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神の石

富士(相沼)浅間神社の古い写真です。
現在と同じ場所です。

創建は不明。
何度か移転を繰り返し、現在地に落ち着いたのが戦国時代だったとか。

CIMG4685.jpg
静岡県富士宮市内房

富士宮市教育委員会が立てた説明板によると、
「戦国時代、穴山梅雪の息子の武田勝千代が、
八幡大菩薩浅間大菩薩を勧請した」とのこと。

「芝川町誌」には、
「勝千代が信州佐久の望月与三兵衛、八郎右衛門、弥兵衛の
望月3兄弟を大檀那に、熊野から鈴木刑部大夫を神官として招いた。
現在の神社は当時の奥宮」とあります。

古文書等によると、勧請当時は、
「間口六十間、奥行四十間、桧皮葺き朱塗りの堂々たる神殿」だったとか。

神社に保存されている棟札神像です。
CIMG4687.jpg

棟札は戦国時代から昭和まで11点。一番古いものは天文
神像は室町時代から江戸初期ごろの作で、
僧形が八幡大菩薩、裳を着けた像が浅間大菩薩(木花咲耶姫)」
  =富士宮市教委の説明板=

下の写真が、現在の神社です。

力石を担いだ「四谷の惣さん」こと遠藤惣作さんの家は、
神社からすぐのところで、現在のご当主は惣作さんのお孫さん。
「四谷」は遠藤家の屋号。

この遠藤家の近所のご老人が、
郷土史家の増田文夫氏にこんな目撃談を話しています。

「惣作さんは大人一人では動かせなかったこの石を担ぎ、数歩歩いた。
石は青年たちが中心になって担ぎあげて自慢した。
担げたら周りの人がパチパチ拍手して褒め称えた」

「担げない人にとってこの石は神の石とされて、
触れることもできないほどだった」

時おり、境内に砂塵が舞う。

   城跡の力石(いし)不動なり春嵐   雨宮清子


CIMG4708.jpg

冒頭の古い写真に土俵が写っていますが、
この土俵は現在も社殿の前にあります。

「今も相撲を?」との私の質問に、
「やってますよ。お祭りに子供相撲を」と氏子総代さん。
「賞品は出ますか?」に、総代さん、ひときわ明るく、
「もちろん出ます!」

増田氏も子供のころ、ここで相撲をとったとのこと。

総代さん、顔をほころばせつつ、
「祭りが近づくと土俵作りや賞品の買い出しで忙しくなる。
大人も子供もそれが楽しみでね」


※コメント欄に「夏目」さまから俳句をいただきました。

   惣作よ良くぞ担いだ神の石   夏目


うまい! 座布団10枚!


※写真提供/富士(相沼)浅間神社氏子総代
※参考文献/「内房の力石」増田文夫 私家本 2019
        /「芝川町誌」芝川町 昭和48年
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久々の新発見!

戦国時代の砦あとに建つ富士(相沼)浅間神社です。

CIMG4691.jpg
静岡県富士宮市内房

鳥居のところが尾根の先端部です。

ここから急な石段が続きます。
登り始めは石段の数を数えましたが、息がきれてやめました。
150段ぐらいありそうです。しかもデコボコ。

CIMG4693.jpg

石段を登り詰めたら、ありました!

力石です。 久々の新発見!  静岡県内で266 個目

かなり大きいです。
説明板には123Kg(32貫余)と書いてあります。

CIMG4703.jpg
78×30×29㎝

これは昭和の初めごろ、
当時30歳ぐらいだった遠藤惣作さんが持った石で、
あの長い石段を担いで登ったという。

うーん…
ちょっと無理のような気が…。でも、なきにしもあらず。

以前、静岡県田方郡函南町で聞き取り調査をしたら、
ご老人が、子供のころ見た力持ちのこんな話をしてくれた。

「近所の富田さんが若いころ、16貫と24貫の石を二つ担いで
下駄で熊野神社の石段を登ったのを見た。
登りきると太鼓がドンドン鳴った」

太鼓がドンドンというのがいいですね。
力持ちはヒーロー。若者たちの歓声や称賛の声が聞こえるようです。

「富田さん」は二つ合わせて40貫の石を担いで登っただけでなく、
さらに下駄をはいて登ったというのだから凄い!
でも二つ合わせたら150㎏。ひょっとして1個ずつの見間違いかも。

