帰りゃんせ

「神田川徳蔵物語」から、ずいぶん寄り道してしまいました。

徳蔵さんの千社札コレクションの中から、
民俗学の祖・山中共古の札を見つけたのがそもそもの発端。
そこから話は民俗学の大家で「官のアカデミー」の柳田国男に及んだ。

その柳田が出版業者に発した「本屋ふぜいが!」の上から目線にカッチーン!
同様に私の祖先はこの人から「巫女ふぜいが!」と見当違いの記述をされ、
さらに地元郷土史家からは、未公開の私文書を楯に、
「ここの神主が横領云々」などと書かれて、
曽我兄弟ならぬ私の「仇討ち」という思わぬ展開になってしまいました。

その結果、

♪ 徳さん だんだん遠くなる 遠くなる
   今来たこの道 帰りゃんせ 帰りゃんせ


というわけで、
「徳蔵物語」のスタート地点、東京・神田川界隈へ帰って再出発です。

以前にも出しましたが、やっぱりこの写真から行きましょうか。
私の一番好きな写真です。

神田川米穀市場所属の荷揚業「飯定組」2代目・徳蔵の片手差しです。

優勝カップと俵上げ (2)

後ろにいるのは、
徳蔵の義父・飯田定次郎が従業員の中で一番信頼していた羽部重吉です。
徳蔵さん、最期はこの人に看取られたそうです。
それほどにこの二人は、深い絆で結ばれていたということですね。

下のスケッチは葛飾北斎の「北斎漫画・江戸百態」の一コマです。
左が片手差し、右が両手差し。

img156.jpg img289.jpg

こちらは神田川一派の力持ち興行です。
洗濯物がヒラヒラしていて、のんびりした風情ですから小興行か練習かも。

埼玉の研究者・斎藤氏によると、
「見物人は子供たちなので、夏休み中かもしれない。
遠方(赤矢印)に見えるドームは旧両国国技館
ということは、橋は隅田川にかかる総武線鉄橋です」

室内 (2)

拡大すると、
こんな感じ。米俵の片手差しをやっています。
みなさん笑顔を見せていて、なごやかです。
左端の白シャツの人、重吉さんに似ています。

赤矢印はバーベルです。
右端に腰かけている人が、それをチラッと見ています。

2新たな写真

バーベルを見ているのは、徳蔵さんなんですよ。
同じ会場を別の角度から写したのがもう一枚あります。
それを拡大したのがこちら。

徳蔵さんの後ろの人は、竪川大兼さんみたいだけど、どうなんでしょう。
楽しそうに笑っています。

1新たな写真

斎藤氏によると、
「旧両国国技館は大正9年(1920)に再建され、3年後の大正12年に
関東大震災で破損。翌年、再々建された。
この写真を見ると、向こう岸も興行場所も震災を受けたようには見えないので、
これは大正9年から12年の間に撮影されたものと思います」

ところがこのバーベルというものは、
明治から大正に外国人たちが使っていたという証言はあるものの、
民間では記録がなく、公的に初めて登場したのは、
日本政府がオーストリアから購入した昭和8年なんだそうです。

ということは神田川徳蔵は、
それより10数年も早くバーベルを所持していたことになります。

これって凄くないですか?

外国から入手したのか、自作品なのかはわかりませんが、
「力石からバーベルへ」
つまり、「伝統的スポーツから近代スポーツへ」なんて発想、
他の力持ちたちにも当時の日本人にもなかった。

それを徳蔵さんは難なくクリアした。その先見性が凄いんです。
まさに徳蔵さんは日本の重量挙げの道を開いた人
このことを多くの人に知っていただきたい。

神田川一派とバーベルについては後日、詳述します。

さて、重吉さんです。
無二の親友の徳蔵さんと行動を共にしているはずですが、
不思議なことに、その姿、今のところ興行写真から特定できておりません。

次回はその重吉さんの石のお話です。


※参考文献/「現代体育・スポーツ大系 第21巻」
         浅見俊雄・宮下充正・渡辺徹編 講談社 昭和59年
        /「日本ウエイトリフティング協会60年史」協会HP
※徳蔵関係の写真は徳蔵氏ご子孫と縁者Eさん提供。
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友、遠方より来たる②

