからこそ、と、私には思えてなりません。

バーベルを挙げる徳蔵の一人息子の定太郎です。
道行く人たちが珍しそうに見ています。

少年

この写真は、先に載せた「帳場前の徳蔵」の写真の下に隠されていたという。
それを発見したとき、徳蔵縁者のEさんはこんなことを思ったそうです。

父の姿に自分を重ねたのだろうか。
定太郎さんの思い を見た気がした」


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
               飯田徳蔵子孫所有のアルバム
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相撲力士と力持ち力士

ネットにこんなのが出ていた」と知人が知らせてくれた。

それは、
「昭和の怪物・若木竹丸を語れ」と題した掲示板の記事で、
竹丸自身の談話として、こんなふうに書かれていた。

「ある日、世界一と自称する外国の力持ちが、
出羽海部屋で相撲取りと力比べをやるという新聞記事を読んだ。

そこで、もし外国人に負けるようなことがあれば、
国技たる相撲の名誉を傷つけるであろうから、
ぼくが下っ端力士に化けてその外国人と闘おうと協会に申し入れた。

当日、48貫800目の鉄アレイをひっ下げ、
神田川徳蔵氏と飯田一郎君を連れて相撲部屋へ行った。
そのアレイを持って土俵上で寝ざしを披露したら、力士たちも唖然。

若木竹丸の寝ざし。徳蔵の神田川道場にて。
徳蔵アルバム説明2 (5)

かたや外国人力持ちは背中にビール瓶をはさんでそれに紐をつけ
力士に引っ張らせるというただの曲芸だったため、
力比べは無為に終わった」

出典が書かれていないので真偽のほどはわかりませんが、
「翌日の新聞にそのときの写真が出た」とありますから、
徳蔵さん、出羽海部屋へ行ったのかもしれません。

こちらは正真正銘、
相撲の高砂部屋で稽古を見ている力持ちの鬼熊です。

「改正相撲高砂稽古場之図」蜂須賀(歌川)国明。3枚の内の1枚。
img052_20180715081616ff6.jpg

上段右端で腕組みをしているのが鬼熊です。

鬼熊は幕末から明治初期に活躍した力持ちで本名・熊治郎。
豊島屋酒店のタルコロ(酒樽を転がして運ぶのでこう呼ばれた)で、
東京・浅草寺の「熊遊」など20個の力石を残して、明治18年に没した。

鬼熊の隣りの力士は「神田川」
幕末にこういう四股名の力士がいたんですね。

徳蔵が残したアルバムに、
「昭和5年、立浪部屋に入門した三木健一君。力名・神田川」がありましたが、
しかし、三木少年の四股名は「神田川」ではなく「國ノ花」だった。
この「鬼熊神田川が並んだ図」が、徳蔵の中に願望としてあったのかも。

こちらは嘉永7年(1854)正月のペリー来航のときの瓦版です。
アメリカ側からの土産に対してそのお返しはお米。
力持ちたちが米俵を乱暴に投げ込んでいます。

この瓦版(新聞)は、
「物流の父」平原直氏が古道具屋で手に入れたものだそうです。

img051_20180715084535626.jpg

ここにも「鬼熊」がいます。

「ベースボールマガジン社」編集部の門脇利明氏から
この絵に登場する力士たちの地位など教えていただきました。
なお上記の錦絵の情報も門脇氏からです。

右から、
荒馬吉五郎  
  =西前頭筆頭。最高位は関脇。嘉永7年5月18日、46歳で現役死亡。
雲龍久吉
  =東前頭筆頭。柳川藩抱え。のちの横綱免許。年寄り追手風。
鬼熊
長谷川忠吉(のちの年寄放駒)
  =西二段目7枚目(現在の十両)。幕内に入らず終わった。
象ケ鼻灘五郎
  =西前頭4枚目。丸亀藩抱え。のち小結平石七太夫。
    引退後は大阪相撲に戻り頭取(大阪相撲での年寄りのこと)朝日山。
小柳常吉
  =大関。引退後、年寄二代阿武松常吉。安政5年3月、40歳で没した。

平原氏は著書の中で、このときの幕府を辛辣に批判しています。

「アメリカのおどしにムキになって肩をはってみせた。
その道具に、日本人の力持ちを活用した。
日本人は米俵を一人で3俵も4俵も持ち上げることができるが、
お前たちアメリカ人は1俵でへたばっているじゃないか」と。

でもまあ、昨今みたいに、
むやみやたらとアメリカさんにスリスリするのも、

なんだかなぁー

     
        ーーーーー◇ーーーーー

「力士」の呼称について、門脇氏からご教示いただきました。

「力士という呼称は、
明治時代は、主に力持ちに使われていたことが多かったように思う。
新聞には相撲取りの方は「相撲取り」と書かれていることが多かった。
相撲での「力士」の呼称は横綱常陸山が広めたのではないかと思っている」

