場違いですが、ポエムです

終戦の日に…。


身の上ばなし


荒々しい足音が近づいてきたと思ったら いきなり拳が振り下ろされた
一撃を食らった私のほおに ピリッと電気が走った
痛みなど感じはしなかったけれど 
不意打ちの恐怖と畳に落ちた鼻血にはうろたえた
その畳につんのめったまま見上げると
そこに仁王立ちした母がいた
母のパーマネントの髪は総毛立ち 天井いっぱいに広がっていた

そのとき私はまだ六歳で 殴られる理由など何もなかった
ただ暗い部屋のタンスの前で
紙の着せ替え人形で遊んでいただけだった
息を殺して固まっている私を母はよく光る目で一べつすると
「ああ、スッキリした」とでもいうように軽やかに立ち去っていった

本当はいらない子だったんだと母はいった
終戦間際のドサクサに妊娠してしまった五番目の娘
以来 父への嫌悪とセットにして聞かされ続けたセリフ
「あんただけが”あの”お父さんに似てるからヤなんだよ」
だからいつも五番目の娘にしか当たらなかったピンポイント爆弾

戦争が終わってもなお戦争を引きずる母がいて
その母に殴られても無視されてもヘラヘラ笑う私がいた
狂気の時代が終わってもなお狂気を増幅させる母がいて
そういう母に
「お父さんなんか死ねばいいのにね」
と媚びる私がいた

これが私の身の上ばなし
六十年たっても引き戻される色のない原風景

              (「詩人会議」掲載作品)

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東海力石の会

本日、岐阜在住の大江誉志さんから特注のTシャツが届きました。
なんと、プレゼントしてくださったんです!!

これです。胸に「東海力石の會」と書かれています。

CIMG3930.jpg

大江さんは、
NPO法人日本ロシアンケトルベル協会のインストラクターですが、
極真空手の有段者でもあります。

ケトルベルを使って。


バーベルを使って。


そして私と同じように「力石に魅せられて」、
とうとう力石の同好会を作ってしまったのです。

仕事の合間に、お仲間の方々と各地の力持ち大会へ出場し、
地域のみなさまと熱い親交を続けています。

「東海力石の会」のみなさまです。
1東海力石の会
向かって左端が大江さん。

こちらは姫路で、誰も担げなかった大石を挙げたときの大江さんです。
このときは浪速の力持ち浪速の長州力さんと私も同行しました。

大江さんは静岡県出身の奥さまと愛犬さくらちゃんを伴い姫路入りしました。
地元の若者たちや大江さん、浪速の長州力さんの力技を見せていただき、
もう凄すぎて、言葉になりませんでした。



大江さんと仲間たちが作る「東海力石の会」は、力石と男たちの熱いホームです。
リンクに貼ってあります。ぜひ、ご覧ください。

20663628_2004900983074218_835879898841484064_n.jpg


3東海力石の会

私も「力」のTシャツで、ポーズをとってみました。
セルフタイマーで汗だくで…。といっても、この程度ですが…。

CIMG3923.jpg

いただいた力を背負って これからもがんばります!

※写真などは「東海力石の会」さまからお借りしました。

徳蔵と惣吉

前回、徳蔵惣吉が足受けした力石「百度石」をご紹介しましたが、
この二人の名を刻んだ力石はあと2個残されています。

一つはこちら、氷川神社のお稲荷さんのところにあります。
残念ながら参拝者の方々、ほかは熱心に説明板を読んでいますが、
ここは素通りです。トホホ。
まあ、説明板もないのですから、仕方がありませんね。

CIMG3889.jpg
東京都杉並区高円寺・氷川神社

徳蔵と惣吉の石はこちらです。

   「さし石 大正十五年 神田川徳蔵 大工町惣吉」

どなたか時々洗っているんでしょうか。
今から91年も前に彫付けた文字とは思えないほどきれいです。

CIMG3882.jpg
79×33×27㎝

あとの一つはこちらの馬橋稲荷神社にあります。
炎天下、道に迷いつつ、やっとたどり着きました。
建物に鳥居がくっついていてびっくり。この前は道路です。

CIMG3895.jpg
東京都杉並区阿佐ヶ谷・馬橋稲荷神社

入ると中は意外と広い。
境内をあちこち探してやっと見つけました。
これです。ちょっとうら寂れた風情。
寺や神社ではご住職や宮司さんが変わると価値観が一変してしまいます。
昨日まで大切にされていた力石が裏の竹やぶに捨てられたり…。