「望嶽亭・藤屋」をでると、目の前が「薩埵(さった)峠」の登り口です。

友人はなにしろ海外の山旅のベテランなので、
夕べの夜行バスの疲れもなんのその。

坂の途中で振り向けば笠をかぶった富士山が…。

雪のない富士山で、雄大さにはちょっと欠けるけど、
海と富士山を一緒に見たい」という希望は、なんとか叶えてあげられたかも。

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静岡市清水区由比西倉沢

登るほどに駿河湾が迫ってくる。
友人は歩きながら、片手に持ったカメラで野の花を次々写していく。

あっという間に峠に出た。

江戸時代の「さったぢぞうみち」の道標2基と現代の道しるべが立つ。
この道しるべ、昔は反対側の崖にめり込んでいました。

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ここまで来ればあとは平らな遊歩道です。
私がここへ初めて来たときは、
崖っぷちのみかん畑の中を枝をかきわけて歩きましたが、今は楽なもんです。

ビューポイントにきましたが、あいにく富士山は裾だけ残してすっぽり雲の中。
ホントに気まぐれなお山です。

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「本当はこんな風に見えるんです」って、説明板が言ってました。

06 薩た峠

こちらは同じ場所から広重さんが描いた「東海道五十三次之内 由井」
富士山手前の山の形は今も同じ。

暗くてわかりませんが、
左端の崖から旅人がこわごわ下をのぞき込んでいます。

もっと昔はこの崖下の波打ち際を歩いたとか。

波がひいたとき大急ぎで通らなければ波にさらわれます。
なので親は子を構ってはいられず、子は親をあてにせず自力で通った。
そういう難所だったので、ここを
「親知らず子知らず」と呼んだそうです。

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たっぷり景色を満喫したあとは静岡駅へ逆戻り。
さっぱりと着替えて、いざ、ディナーへ。

この日のために私が選んだお店です。
こじんまりと落ち着いた空間。もちろんお料理も抜群です。
まずは再会を祝して、「かんぱァーい!」

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たっぷり2時間、飲んで食べておしゃべりして…。

で、翌日も半日時間があるというので、お付き合いです。
静岡浅間神社や駿府城、登呂遺跡は、
山の同好会のお仲間と地元ガイドの案内で行かれるというので、
では、「清水次郎長さんに会いに行きましょうか」ということに。

翌朝、待ち合わせの静岡駅へ行ったら、お仲間が一人増えていた。
「みんな面倒見ちゃいましょ」というわけで、いざ、清水湊へ。

清水駅前の広場では、マグロ祭りの幟がはためいていましたが、
私たちは駅前からバスで日の出埠頭へ。
そこから昨日登った薩埵峠をながめたり、朝の光の中にもやう船やヨットや、
まだ動き出さないエスパルスドリームプラザの観覧車を見たり。

もちろん、近くの西宮神社のあの金杉藤吉の力石もお見せしましたよ。

川沿いの杭の一本一本に大きな鵜が止まり、胸をそらして翼を広げている。
そんな光景を横目で見ながら、
官軍に襲撃された旧幕臣たちを次郎長が手厚く葬った「壮士之墓」
次郎長の生家、次郎長が英語塾を開いた船宿「末廣」とめぐりました。
もう次郎長づくし、次郎長一色。

次郎長さんと並んで「合羽からげて三度笠」の友人。よく似合ってます!
09 次郎長の英語塾

船宿でゆっくりお抹茶をいただいて、無事、帰路につきました。
同好会のお仲間との合流までに充分間に合って、安堵。

後日、
「おかげで、ツアーのガイドさんの質問に全部答えることが出来ました。
あなたはベストガイド。静岡を満喫できて感謝しています」とのメール。

喜んでいただけて、よかった!

友人からいただいた金沢のお土産です。
「箔一」の漆器のワイングラス。なんか使うのもったいないよ~。
右側は金沢市元町「中田屋」のきんつば。「毬栗」と「うぐいす」。
左側は大手町「森八」の「秋の宝達」。

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さっそく、「秋をおひとつ、いッただきまあ~す!」

「これは是が非でも金沢へお越しいただかなければ…」
って友人が言ってたけど、
いいね! 冬の金沢で再々会といきましょうか!