常陸山谷右衛門(1874~1922)
 父は水戸藩士。武士の魂を持ち続けた品格のある横綱だった。
 東京・亀戸天神社の力石を次々担いだという話もある。(wik)


※画像提供/国立国会図書館
        「人間の知恵」平原直 流通研究社 2000 

徳蔵、道場をつくる

井口幸男飯田徳蔵より20歳も年下。
徳蔵の甥の飯田一郎や若木竹丸と同年代です。

その井口が徳蔵と初めて会ったのは、まだ体育学校の学生だったころで、
徐相天から預かった「朝鮮力道大会」への渡航費用を渡すため、
若木竹丸の家へ行ったときだった。

以来、井口はこの「力」大先輩を尊敬しつづけます。

井口たち若者が設立に奔走した「日本重量挙連盟」は、
昭和11年に全日本体育連盟の一組織として発足。
その翌年、念願の独立を果たします。
前途多難ながらも新しく船出したのです。

♪あなたッと呼べ~ば、あなたッと答える~
 山のこだ~まァのうれしさよー
 ”あなァた” ”なァんだい”
 空は青空ァ ふたりは若~い

なんて歌が流行っていたが、世の中は暗雲たれこめた第二次大戦前夜。
反乱軍となった青年将校たちが朝日新聞社を襲撃し、
閣僚たちを殺害するという二・二六事件が起きて世間を震撼させた。

そんな中、昭和11年にはオリンピック・ベルリン大会で、
前畑秀子選手(左)が200㍍平泳ぎで優勝します。

img048_20180712014821370.jpg

このとき、実況放送のアナウンサーが「前畑ガンバレ」を36回も連呼した。
それがのちの語り草になった。
水着といい体形といい、時代を感じさせます。後ろには着物の人が…。

日華事変が起きて、井口幸男が戦地へ召集されたのが翌12年。
この年は、
正月早々名古屋城の金のしゃちほこのウロコ58枚が盗まれるなど、
不穏な世情となります。一方、
5月には双葉山(26歳)が横綱になり日本中をわかせました。

強いだけではない。顔も姿もすごくきれいなお相撲さんですね。

img049_2018071201590668b.jpg

前畑選手も双葉山も日本中の人から注目されたが、
井口たちの重量挙げはそうはいかなかった。

「当時重量挙げは一般の人の関心はほとんどなく、
特殊なスポーツのように見られていた。
愛好者は十指にも満たなかった」という状況。

そんな中、徳蔵は朝鮮でこの新しい力技を体験したことで、
その重要性を悟り、私財を投じて秋葉原に重量挙げの道場をつくります。

「徳蔵氏は重量挙げの普及に奔走し、愛好者のために力を注がれた。
私たち(飯田一郎君、勝康君、定太郎君等々)は、毎晩のように
この道場へ通い、一生懸命練習した。
この狭い部屋の正面高くに神棚が祀られていたことを今でも思い出す」

井口のライバル・中島寅男を真ん中に、
徳蔵の甥の飯田一郎(左)と息子の飯田定太郎(右)

img050_20180712022141217.jpg

井口は40数年たってもそのときの恩を忘れず、こんな回想を残しています。

「徳蔵氏はときどき練習場へ顔を出しては、
強くなれよと激励されたが、
その顔が今もまぶたに浮かびます」


※画像提供/「写真で見る体育・スポーツ百年史」上沼八郎 日本図書センター
         2015
        「眼で見る昭和」朝日新聞社 昭和47年
        「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年

「懐かしい飯田家」

日本重量挙界の草分け、井口幸男が亡くなったのは、
昭和60年(1985)9月。74歳だった。
明治の終わりに生まれ、平成直前にこの世を去ったことになる。

著書「わがスポーツの軌跡」の出版はその翌年となっている。
井口が「人生のほとんどを占めた」と書き残した重量挙げの生涯を、
ご遺族が遺稿集として自費出版したものと思われます。

戦地から帰還した翌年の昭和15年、
井口は慶応義塾普通部へ教員として就職。
そのころの井口氏です。

戦時中で高価な用具が買えないため、トロッコの車輪を使った。
img047_2018071007025995d.jpg

井口が著書の中で、たびたび触れているのが飯田家との交流です。

本の小見出しに「懐かしい飯田家」と付けたのも、
それだけ、この一族とは強いきずなをもっていたからでしょう。
こんなことが書かれていました。

「神田の秋葉原には都民の米の集積所があった。
そこには古いのれんを持つ飯定組があり、
飯田徳蔵氏はその元締めで、
多くの人夫を使って集積所の仕事をされていた。

徳蔵氏は暇さえあれば、子分を連れてどこへでも出かけて行き、
その土地にある名代の力石を次から次へと差し上げたという。
そして最後に残った横綱石を征服すると、介添え人に命じて石屋に頼み、
自費でその日の年月日と自分の名を刻みこませ、
神社仏閣に奉納したと聞かされた」