で、人一倍汗かきの私。暑さと疲れで頭もカメラもボーッ
カメラのレンズカバーが垂れ下がってくるので、いちいち押し上げて…。

CIMG3898.jpg

でも、4個あるはずなのに2個しかありません。
やっと石碑の右側にコンクリートにめり込んだ3個目をみつけたけど、

CIMG3903.jpg

残りの一個が見つかりません。
なんか妙なおっさんがいて、なんとなくヤバイという気もあってあきらめました。

それが肝心の「徳蔵と惣吉」の石だったと帰宅後気が付きました。
急きょ、師匠の高島先生にお願いしてお借りしたのがこちら。

阿佐谷南・馬橋稲荷神社2
67余×40×26cm

   「奉納 さし石 四拾メ目 大正拾五年 
    神田川徳蔵 大工町惣吉 立会人 浅賀喜八」


この日はもう一つ、撮り忘れたものがありました。
竜の巻き付いた珍しい鳥居です。
古びた参道があって、たぶんその先にあったと思いますが、
なんとなくUターンしてしまいました。

さて、ここで本日の主役、「大工町惣吉」の紹介です。

何度も申し上げていますが、
今まではただ石に刻まれた名前しかわからなかった人物が、
こうして眼前に姿を現したのですから、常に冷静な私でも興奮しまくりです。

埼玉の研究者・斎藤氏は、
古き良き日本人の風貌がそこにあり、惚れ惚れと見とれてしまいました」
とワクワクしつつ、日夜、人物特定に取り組んでいるとのこと。

右矢印が大工町惣吉です。
sasiisi4_1 (2)

これはすでにご紹介した
大正15年に神田佐久間町・佐久間学校での興行、
「神田川栄吉腹受」です。

舟の上で3人の男が米俵を差し上げています。
その真ん中で「片手差し」をしているのが大工町惣吉です。
左端は神田川徳蔵です。

とっておきのもう一枚を、お目に掛けます。

下の写真をご覧ください。
上の写真と同じ日の、佐久間学校での興行です。
立派な力石がズラッと並んでおります。

で、その前に置かれているのはなんと、バーベル鉄アレイです。
大正15年に徳蔵一派はすでにバーベルを手に入れていたんですね。

日本に重量挙げの連盟ができたのは昭和12年
初めてオーストリアからバーベルを買ったのが昭和9年ですから、
それより8年も早く徳蔵たちはバーベルを使っていたということになります。

非常に興味深い事実ですが、これについてはのちのちお話しいたします。

sasiisi3_2 (2)

徳蔵と惣吉に戻ります。
上の写真を拡大したものがこちら。
右の赤丸の人物は神田川徳蔵ですが、問題は左の赤丸の人物です。

斎藤氏は初め、左の人物を佐賀町丈太郎としていましたが、
特定し直した結果、これは丈太郎ではなく大工町惣吉だと判断。

sasiisi3_2 (3)

この写真には添え書きがあります。
確かに添え書きではこの人物を「大工町惣吉」としています。

斎藤氏は添え書きを間違えて書くはずはないと思い直し、
再度、人物特定に挑戦。
そこで、
惣吉はサウスポーだったということに気付いたそうです。

確かに一枚目の写真の惣吉は左手で俵を挙げています。
左利きですね。
2枚目では子供を左手で抱いています。

斎藤氏はこう言います。

「誰の子供かわからないけれど、大切な子供だから無意識に利き腕で抱いた。
これが惣吉特定の大きなポイントになりました」

徳蔵の縁者のみなさまには異論反論があるかと思います。
ぜひ、ご意見をいただければ、と思っています。

ちなみに徳蔵縁者のさんの見解は、
赤矢印の横を向いてる人物が大工町惣吉、
前列で左手で子供を抱えているのは、神田川萬平

徳蔵に関してはEさん、斎藤氏共に同意見です。

sasiisi3_2 (4)

私にはみんな同じ顔に見えちゃって。
石上げならぬ、まったくのお手上げです。


    =利き腕の左手で子供を抱いていることについて
 
 男性と女性では違うかもしれませんが、
 私は右利きですが 子育て中は左手で子供を抱いていました。
 
 これは利き腕で哺乳瓶を持ったり、赤ちゃんの顔を拭いたり荷物を持ったり
 また、不意の危機にとっさに対応するためにも、
 無意識に右手をあけておいたような気がします。