友、遠方より来たる①

10月3連休は、石川県金沢市から友人を迎えて楽しみました。

昔、私が出した山登りの本を読んで、
「お母さんになっても登山を続けていいんだと勇気をもらいました」
というお手紙を下さった方です。
所属する山の同好会で静岡市へ旅行に来ることになり、
彼女だけ一日早く来静。なんと、27年ぶりの再会です。

お互い、孫を持つ身と相成りました。

初日の半日は由比の「薩埵(さった)峠」へ軽いハイキング。
由比といえば桜えび、というわけで、まずは腹ごしらえ。

生の桜えびです。
秋漁は今月末なので、今はまだ冷凍ですが美味。
CIMG3939.jpg

桜えびはなんといってもかき揚です。私は獲れ立てを自分で揚げます。
桜えびに粉をふりかけ、水を2,3滴垂らすだけ。
それを大さじに入れて油の中へ流します。

窓いっぱいの駿河湾をながめながら、塩を振りかけて、
「いっただきまあす!」

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静岡市由比・「くらさわや」

満腹になったところで、今度は昔ながらの家並を抜けて「望嶽亭・藤屋」へ。
ここは江戸時代の茶店だった家で、旅日記や広重の絵にもなっています。
かつてお世話になったご主人の松永宝蔵さんはすでになく、ちょっと寂しい。

「静岡の力石」の表紙に使わせていただいた
宝蔵さんの力比べのスケッチです。

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宝蔵さんに似たご親戚の方に招き入れられて、お話を聞く。

絵描きになりたかったが農家の長男だったから断念したという宝蔵さん。
「独学で覚えた」と言っていた絵が部屋中に飾ってあった。
「七福神」の手ぬぐいを購入。
おさえた色合いの多い宝蔵さんにしては珍しくあでやかだ。

松永宝蔵画「七福神」の一部。
弁天さまにだけ足袋?を履かせているのが、心温かい宝蔵さんらしい。

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続いて、昔、新聞連載の記事のため何度もおじゃました蔵座敷へ。
懐かしいなあ。
宝蔵さんの「官軍に襲われて望嶽亭に逃げ込んだ山岡鉄舟はッ!」
の名調子を聞いたのがつい昨日のよう。

山岡鉄舟が置いて行ったフランス製のピストルも、
戦後ここへやってきたオリバー・スタットラーの礼状もそのままあった。

スタットラーは米軍の軍属で、美しい日本の宿に魅せられ、
興津にあった水口屋という旅館とそこを取り巻く人々を描いた
「水口屋ものがたり」を書いた。これは英訳、ドイツ語訳、日本語訳になった。

望嶽亭はこの水口屋とは親戚で、侠客・清水次郎長とも深い関わりがあった。

蔵座敷の窓です。
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窓の向うに東海道本線と国道、高速道路、
その向こうに見えるのが駿河湾です。
地震で隆起したため現在のようになったが、江戸時代は窓の下がすぐ海で、
海女さんが獲ったアワビやサザエを、その場で焼いて旅人に出していた。

狂歌師の大田蜀山人は、
「ここのアワビやサザエを楽しみにしてきたのに、
松平近江守の一行がいて占領していたので、仕方なく隣りの茶店に行った」
と旅日記「改元紀行」に書いている。