でも昔は、「まさか!」と思うほどのとてつもない力持ちがいたのは確かです。

だから
誰もが村一番の力持ちと認めた「四谷の惣さん」なら、あるいは…。

砦(とりで)跡に立つ

富士(相沼)浅間神社の崖っぷちから富士川を見る。

「ここは富士川の洪水常習地帯だったんです。
大水が出ると一面、沼になったので、すべて沼という意味で、
昔は惣沼と呼んでいました」と増田さん。

その富士川に沿って長い堤防が築かれていた。

「あれが出来てから助かったんですよ。その前は洪水で家を流されては移転し、
移転したらまた流されて…」とA子さん。

ここは駿河(静岡県)と甲斐(山梨県)との国境(くにざかい)の村で、
戦国時代、甲斐の武田軍が押し寄せた激戦地。
神社が建つこの丘陵は、尾崎砦という陣城だった。

img987 (3)

写真左の山は標高567㍍の白鳥山(しらとりやま。しろとりやま。城取山)。
戦国時代の重要な山城で、
尾崎砦はその白鳥山から派生した尾根の先端にあった。

※内房の郷土史家・増田氏からのご指摘です。
白鳥山は地元では「しろとり」ではなく「しらとり」といい、小学校時代、
♪しらとりやまの緑こく、という校歌を歌っていたそうです。

山のガイドブックや古城の記事にはどちらも出ていますから、
どちらもOKかもしれませんが、

この山にはまっ白い大きな鳥が大和のほうから飛んできたという、
白鳥になったヤマトタケルを彷彿とさせる伝説がありますから、
やっぱり「しらとり」かな? それが戦国時代の「城取り」から
「しろとり」に転化したのかも。

さて、写真に戻ります。
右側の蛇行する川が富士川
写真上が山梨県につながる上流。下流は駿河湾へ注いでいます。

このあたりから見る富士山です。
CIMG1008 (2)

下の縄張図は、古城研究家の水野茂氏作成の尾崎砦です。
丘陵先端部から尾根上に真っ直ぐ伸びた直線は神社への石段。
その先の白い四角が本殿。

本殿の背後には今も堀切が残っています。

img191_201904070903092be.jpg
静岡県富士宮市(旧芝川町)内房字尾崎

この尾根をはさんで向かって右が尾崎地区、左が相沼地区です。
このように砦は二つの地区にまたがっているので、神社所在地の書き方は、
人によって尾崎にしたり相沼(惣沼)と書いたりさまざま。

ちなみに昭和48年発行の「芝川町誌」では、
尾崎ではなく相沼としています。

眼下に甲州街道が走り、目と鼻の先に富士川の渡船場を持つこの地域は、
を始めとする物資運搬の重要な道であり、いくさ道でもあり、
日蓮宗総本山・身延山久遠寺に通じる信仰の道でもあった。

そのため、甲斐の武田信玄に目をつけられたわけです。

信玄は3度、駿河侵攻を企てますが、
真っ先に攻められたのがここで、これを「内房口の戦い」といいます。

武田、今川双方の戦死者の五輪塔です。
img987_2019040709351862a.jpg

   天空に鬨の声聞く春はやて    雨宮清子

この戦いで今川方の荻氏は討死し、
それまで所領していた白鳥山城、尾崎砦を武田方に奪われてしまいます。
代わりに入ってきたのが信玄の重臣・穴山信君(のぶただ。梅雪)です。

その梅雪から名田を与えられて、
実際にここを支配したのが望月三兄弟です。
 ※望月氏については拙ブログの「大ツモリ物語」の項をご覧ください。

この望月一族は元は信州(長野県)佐久地方の豪族。
この一族の末裔は今もこの地にしっかりと根付いています。

清水区由比の郷土史家だった手島日真氏は、
著書「由比町の歴史」にこう書いています。

「望月氏は繁殖力の著しい氏族である」


※参考文献・画像提供/「目で見る芝川町の歴史」唐紙一修、芦沢幹雄、
               佐野文孝 緑星社 昭和51年
               /「ふるさと古城の旅」水野茂 海馬出版 1998

   ーーーーー◇ーーーーー

ブログ記事とは無関係ですが、ちょっとつぶやき。

地下鉄で何度もドアに袋をはさんで列車の出発妨害していたおじいさん。
「うわあ、こういう人ってどこにもいるんだ」と。

エレベータに乗って「閉」ボタンを押したらすぐ開いてしまうことがあって。
何度押しても開くのでおかしいなあと思い後ろを見たら、
老人がドアが閉まりかけるたびに「開」ボタンを押していた。

別の日には停留所ごとにバスの「降ります」ボタンが押されるのに、
誰も降りない。たまりかねた運転手が「いたずらしないで」とアナウンス。
でも止みません。原因はなんと一番前の運転手に見える席の老人が
「次は○○」というアナウンスのたびに押していたのです。
運転手、押しそうになるたびに睨んでいて、おかしいやら気の毒やら。
でも全然、止めないのです。