井口が慶応義塾へ就職した昭和15年は、
神武天皇の即位から2600年目にあたる「紀元節」として、
各地で祝賀の行事が盛んに行われた。

徳蔵も「紀元節」を祝う力石を奉納しています。

CIMG3852 (4)
東京都千代田区神田須田町・柳森神社 100余×68×24㎝

  「百度石 皇紀二千六百年建立 
        神田川徳蔵 大工町惣吉 足受」


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年

「力」でつながる

はじめに
 
井口幸男氏の著書「わがスポーツの軌跡」の引用にあたり、
ひと言お伝えしておきます。

日本重量挙理事長を24年間務め、
オリンピックなどの監督として数々の業績を残した井口氏ですが、
日本ウエイトリフティング協会を通じて、ご子孫を探していただいたものの、
見つかりませんでした。

やむを得ず、そのまま写真等使わせていただくことをお許しください。
もし、ご子孫や関係者の方がこのブログをご覧になりましたら、
ご一報いただけたら有難く存じます。

天皇・皇后両陛下に競技解説を申し上げる井口幸男氏(右端)

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昭和40年10月、岐阜県土岐市国体にて

神田川(飯田)徳蔵ら3人が戦前の昭和7年、重量挙大会出場のため、
今の韓国ソウルへ渡ったことは以前書きました。
そのきっかけが雑誌「キング」に載った怪力の若木竹丸だったことも。

そのころ井口が学んでいた体育会体操学校(現・日本体育大学)に、
徳蔵たちを招待した徐相天の門弟・元喜得がいた。
 
 ※徐相天氏は体育会体操学校出身。卒業後は帰国して教師に。
   ヨーロッパから重量挙げの知識や道具を導入して韓国内に広めた。
   韓国ウエイトリフティングの草分けとなった人物。

「その徐氏から元君へ(徳蔵たちの)旅費80円が送られてきた」

そのお金を届けるため井口の二人は若木の湯島の家を訪れます。
そこには大きな鉄アレイとともに大小さまざまな鉄の塊りが置かれていて、
若木はその鉄の中に埋もれるようにあぐらをかいていた。

「そこに集まっていた人の中に、
飯田定太郎君の父・飯田徳蔵氏がおられた」

そのころの徳蔵です。
img032_20180702202911777.jpg

若木は仰向けに寝て頭上に腕を伸ばし、その手のひらの上に
徳蔵(90Kg)を立たせて、軽々と胸の上で挙げて見せた。

徳蔵について井口はこんなことも書いています。

「徳蔵氏は石差しでは日本一の方であった。
重い石を相手に鍛錬されたその怪力のほどは、
今の人に話してもわからないし、見てもらうこともできないのが残念である。
当時、飯田徳蔵氏ほど強い人はいなかった」

先祖に八重垣という相撲取りがいたという井口家。
そこに生まれた井口も幼いころから「力」への憧れがあって、
を差し上げたり、を担いだりして鍛えたという。

この写真は、昭和12年の日中戦争勃発で召集された井口が、
中国力石「チューコーロ」で練習しているところ。

石にあいた穴に棒をさしてバーベル代わりにしています。

img046.jpg
北支・ベーリンンソン集落の駐屯地にて

「北支戦線を2年3か月に渡り転戦。
生死の境をくぐりながらも、いずれ平和な時代がくることを信じて、
代用品で重量挙げの練習をした」

力石を使った著名人がもう一人います。
木村政彦という天才柔道家を育てた牛島辰熊という人です。

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也 新潮社 2011)
といういささかショッキングなタイトルの本に、
牛島夫人の話として、
「(夫は)松の根元に置いてある三貫目くらいの力石を、
30回も40回も持ち上げていた。これを稽古石(けいこいし)と呼んでいた」

そしてこの牛島辰熊はウエイトトレーニングの重要性を知り、
若木竹丸のところでトレーニングを受けていたそうです。

みんな、「力」つながっていたのです。


※前々回、「出来上がった自著をちょっと恥ずかしげに配っている井口氏の姿が
 ほうふつとしてくる」と書きましたが、「スポーツ人名事典」によると、
 井口氏は本発行の前年の昭和60年9月に亡くなっておりました。

※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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