蔵座敷には隠し階段があって、私たちは特別、下へ降りさせていただいた。
地下もまた広い空間になっていて、
漆喰を施した三重の扉で密閉されていた。

火事になったときすぐ新しい家を建てられるよう、
ここに一軒分の木材を保管していたという。

CIMG3945.jpg

官軍に追われた山岡鉄舟はこの隠し階段から海へ逃れ、
次郎長が用意した小舟に乗って、西郷隆盛の待つ駿府を目指した。
これが「江戸城無血開城」につながったという。

学者さんたちは「あり得ない話」といいますが、
松永家では代々、そんな話を伝えてきたのでしょう。

そんなこともあって説明のおじさんは、
「これはあくまでも言い伝えです」との言葉を添えていました。

広重が描いた「望嶽亭藤屋」です。
右側の建物が望嶽亭です。切り立った崖は、
河竹黙阿弥がここを舞台に書いた歌舞伎「切られお富」の名セリフ、

「総身の疵(きず)に色恋も、薩埵峠の崖っぷち」の薩埵峠です。


由比隷書
隷書版「東海道五十三次 由井」

これでおしまい

「角田桜岳日記」の中で河津祐邦が言った
「曽我社には細川、雨宮という二人の神主がいた」というくだりを読んだとき、
真っ先に浮かんだのは、伯母の一人から聞いた話だった。

この伯母は兄や姉たちにではなく、なぜか、
「何を考えているかわからない気味の悪い子」と疎んじられていた私に、
「清子さん、よく覚えておくのですよ」と懸命に話しかけた。

こんな話だった。

「祖先はもとは細川といい、京都で戦乱が起きた時、都落ちしてきた」
「のちに信濃の雨宮(あめのみや)というところから養子を迎えたため、
そのときから名前が変わった」

それから数十年後、歴史に興味が出てきたとき、
伯母が言っていた京都の戦乱は「応仁の乱」で、
信濃の雨宮(あめのみや)は、長野県埴科郡にあって、
川中島の合戦に出てくる「雨宮の渡し」の地だと気が付いた。

ここには土豪・雨宮氏が築いた雨宮城という山城があったという。
城主といってもたくさんいた土豪の中の超マイナーな一人に過ぎない。
が、とにかくそこから養子としてはるばる駿河(静岡)へやってきた人がいた。

雨宮城登山口
城雨宮
千曲市雨宮。「城と古戦場・戦国大名の軌跡を追う」からお借りしました。

私の実家に刀と槍が残されている。
母が嫁いだとき、父の生家の長押には槍がたくさん架けられていたそうだから、
その一部だったのだろう。

刀は室町期の作で、これ以上研ぐことができないほどすり減っていて、
何度も実戦に使われた、つまりたくさん人を斬った刀だと研ぎ師は言った。

民俗学の大家・柳田国男は、
父の先祖の神社は、「歩き巫女が定着した小祠」と書いていたが、
この刀の存在といい槍といい、そこにあるのは、
戦国乱世を駆け抜けてきた武士の姿で、春をひさぐ巫女の影などない。

で、「細川と雨宮の二人の神主」の記述を見た瞬間、
子供の私に真剣な表情で語った伯母の顔がドーンと甦ってきた。
あれは作り話ではなかったんだ。そう思ったら、
それを数百年も伝えてきた「家」という存在に感慨すら覚えた。

「双禽八陵鏡」
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八幡宮蔵。子供のころ、ままごとの道具に使ってしまった神鏡。

そして、歴史学の史料偏重ともいうべき在り方に疑問が湧いてきた。

文字として書かれた記録だけが歴史ではない、
伝説や伝承の中にも歴史はちゃんと生きているんだ、と。

人類学者の山口昌男は、
「官のアカデミー」だけを尊重する風潮を戒め、
官のアカデミーを縦軸に、「野のアカデミー」を横軸にしたクロスを提唱した。

この言葉をお借りしていえば、私が学芸員さんたちから
「あんなマイナーなもの」と言われた力石に夢中になったのも、
「野」から見えてくるものを大切にしたい、そういう思いがあったからだ。

先祖たちの存在は、大きな歴史の中では無価値なチリの一片でしかない。
けれどそこから見えてくるものが確かにある。

世の中の流れが、応仁の乱から戦国時代へと向かった時、
都落ちした祖先が居を構えたその場所は、
信濃を制圧し、今度は矛先を海のある駿河に転じた甲斐の武田信玄が、
駿河侵攻に大軍を率いて押し寄せた往還のかたわらにあった。

そして、
敵・今川氏の強力な武将で、富士山本宮浅間神社の宮司でもあった富士氏は、
その街道の入り口に居城・大宮城を構えていた。
そしてなぜか、曽我社に隣接して甲斐出身の武士、植松氏が住まっていた。