 こんな観点から惣吉の左手で抱き上げた動作をみるのも面白いかも。
 写真後列右端の人物は右手で子供を抱いていますね。

人間わざとは思えない

柳森神社の力石群の中でひときわ異彩を放つのが、この「百度石」です。

これです。
高さが1m余もありますので、ほかの石が小さく見えます。

CIMG3852 (3)
100余×68×24㎝

  「百度石 皇紀二千六百年建立 
       神田川 徳蔵 大工町 惣吉 足受」


これは神田川徳蔵大工町惣吉がそれぞれ足で差したという意味です。

ここに刻まれた「百度」というのは、
寺社の入り口から拝殿や本堂までを百回往復して願掛けをする
「お百度参り」のことです。

百度石はその目印として入口あたりに置かれていましたが、
徳蔵たちのこの百度石が、どこに奉納されたかは定かではありません。

また「皇紀二千六百年」というのは、昭和15年(1940)のことで、
この年は神武天皇の即位から2600年目にあたるとされ、
各地で盛んに催しなどが行われました。

この9年前の昭和6年、日本は満州事変勃発で15年戦争に突入。
昭和14年には、ドイツのヒトラーがポーランドへ侵攻。
これが第二次世界大戦へと広がっていきます。
日本は、皇紀二千六百年とされたこの年、
そのドイツとムッソリーニのイタリアとの間で三国軍事同盟を結びます。

徳蔵と惣吉は戦時下の国威発揚のお役目を仰せつかって、
この足受けを披露したのかもしれません。
しかし「日本の戦勝祈願」より、我が子が無事戦地から帰ることを願って
お百度参りをした母たちが多かったのではないでしょうか。

戦死した息子の墓に、
生前その息子が愛用した力石をそっと添えたお墓があります。
お母さんはご自分がこの世を去るまで、
この石を息子のつもりで、会いに行っていたような気がします。

「一億火の玉」「欲しがりません勝つまでは」の戦時色一色の状態は、
B29による大空襲、広島、長崎への原爆投下、米軍の沖縄上陸などで
壊滅的被害を受けた昭和20年まで続き、敗戦を迎えます。