エレベータの老人はニヤニヤしていたから意識的にやっていたと思いますが、
バスの老人はごく真面目に自然にやっていたんですよ。
どちらにしても、これって何なんでしょう。

嬉しい出会い

旧芝川町内房までは、
通常、電車を乗り換え、さらにタクシーで行くしかありません。
下車駅の芝川駅への運行は1時間に1本。しかも無人駅。

車の運転があまりにも下手で、「人様に危害を及ぼす前に止めよう」と、
はやばや免許証を返納してしまった私ですから、
力石探しはいつも公共交通機関とタクシー。

そんな私に、A子さんが、
「52号線を行けばすぐですから、車で迎えに行きますよ」

A子さんのご配慮はこれだけではなかった。

目的地の富士浅間神社(相沼浅間神社)に着くとすぐ、
神社惣代さんに引き合わせてくださり、
さらに、郷土史家の方にも声を掛けてくださったとのこと。

神社の長い石段を登り詰めると、
果たしてその郷土史家さんがすでに境内で待っていてくれました。

CIMG4700.jpg
静岡県富士宮市内房字尾崎・富士(相沼)浅間神社

増田文夫氏。内房出身。
  芝川郷土史研究会会員。静岡県文化財保存協会会員。
  『深澤碧水句集「杣の人」拾遺』 『十七音の詩形のしらべ』など編集。

ここへ来るまでの車中で、
私は増田さんのご著書「内房の力石」を見せていただいた。

馬頭観音や道祖神の調査の中で、力石に出会ったという増田さん。
郷土史家さんで力石に興味を示す人などめったにいない中、
増田さんは石仏に接するときと同じまなざしで、
力石を見てくださっていた。

地元ならではの人脈を駆使した緻密な調査が目を引く。
取材相手との会話が生き生きと記されていて、
さすがだなあと感心したり、羨ましく思ったり…。

末尾に、
私と師匠・高島先生の「静岡の力石」も紹介してくださっていた。

「内房の力石  
  ~もう忘れさられた力自慢・腕比べ自慢の力石~です。

img007_2019040422443800e.jpg
私家本。2019年。

そしてこの中に私の知らない力石が、なんと2個も収録されていたのです。

増田さんの新発見です。

次回は増田氏のご案内で、その力石を紹介してまいります。

花ふりつむ

力石の新たな情報をいただいて、静岡県東部の
旧芝川町(現・富士宮市)内房(うつぶさ)へ出かけた。

3年振りの訪問です。

内房在住のA子さんが交通の便が悪いことを心配して、
東海道線の駅まで車で迎えに来てくださった。

その車中で、Mさんの死を告げられた。

Mさんは山の上の集落、大晦日(おおづもり)の最後の住人だった。
雪崩を打つように村人たちが山を下り、
村の指導的一族も去ったあとの長い年月、
妻と二人で集落とその一族の神社を守り続けてきた。

こちらは、いつもMさんがきれいに掃き清めていた芭蕉天神宮です。
年2回、麓の集落からやってきた子供たちが祭りを盛り上げます。

CIMG0608.jpg

祭りの日のMさんは、
センスのいいジャケットを着たおしゃれな紳士に早変わり。
大勢の来客を満面の笑みで迎えていた。

私が初めてMさんにお会いしたのは7年前、Mさん75歳のとき。
その折り、青年時代に持った力石を見せてくれた。
翌年訪れたら、
「もう一個あった」ともっと大きな石を、はにかみながら見せてくれた。

それがこちらです。

CIMG0536 (3)

   「十九貫担いだ」と語る老人の 
       力石(いし)つかむ指 瞬時花やぐ   
雨宮清子

このとき、寡黙なMさんがポツリと、
「体調が悪いから、近々山を下りるんだ」と言ったのが気になって、
「だったらこの石も山の上の保存場所に一緒にされたら」と言ったのだが、
Mさんはなぜか、「ウン」と言わなかった。

山の上には昔、青年たちが石担ぎをして遊んだ広場があって、
そこにあった力石2個が碑とともに保存されたばかりだった。
でもMさんは最後まで頑なにそれを拒み、
主なき家に石を置いたまま逝ってしまった。

3年ぶりのこの日、どこも桜で花やぎ、枝垂桜はすでに散り始めていた。

「とうとう誰もいなくなっちゃった
と、A子さんがつぶやいた。

ここには、中世から戦国時代の甲斐と駿河を結ぶ重要な交通路が走っていた。
その古い村がひとつ消えた。

CIMG4716.jpg

  廃村はただ白し 力石に花ふりつむ   雨宮清子

Mさんの死は村の消滅であり、力石の死でもあった。

      ーーーーー◇ーーーーー

Mさん、ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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