移築された植松家の長屋門です。水路開削の技術者だった植松氏は、
水を引く樋(とい)を掛けたため、樋(とよ)代官と呼ばれていた。

長屋門植松家 (2)
富士市立博物館内・広見公園。博物館HPよりお借りしました。

この植松氏は、大正時代になっても、
困窮した父の家への金銭的援助を惜しまなかったそうで、
古くから父の家とは特別なつながりがあるように見えたと、母が言っていた。

なぜ植松氏がそこまでしてくれたのかはわからない。
京都~信濃~甲斐~駿河と流れてきた先祖の、
その足跡のどこかに接点があったはずだが、
それは遠い先祖だけが知っていたことで、子孫には伝わらなかった。

さて、明治の新時代が始まる11年前の弘化四年(1847)の秋、
河津祐邦は、佐野与市(角田桜岳)の案内で、
遠路はるばる、江戸から厚原の曽我八幡宮へやってきた。
このときの曽我社の神主は、22歳の雨宮富太郎(邦孝)だった。

16歳で父を亡くした富太郎は、この家の当主になったものの、
暮らし向きはたちまち傾き、
河津氏を迎える一年前には、借財のため本宅を売り払うほどになっていた。
そのため、河津氏を隠居所でお迎えするしかなかったという。

桜岳は、雨宮家のそんな事情を河津氏に、
「道々、なにくれとなく話した」と日記に記している。
河津氏はそんな曽我社に、当地に滞在中何度も足を運び、
若い富太郎と物語などして過ごしたという。

下の文書は、
河津氏が金三両とお初穂百疋を曽我社へ届けるよう
大宮町の佐野与市へ頼んだことを知らせてきた書状です。
安政六年の桜岳日記にも、
河津氏から預かった三両などを曽我社へ届けた旨の記述がある。

この安政六年は、
祐邦が河津家の家督を継いでからすでに9年たった年にあたります。
時代は、
安政の大獄、井伊直弼暗殺などが立て続けに起きた幕末動乱の真っ最中。

そのわずか四年後には、
薩摩と英国との戦争が勃発。同じ年、祐邦は遣欧使節副使として渡仏した。

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手紙の宛先の「雨宮紀伊」は邦孝(富太郎)のことで、私の曽祖父にあたる人。
家運立て直しのため茶園栽培に着手。幕末には「駿州赤心隊」に参加した。

書状の末尾は紀伊が贈った梅干しひと樽に対する礼状。
  =この解読は駿河古文書会の中村典夫先生にお願いした=

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今、曽我八幡宮の片隅に、
衰退した曽我社を憂えて再建をもくろんだものの果たせず、
無念のうちにこの世を去った角田桜岳(佐野与市)の、
伊豆石製の標柱が立っている。これは桜岳没後、ご子息の手で建立された。

そして、ささやかな参道沿いには、古びた石段や石灯ろう、石橋が、
ここを行き交った人や過ぎた日々を懐かしむようにひっそりとたたずんでいる。

元禄、享保から明治までの灯ろうが並ぶ厚原・曽我八幡宮。
仇討ち本懐を遂げた十津川村の小松典膳奉納の石灯ろうも現存。

CIMG0835.jpg

どの家にも他人さまには計れない、一族の血が伝えてきたものがある。
史料や学説では説明のつかない真実がある。
なんて偉そうなこと言っちゃって。

柳田国男や地元郷土史家の本を読まなければ、避けて通ったお話でしたが、
黙っていられなくて…。
父への鎮魂にはなりましたが、皆さまのお目を汚してしまいました。

とにもかくにも、
この小さな祠を守ってきた先祖の話は、これでおしまい。

光明

今日のブログは長~いです!
よそんちのごくごく個人的な歴史をお読みいただくのは申し訳ないと思いつつ。

     ーーー❤ーーー

父を青ざめさせた「神主が横領云々」の文言は、その本の著者によると、
「延宝六年、厚原・曽我八幡宮の神主、細川喜太夫が、
伊豆の河津三郎兵衛に宛てた宝物借用願いの中にあった」という。