大空襲の中で、多くの力石が生き延びた
石は自ら動けないのにね、不思議なたくましさを感じます。

さて、この石にはもう一つ、聞きなれない言葉が刻まれています。
「足受け」です。「足差し」ともいいます。

こういう技です。
img342 (4) CIMG2431 (4)
沢田重隆・画                   江戸川区郷土資料館

足差しにはとてつもない重量の石が使われますので、
力持ち番付にも載った玩具博士の清水晴風は、
「これができるのは真打だけ」と言っています。

この重い石をどうやって足に乗せるかというと、
こんな具合に介添え人たちが乗せるのです。乗せる人たちも大変ですね。

桶川市民祭り1 (7)
埼玉県桶川市の市民祭での「足差し(足受け)」の再現

この再現で使われたのはハリボテの石ですが、
実際の石は610㌔(実測)もある日本一の力石で、
これを差したのは埼玉県出身の日本一の力持ち、三ノ宮卯之助です。

この卯之助の石の大きさは125×75×35㎝
これに比べて徳蔵と惣吉が挙げた「百度石」は、
100余×68×24㎝とやや及ばないものの、堂々たる巨石です。

徳蔵、このとき49歳
想像してみてください。
49歳で、1m余りもある巨石を足で挙げたのです。

実際に力石を目にされた方は、
「こんな石を持ち上げたなんて信じられない」とおっしゃいます。
本当にとうてい人間わざとは思えませんが、挙げたんです。

この二人もまた卯之助同様、抜きん出た力持ちだったのです。

残念ながら百度石の足受けの写真はありませんので、
かわりに臼の足受けの写真をお見せします。
「百度石」の足受けから遡ること18年も昔の興行です。

樽臼
「樽の曲持ち」                      「臼の足受け」

「大正十壱年七月十六日 深川高橋際舟亀前空地
  樽ノ曲持 臼ノ足受」


演者は不明ですが、埼玉の研究者・斎藤氏によると、
臼の足受けで左端で付き添っているのは、神田川徳蔵とのことです。

このとき徳蔵さん、31歳
愛するお千代さんと結婚したころでしょうか。

張り切っております。


※徳蔵関係の写真は、
 徳蔵直系のご子孫から縁者のEさんを通してお借りしています。

両輪のごとく

荷役業「飯定組」の飯田定次郎には、1男5女があったと以前お伝えしました。

末っ子の千代の夫は入り婿の神田川徳蔵ですが、
長女の夫もまた婿入りした人で、神田川(飯田)隆四郎といいました。

この人です(左)。右は義父の定次郎。
s60920_hakakuyou.jpeg

縁者のEさんによると、隆四郎は「飯隆組」(いいたかくみ)という
馬車を使った運送業をしていたそうです。

ちなみに、そのころは、
陸上の運送業を「車力派」
河川の舟での運送業を「川並派」と呼んでいました。
なので、神田川一派は「車力派」になります。

で、この二人の婿殿が義父・定次郎の統率のもと、
車の両輪のごとく「飯定組」を盛り立てていた。

その両輪のお二人の名が刻まれた力石が、ここ柳森神社にあります。

これです。(赤矢印)
CIMG3848 (2)

埼玉の研究者・斎藤氏が草をかき分けて撮影した写真がこちら。
下段右端に「飯隆」とあります。隆四郎です。左端の「飯徳」は徳蔵です。
あとは「飯定組」の従業員と思われます。

img449.jpg
58余×43×24㎝

「さし石(石銘) 蛎殻町 政吉 神田川 飯定内
 飯隆 主馬蔵 大善 竹松 飯徳」

この飯田隆四郎の長男は一郎といい、
バーベルをつくり、徳蔵や徳蔵の長男の定太郎とともに
日本の重量挙げの興隆に貢献してきた人です。

まさに日本のウエイトリフティングの元が、
神田川米穀市場の「飯定組」の徳蔵とその親族にあったということになります。

飯田一郎です。
中央が祖父の飯田定次郎、その右横が一郎
後列左端が徳蔵長男の定太郎、右端が一郎の弟、勝康

この3人が徳蔵と共に活躍します。詳細はのちにお伝えします。

s080115_iisada_mago.jpeg

ここで私が注目するのは、
力石による石上げ競技という伝統的スポーツから、
ウエイトリフティングという近代スポーツへの移行が、
徳蔵という一人の力持ちを通して成し遂げられたという事実です。

早稲田大学の寒川恒夫教授は、「日本スポーツ史・スポーツ前史」で、
「sportという単語は紀元前五世紀のローマ人が使っていたラテン語動詞で、
これは物を移動させる、あるいは人が移動するを意味した。

これがのちに移動の対象を物から心へ広げ、
心ある状態(重い、つらい、ふさぎ込んだ状態)からそうでない状態へ移す、
即ち、気晴らしをする、楽しむ、遊ぶを意味させるに至った」としています。

そして、こうも言っています。
「近代化・欧化の一環としてスポーツを展開した明治・大正の日本人にとって、
「遊ぶ」スポーツ理解は、むしろじゃまであったのかもしれない」

「鳥獣戯画」に描かれた「ウサギとサルの走り高跳び」
img531.jpg

平安末から鎌倉初期まで各僧侶によって描き継がれた「鳥獣戯画」には、
動物たちが相撲や蹴鞠などを楽しんでいる様子が描かれています。

綱引き、羽根つき、凧揚げ、ハーリー、流鏑馬、勇壮な神輿担ぎなどは、
みんな伝統的スポーツと呼ばれるものだそうです。
どれも真剣そのものですが、その精神はおおらかで、まさに遊び心の爆発
する側も見る側もここぞとばかり楽しんでいます。

それにひきかえ、勝敗にこだわり、技術の追求ばかりの、
「遊び心」を忘れてしまった最近の近代スポーツ。

昔の力持ちたちは石担ぎに失敗すると家に飛んで帰り、
カツオ節をかけたどんぶり飯を腹いっぱい食べて再度挑戦したけれど、
今はドーピング問題が…。

ラテン語のsportの精神、どこへやら。

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
力石(ちからいし)のことを知ってほしくて、ブログを開設しました。主に静岡県内の力石と力石を詠んだ句や歌、力石探しのつれづれを発信していきます。

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