そこに書かれていたのは、
貸した宝物は河津三郎兵衛代々の系図や正観音など五点。
しかし出開帳のあと、四点は江戸の河津家へ返されたものの、

「弘法大師作・守り本尊は、いまだ返り申さざるなり。
そのころの神主細川というもの、今いづれになりしやしらず

という文言で、借用願いの末尾に書き入れてあった追記だという。

それを受けて、「宝物は戻されていなかったようで、紛失したのか、
神主が横領して行方をくらましたのか不明だが」と著者が書き添えてあった。

ここに出てくる河津家とは、あの曽我兄弟に連なる「河津一族」です。

下の写真は、古い話ですが、
昭和31年(1956)製作の映画「曽我兄弟・富士の夜襲」に使った装束です。
なんと、映画会社東映から曽我八幡宮に奉納されたもの。
十郎役の東千代之介(30歳)と五郎役の中村錦之助(24歳)が着た装束で、
十郎の愛人・大磯の虎は高千穂ひづるという女優さんが演じたそうです。

ちゃんとサインもあります。
img834.jpg img684.jpg
   
なんでそんなものがここにあったかというと、
東京から帰郷した伯父の後妻さんの熱心な働きかけがあったからで、
そのためみんなから「やりすぎだ」と物笑いにされたとか。

この後妻さん、白い顔に細い切れ長の目をした冷たい感じの人で、
国学院大学を出て神職の資格を持つ才媛だと、ほかの伯母たちが言っていた。

子供のころの私はこの人が怖くて、
今でも稲荷神社の陶製の白いキツネを見るとドキッとします。

でも、この後妻さんは伯父ですら関心を示さなかったこの家の事に興味を持ち、
国会図書館へ通い、ついに一冊の本にまとめたという執念の人でもありました。
でも現在は、文書などと共にこの装束も紛失してしまい、保管庫は空っぽとか。

話を戻します。
この「横領話」を読んだとき、私はこんな疑問を持ったのです。

厚原の曽我八幡宮が伊豆の河津家へ出したという借用書を、
なぜ、よその八幡宮(上井出)の宮守が持っていたのか。
それにその追記は、いったい誰が書き加えたのか。

「伊豆」と書いてあるが、河津三郎兵衛は江戸・下谷に住む旗本。
本拠地は伊豆であっても、願書(ねがいしょ)は江戸の河津家へ出すはず。
宝物四点は「江戸の河津家へ返されたが…」と追記はいうのだから。

この借用書の全文を見たかったが、これが収録されているという
地誌「駿国見聞抄」は市史にも県史にも見当たらなかった。

埼玉県に、この地誌に興味を持った人がいたらしく、
埼玉県立久喜図書館から著者へ問い合わせをしたことがネットに出ていたが、
「この地誌は一般公開はしていない」との返事だったという。

このことが著者のいう「一般の人の目には触れない資料を自分は持っている」
という、やや優越感を誇示した言い方になったのだろうか。

それにしても埼玉県にまで、「横領話」が知られていたなんて。
いったん世に出た活字は生き続けるのだ。暗澹とした。

しかし捨てる神あれば拾う神ありで、ひょんなことからこの一件は急展開。

10年ほど前のある日、私は静岡県立図書館の棚に、
大宮町(富士宮市)の役人だった佐野与市(角田桜岳)の日記を見つけて、
思わず、あっ!と声をあげた。

佐野与市(角田桜岳)です。
岳角田桜
富士宮市HPからお借りしました。

この佐野与市こそ、例の本の著者が、
「横領」の典拠とした借用書が収録されているという
未完の地誌「駿国見聞抄」の編者だったからだ。

早速「角田桜岳日記(一)」(2004年解読。富士宮市教育委員会)から読む。

例の本に、桜岳が地元の古文書を集めて「駿国見聞抄」を編んだのは、
天保13年の事とあったが、
日記はその一年前の天保12年から始まっていた。

桜岳はたびたび江戸・下谷の河津家に出入りしていた人で、
河津家の三郎太郎とは親しく話をする間柄だと書いてあった。

この三郎太郎というのは、河津三郎兵衛の嫡男・祐邦のことで、
この人はのちに、江戸幕府最後の長崎奉行を務め、
幕末の文久三年(1864)、横浜港鎖港を話し合うため、
池田遣欧使節団の副使として渡仏した。

下の写真はチョンマゲに刀を差したこの一行が、
エジプトのスフィンクスの前で写した珍しい一枚です。

エジプト池田遣欧使節

祐邦は、桜岳が出入りしていた頃はまだ若殿であったが、
この若殿は、ことのほか「曽我物語」に関心を持っていたようで、
その話の中に、なんと父の先祖が登場していたのです。

それが出てくるのは天保13年の日記からで、
桜岳は河津家を訪問した折りには、
曽我社の江戸での出開帳をたびたびお願いしていたと書いていた。
そして三郎太郎が語ったこととして、こんな話を載せていた。

「延宝のころ、先祖が曽我社へ参詣せしに、曽我の神霊白蛇二匹出(い)で、
明(ひ)らけ置きたる扇の上に乗り、こけら二枚を残し去りしとなん。
そのこと秘して語らざりしを、五万石の伊東氏へ話せし」

「延宝年中、先祖浪人いたし、厚原村曽我八幡神主雨の宮方にて、
一年も居候よし。そのころ、細川と申す神主もありしよし」

細川喜太夫の名が記された曽我八幡宮「神領寄進状」です。
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名前の部分を拡大したのがこちら。
赤丸の中に喜太夫。矢印は寄進状を出した旗本・日向半兵衛正道。
時は寛永七年(1630)。江戸初期です。

img500 (3)

雨宮は古くから「あめのみや」と呼ばれていました。
桜岳は日記には忠実に、わざわざ「の」の字を入れて書いていた。

例の著者が示した「神主の細川が姿をくらました」年号は、
この「寄進状」の寛永七年から48年後の延宝六年とのこと。
確かにその延宝六年に、出開帳が行われている。

執行したのは初代なのか、二代か三代目の細川だったかはわからない。
しかし、祐邦の話によれば、
問題のその延宝には、雨宮姓と細川姓の神主がいたという。

それから30余年たった享保末の当主は五代孝祥・雨宮喜内です。
この人は十九歳で逝去。子がなかったため、
急きょ、江戸にいた甥の政次が家督を継いで六代雨宮和泉守となった。
以前お見せした「江戸出開帳願文」を書いた人です。

この人は中興の祖といわれ、なかなかの人物だったようですが、
現在は屋敷跡のがけ下に、地元の篤志家の手で立てられた石祠に、
わずかにその名をとどめているだけになっていた。

CIMG0842.jpg CIMG0841.jpg

私は河津家の若殿のこのくだりを繰り返し読んだ。
読み間違いではないよね、と息をつめて…。
何度も読んでいくうちに、喜びと怒りが同時に湧き上がった。

だって、例の「神主が横領云々」の本で、横領は延宝のころとあったのに、
その同じ延宝のころ、当の河津氏が浪人していて、
「行方をくらました」はずの神主の家に、
一年間も居候(いそうろう)していたというのだから。

天保13年に角田桜岳が書いた日記と、その同じ年に同じ人が集めたという
未完の地誌「駿国見聞抄」収蔵の借用書加筆の内容とは、
まるっきり違うではないか。

なぜなんだ。

三郎太郎はさらにいう。
「先祖、居候いたし節、曽我社へ系譜そのほか諸感状など写し、納め候よし。
細川と申す神主よりの書付なども見る」

延宝年中、
居候していた河津氏が、この社に納めたという系図はこれだろうか。

「曽我兄弟系図」
img426 (2)

あの本の著者は「ウソを暴くために今後も鋭いメスを入れていく」と豪語していた。
メスを入れなければならないのは著者自身だったのではないのか。
真偽はどうあれ、この日記が世に出た2004年の時点で、
著者は検証すべきだったと私は思う。

ともあれ、光明が見えた。

このことを父に知らせたかった。
が、その父は例の本が出た7年後に亡くなり、
「角田桜岳日記」が出た2004年には、それからすでに22年もたっていて、
とうてい間に合うはずもなかった。

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
力石(ちからいし)のことを知ってほしくて、ブログを開設しました。主に静岡県内の力石と力石を詠んだ句や歌、力石探しのつれづれを発信していきます。

お願い
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